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212年
大人とは
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ときおり冷たい風が空気を切り裂くようになった。
秋の気配は、羊たちの肉付きからも察することができた。冬に向けて、少しずつ脂肪を蓄えだしている。
并州五原郡の秋は短い。暑気が緩んだと思ったら、あっという間に凍てつき始める。牧羊を生業としている魏続にとって、秋は特に忙しい季節だった。羊が交配期を迎えるからだ。雌羊をひたすらにひっくり返して、下腹部の毛を刈っておく。そうしておくと交尾が上手くいくようなのだ。
十匹から始めた牧場に、今や百匹を超える羊がいた。適齢期の雌羊だけでも四十は下らない。おととしから次男の俊が牧場仕事を手伝うようになった。それで魏続の負担はだいぶやわらいだ。しかし、このあたりが限界だろうと魏続は思っていた。来年はかなりの数を間引いたほうがいい。
人手は、金を出せば集まるだろう。だが、草は金を出しても生えてはこない。これ以上羊が増えれば、一所に留まって飼うのは難しい。草を根絶やしてしまうと牧羊は立ち行かなくなる。
本当は遊牧したかった。草を求めて、肥沃な土地を渡り歩く。そんな生活に魏続は憧れている。しかし、その願望を妻に伝えたことはない。かつての都、雒陽で生まれ育った妻にそうした生活は難しいだろうと思った。魏続の故郷である并州くんだりまで付いてきてくれただけでも感謝すべきだ。ここでの暮らしは中原のものと違って、不便が多い。食習慣も異なっているし、華やかさもない。不満はあるだろうに、妻は魏続の前でそんな素振りを見せたことがない。
やはりしっかりと間引こう。八十匹くらいがおそらく丁度いい数だ。潰した羊の肉は、その都度市場で売る。多少の値崩れを招こうとそれなりにまとまった金が手に入るはずだ。そしたら、妻に耳飾りのひとつでも買ってやることができる。
「父上、早く!」
息子の俊が真っ赤な顔をして、雌羊をひっくり返して組み伏せていた。
羊はだいたい、仰向けにされるとおとなしくなるものだが、十歳をふたつ過ぎたばかりの俊が相手とあってか、羊も身を捩って抵抗を試みていた。
「おう! 離すなよ。しっかり捕まえていろ」
魏続は小刀を抜き、羊を怯えさせないようにそっと近づいた。下腹部の毛を摘むと、羊は従順になった。素早く刃を引いて、毛を刈った。
「もういいぞ」
俊が羊を起こしてやると、羊は逃げるように魏続たちから離れていった。
「よし次だ!」
すぐに俊は別の雌羊を追いかけ回し、魏続は目を細めて、その様子を見守った。
こうした暮らしが向いているのだ。しみじみと魏続は思った。
魏続は小さな豪族の家に生まれた。土地柄、幼い頃から武技を仕込まれた。并州は、昔から鮮卑や南匈奴という異民族の脅威に晒されてきた地だ。中でも五原郡は鮮卑の領土に接した辺境にあたる。十にも満たぬ歳から背丈に近い長さの剣を振り、手にまめを作って修練に励む少年期を魏続は過ごした。
十六歳のとき、鮮卑の騎馬団が五原郡を侵し、魏続は初陣を迎えた。族父の号令で馬を駆った。恐怖と昂揚に震えながら、鮮卑の騎馬兵に突っ込んだ。剣や甲冑が修練のときよりも重く感じることに戸惑いながらも、鮮卑の兵に遅れをとることはなかった。三人は屠ったと思う。
しかし、魏続は初陣で打ちのめされた。自らの武技の才能に限界を感じたのだ。
戦況が魏続の一族方の優勢に傾き、鮮卑の兵が逃走をはじめて、勝利が見えかけたとき、側面に新手が現れた。族父が慌てて、隊伍を組むように命じた。新手の兵数は見るからに魏続たちよりも多かった。
鮮卑の騎兵は、鼻息荒く興奮している馬をときおり棹立ちにして嘶かせ、魏続たちを威嚇した。
一族のひとりが族父に、敗残兵の救出が目的だろうから敢えてぶつかることはないと進言した。族父が手をあげ、退却の合図を出そうとしたとき、背後から馬蹄が響いた。振り返る間もなく、馬蹄は魏続たちを抜き去った。
烟る後塵の中から現れたのは、呂氏の一団だった。呂氏は、魏続の一族とは同盟関係にある豪族だった。双方が娘を嫁がせ合うなどして、血の繋がりも強かった。
