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189年
孟津の異変
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司隸河内郡に入ると、木々の葉の色が明らかに変わった。日照時間が長いためだろうか、并州のものに比べると、葉は淡く鮮やかで陽の光を透かしている。それを見て、成廉はついに并州を出たと実感した。
戦地に赴くのではないから、行軍はのどかなものだった。兵たちの表情は弛緩していて、談笑しながら歩を進めている。最初は遠慮がちにひそひそと話していたものが、司隸に入った今ではもうはっきりと成廉の耳に届くまでの声量になっている。しかし、そのことを成廉は口うるさく叱ったりはしなかった。上洛に浮き立つ兵の気持ちはよくわかった。成廉自身もどこかふわふわとした気分で馬上にいた。
小休止の際に呂布らと寄って、状況を報告し合ったが、どこの隊も同じ様子であるらしい。相談して、規律を引き締めるのは、黄河を渡ってからにすると決めた。
孟津に至り、成廉は黄河が広大な河川であることを思い知らされた。黄河は、并州にも走っているが、川幅はもっと狭かった。孟津には、あらかじめ渡船を多めに手配しておいたにも関わらず、これでもかと言うほどに往復を余儀なくされた。
渡河は、成廉と呂布の部隊から同時に始めたが、渡り終えるのは、規模の小さな成廉の隊のほうが早かった。先行して進軍し、野営に適した地を探した。
丁原率いる最後尾の部隊が渡河を完了したとの報告を、成廉は薄闇の中で聞いた。すでに成廉の部隊は、幕舎の設営を終え、食事も済ませていた。あとは丁原の到着を待って、明日の雒陽入城について打ち合わせるだけだった。
幕舎の中で、独りあくびを噛み殺していると、外で「なんだ、あれは?」と誰かが叫ぶのが聞こえた。喧騒が大きくなり、ただ事ではないことを悟り、慌てて幕舎を出た。
成廉は、目を疑った。
炎が天を焦がしていたのだ。
それも孟津の方角だった。
丁原の部隊は、まだ野営地に到着していない。先程、渡河を終えたとの報告を受けたばかりだ。丁原の部隊が何者かの襲撃を受けたのか。いやしかし、襲うのであれば、渡り終えるまで待ったりはしないだろう。渡河の途中、兵を分断させたまま襲ったほうが、容易に戦果をあげることができる。
何が起きているのか、考えたところでわかることではなかった。
成廉は、騎兵を召集した。まずは事態の把握が重要だった。歩兵は誰かの指揮下に預け置いたほうがいい。預けるのであれば、呂布か。
成廉は、呂布の隊の幕舎へと馬を走らせた。
呂布の元には、魏兄弟も来ていた。
「孟津のほうか? 一体、何が起きているんだ」
「わからん」
魏越の問いに、成廉は首を横に振った。
「俺は騎兵を連れて様子を見に行こうと思う。ひとまず、歩兵は呂布殿に預けたい」
「いや、俺も行こう」
呂布は脇に控えていた、まだ二十歳になったばかりの副隊長にすぐさま指示を出した。
「張遼、いつでも動けるように隊をまとめておけ」
「ならば、成廉の歩兵は俺が預かろう」
成廉は、魏越に向かって頷いた。
「魏越」呂布が言った。「魏続の部隊もだ。状況を把握したら、魏続を走らせる。他のものをやるよりもそれが早い。魏続が戻ったときにすぐ動けるようにしておいてやってくれ」
「承知した」
呂布と魏続、それに成廉の隊の騎兵が百。心許ない数だった。丁原の部隊は四千人からなる。その部隊が襲われたのだとしたら、敵の数は数千人規模である可能性が高い。丁原の部隊がすでに劣勢に回っていると想定したら、いかに呂布の武勇が図抜けていようと百の援兵で戦局を覆すのは難しい。すみやかに事態を把握して、魏続を走らせるのが肝要だった。
