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光輝~①
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光輝が通う学校には、進学校らしく自習室という教室がある。図書館と違って、部屋の中には机とイス以外何もない。
しかし空調は完備されており、夏は涼しく冬は暖かい環境で、集中して勉強ができるようになっていた。この部屋を使用できるのは、学校の生徒全員だ。
その為中間テストや期末テストの時期には、かなり混雑する。そんな時は、自然と高三の受験生等の上級生が優先されるという暗黙の了解があった。
自習室には年老いた管理人がいて、朝の八時半から夕方五時半までの間、ほぼその部屋の片隅に陣取っていた。騒ぐ生徒がいないか、授業をさぼって来てはいないかをチェックする為だ。
その管理人が目を光らせ、自習室全体の生徒のバランスを監視している。混雑してきた場合は下級生に席を開けるよう、声をかけることになっていた。
生徒達もその決まりを知っている為、文句は言わない。それ以上に昔ながらの頑固爺という風情の管理人が、苦情など言わせない迫力を持っていたことも原因の一つだった。
昔自衛隊にいたことがあるらしい、との噂もある。ドアの開け閉めが煩かったり、挨拶一つにしてもいい加減だったりすると、すぐに注意された。結構な年齢で背は小さいが、矍鑠とした感じはまさしく軍人そのものだ。
自習室を使うのは、何も休み時間や放課後だけでは無い。授業中でも、許可されることがあった。
例えば体育の時間に、病気などで参加できない特殊な事情を抱えている生徒達が、代わりに自習室を使って勉強をする為にも使われていた。そういう生徒がさぼっていないかを監視する役目も、管理人はしなければならない。
光輝は高校に上がってから、この部屋をよく利用していた。きっかけは足の怪我で体育の時間を休まなければならなかった時、初めてこの自習室を利用したことだった。
以前から存在は知っていた。けれど中学時代は上級生が優先で使われている部屋だったし、さらに怖いお爺さんがいると聞いて避けていたからだ。
その為テスト期間中でも利用しようと思ったことがなく、実際に使ったことは無かった。そんな光輝が中学の部活を卒業し、高等部に上がり引き続き高校のサッカー部へ入部して間もない頃、じん帯を痛めた事があった。
その時体育の先生に、授業の間は自習室を使うよう指示され、初めて使ったのだ。光輝にとっての第一印象は、静寂かつ快適で居心地が良い場所と感じた。こんな所があったなんて、早く気づけば良かったと後悔した覚えがある。
特に静かだったのは、他の生徒達が皆授業をしている時間帯だ。自習室には、ほとんど人がいなかったからだろう。それでも光輝の他二、三人の生徒が、同じく何らかの事情で自習室を使用していた。
またその時梅雨入りしており、じめじめとして蒸し暑い日々が続いていた頃だった。にもかかわらず、自習室に入った途端涼しくさらに除湿されていた為か、爽やかな気分で席に着いた印象が残っている。
他にも自習室の常連にさせた要因があった。それは怖いと聞いていた管理人の存在だ。初めて入室した時は、痛めた足を引きずりながら、どこかオドオドしていたのだろう。
そんな光輝に優しい声で、彼は話しかけてくれたのだ。
「どうしたんだ? この部屋に来るのは初めてかい? だったら少し簡単に、部屋の使い方を説明しようかな」
怪我した足を気遣いながら、一番後ろにある管理人の席の近くに光輝を坐らせた。既に席についていた他の生徒の迷惑にならないよう、穏やかな抑えた声で丁寧に教えてくれたのだ。
その最初の一回で、この場所を気に入った。その後も何度か体育の授業の代わりに自習室へ通い、その間に管理人とも仲良くなった。
何故か光輝は、幼い頃からこの手のお年寄りに可愛がられることが多かったからだろう。
光輝もまた実の祖父のように、彼を慕い始めた。その為足が治った後も、放課後などはこの部屋を利用するようになった。光輝の怪我は一応完治したものの、サッカー等の激しいスポーツを続けることは難しいと医者に宣告されたからだ。
それを機に部活を辞め、高校では大学受験に専念しようと気持ちを切り替えた。中学では強制だったが、高校からは部活への参加は任意だったことも大きく影響した。
そこで放課後の時間がすっぽりと空いた分、自習室を多用するようになったのだ。通い始めて二年が経ち、光輝もこの学校の最終学年となった。年明けには、いよいよ大学受験の本番が控えている。
部活を辞め、受験に集中した効果もあったからだろう。まずまずだった成績は徐々に良くなり、今では学部によるが早慶辺りを狙えるところまできた。
だが今でも親から仕送りされ、負担をかけている。だからなるだけ学費を抑えたいと思い、できれば東京周辺にある国公立の大学に入りたいと考えていた。
東大は難しいとしても、一橋や横浜国立大学ならば背伸びすればなんとかなるのではないか。そう思って第一位希望を一橋に狙いを定め、取り組んだ。
夏も過ぎ、受験生としては追い込みの時期に入っていた。学校の授業も教科書は全て終え、今は受験専用の内容ばかりをやっている。
自習室もこの時期になると受験組の生徒ばかりが目立ち、何となく空気も張り詰めていた。
その中で光輝は一人、ぼんやりと窓の外を眺め、全く別のことを考えていた。先週の日曜日、久しぶりに会った一幸からりん姉のことを聞いたからだ。
「あい姉からは、絶対言うなと口止めされていたんだけどさ」
そう切り出した彼から、彼女が一回り以上も年上の会社の妻子ある上司と不倫している事を教えられ、衝撃を受けた。
