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あなたが欲しいもの、私が欲しいもの
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思ってもみない形でこの物語の主人公に名を連ねてしまった幸子は、苦悩を強いられていた。
「何となく」で今まで生きてきた。
「何となく」母が保育士だったから、保育科の大学に入り、「何となく」実習に行った施設で気に入られたから、そのまま就職した。
「何となく」……、子どもの頃から行動に理由はなくて、それで困ったことなんて殆どなかった。
だから、そのまま死ぬはずだったのだ。「何となく」。
それがあの華子穂のことだ。
自分を満たす……。それはつまり、いま自分が欠けているということ。
それにすら気付いていなかった幸子にとって、華子穂の要求は届くことのない銀色の飛行機のようだった。
ああ、でも。幸子は思う。
飛行機だって、飛行場に行けば着陸するし、チケットがあれば乗ることも出来るのだ、と。
追いかけて、飛行場を見つけて、チケットを手に入れる。
その三段階か。
幸子はため息を吐いた。
真弓という名の保育士。彼女を追い掛けなくてはいけない。飛行場まで……。
しかし、その思考は半ばで掻き消された。幸子自身に。
認められない。私が、あの人を想っているなんて。
そんな普通でないこと、「何となく」やれる筈がない。だから、「無理」だ。
思考とは裏腹に、腹部が小さくなるように切ない。
カラダもこころも、はっきりと欲しがっており、欲しいということは欠けているのだということも、今の幸子の支配者たる脳以外は、ベッドに入ることや、食事を摂ること、朝日や植物の緑は気持ちいことのように、ごく自然なこととして知っていた。
しかし、幸子がそのような「ごく自然なこと」に身を任せることなど、「何となく」なかったのだ。「何となく」だからこそ、周りに合わせて、流されてきた。
これからもそうだ。その筈なのだ。
初めて見たその世界は、その少女には腐敗した泥水のように映った。アスファルトの駐車場。コンクリートの建物。精霊のいない景色。
「酷いところなのね」
少女は傍らのアカネズミに言った。言葉とは裏腹に瞳に興味を湛えていた。
「ああ、地獄さ」
アカネズミは答えた。少女の胸ほども丈のあるネズミで、ハットをかぶり、黒の外套で身体を隠している。
「だから、僕がいる」
アカネズミは青白い怒りを瞳に湛え、しかし表情にはそれを出さずに言う。どうやら、怒りは感情ではなく性質のようだった。
「死者の代表だ。いのちに真摯に向き合わなくて、僕らに存在の価値があるはずがない」
「ノノ、それはあなたがきっと真面目なのよ」
少女は可笑しそうに笑った。
「さて、私たちはどこに行くべきなの?」
「フラワーチャイルズ……、そう呼んでいいんだね?……まずは迷い子を行くべき処へ連れていかなくちゃいけない」
ノノと呼ばれたネズミは、俯くと表情がハットに隠れてしまう。
「それが華子穂の願いだからね。……月もそれを願っている」
「宇宙も……なんでしょ?」
フラワーチャイルズと呼ばれた少女はそう問いかける。
「大切なのは月さ。遠い恒星がいくら大きくても意味はない。もっとも近いもの、小さくてもそれが重要なんだ」
ノノは空を仰ぐ。残月が青白く、霞んで浮かんでいた。
いつか遠く繋がる透明な宇宙の血管に注ぐために、……すべてを睨むような眼の中に、同時にいっぱいに穏やかさを放つネズミは愛おしそうに月を見上げた。
「こうやって、バーコードを読み取ると……、ほら。これで今まで要した手打ちの行程を大幅に無くすことができます」
バーコードリーダーを手にパソコンのディスプレイに視線を落とす幸介。長身の男がデスクに半分座りながらその様子を見ている。
「ふーん……」
幸介がの手元にあった用紙を手に取り、頭を左右に振りながらそれを見つめる。
「発注番号入力に受け取り処理、自動発注までできる、と……」
神経質そうに高い声。
「はい」