近づくにつれ、炎上しているのがまさに孟津であることがわかった。
上洛に浮かれすぎていたことへの後悔が冷や汗となって、額に浮んだ。
孟津は渡し場といえど、都に近いこともあってか、ちょっとした規模の町になっている。その町が燃えていた。炎が、逃げ惑う孟津の人々を照らしている。
「構えろ! 突っ込むぞ」
呂布の号令に、成廉は脇に槍を構えた。
そのまま、馬を襲歩させる。馬が大地を蹴る振動が、その背を伝って全身に響く。焼け焦げた臭いが強くなった。
「止まれ!」
町並みに足を踏み入れたところで、呂布が叫んだ。
成廉の馬もどの馬も突如引かれた手綱に驚いて、棹立ちになった。
「なんだ? これは」
成廉は、思わず吐き捨てた。
狼藉を働いているのは、丁原軍の軍装をした者たちだった。
続けて、魏続も「味方なのか」と戸惑っている。
やがて成廉の目が丁原の姿を捉えた。
馬上にあって、兵に指示を出している。
「世直しのためだ。躊躇うな! 都からも見えるようにもっともっと燃やせ!」
焼け出された孟津の人々が着の身着のままで逃げ惑っている。そうした人々を丁原の兵が追いかけて、斬り伏せていた。
「殿!」
呂布の声に、丁原は悪びれもせずに応じた。
「おう、呂布か。何か異変でも生じたか?」
「異変など。孟津が燃えていること以上の事態は何も起きておりませぬ」
怒りからなのか、当てこするような呂布の物言いは抑揚がなかった。
「これは大将軍からの密命なのだ。賊が孟津を襲っている」
大将軍何進に、賊を装って襲うように命じられたということか。
「世直しのためと申されましたか。無辜の民を襲って、なにが世直しでございましょう」
「儂とて納得はしておらん。しかし、必要なことなのだ」
「魏続!」
魏続のほうを振り返った呂布の顔には、炎によって不穏な影ができていた。
「一足先に戻って、魏越らに警戒を解くよう伝えてやれ」
「御免」
馬首を返し、魏続は逃げるように野営地へ戻っていった。
「呂布殿」
成廉が引き上げを促そうとした瞬間、何かが視界の端に映った。
「お助けください。どうかお助けください」
気づけば、男が呂布の騎馬の前で平伏していた。その横には、妻であろう女が、泣く娘の口を塞ぎ、跪いている。燃え盛る建物の脇に潜んでいたが、耐えきれずに飛び出しのだろう。あるいは、丁原と対峙している呂布を救いの主と見たのかもしれない。
「呂布! これは賊の仕業なのだ。儂らが手を下したと知られてはならんのだ」
暗に殺すよう命じている丁原の言葉に、呂布は煩悶するように俯き、それから天を仰いだ。
男は、呂布は頼りにならないと見限ってか、弾けるように今度は丁原の前へ進み出た。女と娘もそれに従って、今は丁原のほうにいる。
「お願いします。どうか、どうか」
「許せ。そなたらの犠牲は決して無駄にはせぬ」
そう言い放ってから、丁原は男の胸に剣を突き立てた。抜きざまに払って、女も斬り捨て、そして残されて泣き叫ぶ女児の首を、丁原はすくい上げるように刎ね飛ばした。胴から離れた女児の首は、勢いよく呂布の騎馬の足許まで転がった。
「もう行きましょう」
成廉は言ったが、呂布は下馬した。
呂布は屈んで、女児の首を拾った。それから何か呟いたようだが、人々の悲鳴と家々が焼けて爆ぜる音に阻まれて、その言葉は成廉の耳までは届かなかった。呂布は、女児の両瞼を指で撫で閉じてやり、両親と胴体のあるところまでゆっくりと歩いた。地に伏した胴体に首を添え置き、呂布は馬上の丁原を見上げた。二人は、しばらく睨み合うように顔を向かい合わせていた。
呂布も丁原も何も言葉は発しなかった。
やがて、「引き上げるぞ!」と呂布が成廉らにそう号令したことで、二人の睨み合いは終わった。