単なる不倫だけでもショックなのに、していることは彼女の母が離婚した原因とそっくりそのままだ。しかも父親が不倫していた部下の女の人と同じ事をしているなんて、最初は全く信じられなかった。
「嘘だよ。そんなはずはないさ。だってりん姉の両親はさ、」
「判っているよ。あい姉だってその話を知っているから、そんな馬鹿な真似はするなって、何度も忠告したらしい。それでも全く聞かないんだって、嘆いていたんだ。こんな嘘を、俺がわざわざ受験前で忙しいお前に言う訳ないだろ」
否定しようとした光輝の言葉を遮り、泣きそうな顔で肩を強く掴んできた。その時の彼の目は真剣だった。本当に心から心配し苦しみ悩んだ末、一人では抱えきれなくなったのかもしれない。あい姉との約束を破り、光輝にこの話をした理由がすぐに理解できた。
一幸とは初めて四人で会った以来、ずっと親友として付き合ってきた。最初紹介された時は余計な人達がついて来たと、正直むっとした記憶がある。第一印象は最悪だった。
彼が悪い訳では無い。お姉ちゃんと二人きりで会えると思っていたのに、女友達が来ると聞いただけでも気に食わなかった。そこへ光輝と同い年の男が一緒だというから、更に腹を立てていたのだ。
新宿の西口アルタ前の広場へ約束より四十分も前に着いた光輝は、髪の毛をツンツンに立てた男の子が近くにいたことを覚えている。
光輝自身もそうだったから判る。なんとなく、まだ田舎から東京に来たばかりのあか抜けない格好をしているその男は、妙にこちらをチラチラと睨んできた。
なるだけ気にしないようにしていたが、余りにも頻繁に目が合った。その為だんだんと苛立ちが募って来た所に、りん姉が現れたのだ。
そこで彼が今回待ち合わせしている相手の一人だと知り、挨拶をしたところ驚いた。りん姉とあい姉の名が、二人共“あかり”だと知っただけでなく、一緒にいる二人のかつての呼び名も似通っていたからだ。
その為りん姉が仕切り出し、その場で新たな呼び名を決めた。その後あい姉が合流し、四人で街をぶらつくことになったのだが、あっという間に意気投合した。話している内に、多くの共通点がある事を知ったからだろう。
後で聞くと、あの待ち合わせで一幸がやたらチラ見していたのは、彼も自分と同じ思いをしていたからだった。彼も今回の待ち合わせで同じ年頃の男が来ると聞き、どんな奴だと警戒していたらしい。
りん姉とあい姉が二人でキャッキャと楽しそうに話し合っている間に、光輝と一幸はお互いの家庭環境等を探り探り聞きながら、情報交換していた。
すると偶然にも彼らの関係が、光輝達との結びつきとかなり似かよっていることが判明した。自分と同じく、彼もまた彼女を慕って東京にやってきたらしい。
また彼女のことを、ずっと守り続けたいと思っていたのだ。彼は初対面からそう強く主張し、だからお前は近づくなと言わんばかりの勢いで、想いを語り始めた。そこで光輝も言い返した。
「俺だってそうだよ。あの人を守るのは僕なんだ」
負けるものかとどれだけ好きか、どれほど大切に思っているかを滔々と説明した。そうして互いが決して敵にはならないと確認できたおかげで、緊張感が薄らいだ。
さらに四人に共通する点もあり、二人の過去もまたそっくりだったことから、一気に距離を縮めることになった。
彼とは話せば話すほど、会話は弾んだ。今までこれほど、心を許す同性の親友がいなかったからだろう。二人は意気投合し、語り尽せないほど胸の奥にしまいこんでいた秘密まで、暴露し合う仲になった。
気づけば楽しみにしていた二人きりのデートはできなくなっていたが、それよりも四人で会う口実で、彼女達や彼と話す時間が増えたことは嬉しかった。また忙しく会えない彼女達とは別に、彼とよく二人だけで話すようになったのだ。
「仲良くしてくれるのはいいけど、何の為に今日集まったのかよく判らないね」
彼女達にそう皮肉られる程、二人の関係は深くなった。数少ない特技の折り紙も、教えた事がある。時には同い年だが頼りになる兄のように、また息の合う数少ない親友としての関係を続けてきた。
彼もまた光輝のことを、同じ年上の女性を慕う戦友として接してくれた。光輝も彼が相手だと、全て隠さずに言えた。
東京に来てからは隠し続けてきた小学生の時の起こった過去や、幼い時の両親の離婚などについても教えた。彼もまた辛い過去等を、全て光輝に話してくれた。もちろん互いが知る彼女達の事についてもだ。
その為二人の間には、隠し事なんて全くなかった。だからこそ悩んだ挙句、耳にしたりん姉の秘密を打ち明けたのだろう。
「受験に集中したい時に、余計なことを言ってごめん。でももし後で何かあって、何故教えてくれなかったと責められたら、俺は絶対後悔すると思ってさ。確かに親友で一番近くにいる、あい姉の忠告も聞かないんだ。俺達が何か言ったとしても、聞くとは思えない。あい姉の言う通り、できることなんて無いのかもしれない。でもやっぱり俺は、どうしても黙っていられなかった。お前にだけはこの事を、知って欲しいと思ったんだ」
光輝はすぐにでもりん姉に電話をして、不倫していることが真実なのかどうかを確かめたかった。彼女の真意を問い質したい衝動にかられたのだ。
しかし彼女の顔を思い浮かべ、あい姉と一幸の会話を思い出し考え直した。最も近い親友の彼女さえ、止められなかったのだ。その上光輝には伝えないように、といったあい姉の気持ちもよく理解できた。例え聞いたとしても、できることなど何もないのだろう。
何度も四人で集まって食事して会話している中でも、意見が合わない時に収集をつける役目はいつもあい姉だった。よっていつも他の三人は、黙って彼女に従うのだ。その為りん姉だけでなく、今では一幸達さえも彼女を絶対的に信用している。
そう考えた時、自分の無力さを再び思い知らされた。過去にあった、あの悲しい出来事が脳裏をよぎる。自分の力を過信し自惚れ、よかれと思い余りにも幼すぎる正義感をふりかざした結果、助けたかった女の子を死に追いやった。
