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訳あり王子と秘密の恋人 第一部 第一章
13.貝殻とキス
降下しそうな空気を感じとったように、バッシュはマフィンの残りを一口で飲み込んで、「忘れてた」とデニムのポケットに手を突っ込んだ。
「お前に」
「なにこれ?」
「あー、その、土産」
差し出されたのは、片手に握りこめるくらいの小瓶。透明で、コルクの栓がしてあるガラスの中には、いくつかの貝殻が入っていた。細長い巻き貝に、二枚貝の片割れ。色も大きさもバラバラのそれは、受け取ると瓶の中でちゃりちゃりとぶつかり合った。
「ホテルのショップでいろいろ見たんだが、ピンとくるものがなくて。結局、最終日の朝にビーチで拾ったんだ。砂も一緒がよかったとは思うけど、その時は手ぶらだったから、ポケットに入れるわけにいかなくてな」
雲一つない青空に小瓶を掲げる。
リゾートには似合わないワイシャツと革靴で砂浜にしゃがみ込んで、爪ほどの大きさの貝殻をちまちま拾い集める背中を思い浮かべた。なんというミスマッチ。
「キャンディやリキュールならベイカーたちに差し入れてあるから、そっちがよければもらえば──」
両手で小さな海を握りしめて、エリオットは身を乗り出す。そして、言い訳がましく早口でまくし立てる唇をふさいだ。
ちょっとズレて、鼻がぶつかる。
邪魔だから少し削ってやろうか、それ。
「エリ──」
「キスしたい」
まつ毛が触れそうなほど近くで囁くと、バッシュがほんの少し首を伸ばして叶えてくれる。
「……もうしてる」
そして、すぐにもう一度。
腹の底がチリつくような情欲を引き出さない代わりに、恐怖も生まない触れるだけのキスは、たとえば手を繋いだり、ハグしたり。あるいはほほ笑み合ったり。そんな穏やかな慈しみの中のひとつだった。この瞬間がある限り、エリオットが世界に倦むことはないと断言できるくらい、完ぺきなキス。
血色のいい肌から、ユーカリが香る。仕事柄、主張の強い香水は使わないから、制汗剤かシャワージェルか。以前はクローゼットの匂いをまとっていたバッシュだが、もうその名残すら嗅ぎ取れなかった。
こんな風に、過去の傷も薄くなっていくのかもしれない。ふとしたきっかけで思い出し、エリオットを苛むことはあっても、デファイリア・グレイの思い出や、まだ見ぬ砂浜の貝を閉じ込めた小瓶で上書きして、いつか。
伏せていた目を上げれば、高い鼻先で頬を撫でられた。やっぱり削るのはやめておこう。
エリオットが続きをせがむと、じらすようにバッシュの唇が遠ざかる。いじわるだ。逃げられないようにその首に腕を回そうとしたとき──。
「キャン!」
甲高い鳴き声が、誰もいないはずのメドウに響いた。
目の前でシャボン玉が割れたようにエリオットが瞬きすると、視界いっぱいにバッシュの背中があった。
「犬?」
「だけとは限らない」
バッシュが答えたのと同時に、十メートルほどさきの茂みから、鳴き声とともに犬が転がり出た。大きな黒い耳に、白い長毛の小型犬だ。
どうみても愛玩用──そして訓練されているとは言いがたい──小さなパピヨンは、ハーネスからのびる赤いリードを引きずりながら、細い足でくるくるとその場を回る。
蜂でも追いかけて来たのだろうか。
「迷子かな」
「どこから入り込んだんだか」
中腰になっていたバッシュが、広げた腕を下ろして立ち上がった。
「捕まえてくる」
「じゃあ、こっち片しておく」
貝殻の小瓶をズボンのポケットに入れて、エリオットも両手を払う。
容器やポットをバスケットにしまうだけだ。それくらいならできると判断してくれたらしい、バッシュはエリオットが残したサンドイッチからチキンを摘まみ上げて、侵入者の確保へ向かった。