呂布は丁原に辞さなかった。馬に飛び乗り、振り返りもせずにさっさと駆け始めた呂布を、成廉は慌てて追った。
帰路、誰も口を開かなかった。
野営地で出迎えた、魏越らも何も言わなかった。言えなかったのだろう。少しの間、それぞれに顔を見合わせて、それからお互いの幕舎へと戻った。
戦地に赴くのではないから、行軍はのどかなものだった。兵たちの表情は弛緩していて、談笑しながら歩を進めている。最初は遠慮がちにひそひそと話していたものが、司隸に入った今ではもうはっきりと成廉の耳に届くまでの声量になっている。しかし、そのことを成廉は口うるさく叱ったりはしなかった。上洛に浮き立つ兵の気持ちはよくわかった。成廉自身もどこかふわふわとした気分で馬上にいた。
小休止の際に呂布らと寄って、状況を報告し合ったが、どこの隊も同じ様子であるらしい。相談して、規律を引き締めるのは、黄河を渡ってからにすると決めた。
孟津に至り、成廉は黄河が広大な河川であることを思い知らされた。黄河は、并州にも走っているが、川幅はもっと狭かった。孟津には、あらかじめ渡船を多めに手配しておいたにも関わらず、これでもかと言うほどに往復を余儀なくされた。
渡河は、成廉と呂布の部隊から同時に始めたが、渡り終えるのは、規模の小さな成廉の隊のほうが早かった。先行して進軍し、野営に適した地を探した。
丁原率いる最後尾の部隊が渡河を完了したとの報告を、成廉は薄闇の中で聞いた。すでに成廉の部隊は、幕舎の設営を終え、食事も済ませていた。あとは丁原の到着を待って、明日の雒陽入城について打ち合わせるだけだった。
幕舎の中で、独りあくびを噛み殺していると、外で「なんだ、あれは?」と誰かが叫ぶのが聞こえた。喧騒が大きくなり、ただ事ではないことを悟り、慌てて幕舎を出た。
成廉は、目を疑った。
炎が天を焦がしていたのだ。
それも孟津の方角だった。
丁原の部隊は、まだ野営地に到着していない。先程、渡河を終えたとの報告を受けたばかりだ。丁原の部隊が何者かの襲撃を受けたのか。いやしかし、襲うのであれば、渡り終えるまで待ったりはしないだろう。渡河の途中、兵を分断させたまま襲ったほうが、容易に戦果をあげることができる。
何が起きているのか、考えたところでわかることではなかった。
成廉は、騎兵を召集した。まずは事態の把握が重要だった。歩兵は誰かの指揮下に預け置いたほうがいい。預けるのであれば、呂布か。
成廉は、呂布の隊の幕舎へと馬を走らせた。
呂布の元には、魏兄弟も来ていた。
「孟津のほうか? 一体、何が起きているんだ」
「わからん」
魏越の問いに、成廉は首を横に振った。
「俺は騎兵を連れて様子を見に行こうと思う。ひとまず、歩兵は呂布殿に預けたい」
「いや、俺も行こう」
呂布は脇に控えていた、まだ二十歳になったばかりの副隊長にすぐさま指示を出した。
「張遼、いつでも動けるように隊をまとめておけ」
「ならば、成廉の歩兵は俺が預かろう」
成廉は、魏越に向かって頷いた。
「魏越」呂布が言った。「魏続の部隊もだ。状況を把握したら、魏続を走らせる。他のものをやるよりもそれが早い。魏続が戻ったときにすぐ動けるようにしておいてやってくれ」
「承知した」
呂布と魏続、それに成廉の隊の騎兵が百。心許ない数だった。丁原の部隊は四千人からなる。その部隊が襲われたのだとしたら、敵の数は数千人規模である可能性が高い。丁原の部隊がすでに劣勢に回っていると想定したら、いかに呂布の武勇が図抜けていようと百の援兵で戦局を覆すのは難しい。すみやかに事態を把握して、魏続を走らせるのが肝要だった。
近づくにつれ、炎上しているのがまさに孟津であることがわかった。
上洛に浮かれすぎていたことへの後悔が冷や汗となって、額に浮んだ。