もしあの時のように、光輝がつまらぬ倫理観でりん姉を責め、その行いを止めさせようとしたらどうなるだろうか。そこには思いもよらぬ、不幸な未来が待っているのではないか。そんなことを想像し始めると、体が動かなくなった。
「判った。あい姉の言う通り、何もしないよ。聞かなかったことにする。僕は今、目先の受験に集中するよ。自分にできることなんて、そんなことしかないから」
一幸にはそう答えていたが、本当は何もしないのではなく、できないでいたのだ。光輝は怖かった。自分が動くことで、また不幸な出来事が起こるのではないか。大切なものを失うのではないか。そんな事ばかりを考えていた。
「どうしたんだ、今日は。ずっとぼんやりしているみたいだけど、何かあったのか」
自習室の管理人にそう声をかけられ気がついた時、外はもう暗く、部屋を閉める時間になっていた。教室の中はほとんど人がおらず、残っている生徒も帰り支度を始めていた。
管理人のお爺さんは気を利かせ、今までそっとしておいてくれたようだ。しかし自習室を閉める時間となり、さすがに心配したのだろう。こっそり声をかけてくれたらしい。
光輝は放課後になり自習室に来てから今までずっと勉強もせず、りん姉やあい姉、一幸の事や自分の過去等を考えていたのだ。
「ごめんなさい。なんか今日は勉強する気が起きなくて、ぼうっとしちゃった」
照れ隠しでそう言いながら、帰り支度を始めた。机の上には全く手をつけていない参考書と、問題集が広げられている。それらをカバンに詰めながら、またつい彼女の事を考えていた。
「まだ閉めるのは、もう少し後でいい。何か心配事があるのなら、この爺さんに話してみたらどうだ。誰かに吐き出すだけでも、気が晴れることはある。遠慮しなくていい。聞き役になってやるから」
今までも時々このお爺さんには、話を聞いて貰っていた。同年代の一幸にはなんとなく話辛いことでも、学校の先生でないただの管理人のお爺さんには、すらすらと口が滑ることも稀にあったからだ。
するとずばり、心に刺さるアドバイスを貰ったことがある。まだ光輝の後ろめたい過去の話はしたことが無い。けれど年上の女性をずっと想い続けている件は、一度だけ話題にしたことがあった。その時彼は教えてくれたのだ。
「いいじゃないか。年上の女性というのは、金の草鞋を履いてでも探せと、昔から言うんだぞ」
そんな言葉を、その時始めて覚えた。おかげでなんとなく後ろめたい気持ちが心の何処かに潜んでいた想いが、そうではなく誇らしいものだと胸を張れるようになったのだ。
光輝はつい管理人の誘いに乗り、自習室の一番後ろにある場所の近くに移動し、他の生徒が全員部屋から出て行ったのを確認してからりん姉の件を口にした。
しかし自分には何もできることなんて無い、とその時初めて光輝が隠していた過去についても喋ってしまった。しかし管理人は黙って、ただ時折頷くだけだった。
話している間に、だんだん自分でも頭の中が整理されてきた。結論は変わらない。臆病になって何もできないでいる自分に、嫌気が差す気持ちもあった。
だがそれだけではない。やはり自分にできることは、今までもずっと思い続け、その目標に向かって突き進むだけだ。彼女にふさわしい男となり、相手から振り向いて貰える人間になる事が先だ、と気付いた。
体を鍛え勉強をしっかりと行い、いろんなことを吸収しながら人としての魅力を磨くこと。もう少しすれば受験だ。そこで目標の大学に無事合格し、努力の成果を勝ち取る力を身につけなければならない。
学歴を手に入れ、高度な学問を学ぶ環境に自分の身を置くことが大切な一歩だ。そこで四年間さらに人間を磨き、やがて就職をして社会人になる。
そこで初めて、社会的地位と経済力が身につくのだろう。親に仕送りされる立場から、完全に自立した一人の男となるのだ。そこまでやって、ようやく彼女を迎える資格が手に入る、とこれまで信じてきた。
その時は少なくとも光輝が二十三、四歳で、彼女は三十一、二歳になっているだろう。この年の差は埋めようがない。だからもちろんそれまでに、彼女が違う男と結婚してしまうことだって有り得る。
現実今も彼氏がいるし、これまでだって何人かの男と親しくなっていると聞いていた。しかし一幸と二人でも確認し合ったが、それはしょうがないと覚悟していた。
それで彼女達が自分達ではない別の男性を愛したとしても、それぞれが幸せになるならばそれでいい。その時はきっぱりと諦め、素直に祝福したいとの考えは、二人の間で一致していた。
あくまで自分達にできるのは、他の男達より絶対幸せにできる人間になるまで、努力し続けることだけだ。今はまだその段階に達していない。そのスタートラインに立てるよう目先の目標に向けて、ただ突っ走るだけだ。
「自分の中では、もう答えが出ているようだな」
管理人はどんどん変わっていく光輝の表情を見て、最後にそう言いさらに続けた。
「でもな。君の辛い過去を聞いて驚いたが、その事で自分の正しいと思った事をやらない、というのは違うぞ。確かに亡くなったお嬢さんは、とても気の毒だったと思う。でもやらない後悔より、やってからの後悔の方がずっと楽なはずだ。もし君が行動しなかったら、本当にその子は救われただろうか? もしかすると、もっと辛い思いをし続けた可能性だってある。また君はずっと、彼女を助けられなかったと後悔し続けていたかもしれない。そう思わないか」
否定できなかった為、軽く頷く。確かに彼の言う通りかもしれない。どっちがいい結果を招いたかなんて、今となっては誰にも判らない事だ。その事でこれからの自分の行いに、制限を設けてしまうなんて愚かなのかもしれない。
そう思っていると彼は話を続けた。
