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能面課長と夕暮れロビー
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「白沢さん」
「え、はい……って、あの?」
定時になり帰ろうと夕暮れのロビーを歩いていた時、背後から声をかけられ振り向いた。少し前まではよくあった事だけに、条件反射のように身体が反応したのもある。
けれど、振り向いた先には見覚えのない人がいた。今風な細身のグレースーツを着た、やや明るい髪の爽やかそうな男性だ。
年齢は私と同じくらいだろうか。左手にビジネスバッグを持っていて、首から社員証もつけているのでうちの社員だ。だけど私は面識がない。
男性は私から二メートルほど離れた場所で、真剣な表情でじっとこちらを凝視していた。
な、なに?
「と、突然すみませんっ。おれ、営業課の松田と言いますっ」
「はあ……」
赤い光が差し込むロビーに、大きくはないけれどはっきりした声が響く。
松田と名乗った男性はなぜかぎゅっと眉根を寄せ、焦っているような顔で私に自己紹介を始めた。ロビーにある大きな窓から差し込む夕日のせいか、彼の顔が真っ赤に見える。
営業課の松田さん……。うーん、全然わかんないわ。
というか、どうしてロビーのど真ん中で呼び止めるのかしら。この人。
「そ、その、白沢さんはおれのこと、知らないと思いますが、おれは、知ってましてっ……」
訝しんでいると、松田さんは何かを誤魔化すみたいに夕暮れに透ける髪を右手でくしゃりと掴んで、どもりながら続けた。
今自分で営業課と言っていたのに、そんな喋り方で大丈夫なんだろうかとふと思う。
「はあ……」
「食堂とか、紅苑とかでも、見かけてっ」
「はあ」
つい生返事を繰り返してしまう。
食堂は社内だし、紅苑も会社から近いからそういう事もあるだろうなと思うけれど、私はいまいちどう反応すればいいのかわからなかった。
仕方が無いので細切れの彼の言葉をじっと聞き続ける。松田さんはちらちら私を見たり床に視線を落としたりを何度も繰り返していて、まるで言いたいことがあるのに言い出せないような雰囲気だった。
営業課……私なにかやったかしら。
でも最近はミスも少なかったし、怒られたりもなかったはずなんだけど。
知らぬ間に何かやらかしていただろうかと記憶を反芻してみるけれど、やっていたらそもそも本庄課長から指摘を受けていただろうし、そういう覚えもない。彼の場合、付き合ったからって見逃すなんて事はしないだろう。今日は課長からデートのお誘いはなかったし、律子もエステの予約があるとの事だったので、ならば一人でさっさと帰ろうと思っていたのだけれど。
そういえば……冷蔵庫、なんにもなかった気がするなぁ。最近買い物行けてなかったし。
久しぶりにタン塩レモンが食べたいかも。
「あのっ」
「は、はい」
なんて、お酒のおつまみの事を考えていたら突然松田さんが一歩踏み出した。それが妙に迫力があって、私は思わず一歩後退してしまう。
すると、松田さんがなぜかショックを受けたような顔をした。彼はなぜか頬を染めたまま、ふっと眉と目を伏せる。
え、なんでそんな顔されるの?
まるでこっちが悪い事したみたいに。
だって初対面の人に突然詰め寄られそうになったら、誰でも驚くと思うんだけど。
彼がどうしたいのかわからない。だけど呼び止められたからには無視するわけにもいかない。
対応に困っていると、松田さんは気を取り直したようにきっと顔を引き締めて、あろうことか突然私の前でばっと頭を下げた。
え。
何してるのこの人。
「おおお願いします! 連絡先教えてください!!」
「……へ?」
夕暮れ時。退社時間を過ぎ多くの社員が行き交うロビーの真ん中で。
松田さんは突然、私に頭を下げてそう言った。
おかげで帰宅を急いでいた人や談笑していた人達の視線が一斉に私達に集まる。一瞬、何を言われているのかわからなかった。驚きで私の頭が真っ白になる。
けれど一拍置いてから言葉の意味を理解し、周囲の視線と状況に私の心臓が冷やりとした。
こ、こんなロビーのど真ん中でっ!