犬に近付き、口笛を吹いて注意を引く。首を傾げる鼻先にチキンを吊るすと、食べ物に反応したしっぽがぶんぶん揺れた。どこで飼い主を捨てて来たか知らないが、走り回って空腹なのは間違いないようだ。
警戒する様子もなく、とことこ近寄って来た犬の口にチキンを放り込んでやって、バッシュは難なくリードを捕まえた。
「こいつチョロすぎないか」
キルトを畳みかけたエリオットの元まで戻って来て、バッシュが言う。
「食べ物くれる奴に弱いのかもな」
貸せ貸せと手を出すと、腕の中に下ろしてくれる。
「好きなのか、犬」
「圧倒的犬派。飼ったことないけど」
「それにしては、慣れてるな」
「何年か前まで、ニールが飼ってたんだ。丸々したコーギーだった」
頭上で交わされる会話などどこ吹く風と、渡された迷子は口が裂けそうなくらい大きなあくびをして目を閉じた。かりかりと耳のあたりをかいてやれば、しまい忘れた舌がぺろぺろと動く。
「チョロい上に図太いんだけど」
なんだこいつ、かわいいな。
皮膚の薄い腹から、熱いくらいの体温と駆け足みたいな鼓動が伝わって来る。
「よかったじゃないか、好かれて」
「誘拐まっしぐらじゃねーか」
両手のふさがったエリオットの代わりに、バッシュがキルトを畳んでバスケットに突っ込んだ。さすが元衣装係の現侍従、荷解きと荷造りはお手のものだ。
そうして屋敷に戻ったふたりと一匹を、ロダスが裏の戸口で出迎えた。
「その犬は?」
「迷子。パークのほうから迷い込んだんじゃないかな。飼い主探してやって」
「承知いたしました」
メイドを呼んで指示を出すと、名残惜しく小さな頭をなでるエリオットに、ロダスが「よろしいですか」と声をかける。それは、どうにも困惑気味に聞こえた。
「どうかした?」
「レディ・キャロルがお待ちです」
エリオットは手を止め、傍らのバッシュと顔を見合わせる。
「うわー、すげーデジャヴ」
なんでこう、おれの家には毎度だれかが押しかけて来るわけ?
第一章 了
「お前に」
「なにこれ?」
「あー、その、土産」
差し出されたのは、片手に握りこめるくらいの小瓶。透明で、コルクの栓がしてあるガラスの中には、いくつかの貝殻が入っていた。細長い巻き貝に、二枚貝の片割れ。色も大きさもバラバラのそれは、受け取ると瓶の中でちゃりちゃりとぶつかり合った。
「ホテルのショップでいろいろ見たんだが、ピンとくるものがなくて。結局、最終日の朝にビーチで拾ったんだ。砂も一緒がよかったとは思うけど、その時は手ぶらだったから、ポケットに入れるわけにいかなくてな」
雲一つない青空に小瓶を掲げる。
リゾートには似合わないワイシャツと革靴で砂浜にしゃがみ込んで、爪ほどの大きさの貝殻をちまちま拾い集める背中を思い浮かべた。なんというミスマッチ。
「キャンディやリキュールならベイカーたちに差し入れてあるから、そっちがよければもらえば──」
両手で小さな海を握りしめて、エリオットは身を乗り出す。そして、言い訳がましく早口でまくし立てる唇をふさいだ。
ちょっとズレて、鼻がぶつかる。
邪魔だから少し削ってやろうか、それ。
「エリ──」
「キスしたい」
まつ毛が触れそうなほど近くで囁くと、バッシュがほんの少し首を伸ばして叶えてくれる。
「……もうしてる」
そして、すぐにもう一度。
腹の底がチリつくような情欲を引き出さない代わりに、恐怖も生まない触れるだけのキスは、たとえば手を繋いだり、ハグしたり。あるいはほほ笑み合ったり。そんな穏やかな慈しみの中のひとつだった。この瞬間がある限り、エリオットが世界に倦むことはないと断言できるくらい、完ぺきなキス。
血色のいい肌から、ユーカリが香る。仕事柄、主張の強い香水は使わないから、制汗剤かシャワージェルか。以前はクローゼットの匂いをまとっていたバッシュだが、もうその名残すら嗅ぎ取れなかった。