「辛い経験を踏まえた上で、それでも自分が正しいと思った事をやるべきなんじゃないかな。その考えが間違った方向を選択しないように、君は今人間を磨いているんだろう。それはお姉さんの前に立派な姿を見せる事と、結果は同じではないのかな」
光輝は思わず涙を流していた。しばらく泣き止むまで彼はじっと静かに見守ってくれた。やがて落ち着いた所で頭を下げ、席を立ち部屋を出た。
外はすっかり暗くなっていた。学校を後にし、寮にある自分の部屋に戻った光輝は、それから一心不乱で受験勉強に取り組んだ。その後無事第一希望の大学に合格するまで、一切彼女達と会うことを止めた。
久しぶりに顔を合わせたのは、大学合格発表の日の夜だった。その日は人生の中で、忘れられない時間を過ごすことになる。合格発表は三月十日、まだ肌寒い風が吹く平日の午前中だった。
一幸はその時専門学校における四年のうち三年の履修をほぼ終え、来年にはデザイン関係の会社への就職活動を行う予定だった。その為まだ時間的余裕があるので、十一時から大学の構内に張り出される合格発表を一緒に見ようと、彼はついてきてくれたのだ。
光輝はまだその頃、携帯を持っていなかった。だから携帯を持っていた彼が、平日の為仕事中で合流できない彼女達に合否の連絡をメールする役割を担った。
合否に関わらず、その日の夜は四人で飲み会を開く。そう約束していた。合格なら祝勝会、落ちても後期試験がある為、そこに向けての激励会にすると、一幸がはりきって段取りを組んでくれたのだ。
十時半に大学の校門前で、彼と待ち合わせをした。二人で会うことも久々だった。
「久しぶり」
「そうだな。今日はわざわざ来てくれてありがとう」
「別にいいって。来月からは卒業制作や就職活動で忙しくなると思うけど、今はまだ余裕があるし」
彼は照れ隠しにそう言ったが、実際はそれなりに多忙なはずだ。就職活動も既に始まっていると聞いていたし、卒業までに何を作るかの構想も、取り掛かっているに違いない。
彼はバイトもやっているが、それらが本格的に動き出せば、今まで通り働くことも出来ないだろう。だからそれまでに、稼げるだけ稼いでおかなければならないはずだ。
そんな時期に、暇である訳がなかった。わざわざ時間を割いてくれたに違いない。そう気づいていたが、彼のせっかくの好意も考え詳しくは触れず、深く感謝をしながらも胸の中は複雑な心境だった。
校門前には、既に多くの受験生やその父兄と思われる人で一杯だった。さらには受験生の所属する、予備校等の関係者達も多く集まっている。
またサークルまたはクラブのユニフォームを着た学生達も、沢山いた。おそらく恒例の、合格した受験生の胴上げをする為だろう。プラカード等を持って、じっと待機している。
現役大学生にとっては、既に新入生の勧誘が始まっているのだ。体育会の屈強な体格をした、アメフト部やサッカー部などを始め、バスケ部やテニス部、弓道部やアーチェリー部、ボート部、スキー部などといったところから、応援部とチアリーディングもいた。
受験番号が掲示されており、合格したと判明した瞬間が受験生にとっては最も興奮している時だ。その時を逃さずすかさず胴上げをすれば、受験生には一生忘れられない思い出となり、印象も強く残るに違いない。
そうなればそのクラブに対し、好印象を持つことに繋がる。各団体はその効果を期待し、入部を促すのだろう。その大事な瞬間を他の部等に取られないよう、集まった受験生を注意深く覗いていた。
受験番号を探す学生の目をみて、あった! という表情をした生徒がいれば素早く歩み寄る。本人に合格したのか確認した後、胴上げを承認させ、気持よく宙へと舞い上げるのだ。
まだ予定より早い十一時前なので、掲示板には何も張り出されていない。だが既に多くの人が、その前に陣取っている。光輝達も校門から入ったすぐの場所に向かい、人混みの中でじっと運命の瞬間を待っていた。
その間、二人は全く言葉を交わさなかった。久しぶりに会った彼と話したいことは沢山ある。それなのに、どうしてもそんな気になれなかったからだ。彼もそれを感じ取ったのか、黙っていた。
とにかく目の前の結果を知って、肩の荷を下ろしたかった。いや、不合格ならば次の後期試験に向け、更なる勉強を始めなければならない。
とはいっても試験を受けてからこの合格発表まで、約一ヵ月の時間があった。しかしその間、後期試験の為の勉強など正直全く手につかなかった。
この大学一本に絞り、一日の睡眠時間を四~五時間に抑え、食事と風呂の時間以外はほぼ全て勉強時間に充てて取組んできた。それでも試験本番の雰囲気に慣れる為にと、私立の大学を二校ほど試し受験している。だがその二校は、既に不合格との結果が出ていた。
また後期試験は前期試験よりも倍率が高く、試験の形態も論文の占める割合が大きい。よって前期試験用に取り組んできた勉強方法からいえば、今更何をやっても焼け石に水だったからだろう。
後は狂いそうになるほどの不安に耐える日々を過ごし、この日を迎えたのだ。つまり光輝の中では、この試験で落ちたら浪人を覚悟しなければならない心境だった。
そうなると折角学費の安い国立を目指していたのに、また一年間東京で勉強する為のお金がかかる。いや、もう高校は卒業したのだから、学校の寮は出なければならない。
そうなれば経済的に考えても東京でアパートを借りたり、予備校の寮に入ったりすることは難しかった。これ以上親に迷惑をかけられないからだ。
よって不合格となれば、母親の待つあの地元で一緒に暮らしながら、自宅浪人となって勉強を続けるしかない。そう考えると胸が苦しくなり、頭が痛くなる。それだけは嫌だったからだ。
体が拒否反応を示していた。それこそあの悪夢が、まだ心の中から消し去れていない。そんな中で田舎に帰れば、それこそ気が狂ってしまいそうだった。
