私をモナコに連れてって

しまおか

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第九章~剛

経緯

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 そのことで空手を習うきっかけとなった小学生時代の悪しき思い出が蘇る。学校のトイレを使っていただけで、う〇こたれ! などとからかわれ、個室のドアを蹴られたこともあった。それだけではない。さらにアジア人として侮辱をされていることも理解した。しかし英語もフランス語も判らない加奈は全く気づかない。
 そんなことより、店へ入る度にトイレへと席を立つ剛の事が気にくわなかったのだろう。不機嫌な態度を隠そうともしなかった。そのことが拍車をかけ、ついに剛の怒りが頂点へ達した。指をさして笑う店員の一人の胸倉を掴み、強い口調の英語で抗議したのだ。
 しかし相手はこちらを鼻から馬鹿にしているため、激しく言い返してきた。下品なアジア人の〇〇野朗とまで罵られ、そこに他の店員達も加勢に入ったことで、掴み合いの喧嘩となってしまったのだ。
 腕に自信のある剛でも多勢に無勢だった。店の外に連れ出された剛は店員だけでなく他のフランス人の客にも囲まれ、殴る蹴るの暴行を受けたのだ。そして最悪な事態が起こった。止めに入った加奈までもがその騒動に巻き込まれてしまったのだ。男達の手がたまたま当たったのか殴られたのか、彼女はお腹を押さえて道にうずくまった。
 しかし剛は助けるどころか腹を蹴られた衝撃により、身動きが出来ない状態に陥り彼女を守ることすらできなかったのだ。騒ぎが大きくなり過ぎたことで、現地の警察官達が数人やって来た。だが英語は話せてもフランス語は話せない剛の主張は、上手く相手に伝わらない。
 また先に手を出したのはこちらからであり、旅行先で大事にしたくないと加奈が主張したこともあって結果うやむやのうちに喧嘩両成敗となり、そのままその場から解放されたのだ。しかしその判断が後に大きな後悔を産むことになった。
 自分から喧嘩を吹っかけておきながら、相手が多かったからとはいえボコボコにされた剛に彼女は愛想を尽かしたようだ。さらに揉めている間、彼女を助けられずに醜態を晒した事を軽蔑したらしい。
 だが剛自身はその時、彼女への不信感に加えフランス人への嫌悪と怯えの感情を持ってしまった。ホテルにいるフランス人を見ただけで吐き気などをもよおすほど、体が拒否反応を示すようになる。加えて揉めている間に店で流れていたシャンソンの曲を聞いただけでも、症状が出るようになったのだ。
 その原因が店での騒ぎによる精神的なものだと気付いた時には、もうどうしようもない。自分の反応に戸惑っていたが、ホテルに戻った二人は全く口を利かなくなっていた。彼女の冷たい反応にも傷つきながら、その後パリに滞在している間、剛はホテルの部屋から一歩も外に出ず、加奈だけが一人出かけて観光やショッピングを楽しんでいた。
 結局日本へ帰るまで、二人の間に全く会話は無かったのだ。
 しかし最も大きな問題は、ようやく二人が日本に帰国した時に起こった。日本に着いた途端、彼女までもが体調不良を訴えたため、病院で診察を受けて発覚した。驚いたことに彼女は初期の妊娠をしていたことが判明し、そのまま流産してしまったのだ。医師の説明ではフランスで受けたお腹への衝撃が直接の原因だったかは不明だという。
 その事を聞いて受けた衝撃は凄まじかった。彼女は泣き叫びながら剛のことを非難した。しかし自分が犯した行動により起こった出来事を剛自身もすぐには受け入れることができず、言葉を発することができなかったのだ。
 その後彼女は一人で実家へと戻り、両親に事情を説明して落ち着いた所で、今後の事を相談することとなった。流産したことに対する賠償を、暴行に加わったフランスの店の従業員に請求しようかという話も彼女の親から出たが、現実的に難しいということになり事実をそのまま受け入れるしか方法がなかったのだ。
 二人が直接会話を交わしたのは、旅行から帰って二週間の月日が経っていた頃だった。最初の一言は、彼女から別れましょうと言った言葉だ。剛も少し間を開けて、そうしようと答えた。だが離婚すると決まったものの、見栄っ張りの加奈は周囲の目を気にしてか、すぐに離婚届を出そうとはしなかった。その為剛は最初から離婚に同意していたにもかかわらず、二人はずるずると名ばかりの結婚生活をし、実態は家庭内別居を続けることとなったのだ。
 地獄のような時間を過ごしていた剛だが、そんな二人の状況を知っていたのかどうか判らなかったが、あの頃里美からはやたら積極的に話しかけられていたことを思い出す。飲みに行こうと何度も誘われたはずだ。だがおそらく家庭内のことや加奈から聞いたことを酒の肴にでもしたいのだろうと思い、剛はその誘いをのらりくらりとかわしていた。
 するといつからか話しかけられなくなり、それどころか仕事上で打ち合わせしなければならない時でも、まさしく汚いものでも見るような眼つきをされ始めたのだ。その時には加奈からパリでの出来事とその顛末を聞き、彼女は態度を変えたのかもしれないと勝手に納得していた。それもしょうがないことだと思っていたのだ。
