呂布奉先という男

うたう

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191年

救った命

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 孫堅そんけんが、すぐに雒陽らくようへ攻めかかってくることはなかった。董卓とうたくの側近である李儒りじゅが、素早く調略に動いたのだ。
 孫堅の軍は、袁術えんじゅつの支援を受けていた。財力のある袁術が兵糧や武具の調達を担うことで、孫堅は動き回ることができていたのだ。李儒は、袁術が孫堅に対して猜疑心を抱くように仕向け、二人の繋がりを脆くした。企みどおり、袁術は孫堅軍への供給を止め、孫堅の軍勢は陽人城に足止めされた。頃合いを見て、講和をもちかけたようだが、孫堅は聞く耳を持たなかったらしい。袁術による支援も程なく再開し、孫堅軍は雒陽に迫った。
 時をわずかに稼ぐことはできたが、呂布りょふの部隊は新兵を組み込み、再編成を行えただけだった。調練が足りていない。魏続ぎぞくの預かる部隊も半分が新兵に入れかわり、実戦にはまだ投入できる段階になかった。一対一の戦いであれば、新兵でもそれなりに戦えるだろうが、戦とは集団で行うものだ。いかに塊として動けるかが肝心だった。その訓練がまだ十分にできていなかった。
 孫堅は、董卓が洛陽の南にある大谷関たいこくかんに籠もって、直々に迎え撃った。しかし、敗れて、董卓は雒陽の西にある澠池べんち県まで兵を退いた。