結果が出るまでもどかしい気持ちをずっと抱え、光輝はやっと今日の日まで辿り着くことができたのだ。
しかし空調は完備されており、夏は涼しく冬は暖かい環境で、集中して勉強ができるようになっていた。この部屋を使用できるのは、学校の生徒全員だ。
その為中間テストや期末テストの時期には、かなり混雑する。そんな時は、自然と高三の受験生等の上級生が優先されるという暗黙の了解があった。
自習室には年老いた管理人がいて、朝の八時半から夕方五時半までの間、ほぼその部屋の片隅に陣取っていた。騒ぐ生徒がいないか、授業をさぼって来てはいないかをチェックする為だ。
その管理人が目を光らせ、自習室全体の生徒のバランスを監視している。混雑してきた場合は下級生に席を開けるよう、声をかけることになっていた。
生徒達もその決まりを知っている為、文句は言わない。それ以上に昔ながらの頑固爺という風情の管理人が、苦情など言わせない迫力を持っていたことも原因の一つだった。
昔自衛隊にいたことがあるらしい、との噂もある。ドアの開け閉めが煩かったり、挨拶一つにしてもいい加減だったりすると、すぐに注意された。結構な年齢で背は小さいが、矍鑠とした感じはまさしく軍人そのものだ。
自習室を使うのは、何も休み時間や放課後だけでは無い。授業中でも、許可されることがあった。
例えば体育の時間に、病気などで参加できない特殊な事情を抱えている生徒達が、代わりに自習室を使って勉強をする為にも使われていた。そういう生徒がさぼっていないかを監視する役目も、管理人はしなければならない。
光輝は高校に上がってから、この部屋をよく利用していた。きっかけは足の怪我で体育の時間を休まなければならなかった時、初めてこの自習室を利用したことだった。
以前から存在は知っていた。けれど中学時代は上級生が優先で使われている部屋だったし、さらに怖いお爺さんがいると聞いて避けていたからだ。
その為テスト期間中でも利用しようと思ったことがなく、実際に使ったことは無かった。そんな光輝が中学の部活を卒業し、高等部に上がり引き続き高校のサッカー部へ入部して間もない頃、じん帯を痛めた事があった。
その時体育の先生に、授業の間は自習室を使うよう指示され、初めて使ったのだ。光輝にとっての第一印象は、静寂かつ快適で居心地が良い場所と感じた。こんな所があったなんて、早く気づけば良かったと後悔した覚えがある。
特に静かだったのは、他の生徒達が皆授業をしている時間帯だ。自習室には、ほとんど人がいなかったからだろう。それでも光輝の他二、三人の生徒が、同じく何らかの事情で自習室を使用していた。
またその時梅雨入りしており、じめじめとして蒸し暑い日々が続いていた頃だった。にもかかわらず、自習室に入った途端涼しくさらに除湿されていた為か、爽やかな気分で席に着いた印象が残っている。
他にも自習室の常連にさせた要因があった。それは怖いと聞いていた管理人の存在だ。初めて入室した時は、痛めた足を引きずりながら、どこかオドオドしていたのだろう。
そんな光輝に優しい声で、彼は話しかけてくれたのだ。
「どうしたんだ? この部屋に来るのは初めてかい? だったら少し簡単に、部屋の使い方を説明しようかな」
怪我した足を気遣いながら、一番後ろにある管理人の席の近くに光輝を坐らせた。既に席についていた他の生徒の迷惑にならないよう、穏やかな抑えた声で丁寧に教えてくれたのだ。
その最初の一回で、この場所を気に入った。その後も何度か体育の授業の代わりに自習室へ通い、その間に管理人とも仲良くなった。
何故か光輝は、幼い頃からこの手のお年寄りに可愛がられることが多かったからだろう。
光輝もまた実の祖父のように、彼を慕い始めた。その為足が治った後も、放課後などはこの部屋を利用するようになった。光輝の怪我は一応完治したものの、サッカー等の激しいスポーツを続けることは難しいと医者に宣告されたからだ。
それを機に部活を辞め、高校では大学受験に専念しようと気持ちを切り替えた。中学では強制だったが、高校からは部活への参加は任意だったことも大きく影響した。
そこで放課後の時間がすっぽりと空いた分、自習室を多用するようになったのだ。通い始めて二年が経ち、光輝もこの学校の最終学年となった。年明けには、いよいよ大学受験の本番が控えている。
部活を辞め、受験に集中した効果もあったからだろう。まずまずだった成績は徐々に良くなり、今では学部によるが早慶辺りを狙えるところまできた。
だが今でも親から仕送りされ、負担をかけている。だからなるだけ学費を抑えたいと思い、できれば東京周辺にある国公立の大学に入りたいと考えていた。
東大は難しいとしても、一橋や横浜国立大学ならば背伸びすればなんとかなるのではないか。そう思って第一位希望を一橋に狙いを定め、取り組んだ。
夏も過ぎ、受験生としては追い込みの時期に入っていた。学校の授業も教科書は全て終え、今は受験専用の内容ばかりをやっている。
自習室もこの時期になると受験組の生徒ばかりが目立ち、何となく空気も張り詰めていた。
その中で光輝は一人、ぼんやりと窓の外を眺め、全く別のことを考えていた。先週の日曜日、久しぶりに会った一幸からりん姉のことを聞いたからだ。
「あい姉からは、絶対言うなと口止めされていたんだけどさ」
そう切り出した彼から、彼女が一回り以上も年上の会社の妻子ある上司と不倫している事を教えられ、衝撃を受けた。
単なる不倫だけでもショックなのに、していることは彼女の母が離婚した原因とそっくりそのままだ。しかも父親が不倫していた部下の女の人と同じ事をしているなんて、最初は全く信じられなかった。
「嘘だよ。そんなはずはないさ。だってりん姉の両親はさ、」
