箱庭の子ども〜世話焼き侍従と訳あり王子〜

真木もぐ

文字の大きさ
334 / 338
番外編 重ねる日々

散髪したい

しおりを挟む

 ぱらりと落ちて視界を横切った前髪を、イェオリは忌々しくかき上げた。

 近頃、忙しくて散髪に行けていない。

 王族のスケジュールは分刻みだが、補佐する侍従は秒刻みだと仲間内では自虐的に言われている。エリオットは他の家族ほど公務が詰まっているわけではないから、イェオリの予定もまだ秒針に急き立てられるほどではなかった。

 それでもシフトは「柔軟に」変動するし、貴重な休みは生活必需品の買い出しや掃除洗濯で終わる。事前にサロンを予約して赴く余裕は、残念ながら捻出できていなかった。

 現にいまも、エリオットがルードの散歩から戻るのを待つあいだにメールの振り分けと返信をして、会議の資料に目を通し、フランツから頼まれた会計入力の精査を行っている。

 簿記は日本のテキストとネットの関連動画で勉強したので、ある程度は理解していた。なら数字は同じだから用語を英訳するだけだろうって?

 ぜひやってみてほしい。普通に無理。

 英語ネイティブでも会計士でもないんですよ、わたしは。

 しかしそうぼやいていても仕方がないので、数字を追う作業を再開することにする。タブレットを見ようと首を傾けると、また瞼をかすめて前髪がひと房落ちてきた。

「髪が伸びたね」
「……見苦しくて申し訳ありません」

 ため息の代わりに、髪を払って立ち上がる。

「エリオットさまは、ルードの散歩中です」
「クレイヴから聞いてるよ。だからきみが準備でここにいるかと思って」

 ミーティング開始予定の四十五分前に現れたナサニエルは、ひらひらと軽薄に手を振りながら主不在の書斎に入ってきた。

「すぐにお茶を」
「それもクレイヴに頼んだよ。エリオットが来てからのほうが面倒がないだろう?」

 その通りだ。

 この場を離れられる口実を封じられ、二度目のため息をつきたくなる。

 ナサニエルは書斎机の角にもたれて、革のショルダーバッグを足元に置いた。イェオリが腰かけていた椅子は机のすぐそばにあって、仕事上の会話をするには少々近すぎる。

 イェオリが一歩下がると同時に、その一歩分を伸びてきたナサニエルの指先が目元の髪を持ち上げた。

「ぼくが切ってあげようか」
「旦那さまは、エリオットさまの散髪のために二ヶ月練習したそうですよ」
「なるほど。二ヶ月練習すれば、きみの髪を切らせてくれるってことかい?」

 思わず笑いがこぼれる。

 恭しく亜麻色の髪を梳られているのが似合うくせに。

「二ヶ月もそんなことをする性分ではないでしょう」
「するかもしれないよ?」

 ナサニエルが摘まんだ髪を指の間で軽くねじり、チリチリと音が鳴った。

「きみの一部が無為に捨てられるのは、いかにももったいないからね」
「所有権を移譲した覚えはありませんが」
「知らないのかい? 散髪後の髪は拾い集めてはならない。それは貧しき者に残しておかねばならない」

 誰の髪が落穂か。

 いや、むしろ――。

「羅生門……」
「ラショモン?」
「芥川龍之介という作家の文学作品ですよ。ある男が、荒廃した城門で死体から髪を抜いてかつらを作ろうとする老婆に出会うんです」

 ナサニエルはぱっと指を開いて、イェオリの髪を放した。菫色の瞳が、信じられないといったようにぐるりと円を描く。

「一体どんなノワール小説なんだい、それ」
「日本では、ほとんどの高校生が学校で習いますね。短編小説なので、数分で読めますし」

 イェオリは仕事を放棄させられていたタブレットで羅生門の英訳を探し出すと、ナサニエルに差し出した。ノワール的なあらすじに引いたわりに、彼は素直に受け取ってそれを読み始める。

 容赦なくハイコンテクストな会話を仕掛けてくるだけあって、異なる文化的背景への好奇心には勝てないらしい。

 時間稼ぎに成功したイェオリは、「エリオットさまをお迎えに行ってまいります」と言い置いて書斎を抜け出した。

 上着のポケットからスマートフォンを取り出して、しつこく下りてくる髪を払いのけながら予定を確認する。

 可及的速やかに髪を切らなければ。
しおりを挟む
感想 10

あなたにおすすめの小説

身代わりにされた少年は、冷徹騎士に溺愛される

秋津むぎ
BL
魔力がなく、義母達に疎まれながらも必死に生きる少年アシェ。 ある日、義兄が騎士団長ヴァルドの徽章を盗んだ罪をアシェに押し付け、身代わりにされてしまう。 死を覚悟した彼の姿を見て、冷徹な騎士ヴァルドは――? 傷ついた少年と騎士の、温かい溺愛物語。

