雨に濡れた桜 ~能面課長と最後の恋を~

國樹田 樹

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兼崎結衣の策略

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「彼等はこのままで構わん」

「え……」

 リビングで荒井会長にソファを勧めて、別に用意した椅子に清隆社長と兼崎さんを促そうとしたら、会長に片手で制されてしまった。還暦を越えてもなお瞳に宿る鋭さに、思わず身体が固まる。

「今回の全ての原因はこの二人にある。私も例外ではないが。だが生憎足が悪くてね。全てを話し終える為には致し方ない。しかし彼等はそうではないから、立ったままでいいだろう。なあお二人さん」

「……はい」

「っ……」

 ソファに腰を下ろした荒井会長が、清隆社長と兼崎さんに厳しい視線を向ける。二人は射すくめられたように身体を強張らせ、無言で頷いていた。

 清隆社長は顔色を青くしながら俯き、兼崎さんは両腕に抱えているバッグがひしゃげるほど強く握り締めている。

「お好きにどうぞ。それでは始めてください」

 課長がまるで業務開始を告げるように淡々と言った。

 彼も座るつもりはないらしく、立位のまま両腕を身体の前で組んでいる。

 私はその隣にいた。彼がこのまま聞くというなら、そうすべきだと思ったからだ。

 課長に目を向けた荒井会長は、どこか寂しそうな顔で頷いて、大きく深呼吸を一度すると清隆社長を再び冷たく一瞥した。

「……ふむ、そうだな。清隆、まずは尚人君の出自が漏れた経緯について、お前から説明しなさい。最初から最後まで、包み隠さずだ」

「わ、わかりました」

「っそんな!?」

 荒井会長に促され、清隆社長が項垂れていた頭を上げた。横にいた兼崎さんが焦った声を上げ、全員の視線が一斉に彼女に向けられる。兼崎さんは清隆社長を縋るような目で見ていた。

「お願い……! 白沢さんにだけは言わないでっ! 絶対馬鹿にされるわっ! 言わないでよ何でもするからっ!」

「ゆ、結衣」

 兼崎さんが清隆社長のスーツを掴み、取り縋りながら懇願する。

「え?」

 兼崎さんが私を見ながらそう言い募るのを見て、何がなんだかわからなかった。

 馬鹿にされるとは、一体どういうことだろう?

 疑問符が頭を駆け巡る。しかし次の瞬間放たれた一括に、その場の空気が凍り付く。

「喧しい!! 今更見栄を張るな馬鹿者が! たかが嫉妬如きで他人の人生を暴いておきながら、そのうえ保身に走るか! ……お嬢さん、若さ故の過ちには、今回のは過ぎた行いだ」

 荒井会長にぴしゃりと叱りつけられて、兼崎さんはぐっと喉を詰まらせたように顔を顰めそれ以上言うのをやめた。けれど私を強く睨みつけている。正直、どうして彼女にここまで嫌な顔をされるのか、思い当たる節がなくて気味が悪い。

 松田さんを怖いと思った時とは違う、妙な水気を含んだ恐怖を感じる。そこで気付いた。

 兼崎さんはもしかして……課長の事をまだ諦めていない?

 確かに以前、女子トイレでそう言っていたし、課長から松田さんに乗り換える気はないかというとんでもない提案もされた。

 あの時はただ驚いただけだったけれど、もしかすると彼女はあれからずっと、課長を?

 そういえば前に倉庫で松田さんと会った時も、彼女から私の居場所を聞いたのだと言っていた。

 私を課長から遠ざけたかったのだろうか。そうだとしても、彼女は一体何を考えていたのだろう。

 課長の出自を暴くだなんて、ただ相手を傷つけるだけなのに。

「先ほども言った通り……僕と結衣はこれまでその……『金銭的な援助関係』にありました。いわゆるパパ活、というやつです。彼女は若くて綺麗なので、僕も気に入って何度も会っていました。……けれど最近になって、結衣がある男の事をよく口にするようになったんです」

「っ……」

 清隆社長が言いにくそうに語り始める。兼崎さんは苦々しい表情で唇を噛み締めながらそれを聞いていた。視線は床に落ちている。課長は静かに耳を傾けていた

「名前を聞いてみたら、本庄尚人であると言われました。聞き覚えがあると思って調べたら、母に昔言われた腹違いの兄弟だとわかったんです。そして……僕はその話を結衣に話しました。彼は隠し子だからうちの会社を継げはしないと。結衣は金と地位のある男が好きで、そのうえ見目も良い男がいたらすぐに乗り換えるような素振りをいつも見せていました。だから彼女の目を僕に戻すためにそう言ったんです。三十五にもなって、僕は若い彼女に惚れてしまった。結衣を手放したくなかったんです。そうしたら、翌日には結衣の会社内でその話が広まっていました。っ本当に、申し訳ありませんでした……っ!」

