水縹の境

いわみね

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イブ前夜

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 例えば自分の価値がわからなくなるというのはどんな時だろう。

 考えたこともなかったことを、今さらながらに考える。

 そもそも、自分の価値を人は何でいつ計るのだろうか。
 俺はただ目の前で自分に価値がないと泣き崩れる、見ず知らずの人間を見下ろしながら考えた。

 街灯の明かりがわずかにしか届かない暗がりのなかで、男がうずくまって震える手が俺の脚をつかんで放さない。

 ◇

 2029年 12月23日 23時40分

 メディア戦略が功を奏したのか、世間は24日のクリスマスイブよりも早く、クリスマスの盛り上がりピークを迎え、23日の夜には祭りのムードは終焉を迎えつつあった。

 その日の忘年会の帰り道。

 ふとシュウイチの目がそちらに向いたのは、単なる偶然だ。
 揉めているような男女の人影。
 季節的にありそうでない現場に立ち会いそうになって、シュウイチが慌てて来た道を戻ろうとした。

「離しなさいよッ!このクズ!」
 バチーンッ

 派手な音がして、女性のものと思われる靴音が遠ざかっていく。残された男が街灯のそばで茫然自失の体で立っている。
 手には花束。

 (関わり合いになりたくないし、相手も気の毒だよな)

 シュウイチは見なかったことにして立ち去ろうとした。

 ──だが

「そこの人……きみ」

「え?」

「そう、そこのきみ」
 シュウイチが自分の周りを見回す。
 前にも背後にも、シュウイチと男以外に人は見当たらない。

「見てたよね。ずっと見てたよね。監視か?僕をバカにして!」
「なんのことですか!!」
 後ずさるシュウイチに男がツカツカと勢いよく近づいてきた。
「ほら!逃げようとする!自分が悪いことを自覚しているからだろう?!」

 男の言葉によって、シュウイチの思考が混乱で一瞬停止させられた。

 ──逃げたら追いかけてくる。

 シュウイチの思考がそう結論したが、ではどうすれば良いのか思い浮かばないでいるうちに、男の両手がシュウイチの胸ぐらの衣服をぐいと引っ張った。

「お前!お前が言ったんだ」
「……え?」
「クズと言った!無能とも言ったな!嗤ったんだ!あの時もそうだ!いつもいつもバカにしてたのはお前だったんだ」

「俺じゃない!」

 ──男の記憶の混乱を整理させなければならない。

 (じゃなきゃこの人の中で俺は悪人にされてしまう)

 胸ぐらを掴まれたままでシュウイチは言った。
「馬鹿になんてしていませんよ。するはずがないじゃないですか」
 男は手を離さないが、シュウイチの顔を見る表情に変化が起きるのを、シュウイチは見逃さなかった。

 声が聞こえないほどわけが解らないわけじゃない。

「本当に……?」
 男の小さな声に確信を持つ。
 刺激しないよう、シュウイチは可能な限り優しく続けた。
「当たり前じゃないですか。」
 わずかな明るさで見える男の表情が緩む。
「よく思い出してください。俺と貴方が話したのは今日がはじめてで、俺は貴方を知りませんから、馬鹿にしようがないんです」
 シュウイチの言葉に男が苦しそうな表情になった。
 胸ぐらを掴む手に力が込められ、説得の失敗を予感する。
 シュウイチの鼓動が速まる。
 この男が万が一にもナイフを隠し持っていたら……。
 脳内に聞こえた自分の声が、ドクドクと響く心臓の音にかき消されそうだとシュウイチは思った。

「じゃあ!じゃあ悪いのは誰だ!僕をこんな風に陥れたのは誰だ!」
 その問いにシュウイチが応えられるはずもなく、冷たい沈黙が支配し、互いの白い息が吐き出された。
 男の視線が揺れる。
 男の質の良いスーツの裾から、高級ブランドの時計が覗いている。
「じゃあ……僕はなんだ……僕は。僕の価値ってなに?」

 いつの間にか地面に落とされ、自身が踏みつけた花束に男の視線が移った。

 胸ぐらから手をはずされ、その場に崩れ落ちた男を置いて立ち去ろうとしたシュウイチの脚を、ガッと男が掴んだ。
 少し離れた戸建ての生け垣のイルミネーションの明かりが、目に映る。
 うずくまったまま、さらにもう片方の腕が絡み付いた。

「ちょっと……」
 (ウソだろ……警察を呼んだ方がいいのか……誰か)

 冬の冷たく暗い闇があたりを支配し、呼吸が痛い。

 脚をつかんだまま泣きはじめた男の手を、シュウイチの脚は振りほどけない。


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