Take On Me

マン太
BL
 親父の借金を返済するため、ヤクザの若頭、岳(たける)の元でハウスキーパーとして働く事になった大和(やまと)。  初めは乗り気でなかったが、持ち前の前向きな性格により、次第に力を発揮していく。  岳とも次第に打ち解ける様になり…。    軽いノリのお話しを目指しています。  ※BLに分類していますが軽めです。  ※他サイトへも掲載しています。

【完結】かなしい蝶と煌炎の獅子 〜不幸体質少年が史上最高の王に守られる話〜

倉橋 玲
BL
**完結!** スパダリ国王陛下×訳あり不幸体質少年。剣と魔法の世界で繰り広げられる、一風変わった厨二全開王道ファンタジーBL。 金の国の若き刺青師、天ヶ谷鏡哉は、ある事件をきっかけに、グランデル王国の国王陛下に見初められてしまう。愛情に臆病な少年が国王陛下に溺愛される様子と、様々な国家を巻き込んだ世界の存亡に関わる陰謀とをミックスした、本格ファンタジー×BL。 従来のBL小説の枠を越え、ストーリーに重きを置いた新しいBLです。がっつりとしたBLが読みたい方には不向きですが、緻密に練られた(※当社比)ストーリーの中に垣間見えるBL要素がお好きな方には、自信を持ってオススメできます。 宣伝動画を制作いたしました。なかなかの出来ですので、よろしければご覧ください! https://www.youtube.com/watch?v=IYNZQmQJ0bE&feature=youtu.be ※この作品は他サイトでも公開されています。

ふたなり治験棟

ほたる
BL
ふたなりとして生を受けた柊は、16歳の年に国の義務により、ふたなり治験棟に入所する事になる。 男として育ってきた為、子供を孕み産むふたなりに成り下がりたくないと抗うが…?!

塔の魔術師と騎士の献身

倉くらの
BL
かつて勇者の一行として魔王討伐を果たした魔術師のエーティアは、その時の後遺症で魔力欠乏症に陥っていた。 そこへ世話人兼護衛役として派遣されてきたのは、国の第三王子であり騎士でもあるフレンという男だった。 男の説明では性交による魔力供給が必要なのだという。 それを聞いたエーティアは怒り、最後の魔力を使って攻撃するがすでに魔力のほとんどを消失していたためフレンにダメージを与えることはできなかった。 悔しさと息苦しさから涙して「こんなみじめな姿で生きていたくない」と思うエーティアだったが、「あなたを助けたい」とフレンによってやさしく抱き寄せられる。 献身的に尽くす元騎士と、能力の高さ故にチヤホヤされて生きてきたため無自覚でやや高慢気味の魔術師の話。 愛するあまりいつも抱っこしていたい攻め&体がしんどくて楽だから抱っこされて運ばれたい受け。 一人称。 完結しました!

若頭と小鳥

真木
BL
極悪人といわれる若頭、けれど義弟にだけは優しい。小さくて弱い義弟を構いたくて仕方ない義兄と、自信がなくて病弱な義弟の甘々な日々。

冷血宰相の秘密は、ただひとりの少年だけが知っている

春夜夢
BL
「――誰にも言うな。これは、お前だけが知っていればいい」 王国最年少で宰相に就任した男、ゼフィルス=ル=レイグラン。 冷血無慈悲、感情を持たない政の化け物として恐れられる彼は、 なぜか、貧民街の少年リクを城へと引き取る。 誰に対しても一切の温情を見せないその男が、 唯一リクにだけは、優しく微笑む―― その裏に隠された、王政を揺るがす“とある秘密”とは。 孤児の少年が踏み入れたのは、 権謀術数渦巻く宰相の世界と、 その胸に秘められた「決して触れてはならない過去」。 これは、孤独なふたりが出会い、 やがて世界を変えていく、 静かで、甘くて、痛いほど愛しい恋の物語。

あなたの隣で初めての恋を知る

彩矢
BL
5歳のときバス事故で両親を失った四季。足に大怪我を負い車椅子での生活を余儀なくされる。しらさぎが丘養護施設で育ち、高校卒業後、施設を出て一人暮らしをはじめる。 その日暮らしの苦しい生活でも決して明るさを失わない四季。 そんなある日、突然の雷雨に身の危険を感じ、雨宿りするためにあるマンションの駐車場に避難する四季。そこで、運命の出会いをすることに。 一回りも年上の彼に一目惚れされ溺愛される四季。 初めての恋に戸惑いつつも四季は、やがて彼を愛するようになる。 表紙絵は絵師のkaworineさんに描いていただきました。

処理中です...