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吉岡有隆

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第十六章 3月7日

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「あの後無事帰れました?」高倉は岡本に聞いてきた。高倉はどうやら何も知らないようだ。

「ああ、うん。無事帰れたよ。花見さんも」岡本はそう言ったが、気まずかった。高倉が花見を好きな事を知っているのに岡本は花見とあんな事になったのだ。岡本は高倉の顔を正面から見られなかった。

 高倉が出社してきた事で、岡本が集中出来ずに教科書を確認しているふりをしていると、高倉は涼しい顔をして横で自分のロッカーに荷物を片付け始めた。

 岡本は最近充実してきたプライベートが崩れ去る事が嫌だった。最近やっと付き合い始める事が出来た笠木とは、今朝から喧嘩をしていた。何故なら女性の匂いを漂わせて朝帰りをしたからだった。

 笠木と付き合う前に岡本が片思いをしていた相手には、ゲイである事をカミングアウトした結果疎遠になってしまった。勿論異性とは交際などした事がなかったので、花見とあんな状況になってしまった事が岡本には信じられなかった。

 岡本は高倉を見た。高倉は自分のように同性愛者という事で悩んだ事などないのだろうなと思った。

「岡本さん、顔色悪くないですか?大丈夫ですか?」高倉がロッカーを閉めて聞いてきた。

「大丈夫です」岡本は我に返ると自分の左腕につけていた腕時計を見た。もう授業が始まる五分前だった。

「岡本さん、昨日は本当にありがとうございました。今度お礼させてください」高倉は微笑みそう言うと、教科書を持ちロッカー室から出て行った。

 岡本も二日酔いで上手く働かない頭を無視し、教室に行くために立ち上がった。





「おかえりなさい」岡本が遅番勤務を終えて二十二時半に自宅に到着すると、居間のソファーに座った笠木が玄関に居る岡本を見て言った。

「ただいま。創也、家に居てくれてありがとう」岡本は靴を脱ぎ居間に入ると、笠木を見て言った。

「本当は漫画喫茶にでも泊まろうか悩んだよ。でもちゃんと話し合いがしたかったから」笠木は言った。

「創也、俺は本当に浮気はしてない。酔いつぶれて同僚の家に泊まらせてもらったんだよ。他にも人が居た。だから女性の匂いがしたのはその同僚の家の匂いで、俺は何もしてない」岡本は嘘を付くのが下手な自覚があったので、笠木の顔を見ずに鞄をソファーの横に置きながら言った。

「こんなものが岡本さんの服から出て来ても?」笠木は目の前のテーブルの上に置かれた、黒いカードのようなものとライターを指差して無表情で言った。

 岡本は意味が分からずその二つを見た。カードは一度濡れたものを乾かしたようで皺が寄っていたが、ホテルの名前が書いてあった。見るからにラブホテルのカードのようで、黒い背景にピンクの文字でホテル名が書いてあった。隣に置かれたライターにも同じホテル名が書いてあった。

「岡本さんの服を洗濯したら、出て来たんだよ」笠木は言った。

 岡本は混乱した。何故こんなものが服から出て来る。岡本はこれらを持ち帰った覚えはなかった。花見が嫌がらせに自分の服のポケットにでも入れたのだろうかと思考した。岡本は二日間同じ服を着て出社するのはまずいと思い、帰宅してすぐに着替えて洗濯機の中に脱いだ服を入れた事を後悔した。

「こんなもの俺は知らない」岡本は嘘と本心の狭間を漂った。

「じゃあ何でホテルのカードとライターが出てくるの?」笠木は静かな声で言ったが、声には怒りが感じられた。

「俺は…ごめん、創也に嫌われたくないから嘘を付いてた。ごめん。昨日飲み会で泥酔してしまって、起きたらホテルに居たんだ。それ以外覚えてなくて。でも俺はバイセクシャルじゃない。何もしてないはずなんだ。ホテルのカードとライターは、俺は持ち帰った覚えはないんだ」岡本は必死に言った。

「そのホテルに行った相手は女性だったの?」笠木は聞いてきた。

「うん」岡本は男と行ったと言うよりましだと思い白状した。

「その女性とは本当に何もないの?岡本さんは本当にバイセクシャルじゃないの?」笠木は再度聞いてきた。

「バイセクシャルじゃない。女性とは、何もしてないはずなんだ」岡本は言った。

「してないはずって?」笠木は怪訝な顔をしてこちらを見て聞いてきた。岡本は二人掛けのソファーで笠木の隣に座る事も憚られるので、立ったまま話をした。

「起きたら、裸だった」岡本は言った。嘘を付く事に罪悪感があるため、嘘を付けない自分を恨んだ。

 笠木は嘔吐くと口元を抑えトイレへ向かった。

「創也、本当に何もしてないはずなんだ。俺は女性が苦手だから。信じて」岡本は笠木を追いかけてトイレの前へ行くと、中に居る笠木に向かって言った。

 笠木はなかなか出て来なかった。トイレのドアノブを触ったが、内側から鍵を掛けられているようだった。笠木は何も喋ってくれない。

「女性と朝までホテルに一緒に居て、起きたら裸で何もなかったって?嘘も良いところだよ」笠木はしばらくすると喋った。声が震えていた。

「本当だよ、俺は何もしてない」岡本は泣きそうになりながらも言った。

「今日僕漫画喫茶に泊まるから。しばらくここに居たくない」笠木は静かに言った。

 岡本は何と答えたら良いのか分からなかった。

 岡本は花見にも「俺はゲイだから本当に何もしていないはずだ」とあの時ホテルで告白をしたが、状況的に信じて貰えなかった。警察に訴えられないだけましだと思っていた。

 岡本はホテルから帰宅して出勤後に職場で、鞄に入っていた手帳に挟んでいたボールペンがなくなっていた事に気付いた。居酒屋に行く前は確かに持っていたはずだった。居酒屋かホテルに忘れたのだろうかと岡本は不安になった。あのボールペンは岡本の大学卒業祝いに父親が購入してくれた品で、岡本にとって持ち歩いていると安心感を与えてくれるものだった。

 岡本はトイレから俯いて出て来た笠木の手を思わず掴んだが、笠木に「触らないで」と言われたのですぐに手を離した。笠木が外出の支度をしているのを、ただ横で見ている事しか出来なかった。
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