幸介も、似たような声をしている。それでも、幾分か柔らかくはあるが。
用紙から視線を幸介に向け、男は屈託なく笑った。
「凄いじゃない。これ、和田さんも霧井さんも喜んじゃうな」
男の頬に縦にえくぼが入る。笑っているはずなのに、どこか枯れた枝みたいに寂しく見えてしまう。幸介は明のそこが好きだった。
妻と子どもが四人いても、子どものように無邪気な振る舞いをする明に刻まれた、そのえくぼがたった一つの社会との絆のように思われるのだった。
これで、子どもような丸いえくぼを浮かべたら、この人はただの変人だ。幸介はそんな風に思っていた。
明は無味乾燥のデスクと機械の間を縫って歩いていく。その背中越しに顔をこちらに向け、「でもさ」と言う。
「みやげなんて要らなかったのに。俺は雨立君の辞表を受理しなかったし」
幸介の仕上げた処理ソフトの入ったディスクをひらひらと振ってみせる。
「おかえり」
そう投げ掛けて、明は視線を前に向け、歩き出す。
途中からスキップで跳ねながら。
だから、幸介は俯いて笑顔を隠すしかない。感情と相容れない成果に支配されるこの組織では、笑顔など似合わない。こんな発狂しそうな部屋のなかで笑っているなんて阿呆なこと、常識人を自負する幸介にはできないし、許すことができない。
「ただいま」常識の外側、誰にも届かないごく個人的な呟きとして、幸介は微かに口を動かし息を吐いた。幸介はこういう重要な儀式を怠ける人間でもなかった。
邪魔になるとは重々承知で、幸子はあの教諭のいる幼稚園に電話をかけた。
すぐ出るか、ギリギリまで出ないか。だいたいその二つだろう。幸子は考える。
電話の近くに誰かいれば、最初の呼出音が終わる前にその人が出る。もしくは、電話に出れる人が誰もおらず、なおかつその事にみんなが気づかない場合、四回か五回目の呼出音が鳴り始めた辺りで、「誰も出れない、私が出なきゃ」になる。そうして、同じ考えの職員が二、三人電話前に集まってしまう。もちろん、電話に一番早く近づいた人が受話器を取る。駆けてきた職員は天を仰ぐように歩を緩め、立ち止まると踵を返して仕事に戻る。
「はい、もりのなか幼稚園の立花です」
妄想のなかの職員が電話を取ると、受話器から声がした。
「こんにちは、私、社会福祉法人愛護園の渡辺と申します……」
「ああ、田中先生の」
立花と名乗った若そうな女性の声は幸子の言葉に半分重なりながら嬉しそうに声をあげた。
かこちゃんのことが職員内で共有されているんだ。いかに「もりのなか」でかこちゃんの受け入れを重要に考えているのかがそれだけで分かった。
「少々お待ちいただけますか、いま呼んできますね」
そう言い残し、沈黙する電話。
自分の呼吸音がゆっくり繰り返される。大丈夫、落ち着いている。
「お待たせしました、いま保護者さんとお話中ですので、もう少しお待ちいただいても大丈夫ですか?」
「はい」そう答えると電話はまた沈黙した。
「あの、……田中先生ってどんな方ですか?」
好機、そんな気がして幸子は訊いていた。
「田中先生は、帰国子女で、キャンプが趣味で、それにお天気を予知できるんです。天気予報なんて目じゃないです。本当ですよ」
楽しそうに話す声を聴いて、学生時代の同級生たちを思い出す。私が持っていなかった、保育者としての特性のようなものを持っていた女の子たち(男子は一人もいなかった)。
例えば、いまのこの子のように、みんな頭の回転が早かった。聞かれる質問ごとの返答の台本でもあるのではと幸子が思ってしまう情報量と自然さ。
「へぇ、面白いですね」
そう答えながら、あの頃のクラスメートにしていたようにこの子にたいしても嫉妬と自分への自虐の思いが湧く。どうして私はこうも口下手なのだろう。押し潰せるほど小さく、だけれどただ明確に濃く。
「あ、田中先生来ましたよ。変わりますね」
入れ替わり田中「さん」の声が耳元に届く。
「田中です。お待たせして申し訳ありませんでした」
強い謝意が感じられ、幸子は(あ……)と思う。
違う、と。
この人はマジョリティの保育者タイプの人じゃないんだ、と。
こっち系、私の「側」なんだ、と。