「判っているよ。あい姉だってその話を知っているから、そんな馬鹿な真似はするなって、何度も忠告したらしい。それでも全く聞かないんだって、嘆いていたんだ。こんな嘘を、俺がわざわざ受験前で忙しいお前に言う訳ないだろ」
否定しようとした光輝の言葉を遮り、泣きそうな顔で肩を強く掴んできた。その時の彼の目は真剣だった。本当に心から心配し苦しみ悩んだ末、一人では抱えきれなくなったのかもしれない。あい姉との約束を破り、光輝にこの話をした理由がすぐに理解できた。
一幸とは初めて四人で会った以来、ずっと親友として付き合ってきた。最初紹介された時は余計な人達がついて来たと、正直むっとした記憶がある。第一印象は最悪だった。
彼が悪い訳では無い。お姉ちゃんと二人きりで会えると思っていたのに、女友達が来ると聞いただけでも気に食わなかった。そこへ光輝と同い年の男が一緒だというから、更に腹を立てていたのだ。
新宿の西口アルタ前の広場へ約束より四十分も前に着いた光輝は、髪の毛をツンツンに立てた男の子が近くにいたことを覚えている。
光輝自身もそうだったから判る。なんとなく、まだ田舎から東京に来たばかりのあか抜けない格好をしているその男は、妙にこちらをチラチラと睨んできた。
なるだけ気にしないようにしていたが、余りにも頻繁に目が合った。その為だんだんと苛立ちが募って来た所に、りん姉が現れたのだ。
そこで彼が今回待ち合わせしている相手の一人だと知り、挨拶をしたところ驚いた。りん姉とあい姉の名が、二人共“あかり”だと知っただけでなく、一緒にいる二人のかつての呼び名も似通っていたからだ。
その為りん姉が仕切り出し、その場で新たな呼び名を決めた。その後あい姉が合流し、四人で街をぶらつくことになったのだが、あっという間に意気投合した。話している内に、多くの共通点がある事を知ったからだろう。
後で聞くと、あの待ち合わせで一幸がやたらチラ見していたのは、彼も自分と同じ思いをしていたからだった。彼も今回の待ち合わせで同じ年頃の男が来ると聞き、どんな奴だと警戒していたらしい。
りん姉とあい姉が二人でキャッキャと楽しそうに話し合っている間に、光輝と一幸はお互いの家庭環境等を探り探り聞きながら、情報交換していた。
すると偶然にも彼らの関係が、光輝達との結びつきとかなり似かよっていることが判明した。自分と同じく、彼もまた彼女を慕って東京にやってきたらしい。
また彼女のことを、ずっと守り続けたいと思っていたのだ。彼は初対面からそう強く主張し、だからお前は近づくなと言わんばかりの勢いで、想いを語り始めた。そこで光輝も言い返した。
「俺だってそうだよ。あの人を守るのは僕なんだ」
負けるものかとどれだけ好きか、どれほど大切に思っているかを滔々と説明した。そうして互いが決して敵にはならないと確認できたおかげで、緊張感が薄らいだ。
さらに四人に共通する点もあり、二人の過去もまたそっくりだったことから、一気に距離を縮めることになった。
彼とは話せば話すほど、会話は弾んだ。今までこれほど、心を許す同性の親友がいなかったからだろう。二人は意気投合し、語り尽せないほど胸の奥にしまいこんでいた秘密まで、暴露し合う仲になった。
気づけば楽しみにしていた二人きりのデートはできなくなっていたが、それよりも四人で会う口実で、彼女達や彼と話す時間が増えたことは嬉しかった。また忙しく会えない彼女達とは別に、彼とよく二人だけで話すようになったのだ。
「仲良くしてくれるのはいいけど、何の為に今日集まったのかよく判らないね」
彼女達にそう皮肉られる程、二人の関係は深くなった。数少ない特技の折り紙も、教えた事がある。時には同い年だが頼りになる兄のように、また息の合う数少ない親友としての関係を続けてきた。
彼もまた光輝のことを、同じ年上の女性を慕う戦友として接してくれた。光輝も彼が相手だと、全て隠さずに言えた。
東京に来てからは隠し続けてきた小学生の時の起こった過去や、幼い時の両親の離婚などについても教えた。彼もまた辛い過去等を、全て光輝に話してくれた。もちろん互いが知る彼女達の事についてもだ。
その為二人の間には、隠し事なんて全くなかった。だからこそ悩んだ挙句、耳にしたりん姉の秘密を打ち明けたのだろう。
「受験に集中したい時に、余計なことを言ってごめん。でももし後で何かあって、何故教えてくれなかったと責められたら、俺は絶対後悔すると思ってさ。確かに親友で一番近くにいる、あい姉の忠告も聞かないんだ。俺達が何か言ったとしても、聞くとは思えない。あい姉の言う通り、できることなんて無いのかもしれない。でもやっぱり俺は、どうしても黙っていられなかった。お前にだけはこの事を、知って欲しいと思ったんだ」
光輝はすぐにでもりん姉に電話をして、不倫していることが真実なのかどうかを確かめたかった。彼女の真意を問い質したい衝動にかられたのだ。
しかし彼女の顔を思い浮かべ、あい姉と一幸の会話を思い出し考え直した。最も近い親友の彼女さえ、止められなかったのだ。その上光輝には伝えないように、といったあい姉の気持ちもよく理解できた。例え聞いたとしても、できることなど何もないのだろう。
何度も四人で集まって食事して会話している中でも、意見が合わない時に収集をつける役目はいつもあい姉だった。よっていつも他の三人は、黙って彼女に従うのだ。その為りん姉だけでなく、今では一幸達さえも彼女を絶対的に信用している。
そう考えた時、自分の無力さを再び思い知らされた。過去にあった、あの悲しい出来事が脳裏をよぎる。自分の力を過信し自惚れ、よかれと思い余りにも幼すぎる正義感をふりかざした結果、助けたかった女の子を死に追いやった。
もしあの時のように、光輝がつまらぬ倫理観でりん姉を責め、その行いを止めさせようとしたらどうなるだろうか。そこには思いもよらぬ、不幸な未来が待っているのではないか。そんなことを想像し始めると、体が動かなくなった。