何を言ってるのこの人!
いやあああすごく注目されてるじゃないっ!!
普通に考えて衆目の元で連絡先を聞かれるなんて、恥ずかしい以外のなにものでもない。わざわざこんな仰々しくしなくとも、他にもやり方があるだろうに、どうして彼はこんなやり方をしてきたのだろうと思ってしまう。
これじゃ、晒しものだ。
「あ、あのっ、頭を上げてくださいっ」
「じゃあ、連絡先教えてもらえますかっ」
「え、あ、その」
じゃあ、って何!?
連絡先教えなきゃ頭上げないってことっ!?
やめてくれという意味を込めて言った言葉を、なぜか変な風に使われて、しかも頭は上げてくれなくて、思わず困り果てる。
それでも周りの視線は痛いし、なんだか口を吹いて囃し立てているような人もいるし、ロビーには人が集まりだしていて、もう逃げ出したくなってしまった。というか、逃げたい。
「おれ、白沢さんが連絡先教えてくれるまでこうしてますっ。ずっと気になってたんですっ!」
「そ、そう言われても……」
こちらは初対面なのに、そんなこと構わず松田さんはしゃべり続けている。いくら同じ会社の人といっても、よく知らない人に連絡先を教えるなんて気が進まないし、それにこの衆人環視の中でそれをOKするのも嫌だと感じた。というより、本庄課長との交際を了承した以上、他の男性に軽々しく連絡先を教えるつもりはない。
こんな人前で、断るのは申し訳ないけど……でも早く解放されたい!
彼には悪いと思ったけれど、私は断りの返事をしようと意を決した。
周囲の視線が痛い。明日は絶対噂の的になってしまうだろう。目立つのは好きじゃないのに……。
私はなんとかプレッシャーに耐えつつ、ぐっとお腹に力を入れて口を開こうとした―――時だった。
「っえ」
背後から、ふわりと肩を抱かれ引き寄せられた。
とん、と背中に厚い胸板が当たる。嗅いだことのある匂いを鼻腔に感じた。
思わず振り向いて見上げると―――本庄課長が、いた。
「え、はい……って、あの?」
定時になり帰ろうと夕暮れのロビーを歩いていた時、背後から声をかけられ振り向いた。少し前まではよくあった事だけに、条件反射のように身体が反応したのもある。
けれど、振り向いた先には見覚えのない人がいた。今風な細身のグレースーツを着た、やや明るい髪の爽やかそうな男性だ。
年齢は私と同じくらいだろうか。左手にビジネスバッグを持っていて、首から社員証もつけているのでうちの社員だ。だけど私は面識がない。
男性は私から二メートルほど離れた場所で、真剣な表情でじっとこちらを凝視していた。
な、なに?
「と、突然すみませんっ。おれ、営業課の松田と言いますっ」
「はあ……」
赤い光が差し込むロビーに、大きくはないけれどはっきりした声が響く。
松田と名乗った男性はなぜかぎゅっと眉根を寄せ、焦っているような顔で私に自己紹介を始めた。ロビーにある大きな窓から差し込む夕日のせいか、彼の顔が真っ赤に見える。
営業課の松田さん……。うーん、全然わかんないわ。
というか、どうしてロビーのど真ん中で呼び止めるのかしら。この人。
「そ、その、白沢さんはおれのこと、知らないと思いますが、おれは、知ってましてっ……」
訝しんでいると、松田さんは何かを誤魔化すみたいに夕暮れに透ける髪を右手でくしゃりと掴んで、どもりながら続けた。
今自分で営業課と言っていたのに、そんな喋り方で大丈夫なんだろうかとふと思う。
「はあ……」
「食堂とか、紅苑とかでも、見かけてっ」
「はあ」
つい生返事を繰り返してしまう。
食堂は社内だし、紅苑も会社から近いからそういう事もあるだろうなと思うけれど、私はいまいちどう反応すればいいのかわからなかった。
仕方が無いので細切れの彼の言葉をじっと聞き続ける。松田さんはちらちら私を見たり床に視線を落としたりを何度も繰り返していて、まるで言いたいことがあるのに言い出せないような雰囲気だった。
営業課……私なにかやったかしら。
でも最近はミスも少なかったし、怒られたりもなかったはずなんだけど。
知らぬ間に何かやらかしていただろうかと記憶を反芻してみるけれど、やっていたらそもそも本庄課長から指摘を受けていただろうし、そういう覚えもない。彼の場合、付き合ったからって見逃すなんて事はしないだろう。今日は課長からデートのお誘いはなかったし、律子もエステの予約があるとの事だったので、ならば一人でさっさと帰ろうと思っていたのだけれど。
そういえば……冷蔵庫、なんにもなかった気がするなぁ。最近買い物行けてなかったし。
久しぶりにタン塩レモンが食べたいかも。
「あのっ」
「は、はい」
なんて、お酒のおつまみの事を考えていたら突然松田さんが一歩踏み出した。それが妙に迫力があって、私は思わず一歩後退してしまう。
すると、松田さんがなぜかショックを受けたような顔をした。彼はなぜか頬を染めたまま、ふっと眉と目を伏せる。
え、なんでそんな顔されるの?