 そんな耐え難い生活を毎日続けているうちに、結婚して一年半後の四月異動で剛の福岡への転勤が決まった。それをきっかけに中途半端な状態を解消しようとようやく話し合い、二人は正式に離婚できたのだ。
 その翌年に加奈は同じ会社の人間と再婚したと聞く。その後子供を産んだと聞いた時には、心の底から安堵したものだ。喜んだというより、自分の抱えた重荷が一つ取れた気がした。あの流産がきっかけで子供が埋めない体になっていたら、という危惧があったからだ。前妻が流産したという話は剛の両親と明日香にも話はしているが、事件の詳細に関しては伏せていた。
 お昼休みに入り一人で食事を素早く済ませた剛は、会社近くにある公園の隅から加奈の家に電話をかけることにする。この時間なら子供といるか、幼稚園へ預けて一人家事か食事をしているか、それともママ友とランチでもしているかは不明だが、少し話をするくらいはできるだろう。スリーコールした後、相手が電話を取った。
「もしもし」
 おそらく知らない番号の電話だったからか、警戒しているような声を出していた。こちらは相手の自宅の番号を調べて知っていたが、向こうは結婚していた当時とは携帯の機種もナンバーも変えていたので、判らなくて当然だ。
「もしもし、真守だけど。久しぶり。急に電話して申し訳ないが、今少し話ができるかな」
 話をするのなんて何年振りだろう。それこそ正式に離婚してから話していないので八年はしていない。しかもその前でさえ碌に会話をしない期間が続いていたため、やたら緊張した。しかし彼女は図太いのか、女性というものがそもそも強いのか、急にあっけらかんとした声で返事をしたのだ。
「なんだ、剛か。誰かと思った。何? 私は大丈夫だけど、何かあった? そういえば再婚したってハガキは届いたわよ。うちの旦那経由で仕入れた情報だと、相手は相当の有名なお金持ちのお嬢様らしいじゃない。しかもかなりの美人だって聞いたけど、よくそんな人を捕まえられたわね。まあ、あなたが妙な体質を持っていることを知って結婚したのならいいけれど」
 思わず怒りで携帯を握り潰しそうになったが、その話題を振られたのなら話は早い。
「実はその件だけどな。彼女はまだ知らない。バツイチなのは知っているが、別れた原因になったあの事件の詳細までは伝えていない。それでだ。その体質というか昔の事を話したりすると、お前のように女性は皆そんな男に愛想をつかせるものなのかを聞いてみたくて電話をしたんだ」
 しばらくの間沈黙されたが、彼女は溜息をつき、急に声のトーンを低くして言った。
「普通はそうでしょうね。あの里美だって最初は引いていたから。あなたが再婚したから言うけど、里美ってあなたのこと、ずっと好きだったのよ。しかも私と付き合う前からね。あなたは気付かなかったでしょうけど、そのことを知った上で私はあなたにちょっかいをかけていたんだから」
「はあ?」
 全く想像していない方向に話が飛んだため、思わず大声を出した。
「でも誤解しないでよ。最初は里美に対するちょっとした対抗心だったけど、あの時は本当にあなたの事が好きになったから結婚したんだからね。その後は一気に幻滅させられたけど。でも子供の事は不幸な事故だったと思っているよ。あなたも私も妊娠しているなんて知らなかったし、巻き込まれたのは私の不注意でもあったから」
「おい。それであの事を里美に話したって言うのか」
「言ったわよ。私達が家庭内別居していて、別れるつもりだってつい里美に喋ったらあの子その気になっちゃって、あなたに接近し始めたのよね。やたら飲みに誘っているらしいって他の子から聞いて、癪に障ったから家庭内別居している本当の理由を教えてあげたの。そしたらさすがのあの子も熱が冷めたとか言っていたから」
 そう聞いてあの頃の彼女の行動がようやく理解できた。と同時に加奈に対する怒りが湧く。さらにこんな馬鹿な女と結婚し、そして心配して責任を感じていたのかと思うと自分が情けなくなった。
「そんな男で良かったらどうぞと言ったら、真っ青な顔をしていたわね。あの子にあなたと付き合いだしたって教えた時も、結婚が決まったから式には呼ぶわねって言った時にも、似たような顔をしていたけど。あの子にとっては屈辱だったでしょうね」
「なるほど。悪かったな。下らないことで電話して。じゃあな」
「あれ、もういいの? 結局、何が聞きたかったの? というか、あなたまだあの体質の事を気にしている訳? 馬鹿じゃないの。というかまだ治ってないの?」
「馬鹿で悪かったな。俺はそういう馬鹿だったからお前みたいな奴と結婚してしまったんだろうよ。今の旦那の事は知らないが、どこかで会ったら教えてやろうか。本当はどんな女だったかってね。そんな奴と良く結婚生活を続けているなって褒めてやってもいいぞ」
「お好きにどうぞ。残念でした。もうすでに私達の間は崩壊していて、近々離婚するつもりだし。そうしたらあんたの会社とも全く関係なくなるから、こんな電話もできなくなるわね。どうせ会社の契約情報か何かで調べたんでしょうけど、勝手なことしないで頂戴」
「悪かったな。二度と話すことは無いから安心しろ。じゃあな」
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