「いいえ、こちらこそ、お忙しい時間にお電話してしまい、申し訳ありません」
申し訳ありません、の言い合いになるこの感じ、落ち着く。幸子は確かめるように精緻に胸の内に起こる感覚に集中した。
「この間はせっかく来ていただいたのに、酷い扱いをしてしまって、本当に申し訳なかったです」
「いえいえ!こちらこそ間の悪いときに訪ねてしまって!」
幸子はまず定型的な会話による相手の検温を済ませた。状態が良好と分かると、「サイン」を見落とさないように、出してもらえるように行動を開始した。会話というものの概念はさて置いて、幸子にとって会話はとても難しいものだった。幸子にとっては、これまでのものもこれからのものもまだ会話ではない。会話とは相手が会話をしていいというサインを発したのを感じてから始めることだった。それまではそのサインの確認なのだ。しかし、サインをくれる人間は数少なく、そういう人たちとは一度も会話をしたことがなかった。例えそれが実の親でもだ。
「今回、お電話させてもらったのは、あの……、もちろん、かこちゃんのことについてなんですが」
「ええ」明るく振舞っているが、声には不安と期待を綯い交ぜにした戸惑いが聞こえる。最初に期待が鳴って、フェードアウトと共に不安が盛大に沸き起こるように。
「二度手間なってしまい申し訳ありませんが、また、愛護園に来ていただくことはできますか?」
「ええ、もちろん」
脳裏に受話器にかじりつくようになって喜ぶ田中「さん」の姿が浮かぶ。なぜかノースリーブのシャツの上にエプロンを着ている。逞しい二の腕が艶やかに光っている。
「どうしましょう」何か衝動的に変な想像をしてしまいそうで幸子は声を出す。妙に戸惑った声が出てしまった。
「かこちゃんも一緒の方がいいでしょうか?」
戸惑ったついでに提案すべきじゃないことを言ってしまったことに気づいたがもう遅かった。
「ええ、できれば」
できれば。しかし、その言葉には「ありがとう」が重なっていた。
日付、時間を告げ幸子は受話器を置いた。
しまった。やってしまった。
「あの」かこちゃんと「あの」田中「さん」と三人で。
どうやら追いかける飛行機は厚い雲の中へと姿を消していきそうだ。
「何となく」で今まで生きてきた。
「何となく」母が保育士だったから、保育科の大学に入り、「何となく」実習に行った施設で気に入られたから、そのまま就職した。
「何となく」……、子どもの頃から行動に理由はなくて、それで困ったことなんて殆どなかった。
だから、そのまま死ぬはずだったのだ。「何となく」。
それがあの華子穂のことだ。
自分を満たす……。それはつまり、いま自分が欠けているということ。
それにすら気付いていなかった幸子にとって、華子穂の要求は届くことのない銀色の飛行機のようだった。
ああ、でも。幸子は思う。
飛行機だって、飛行場に行けば着陸するし、チケットがあれば乗ることも出来るのだ、と。
追いかけて、飛行場を見つけて、チケットを手に入れる。
その三段階か。
幸子はため息を吐いた。
真弓という名の保育士。彼女を追い掛けなくてはいけない。飛行場まで……。
しかし、その思考は半ばで掻き消された。幸子自身に。
認められない。私が、あの人を想っているなんて。
そんな普通でないこと、「何となく」やれる筈がない。だから、「無理」だ。
思考とは裏腹に、腹部が小さくなるように切ない。
カラダもこころも、はっきりと欲しがっており、欲しいということは欠けているのだということも、今の幸子の支配者たる脳以外は、ベッドに入ることや、食事を摂ること、朝日や植物の緑は気持ちいことのように、ごく自然なこととして知っていた。
しかし、幸子がそのような「ごく自然なこと」に身を任せることなど、「何となく」なかったのだ。「何となく」だからこそ、周りに合わせて、流されてきた。
これからもそうだ。その筈なのだ。
初めて見たその世界は、その少女には腐敗した泥水のように映った。アスファルトの駐車場。コンクリートの建物。精霊のいない景色。
「酷いところなのね」
少女は傍らのアカネズミに言った。言葉とは裏腹に瞳に興味を湛えていた。