孟津は渡し場といえど、都に近いこともあってか、ちょっとした規模の町になっている。その町が燃えていた。炎が、逃げ惑う孟津の人々を照らしている。
「構えろ! 突っ込むぞ」
呂布の号令に、成廉は脇に槍を構えた。
そのまま、馬を襲歩させる。馬が大地を蹴る振動が、その背を伝って全身に響く。焼け焦げた臭いが強くなった。
「止まれ!」
町並みに足を踏み入れたところで、呂布が叫んだ。
成廉の馬もどの馬も突如引かれた手綱に驚いて、棹立ちになった。
「なんだ? これは」
成廉は、思わず吐き捨てた。
狼藉を働いているのは、丁原軍の軍装をした者たちだった。
続けて、魏続も「味方なのか」と戸惑っている。
やがて成廉の目が丁原の姿を捉えた。
馬上にあって、兵に指示を出している。
「世直しのためだ。躊躇うな! 都からも見えるようにもっともっと燃やせ!」
焼け出された孟津の人々が着の身着のままで逃げ惑っている。そうした人々を丁原の兵が追いかけて、斬り伏せていた。
「殿!」
呂布の声に、丁原は悪びれもせずに応じた。
「おう、呂布か。何か異変でも生じたか?」
「異変など。孟津が燃えていること以上の事態は何も起きておりませぬ」
怒りからなのか、当てこするような呂布の物言いは抑揚がなかった。
「これは大将軍からの密命なのだ。賊が孟津を襲っている」
大将軍何進に、賊を装って襲うように命じられたということか。
「世直しのためと申されましたか。無辜の民を襲って、なにが世直しでございましょう」
「儂とて納得はしておらん。しかし、必要なことなのだ」
「魏続!」
魏続のほうを振り返った呂布の顔には、炎によって不穏な影ができていた。
「一足先に戻って、魏越らに警戒を解くよう伝えてやれ」
「御免」
馬首を返し、魏続は逃げるように野営地へ戻っていった。
「呂布殿」
成廉が引き上げを促そうとした瞬間、何かが視界の端に映った。
「お助けください。どうかお助けください」
気づけば、男が呂布の騎馬の前で平伏していた。その横には、妻であろう女が、泣く娘の口を塞ぎ、跪いている。燃え盛る建物の脇に潜んでいたが、耐えきれずに飛び出しのだろう。あるいは、丁原と対峙している呂布を救いの主と見たのかもしれない。
「呂布! これは賊の仕業なのだ。儂らが手を下したと知られてはならんのだ」
暗に殺すよう命じている丁原の言葉に、呂布は煩悶するように俯き、それから天を仰いだ。
男は、呂布は頼りにならないと見限ってか、弾けるように今度は丁原の前へ進み出た。女と娘もそれに従って、今は丁原のほうにいる。
「お願いします。どうか、どうか」
「許せ。そなたらの犠牲は決して無駄にはせぬ」
そう言い放ってから、丁原は男の胸に剣を突き立てた。抜きざまに払って、女も斬り捨て、そして残されて泣き叫ぶ女児の首を、丁原はすくい上げるように刎ね飛ばした。胴から離れた女児の首は、勢いよく呂布の騎馬の足許まで転がった。
「もう行きましょう」
成廉は言ったが、呂布は下馬した。
呂布は屈んで、女児の首を拾った。それから何か呟いたようだが、人々の悲鳴と家々が焼けて爆ぜる音に阻まれて、その言葉は成廉の耳までは届かなかった。呂布は、女児の両瞼を指で撫で閉じてやり、両親と胴体のあるところまでゆっくりと歩いた。地に伏した胴体に首を添え置き、呂布は馬上の丁原を見上げた。二人は、しばらく睨み合うように顔を向かい合わせていた。
呂布も丁原も何も言葉は発しなかった。
やがて、「引き上げるぞ!」と呂布が成廉らにそう号令したことで、二人の睨み合いは終わった。
呂布は丁原に辞さなかった。馬に飛び乗り、振り返りもせずにさっさと駆け始めた呂布を、成廉は慌てて追った。
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