まるでこっちが悪い事したみたいに。
だって初対面の人に突然詰め寄られそうになったら、誰でも驚くと思うんだけど。
彼がどうしたいのかわからない。だけど呼び止められたからには無視するわけにもいかない。
対応に困っていると、松田さんは気を取り直したようにきっと顔を引き締めて、あろうことか突然私の前でばっと頭を下げた。
え。
何してるのこの人。
「おおお願いします! 連絡先教えてください!!」
「……へ?」
夕暮れ時。退社時間を過ぎ多くの社員が行き交うロビーの真ん中で。
松田さんは突然、私に頭を下げてそう言った。
おかげで帰宅を急いでいた人や談笑していた人達の視線が一斉に私達に集まる。一瞬、何を言われているのかわからなかった。驚きで私の頭が真っ白になる。
けれど一拍置いてから言葉の意味を理解し、周囲の視線と状況に私の心臓が冷やりとした。
こ、こんなロビーのど真ん中でっ!
何を言ってるのこの人!
いやあああすごく注目されてるじゃないっ!!
普通に考えて衆目の元で連絡先を聞かれるなんて、恥ずかしい以外のなにものでもない。わざわざこんな仰々しくしなくとも、他にもやり方があるだろうに、どうして彼はこんなやり方をしてきたのだろうと思ってしまう。
これじゃ、晒しものだ。
「あ、あのっ、頭を上げてくださいっ」
「じゃあ、連絡先教えてもらえますかっ」
「え、あ、その」
じゃあ、って何!?
連絡先教えなきゃ頭上げないってことっ!?
やめてくれという意味を込めて言った言葉を、なぜか変な風に使われて、しかも頭は上げてくれなくて、思わず困り果てる。
それでも周りの視線は痛いし、なんだか口を吹いて囃し立てているような人もいるし、ロビーには人が集まりだしていて、もう逃げ出したくなってしまった。というか、逃げたい。
「おれ、白沢さんが連絡先教えてくれるまでこうしてますっ。ずっと気になってたんですっ!」
「そ、そう言われても……」
こちらは初対面なのに、そんなこと構わず松田さんはしゃべり続けている。いくら同じ会社の人といっても、よく知らない人に連絡先を教えるなんて気が進まないし、それにこの衆人環視の中でそれをOKするのも嫌だと感じた。というより、本庄課長との交際を了承した以上、他の男性に軽々しく連絡先を教えるつもりはない。
こんな人前で、断るのは申し訳ないけど……でも早く解放されたい!
彼には悪いと思ったけれど、私は断りの返事をしようと意を決した。
周囲の視線が痛い。明日は絶対噂の的になってしまうだろう。目立つのは好きじゃないのに……。
私はなんとかプレッシャーに耐えつつ、ぐっとお腹に力を入れて口を開こうとした―――時だった。
「っえ」
背後から、ふわりと肩を抱かれ引き寄せられた。
とん、と背中に厚い胸板が当たる。嗅いだことのある匂いを鼻腔に感じた。
思わず振り向いて見上げると―――本庄課長が、いた。
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