「判った。あい姉の言う通り、何もしないよ。聞かなかったことにする。僕は今、目先の受験に集中するよ。自分にできることなんて、そんなことしかないから」
一幸にはそう答えていたが、本当は何もしないのではなく、できないでいたのだ。光輝は怖かった。自分が動くことで、また不幸な出来事が起こるのではないか。大切なものを失うのではないか。そんな事ばかりを考えていた。
「どうしたんだ、今日は。ずっとぼんやりしているみたいだけど、何かあったのか」
自習室の管理人にそう声をかけられ気がついた時、外はもう暗く、部屋を閉める時間になっていた。教室の中はほとんど人がおらず、残っている生徒も帰り支度を始めていた。
管理人のお爺さんは気を利かせ、今までそっとしておいてくれたようだ。しかし自習室を閉める時間となり、さすがに心配したのだろう。こっそり声をかけてくれたらしい。
光輝は放課後になり自習室に来てから今までずっと勉強もせず、りん姉やあい姉、一幸の事や自分の過去等を考えていたのだ。
「ごめんなさい。なんか今日は勉強する気が起きなくて、ぼうっとしちゃった」
照れ隠しでそう言いながら、帰り支度を始めた。机の上には全く手をつけていない参考書と、問題集が広げられている。それらをカバンに詰めながら、またつい彼女の事を考えていた。
「まだ閉めるのは、もう少し後でいい。何か心配事があるのなら、この爺さんに話してみたらどうだ。誰かに吐き出すだけでも、気が晴れることはある。遠慮しなくていい。聞き役になってやるから」
今までも時々このお爺さんには、話を聞いて貰っていた。同年代の一幸にはなんとなく話辛いことでも、学校の先生でないただの管理人のお爺さんには、すらすらと口が滑ることも稀にあったからだ。
するとずばり、心に刺さるアドバイスを貰ったことがある。まだ光輝の後ろめたい過去の話はしたことが無い。けれど年上の女性をずっと想い続けている件は、一度だけ話題にしたことがあった。その時彼は教えてくれたのだ。
「いいじゃないか。年上の女性というのは、金の草鞋を履いてでも探せと、昔から言うんだぞ」
そんな言葉を、その時始めて覚えた。おかげでなんとなく後ろめたい気持ちが心の何処かに潜んでいた想いが、そうではなく誇らしいものだと胸を張れるようになったのだ。
光輝はつい管理人の誘いに乗り、自習室の一番後ろにある場所の近くに移動し、他の生徒が全員部屋から出て行ったのを確認してからりん姉の件を口にした。
しかし自分には何もできることなんて無い、とその時初めて光輝が隠していた過去についても喋ってしまった。しかし管理人は黙って、ただ時折頷くだけだった。
話している間に、だんだん自分でも頭の中が整理されてきた。結論は変わらない。臆病になって何もできないでいる自分に、嫌気が差す気持ちもあった。
だがそれだけではない。やはり自分にできることは、今までもずっと思い続け、その目標に向かって突き進むだけだ。彼女にふさわしい男となり、相手から振り向いて貰える人間になる事が先だ、と気付いた。
体を鍛え勉強をしっかりと行い、いろんなことを吸収しながら人としての魅力を磨くこと。もう少しすれば受験だ。そこで目標の大学に無事合格し、努力の成果を勝ち取る力を身につけなければならない。
学歴を手に入れ、高度な学問を学ぶ環境に自分の身を置くことが大切な一歩だ。そこで四年間さらに人間を磨き、やがて就職をして社会人になる。
そこで初めて、社会的地位と経済力が身につくのだろう。親に仕送りされる立場から、完全に自立した一人の男となるのだ。そこまでやって、ようやく彼女を迎える資格が手に入る、とこれまで信じてきた。
その時は少なくとも光輝が二十三、四歳で、彼女は三十一、二歳になっているだろう。この年の差は埋めようがない。だからもちろんそれまでに、彼女が違う男と結婚してしまうことだって有り得る。
現実今も彼氏がいるし、これまでだって何人かの男と親しくなっていると聞いていた。しかし一幸と二人でも確認し合ったが、それはしょうがないと覚悟していた。
それで彼女達が自分達ではない別の男性を愛したとしても、それぞれが幸せになるならばそれでいい。その時はきっぱりと諦め、素直に祝福したいとの考えは、二人の間で一致していた。
あくまで自分達にできるのは、他の男達より絶対幸せにできる人間になるまで、努力し続けることだけだ。今はまだその段階に達していない。そのスタートラインに立てるよう目先の目標に向けて、ただ突っ走るだけだ。
「自分の中では、もう答えが出ているようだな」
管理人はどんどん変わっていく光輝の表情を見て、最後にそう言いさらに続けた。
「でもな。君の辛い過去を聞いて驚いたが、その事で自分の正しいと思った事をやらない、というのは違うぞ。確かに亡くなったお嬢さんは、とても気の毒だったと思う。でもやらない後悔より、やってからの後悔の方がずっと楽なはずだ。もし君が行動しなかったら、本当にその子は救われただろうか? もしかすると、もっと辛い思いをし続けた可能性だってある。また君はずっと、彼女を助けられなかったと後悔し続けていたかもしれない。そう思わないか」
否定できなかった為、軽く頷く。確かに彼の言う通りかもしれない。どっちがいい結果を招いたかなんて、今となっては誰にも判らない事だ。その事でこれからの自分の行いに、制限を設けてしまうなんて愚かなのかもしれない。
そう思っていると彼は話を続けた。
「辛い経験を踏まえた上で、それでも自分が正しいと思った事をやるべきなんじゃないかな。その考えが間違った方向を選択しないように、君は今人間を磨いているんだろう。それはお姉さんの前に立派な姿を見せる事と、結果は同じではないのかな」