魏続の目は、一際大きな呂氏の武者に釘付けになった。その武者は、集団の中にあっても頭一つ抜き出ていて目立っていた。戟を振り回して、次から次へと鮮卑の兵を討ち取っていた。惚れ惚れする強さだった。野蛮な鮮卑の兵が為す術もなく馬から突き落とされていくのに、魏続は目を奪われ、そして絶望した。
兄である越との間にあるものは、歳の差だと思っていた。歳を重ね、場数を踏めば、兄と同等かそれ以上の強さを身に付けられると信じられた。しかし呂氏の武者の武技は、いくらの歳月を過ごしたところで、たどり着ける境地にあるものだとは思えなかった。
魏続らが呂氏に加勢すると、鮮卑の兵は散り散りになって北へと還っていった。呂氏のおかげで、魏続の初陣は無事に勝利で飾ることができた。族父に連れられ、呂氏に礼を述べに行き、そして魏続は、例の武者の名を知った。呂布奉先という名だった。呂布は大きな目を細め、「おめでとう」と慶んでから、にっと人懐っこい笑みを魏続によこした。
二十三、四歳であった頃の呂布の溌剌とした言祝ぎは、三十年経った今でも魏続の耳に残っている。あのときの呂布の声音を思い出すと、自然と胸は高鳴った。そして、少し遅れて寂しさがやってくる。
初陣で呂布の戦う様を見たせいで、魏続の武技は駄目になった。思うように剣を揮えたのは、初陣だけだった。それ以降は、呂布の戟捌きが脳裏に焼き付いてしまって、身の丈にあった振りができなくなった。身体なのか、心なのか――あるいはその両方がか、呂布のような豪快な振りを欲するようになったのだ。そのせいで何度か危ない目に遭った。このままではいつか命を落とすと思い、二十歳になったくらいの頃に魏続は長ものを捨てた。剣身の長くないものを得物に選んだことで、大振りをすることはなくなった。命を拾って、強さを捨てたようなものだった。短い得物では体重がのらないのだ。武というものを諦めたときだった。しかし、今も生きていることを考えれば、判断は間違いではなかったのだろう。
武を諦めたかわりに、魏続は馬術を極めようと思った。武器を扱うことにおいては、呂布に肩を並べることは無理であっても、馬だけに関しては、追いつけるような気がした。幼い頃から乗馬が好きだった。とっくの昔に兄との差は埋めてしまっていた。むしろ、魏続のほうが巧みだった。馬と語らうのが好きだった。
きっと馬だけでなく動物と語らうのが好きなのだ。だから羊を飼っている。そうした暮らしが魏続には向いている。
日が暮れかかり、俊を連れて家に戻ると、長男の倫が妻の助けを借りて、真新しい服を試着していた。
「そうか。出仕は明日からだったな」
倫は、昔日に魏続や呂布の一族が担ってきたように、国境付近を警邏し、鮮卑の侵入に備えていた。魏一族や呂一族などの豪族が幅を利かせていた頃とは時代が違ってしまっている。倫の組織する自警団も親類縁者の集まりではなく、倫の学友や遊興仲間で構成されていた。規模こそ五十人にも満たない小さな集団ではあったが、その働きが太守の耳に届き、晴れて五原郡の正規の隊として召し抱えられることになった。
俊と違い、倫は魏続が呂布軍の将として兵を率いていた頃に生まれた子供だ。戦がどういったものであるかは知っている。敗戦濃厚な状況の中、水攻めにあった城内で震えていた子供だった。あのとき、倫は四歳か五歳か、そのくらいだったろう。記憶にはしっかりと刻まれているはずだ。なのに、恐怖を知りつつ、戦いの中に身を置くことを選んでいる。
しかし、物心がつく頃であったからこそ、倫はそうした生き方を選んだのかもしれない。得物に倫は、戟を選んだ。きっと、倫の脳裏にも呂布の勇姿が焼き付いたままでいるのだ。
「俊、父上と母上のことを頼むぞ」
倫の言葉に、俊は大きく頷いた。
倫は、城下に住まうことになる。次に会う頃には、今はまばらな髭もしっかりと蓄えられているのだろう。
「もう子供のような気分ではいられないぞ」
「もとよりそのつもりです」
「だがいいか、倫。決して大人にはなるな」
倫は少し首を傾げ、魏続の言葉の意味を解そうとしたようだが、答えにはたどり着けなかった。
「大人とはなんですか?」
「大人とは――」結局のところ、魏続にもわからない。「なんなのだろうな」
結果的に呂布を裏切ることになった、あの日、「呂布殿は大人になれなかったのさ」と僚将の宋憲は吐き捨てた。
そう口にした宋憲は大人だったのだろうし、それを聞かされた魏続もまた大人だったのだろう。しかし大人とはなんであるのか、魏続には今もわからない。けれど、大人という言葉には、どこか後悔に似た苦さが混じる。