 雒陽の城下に、活気あるいつもの喧騒はない。五日前――大谷関を破られたその日、董卓が長安への移住令を出したためだ。居残っている者は処刑するという文言が含まれていたため、猶予期間であった昨日までに、住人は皆、雒陽を去ったようだ。
 涼州りょうしゅう兵の哄笑と野盗かと思うような下品な会話だけが、魏続がかつて天に最も近きところと評した雒陽にときおり響く。家屋に残された宝石や財貨は、国が接収することになっているが、それ以外の物については明言がなかったためだ。涼州兵は金品を捜索するついでにと目ぼしいものはないかと空き巣まがいのことをやっている。
「本当に焼くんですか?」
 見回りに来たに、魏続がそう問いかけると、呂布は「ああ」と頷いた。
 焼くとは、雒陽のことだ。
 雒陽は大きな城ではあるが、守りには向かない城だ。高い城壁に囲まれていても堅城としての造りではなかった。魏続が思うに、雒陽の城壁は別のところにある。雒陽八関と呼ばれる、雒陽の周囲にある関門がその役割を果たしている。
 つまり、その一つである大谷関を突破された以上、雒陽は城内への侵入を許したも同然なのだ。だから魏続も雒陽を焼き払うという戦略上の意味は理解している。
 雒陽が孫堅軍の手に落ちたら、今までにない規模の反乱軍がここに集結するだろう。雒陽は随一の商業規模と機能を有する城塞都市だ。兵糧や武具の補給は容易にできる。
 雒陽が廃墟と化せば、反乱軍は集結拠点を失うことに繋がり、同時に補給線が伸びて、長安への侵攻は難しくなる。長安防衛のことを考えれば、董卓軍にとってやらない手はないのだ。しかし由緒ある雒陽を焦土にしてしまってよいのだろうかという迷いを魏続は拭いきれずにいた。
相国しょうこくの世直しを進めるためだ。反乱がその妨げとなってはならん」
 相国とは、漢建国の功臣、蕭何しょうか曹参そうしんが就いて以来、何百年も空位だった名誉ある役職だった。その相国に今、董卓はなっている。董卓が二人に匹敵するほどの功績をあげたとは、魏続には思えなかった。
 この国を良くしたいという董卓の決意は、魏続も感じ取っている。国が財政難に喘いでいても、董卓は民に重税を課そうとはしない。
 董卓のそうした理念は立派だと思うが、立派なその理念のために、呂布や魏続らは何をさせられたか。涼州兵を空き巣まがいと軽蔑したが、それならば、并州へいしゅう兵は墓荒らしだ。まがいどころか、墓荒らしそのものだ。私的に掠める行為を禁じたため、今日、并州兵は涼州兵のような卑しい行為は行っていない。しかし、昨日まで魏続らは歴代皇帝の墓を暴いて、財宝を漁っていた。国のため、民に負担を掛けぬためと思っていても、割り切れるものではなかった。
「俺には納得できません」
「誰も納得しておらんよ。相国でさえもな」
 魏続が困ったように苦笑いをしてみせたが、呂布はつられて苦笑することはなかった。
 そういえば、呂布が頬を緩ませるのを最後に見たのはいつだろうかと、魏続はふと思った。
 そもそも多弁な人ではない。冗談を言ってみせて、笑うようなこともなかった。戦場で、目を爛々と光らせている表情はいくらでも思い出すことができたが、笑顔を見たのはずっと昔のような気がした。
 記憶の糸をたどっているところに、不意に女の悲鳴が響いた。
 視線を向けると、呂布は頷いた。
 魏続はすぐに駆け出した。
 馬は引いてきていないため、自らの足で走った。
 悲鳴に反応して、家屋から通りに出てきた兵たちに「どけ!」と叫びながら、石畳を蹴った。
 声は隣の通りから聞こえたように思う。涼州兵に割り当てられた区画だ。責任者である将は誰だったか、思い出せない。そこまで注意を払っていなかったのだ。しかし、空き巣まがいの行為を許しているのだから、統制が取れていないことはわかる。
 辻を曲がり、その次の辻まで駆けて、左右を見渡した。右手側の通りに人だかりができていたため、そこが悲鳴の発生源だと推測できた。
「何事だ!」
 群がっている兵をかき分けて叫んだ。「散れ!」と喚きながら、分け入った。
 悲鳴の出どころと思しき、家屋の入り口で中を覗き込んでいた兵を、二、三人殴り飛ばした。
 家屋の中では、三人の兵が若い女を床に押さえつけていた。何をしようとしていたのかは一目瞭然だった。兵の手で塞がれた口から女のくぐもった声が漏れ聞こえる。
「何をしている? 任務中だぞ!」
 怒鳴りつけると三人は身体をびくつかせた。三者ともゆっくりと魏続の方を振り返った。
 女の脚を抑えていた兵が、魏続に媚びるような笑みを見せた。
「ちゃちゃっと済ませて処刑しますから、大目に見てくださいよ」
 女がなぜ居残っているのかはわからない。涙を溜めた目で、魏続のことをすがるように見ていた。
「俺たち、女を買う金もなくて飢えてんですよ」
「ちょいとした戦利品ってことでお願いしますよ。大将」
 涼州兵の品のない物言いが気に障った。一体、何に勝って得た戦利品だと言っているのか腹が立った。雒陽を焼かねばならない無念さは、微塵も感じていないのだろう。