 清隆社長がその場に膝を付いてまた頭を下げる。課長はそれをじっと見つめていた。土下座する息子を見下ろす荒井会長の目には何の感情も映っていない。

 無表情な二人の顔が、違う意味で親子だという事実を見せつけている。

「本来ならば、継げはしなかったのはお前の方なのにな清隆。皮肉なものだ」

「お父さん……っ!!」

「父と呼ぶのはやめろと言っただろう!! ……さて、兼崎さんと言ったかなお嬢さん。君はどうして、その話を吹聴したのかな。跡目争いでもさせたかったか? その話をネタに金を要求する事もできたはずだろう。しかしただ触れ回るのみに留めたのはなぜだい?」

「っ……そ、れは」

「どうせ、清隆よりも尚人君の方を社長に据えた方が自分にとって都合が良いとでも思ったんだろう? 君は最初から乗り換える気だったね。たとえ尚人君自身に社の長に立つ気がなくとも、世間がカイズ・エリアル経営者の血縁を放っておくはずがないと思った。そうなれば企業イメージ回復のためにも、私達がある程度の収入が見込める職に彼を置くだろうと考えた。そして尚人君には「会長の息子」だとわかる前から好いていたとでも言うつもりだったか。中々策士なお嬢さんだ」

 唇をきつく噛み締めている兼崎さんは、荒井会長に凍り付くような視線で見据えられながら悔しそうに彼を見返している。

 一見すると可愛らしい女性にしか見えないのに、その度胸には心底驚いてしまう。

 あんな視線を向けられたら、私なら膝が震えて立っていられないだろう。

「図星のようだね。清隆、だからお前は見る目がないと言うんだ。若くて可愛らしい女性でも、中身が汚れている者は多くいる。社の上に立つ者ならばその程度は理解しておくべきだ。お前は、カイズ・エリアル社長には向いていないんだよ。お前は彼女に踊らされたんだ」

「そんな……」

 荒井会長が、憐れむような目を清隆社長に向けた。彼は愕然とした表情で兼崎さんを凝視している。彼女はその視線を避けるように目を逸らし、さきほどと同じように私を睨んでいた。

「結衣っ、本当なのかっ? 本当に僕から乗り換える気でいたのかっ!?」

 狼狽した清隆社長が兼崎さんのバッグを抱きかかえた両腕を掴んだ。揺さぶられた彼女の巻き髪が肩で大きく揺れる。彼女は迷惑そうに顔を顰めると、きっと清隆社長を睨み、怒りを露わにした。

「五月蝿いわねっ!! あたしはアンタみたいな野暮ったいぼんぼんに興味ないのよっ! 抱いたからって調子に乗らないで!! 何なのっ!? 何なのよみんなして! あたしは悪くないわ、本当の事を言っただけじゃないっ!」

「結衣っ!」

「触らないでよ! あたしは実力もないダサい男には興味ないの!! 安定してて、地位もあって、若い女を金で買ったりしない、他の女になんて目もくれないような、ちゃんとした男が好きなのっ! なのに、どうしてアンタなんかに……!」

「っ!」

 兼崎さんが清隆社長を振り払い、後ろに下がって距離を取った。彼女の髪は乱れ、顔は怒りに染まり紅潮し、荒い息で肩が上下している。

 これがあの普段は可愛らしい女性なのかと気迫に圧倒された。彼女が、アイラインのはっきり引かれた両目で私をぎろりと睨む。そして片手にバッグを下げたまま、足を踏み出し近づいた。

 濃くどろどろした沼のような感情が、彼女から漏れ出している。

「なんでよ……! 白沢さん、何で、貴女なの? 何で貴女が選ばれるの? ねえ今からでもいいから課長と別れてよ! だってあたし、もう嫌なのよ苦労するの。小さい頃からずっと貧乏だったわ。だけど若くて可愛ければ、みんな好きな物買ってくれた。たとえ身体と引き換えでも、好きな物を手にできた。だから自分を磨いたの! いつか女を金で買うような人じゃない、ちゃんとした男に惚れてもらえるように。なのに、若くもない、綺麗でもない貴女みたいな人がどうして、本庄課長みたいな人に……望まれるのよっ!?」

「結衣っ!」

「茜!」

 まるで、常温の水が突然沸点に達したような、そんな急激な変化だった。

 顔を般若のごとく歪めた兼崎さんが、手にしたバッグを振り上げる。清隆社長が彼女を呼ぶ。

 隣で課長の声がした。

 高級な革で出来ているらしい兼崎さんのバッグは、私ですら知っている有名ブランドの物だ。バックルの部分に金属があしらわれており、ブランド名のイニシャルが大きく象られている。

 その金属部分が私の顔に向けて振り下ろされていた。あれに当たれば怪我では済まないかもしれない。

 眼前に迫る金属が室内の光をきらりと反射するのを見ながら、私はそんな事を考えていた。
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