「ああ、地獄さ」
アカネズミは答えた。少女の胸ほども丈のあるネズミで、ハットをかぶり、黒の外套で身体を隠している。
「だから、僕がいる」
アカネズミは青白い怒りを瞳に湛え、しかし表情にはそれを出さずに言う。どうやら、怒りは感情ではなく性質のようだった。
「死者の代表だ。いのちに真摯に向き合わなくて、僕らに存在の価値があるはずがない」
「ノノ、それはあなたがきっと真面目なのよ」
少女は可笑しそうに笑った。
「さて、私たちはどこに行くべきなの?」
「フラワーチャイルズ……、そう呼んでいいんだね?……まずは迷い子を行くべき処へ連れていかなくちゃいけない」
ノノと呼ばれたネズミは、俯くと表情がハットに隠れてしまう。
「それが華子穂の願いだからね。……月もそれを願っている」
「宇宙も……なんでしょ?」
フラワーチャイルズと呼ばれた少女はそう問いかける。
「大切なのは月さ。遠い恒星がいくら大きくても意味はない。もっとも近いもの、小さくてもそれが重要なんだ」
ノノは空を仰ぐ。残月が青白く、霞んで浮かんでいた。
いつか遠く繋がる透明な宇宙の血管に注ぐために、……すべてを睨むような眼の中に、同時にいっぱいに穏やかさを放つネズミは愛おしそうに月を見上げた。
「こうやって、バーコードを読み取ると……、ほら。これで今まで要した手打ちの行程を大幅に無くすことができます」
バーコードリーダーを手にパソコンのディスプレイに視線を落とす幸介。長身の男がデスクに半分座りながらその様子を見ている。
「ふーん……」
幸介がの手元にあった用紙を手に取り、頭を左右に振りながらそれを見つめる。
「発注番号入力に受け取り処理、自動発注までできる、と……」
神経質そうに高い声。
「はい」
幸介も、似たような声をしている。それでも、幾分か柔らかくはあるが。
用紙から視線を幸介に向け、男は屈託なく笑った。
「凄いじゃない。これ、和田さんも霧井さんも喜んじゃうな」
男の頬に縦にえくぼが入る。笑っているはずなのに、どこか枯れた枝みたいに寂しく見えてしまう。幸介は明のそこが好きだった。
妻と子どもが四人いても、子どものように無邪気な振る舞いをする明に刻まれた、そのえくぼがたった一つの社会との絆のように思われるのだった。
これで、子どもような丸いえくぼを浮かべたら、この人はただの変人だ。幸介はそんな風に思っていた。
明は無味乾燥のデスクと機械の間を縫って歩いていく。その背中越しに顔をこちらに向け、「でもさ」と言う。
「みやげなんて要らなかったのに。俺は雨立君の辞表を受理しなかったし」
幸介の仕上げた処理ソフトの入ったディスクをひらひらと振ってみせる。
「おかえり」
そう投げ掛けて、明は視線を前に向け、歩き出す。
途中からスキップで跳ねながら。
だから、幸介は俯いて笑顔を隠すしかない。感情と相容れない成果に支配されるこの組織では、笑顔など似合わない。こんな発狂しそうな部屋のなかで笑っているなんて阿呆なこと、常識人を自負する幸介にはできないし、許すことができない。
「ただいま」常識の外側、誰にも届かないごく個人的な呟きとして、幸介は微かに口を動かし息を吐いた。幸介はこういう重要な儀式を怠ける人間でもなかった。
邪魔になるとは重々承知で、幸子はあの教諭のいる幼稚園に電話をかけた。
すぐ出るか、ギリギリまで出ないか。だいたいその二つだろう。幸子は考える。
電話の近くに誰かいれば、最初の呼出音が終わる前にその人が出る。もしくは、電話に出れる人が誰もおらず、なおかつその事にみんなが気づかない場合、四回か五回目の呼出音が鳴り始めた辺りで、「誰も出れない、私が出なきゃ」になる。そうして、同じ考えの職員が二、三人電話前に集まってしまう。もちろん、電話に一番早く近づいた人が受話器を取る。駆けてきた職員は天を仰ぐように歩を緩め、立ち止まると踵を返して仕事に戻る。
「はい、もりのなか幼稚園の立花です」
妄想のなかの職員が電話を取ると、受話器から声がした。
「こんにちは、私、社会福祉法人愛護園の渡辺と申します……」
「ああ、田中先生の」