光輝は思わず涙を流していた。しばらく泣き止むまで彼はじっと静かに見守ってくれた。やがて落ち着いた所で頭を下げ、席を立ち部屋を出た。
外はすっかり暗くなっていた。学校を後にし、寮にある自分の部屋に戻った光輝は、それから一心不乱で受験勉強に取り組んだ。その後無事第一希望の大学に合格するまで、一切彼女達と会うことを止めた。
久しぶりに顔を合わせたのは、大学合格発表の日の夜だった。その日は人生の中で、忘れられない時間を過ごすことになる。合格発表は三月十日、まだ肌寒い風が吹く平日の午前中だった。
一幸はその時専門学校における四年のうち三年の履修をほぼ終え、来年にはデザイン関係の会社への就職活動を行う予定だった。その為まだ時間的余裕があるので、十一時から大学の構内に張り出される合格発表を一緒に見ようと、彼はついてきてくれたのだ。
光輝はまだその頃、携帯を持っていなかった。だから携帯を持っていた彼が、平日の為仕事中で合流できない彼女達に合否の連絡をメールする役割を担った。
合否に関わらず、その日の夜は四人で飲み会を開く。そう約束していた。合格なら祝勝会、落ちても後期試験がある為、そこに向けての激励会にすると、一幸がはりきって段取りを組んでくれたのだ。
十時半に大学の校門前で、彼と待ち合わせをした。二人で会うことも久々だった。
「久しぶり」
「そうだな。今日はわざわざ来てくれてありがとう」
「別にいいって。来月からは卒業制作や就職活動で忙しくなると思うけど、今はまだ余裕があるし」
彼は照れ隠しにそう言ったが、実際はそれなりに多忙なはずだ。就職活動も既に始まっていると聞いていたし、卒業までに何を作るかの構想も、取り掛かっているに違いない。
彼はバイトもやっているが、それらが本格的に動き出せば、今まで通り働くことも出来ないだろう。だからそれまでに、稼げるだけ稼いでおかなければならないはずだ。
そんな時期に、暇である訳がなかった。わざわざ時間を割いてくれたに違いない。そう気づいていたが、彼のせっかくの好意も考え詳しくは触れず、深く感謝をしながらも胸の中は複雑な心境だった。
校門前には、既に多くの受験生やその父兄と思われる人で一杯だった。さらには受験生の所属する、予備校等の関係者達も多く集まっている。
またサークルまたはクラブのユニフォームを着た学生達も、沢山いた。おそらく恒例の、合格した受験生の胴上げをする為だろう。プラカード等を持って、じっと待機している。
現役大学生にとっては、既に新入生の勧誘が始まっているのだ。体育会の屈強な体格をした、アメフト部やサッカー部などを始め、バスケ部やテニス部、弓道部やアーチェリー部、ボート部、スキー部などといったところから、応援部とチアリーディングもいた。
受験番号が掲示されており、合格したと判明した瞬間が受験生にとっては最も興奮している時だ。その時を逃さずすかさず胴上げをすれば、受験生には一生忘れられない思い出となり、印象も強く残るに違いない。
そうなればそのクラブに対し、好印象を持つことに繋がる。各団体はその効果を期待し、入部を促すのだろう。その大事な瞬間を他の部等に取られないよう、集まった受験生を注意深く覗いていた。
受験番号を探す学生の目をみて、あった! という表情をした生徒がいれば素早く歩み寄る。本人に合格したのか確認した後、胴上げを承認させ、気持よく宙へと舞い上げるのだ。
まだ予定より早い十一時前なので、掲示板には何も張り出されていない。だが既に多くの人が、その前に陣取っている。光輝達も校門から入ったすぐの場所に向かい、人混みの中でじっと運命の瞬間を待っていた。
その間、二人は全く言葉を交わさなかった。久しぶりに会った彼と話したいことは沢山ある。それなのに、どうしてもそんな気になれなかったからだ。彼もそれを感じ取ったのか、黙っていた。
とにかく目の前の結果を知って、肩の荷を下ろしたかった。いや、不合格ならば次の後期試験に向け、更なる勉強を始めなければならない。
とはいっても試験を受けてからこの合格発表まで、約一ヵ月の時間があった。しかしその間、後期試験の為の勉強など正直全く手につかなかった。
この大学一本に絞り、一日の睡眠時間を四~五時間に抑え、食事と風呂の時間以外はほぼ全て勉強時間に充てて取組んできた。それでも試験本番の雰囲気に慣れる為にと、私立の大学を二校ほど試し受験している。だがその二校は、既に不合格との結果が出ていた。
また後期試験は前期試験よりも倍率が高く、試験の形態も論文の占める割合が大きい。よって前期試験用に取り組んできた勉強方法からいえば、今更何をやっても焼け石に水だったからだろう。
後は狂いそうになるほどの不安に耐える日々を過ごし、この日を迎えたのだ。つまり光輝の中では、この試験で落ちたら浪人を覚悟しなければならない心境だった。
そうなると折角学費の安い国立を目指していたのに、また一年間東京で勉強する為のお金がかかる。いや、もう高校は卒業したのだから、学校の寮は出なければならない。
そうなれば経済的に考えても東京でアパートを借りたり、予備校の寮に入ったりすることは難しかった。これ以上親に迷惑をかけられないからだ。
よって不合格となれば、母親の待つあの地元で一緒に暮らしながら、自宅浪人となって勉強を続けるしかない。そう考えると胸が苦しくなり、頭が痛くなる。それだけは嫌だったからだ。
体が拒否反応を示していた。それこそあの悪夢が、まだ心の中から消し去れていない。そんな中で田舎に帰れば、それこそ気が狂ってしまいそうだった。
結果が出るまでもどかしい気持ちをずっと抱え、光輝はやっと今日の日まで辿り着くことができたのだ。
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