大人とはなんなのだろうか。
秋の気配は、羊たちの肉付きからも察することができた。冬に向けて、少しずつ脂肪を蓄えだしている。
并州五原郡の秋は短い。暑気が緩んだと思ったら、あっという間に凍てつき始める。牧羊を生業としている魏続にとって、秋は特に忙しい季節だった。羊が交配期を迎えるからだ。雌羊をひたすらにひっくり返して、下腹部の毛を刈っておく。そうしておくと交尾が上手くいくようなのだ。
十匹から始めた牧場に、今や百匹を超える羊がいた。適齢期の雌羊だけでも四十は下らない。おととしから次男の俊が牧場仕事を手伝うようになった。それで魏続の負担はだいぶやわらいだ。しかし、このあたりが限界だろうと魏続は思っていた。来年はかなりの数を間引いたほうがいい。
人手は、金を出せば集まるだろう。だが、草は金を出しても生えてはこない。これ以上羊が増えれば、一所に留まって飼うのは難しい。草を根絶やしてしまうと牧羊は立ち行かなくなる。
本当は遊牧したかった。草を求めて、肥沃な土地を渡り歩く。そんな生活に魏続は憧れている。しかし、その願望を妻に伝えたことはない。かつての都、雒陽で生まれ育った妻にそうした生活は難しいだろうと思った。魏続の故郷である并州くんだりまで付いてきてくれただけでも感謝すべきだ。ここでの暮らしは中原のものと違って、不便が多い。食習慣も異なっているし、華やかさもない。不満はあるだろうに、妻は魏続の前でそんな素振りを見せたことがない。
やはりしっかりと間引こう。八十匹くらいがおそらく丁度いい数だ。潰した羊の肉は、その都度市場で売る。多少の値崩れを招こうとそれなりにまとまった金が手に入るはずだ。そしたら、妻に耳飾りのひとつでも買ってやることができる。
「父上、早く!」
息子の俊が真っ赤な顔をして、雌羊をひっくり返して組み伏せていた。
羊はだいたい、仰向けにされるとおとなしくなるものだが、十歳をふたつ過ぎたばかりの俊が相手とあってか、羊も身を捩って抵抗を試みていた。
「おう! 離すなよ。しっかり捕まえていろ」
魏続は小刀を抜き、羊を怯えさせないようにそっと近づいた。下腹部の毛を摘むと、羊は従順になった。素早く刃を引いて、毛を刈った。
「もういいぞ」
俊が羊を起こしてやると、羊は逃げるように魏続たちから離れていった。
「よし次だ!」
すぐに俊は別の雌羊を追いかけ回し、魏続は目を細めて、その様子を見守った。
こうした暮らしが向いているのだ。しみじみと魏続は思った。
魏続は小さな豪族の家に生まれた。土地柄、幼い頃から武技を仕込まれた。并州は、昔から鮮卑や南匈奴という異民族の脅威に晒されてきた地だ。中でも五原郡は鮮卑の領土に接した辺境にあたる。十にも満たぬ歳から背丈に近い長さの剣を振り、手にまめを作って修練に励む少年期を魏続は過ごした。
十六歳のとき、鮮卑の騎馬団が五原郡を侵し、魏続は初陣を迎えた。族父の号令で馬を駆った。恐怖と昂揚に震えながら、鮮卑の騎馬兵に突っ込んだ。剣や甲冑が修練のときよりも重く感じることに戸惑いながらも、鮮卑の兵に遅れをとることはなかった。三人は屠ったと思う。
しかし、魏続は初陣で打ちのめされた。自らの武技の才能に限界を感じたのだ。
戦況が魏続の一族方の優勢に傾き、鮮卑の兵が逃走をはじめて、勝利が見えかけたとき、側面に新手が現れた。族父が慌てて、隊伍を組むように命じた。新手の兵数は見るからに魏続たちよりも多かった。
鮮卑の騎兵は、鼻息荒く興奮している馬をときおり棹立ちにして嘶かせ、魏続たちを威嚇した。
一族のひとりが族父に、敗残兵の救出が目的だろうから敢えてぶつかることはないと進言した。族父が手をあげ、退却の合図を出そうとしたとき、背後から馬蹄が響いた。振り返る間もなく、馬蹄は魏続たちを抜き去った。
烟る後塵の中から現れたのは、呂氏の一団だった。呂氏は、魏続の一族とは同盟関係にある豪族だった。双方が娘を嫁がせ合うなどして、血の繋がりも強かった。
魏続の目は、一際大きな呂氏の武者に釘付けになった。その武者は、集団の中にあっても頭一つ抜き出ていて目立っていた。戟を振り回して、次から次へと鮮卑の兵を討ち取っていた。惚れ惚れする強さだった。野蛮な鮮卑の兵が為す術もなく馬から突き落とされていくのに、魏続は目を奪われ、そして絶望した。