立花と名乗った若そうな女性の声は幸子の言葉に半分重なりながら嬉しそうに声をあげた。
かこちゃんのことが職員内で共有されているんだ。いかに「もりのなか」でかこちゃんの受け入れを重要に考えているのかがそれだけで分かった。
「少々お待ちいただけますか、いま呼んできますね」
そう言い残し、沈黙する電話。
自分の呼吸音がゆっくり繰り返される。大丈夫、落ち着いている。
「お待たせしました、いま保護者さんとお話中ですので、もう少しお待ちいただいても大丈夫ですか?」
「はい」そう答えると電話はまた沈黙した。
「あの、……田中先生ってどんな方ですか?」
好機、そんな気がして幸子は訊いていた。
「田中先生は、帰国子女で、キャンプが趣味で、それにお天気を予知できるんです。天気予報なんて目じゃないです。本当ですよ」
楽しそうに話す声を聴いて、学生時代の同級生たちを思い出す。私が持っていなかった、保育者としての特性のようなものを持っていた女の子たち(男子は一人もいなかった)。
例えば、いまのこの子のように、みんな頭の回転が早かった。聞かれる質問ごとの返答の台本でもあるのではと幸子が思ってしまう情報量と自然さ。
「へぇ、面白いですね」
そう答えながら、あの頃のクラスメートにしていたようにこの子にたいしても嫉妬と自分への自虐の思いが湧く。どうして私はこうも口下手なのだろう。押し潰せるほど小さく、だけれどただ明確に濃く。
「あ、田中先生来ましたよ。変わりますね」
入れ替わり田中「さん」の声が耳元に届く。
「田中です。お待たせして申し訳ありませんでした」
強い謝意が感じられ、幸子は(あ……)と思う。
違う、と。
この人はマジョリティの保育者タイプの人じゃないんだ、と。
こっち系、私の「側」なんだ、と。
「いいえ、こちらこそ、お忙しい時間にお電話してしまい、申し訳ありません」
申し訳ありません、の言い合いになるこの感じ、落ち着く。幸子は確かめるように精緻に胸の内に起こる感覚に集中した。
「この間はせっかく来ていただいたのに、酷い扱いをしてしまって、本当に申し訳なかったです」
「いえいえ!こちらこそ間の悪いときに訪ねてしまって!」
幸子はまず定型的な会話による相手の検温を済ませた。状態が良好と分かると、「サイン」を見落とさないように、出してもらえるように行動を開始した。会話というものの概念はさて置いて、幸子にとって会話はとても難しいものだった。幸子にとっては、これまでのものもこれからのものもまだ会話ではない。会話とは相手が会話をしていいというサインを発したのを感じてから始めることだった。それまではそのサインの確認なのだ。しかし、サインをくれる人間は数少なく、そういう人たちとは一度も会話をしたことがなかった。例えそれが実の親でもだ。
「今回、お電話させてもらったのは、あの……、もちろん、かこちゃんのことについてなんですが」
「ええ」明るく振舞っているが、声には不安と期待を綯い交ぜにした戸惑いが聞こえる。最初に期待が鳴って、フェードアウトと共に不安が盛大に沸き起こるように。
「二度手間なってしまい申し訳ありませんが、また、愛護園に来ていただくことはできますか?」
「ええ、もちろん」
脳裏に受話器にかじりつくようになって喜ぶ田中「さん」の姿が浮かぶ。なぜかノースリーブのシャツの上にエプロンを着ている。逞しい二の腕が艶やかに光っている。
「どうしましょう」何か衝動的に変な想像をしてしまいそうで幸子は声を出す。妙に戸惑った声が出てしまった。
「かこちゃんも一緒の方がいいでしょうか?」
戸惑ったついでに提案すべきじゃないことを言ってしまったことに気づいたがもう遅かった。
「ええ、できれば」
できれば。しかし、その言葉には「ありがとう」が重なっていた。
日付、時間を告げ幸子は受話器を置いた。
しまった。やってしまった。
「あの」かこちゃんと「あの」田中「さん」と三人で。
どうやら追いかける飛行機は厚い雲の中へと姿を消していきそうだ。
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