「戦利品ならば、それは俺に譲ってくれ」
「そいつはないですぜ。横暴ってやつだ」
「わかった。では文字通り、戦利品にしてやろう。剣を抜け。俺に勝ったら、その娘は好きにするがいい」
「勘弁してくださいよ。上官を殺したら、死罪だ。傷を負わせても重罪だ」
「心配するな。一筆したためておいてやる」
 魏続は剣を抜き、右手の人差指を浅く切った。そして、壁に自分との決闘を許した旨を記して、署名した。
「本当にいいんですかい?」
「ああ。表に出ろ」
 三人は頷き合って、女から手を離した。
 涼州の兵が遠巻きに囲む中、魏続は剣を抜いて、三人と向き合った。
 魏続の得物は、剣身があまり長くない。大振りをしないように長剣を捨てたのだが、こうしたとき、得物の短さが祟るのだ。もしも抜いたのが長剣であったなら、威圧感から三人は剣を抜くことさえなかっただろう。
 三人の構えは手練のものではなかった。斬りかかってくる最初の一人の脚を剣で払って、そのまま残りの二人の手の甲を続けざまに突こうと思った。大丈夫だ。それで終わる。
「おい! 女に飢えてる奴は加勢しろ」
 呼びかけに応じて、そこここから剣を抜く音がした。呼応するように、魏続は自身の呼吸が浅くなっていくのを感じた。
「なら、俺も加勢させてもらおうか」
 背後からした声に振り返ると、集る兵の頭の上から首を伸ばすようにして、呂布が覗き込んでいた。
 呂布が言葉を発するまでもなく、呂布の前にいた数人の兵は左右に別れ、道を開けた。
 呂布は悠然と剣を抜き、ゆっくりと魏続に近づいてくる。
 そして、呂布は魏続の横を過ぎ、魏続と背中を合わせるようにして立った。
 呂布の登場に怖気づいた兵がひとり、またひとりと剣を鞘に収めていく。魏続と向き合っていた、発端の三人も観念するように剣を捨て、地に頭を付けて伏していた。
「お前の勝ちだな」
 呂布はそう言ったが、勝ったのは呂布だと思った。呂布は剣を抜いただけで、場を鎮めた。呂布が現れなかったら、間違いなく血が流れていただろう。魏続自身も無事であったかわからない。
 詳しい経緯を話すと、無茶をすると呂布に呆れられた。謝ると、呂布は「褒めたんだ」と言って、魏続の肩を軽く殴った。
 改めて家屋に入ると、女は床に平伏していた。
「本当にありがとうございます。なんと礼を申したらよいのか」
 涙声の感謝に、魏続は複雑な思いがした。
 女の貞操を守ってやることはできても、しかし女が移住令に違反していることに変わりはなかった。
 ちらりと呂布をみやったが、呂布は、魏続の記した血文字をまじまじと見て、腕組みをしていた。
「移住令が出ていたことは知っているか?」
「はい」
「では、なぜ移住しなかった? 従わぬ場合は死罪だと触れてあったはずだが」
「存じております。ですが、病気の父がいては移るのは難しく。父の具合がいくらか良くなりましたら、必ず長安に移りますので、どうかお見逃しください」
 女は知らないのだ。今夜にも雒陽中に火が放たれる。
「ならぬ。今日まで居残っていたことの罪は問わぬ。だが、無理をしてでも今日発つのだ」
 家屋の奥のほうから、父親のしわぶきが聞こえた。随分と悪そうな咳だったが、無理をしてもらわなければ、父娘には斬られて死ぬか、焼かれて死ぬかの二択しか残されていない。
「魏続。先に長安へ向かえ」
「は?」
 呂布の言葉の意図を汲めず、魏続は間の抜けた返事をした。
「馬車を手配する。お前は、父娘の護衛だ。何日かけてもいい。父親の具合を相談しながら、ゆっくり長安に向かえ。無事に着いたなら、お前にあてがわれる屋敷に仮住まいさせてやるといい」
「いや、しかし」
「嫌なのか?」
「いえ、そうではありませんが、彼女はその、戦利品ではないのですよ。父娘の意思というものがあるでしょう」
「娘御。嫌か?」
「とんでもない。将軍様は恩人です。ですが、お屋敷に置いていただくなど、畏れ多く」
「それは心配ない。魏続は先程、嫌ではないと言った」
「そうは言いましたが、しかし」
「娘御。顔をあげよ」
 女は恐怖から解放されて弛緩したからなのか、涙をとめどなく流していた。瞬きをする度に、大粒の雫がぽたぽたと落ちて、床に染みを作っていた。不意に、魏続はくすぐられるような思いがした。
「お前が救った命だ。最後まで責任をもて」
 女の反応を見るのが怖くて、魏続は体ごと呂布のほうを向いた。
「わかりました」
「ありがとうございます」
 弾むような女の声に、魏続の頬が緩んだ。
「俺は馬車の手配をする。お前は荷造りを手伝ってやれ」
 家屋を後にするとき、呂布が振り返って言った。
「見つけたか?」
「何をです?」
 呂布がにっと笑った。
「天女様だ」
 魏続は、自身の顔が赤らむのを感じた。



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