兄である越との間にあるものは、歳の差だと思っていた。歳を重ね、場数を踏めば、兄と同等かそれ以上の強さを身に付けられると信じられた。しかし呂氏の武者の武技は、いくらの歳月を過ごしたところで、たどり着ける境地にあるものだとは思えなかった。
魏続らが呂氏に加勢すると、鮮卑の兵は散り散りになって北へと還っていった。呂氏のおかげで、魏続の初陣は無事に勝利で飾ることができた。族父に連れられ、呂氏に礼を述べに行き、そして魏続は、例の武者の名を知った。呂布奉先という名だった。呂布は大きな目を細め、「おめでとう」と慶んでから、にっと人懐っこい笑みを魏続によこした。
二十三、四歳であった頃の呂布の溌剌とした言祝ぎは、三十年経った今でも魏続の耳に残っている。あのときの呂布の声音を思い出すと、自然と胸は高鳴った。そして、少し遅れて寂しさがやってくる。
初陣で呂布の戦う様を見たせいで、魏続の武技は駄目になった。思うように剣を揮えたのは、初陣だけだった。それ以降は、呂布の戟捌きが脳裏に焼き付いてしまって、身の丈にあった振りができなくなった。身体なのか、心なのか――あるいはその両方がか、呂布のような豪快な振りを欲するようになったのだ。そのせいで何度か危ない目に遭った。このままではいつか命を落とすと思い、二十歳になったくらいの頃に魏続は長ものを捨てた。剣身の長くないものを得物に選んだことで、大振りをすることはなくなった。命を拾って、強さを捨てたようなものだった。短い得物では体重がのらないのだ。武というものを諦めたときだった。しかし、今も生きていることを考えれば、判断は間違いではなかったのだろう。
武を諦めたかわりに、魏続は馬術を極めようと思った。武器を扱うことにおいては、呂布に肩を並べることは無理であっても、馬だけに関しては、追いつけるような気がした。幼い頃から乗馬が好きだった。とっくの昔に兄との差は埋めてしまっていた。むしろ、魏続のほうが巧みだった。馬と語らうのが好きだった。
きっと馬だけでなく動物と語らうのが好きなのだ。だから羊を飼っている。そうした暮らしが魏続には向いている。
日が暮れかかり、俊を連れて家に戻ると、長男の倫が妻の助けを借りて、真新しい服を試着していた。
「そうか。出仕は明日からだったな」
倫は、昔日に魏続や呂布の一族が担ってきたように、国境付近を警邏し、鮮卑の侵入に備えていた。魏一族や呂一族などの豪族が幅を利かせていた頃とは時代が違ってしまっている。倫の組織する自警団も親類縁者の集まりではなく、倫の学友や遊興仲間で構成されていた。規模こそ五十人にも満たない小さな集団ではあったが、その働きが太守の耳に届き、晴れて五原郡の正規の隊として召し抱えられることになった。
俊と違い、倫は魏続が呂布軍の将として兵を率いていた頃に生まれた子供だ。戦がどういったものであるかは知っている。敗戦濃厚な状況の中、水攻めにあった城内で震えていた子供だった。あのとき、倫は四歳か五歳か、そのくらいだったろう。記憶にはしっかりと刻まれているはずだ。なのに、恐怖を知りつつ、戦いの中に身を置くことを選んでいる。
しかし、物心がつく頃であったからこそ、倫はそうした生き方を選んだのかもしれない。得物に倫は、戟を選んだ。きっと、倫の脳裏にも呂布の勇姿が焼き付いたままでいるのだ。
「俊、父上と母上のことを頼むぞ」
倫の言葉に、俊は大きく頷いた。
倫は、城下に住まうことになる。次に会う頃には、今はまばらな髭もしっかりと蓄えられているのだろう。
「もう子供のような気分ではいられないぞ」
「もとよりそのつもりです」
「だがいいか、倫。決して大人にはなるな」
倫は少し首を傾げ、魏続の言葉の意味を解そうとしたようだが、答えにはたどり着けなかった。
「大人とはなんですか?」
「大人とは――」結局のところ、魏続にもわからない。「なんなのだろうな」
結果的に呂布を裏切ることになった、あの日、「呂布殿は大人になれなかったのさ」と僚将の宋憲は吐き捨てた。
そう口にした宋憲は大人だったのだろうし、それを聞かされた魏続もまた大人だったのだろう。しかし大人とはなんであるのか、魏続には今もわからない。けれど、大人という言葉には、どこか後悔に似た苦さが混じる。
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