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―― 第二章 ―― 秋
【009】秋の訪れ
しおりを挟む秋が訪れた。遠目の山が、色づき始めたばかりだが、もう暫くすればこの後宮の楓や銀杏も色づくことだろう。まだ緑の楓のそばには、夏の名残の無花果がある。実が、彼落ちようとしている。
庭を愛でるように、泣きぼくろが妖艶な翠陽長公主は視線を向けている。片手には、黒塗りの酒盃を持っており、そこには金粉で瑞獣の一つ、朱雀が描かれている。隣に座り、求めに応じて雪玲は酒を注いでいた。本日の酒は北の酒だ。少し甘い。だが、強い。
「ねぇ、雪玲」
「はい」
「あなた、好きな殿方はいる?」
その問いかけに、雪玲は言葉に窮した。模範解答は決まっているのだ。
「私は誠心誠意長公主様にお仕えする身。この後宮を長公主様がお出になられるときにおいて行かれるのでなければ、後宮や外の世界で、いつもおそばに」
長公主は嫁入りが出来る。だが、皇帝の姉妹というのはなにかと金食い虫だと悪口を言われて、嫁入りが難航することが多い。それは翠陽公主も例に漏れず、もう三十路だ。だが、麗しいこの長公主には、嫁入りの誘いが、実は多い。本人が後宮の蠱毒の管理を楽しんでいるから、独身を貫いていまだ姫として過ごしているとも言える。ただ、本来それは皇后の役割だ。長公主は、それを呉貴妃に任せない。しかし呉貴妃もそれに異を唱えることはしない。
「そう。もしそのようにあなたが答えなかったのなら、私は茶席に貴方を座らせて、宋威が侍るよう命じる流れを作ったかも知れないわ」
「お戯れを」
「ええ、戯れよ。あなたをこの蠱毒に押し込めておくなんて、なんてもったいないことですか。雪玲は、きちんと恋をする権利があるわ」
「恋、ですか?」
「ええ」
しかし続いた長公主の言葉が漠然としていたものだから、雪玲は瞬きをした。
「長公主様は、私に恋をしろとお命じになっておられるのですか?」
「え? いえ、そんなことはないわ。あなたは本当に忠実ねぇ」
長公主は目を丸くした。
二人の前を赤い蜻蛉が飛ぶ。
「ただ思ったの。あなたの恋のお話を聞きたいなって。なにか、気になる男性はいないの?」
「そうですね……」
酒の肴の話を求められているのだろうと判断し、雪玲は思案する。
そして、ふと思い出した。
「小さい頃」
あれは天界に上がる前、まだ仙界にいた頃であるから、道士だっただろうか。母が仙女で父が緑の目をした人間だった雪玲は、一度の逢瀬で子が出来た者の、仙界へ戻った母に育てられ、生まれながらに道士、将来は仙女となるように育てられた。その山は崑崙山といった。天界にある玄都と関わりが深く、神仙として認められると、天界にて暮らす者が多かった。幼い頃から雪玲も神仙――天界の天女となるに相応しい、仙人の血筋の娘と期待されて育った。その頃から、霊獣のモッコはそばにいる。黒いもこもこした丸い小さきものだ。そのモッコが、滝上の岩に着地したまま、動けなくなってしまったことがあった。
『たすけて』
モッコが言った。急流の上で、十五歳になっていた雪玲は、片手で枝に掴まり、もう一方の手を伸ばした。ちょうど二次性徴が終わった頃だった。
「馬鹿!」
すると厳しい声が飛んできて、後ろから腕で抱えられた。力強い青年の胸板が、雪玲の背に当たる。青年は、もう一方の手でモッコを持ち上げると、はぁっと息をついた。
「なにをしているんだ、馬鹿か、貴様は?」
「あ、ありがとうございます……!」
今となっては、その相手の顔はおぼろげだ。服装も定かではない。
「必ずこのご恩はお返しします」
「――そうかよ。じゃ、将来は俺に使えてくれ」
「え? どこへいけば良いですか?」
「俺は天界にいる。玄都は、悪くない土地だ。なにせ、俺が作ったんだからな」
そんな会話をしたように思う。
その後雪玲とモッコを離すと、青年は雲に乗って消えてしまった。この日から、雪玲は天界にいくことを、周囲に期待されているからではなく、自分の望みとして定めた。そしてモッコと玄都の地を踏んだけれど――あれから三百年、いくつかの時代が終わってもいまだ、自分を助けてくれた青年が誰なのか分からないでいる。結局現在使えているのは、天帝だ。
「どうしたのじゃ? 雪玲」
「ええ……その、昔助けてくれた恩人がいるのです」
「ほう」
「顔も覚えておりませんが、気になると言えば、そうなるのかもしれないと」
雪玲が微笑すると、よいよいと笑って長公主が片手で扇を持ち風を送った。
「さて、そろそろ冷たい酒は止めるとしよう。雪玲、暖めてきてくれない?」
「畏まりました」
「この寒さ、明日は霜が降りるかも知れないわね」
くすりと笑った長公主に礼をして、雪玲は酒を温めに向かった。
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