こんな風に、過去の傷も薄くなっていくのかもしれない。ふとしたきっかけで思い出し、エリオットを苛むことはあっても、デファイリア・グレイの思い出や、まだ見ぬ砂浜の貝を閉じ込めた小瓶で上書きして、いつか。
伏せていた目を上げれば、高い鼻先で頬を撫でられた。やっぱり削るのはやめておこう。
エリオットが続きをせがむと、じらすようにバッシュの唇が遠ざかる。いじわるだ。逃げられないようにその首に腕を回そうとしたとき──。
「キャン!」
甲高い鳴き声が、誰もいないはずのメドウに響いた。
目の前でシャボン玉が割れたようにエリオットが瞬きすると、視界いっぱいにバッシュの背中があった。
「犬?」
「だけとは限らない」
バッシュが答えたのと同時に、十メートルほどさきの茂みから、鳴き声とともに犬が転がり出た。大きな黒い耳に、白い長毛の小型犬だ。
どうみても愛玩用──そして訓練されているとは言いがたい──小さなパピヨンは、ハーネスからのびる赤いリードを引きずりながら、細い足でくるくるとその場を回る。
蜂でも追いかけて来たのだろうか。
「迷子かな」
「どこから入り込んだんだか」
中腰になっていたバッシュが、広げた腕を下ろして立ち上がった。
「捕まえてくる」
「じゃあ、こっち片しておく」
貝殻の小瓶をズボンのポケットに入れて、エリオットも両手を払う。
容器やポットをバスケットにしまうだけだ。それくらいならできると判断してくれたらしい、バッシュはエリオットが残したサンドイッチからチキンを摘まみ上げて、侵入者の確保へ向かった。
犬に近付き、口笛を吹いて注意を引く。首を傾げる鼻先にチキンを吊るすと、食べ物に反応したしっぽがぶんぶん揺れた。どこで飼い主を捨てて来たか知らないが、走り回って空腹なのは間違いないようだ。
警戒する様子もなく、とことこ近寄って来た犬の口にチキンを放り込んでやって、バッシュは難なくリードを捕まえた。
「こいつチョロすぎないか」
キルトを畳みかけたエリオットの元まで戻って来て、バッシュが言う。
「食べ物くれる奴に弱いのかもな」
貸せ貸せと手を出すと、腕の中に下ろしてくれる。
「好きなのか、犬」
「圧倒的犬派。飼ったことないけど」
「それにしては、慣れてるな」
「何年か前まで、ニールが飼ってたんだ。丸々したコーギーだった」
頭上で交わされる会話などどこ吹く風と、渡された迷子は口が裂けそうなくらい大きなあくびをして目を閉じた。かりかりと耳のあたりをかいてやれば、しまい忘れた舌がぺろぺろと動く。
「チョロい上に図太いんだけど」
なんだこいつ、かわいいな。
皮膚の薄い腹から、熱いくらいの体温と駆け足みたいな鼓動が伝わって来る。
「よかったじゃないか、好かれて」
「誘拐まっしぐらじゃねーか」
両手のふさがったエリオットの代わりに、バッシュがキルトを畳んでバスケットに突っ込んだ。さすが元衣装係の現侍従、荷解きと荷造りはお手のものだ。
そうして屋敷に戻ったふたりと一匹を、ロダスが裏の戸口で出迎えた。
「その犬は?」
「迷子。パークのほうから迷い込んだんじゃないかな。飼い主探してやって」
「承知いたしました」
メイドを呼んで指示を出すと、名残惜しく小さな頭をなでるエリオットに、ロダスが「よろしいですか」と声をかける。それは、どうにも困惑気味に聞こえた。
「どうかした?」
「レディ・キャロルがお待ちです」
エリオットは手を止め、傍らのバッシュと顔を見合わせる。
「うわー、すげーデジャヴ」
なんでこう、おれの家には毎度だれかが押しかけて来るわけ?
第一章 了
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