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番外編 重ねる日々
散髪したい
しおりを挟むぱらりと落ちて視界を横切った前髪を、イェオリは忌々しくかき上げた。
近頃、忙しくて散髪に行けていない。
王族のスケジュールは分刻みだが、補佐する侍従は秒刻みだと仲間内では自虐的に言われている。エリオットは他の家族ほど公務が詰まっているわけではないから、イェオリの予定もまだ秒針に急き立てられるほどではなかった。
それでもシフトは「柔軟に」変動するし、貴重な休みは生活必需品の買い出しや掃除洗濯で終わる。事前にサロンを予約して赴く余裕は、残念ながら捻出できていなかった。
現にいまも、エリオットがルードの散歩から戻るのを待つあいだにメールの振り分けと返信をして、会議の資料に目を通し、フランツから頼まれた会計入力の精査を行っている。
簿記は日本のテキストとネットの関連動画で勉強したので、ある程度は理解していた。なら数字は同じだから用語を英訳するだけだろうって?
ぜひやってみてほしい。普通に無理。
英語ネイティブでも会計士でもないんですよ、わたしは。
しかしそうぼやいていても仕方がないので、数字を追う作業を再開することにする。タブレットを見ようと首を傾けると、また瞼をかすめて前髪がひと房落ちてきた。
「髪が伸びたね」
「……見苦しくて申し訳ありません」
ため息の代わりに、髪を払って立ち上がる。
「エリオットさまは、ルードの散歩中です」
「クレイヴから聞いてるよ。だからきみが準備でここにいるかと思って」
ミーティング開始予定の四十五分前に現れたナサニエルは、ひらひらと軽薄に手を振りながら主不在の書斎に入ってきた。
「すぐにお茶を」
「それもクレイヴに頼んだよ。エリオットが来てからのほうが面倒がないだろう?」
その通りだ。
この場を離れられる口実を封じられ、二度目のため息をつきたくなる。
ナサニエルは書斎机の角にもたれて、革のショルダーバッグを足元に置いた。イェオリが腰かけていた椅子は机のすぐそばにあって、仕事上の会話をするには少々近すぎる。
イェオリが一歩下がると同時に、その一歩分を伸びてきたナサニエルの指先が目元の髪を持ち上げた。
「ぼくが切ってあげようか」
「旦那さまは、エリオットさまの散髪のために二ヶ月練習したそうですよ」
「なるほど。二ヶ月練習すれば、きみの髪を切らせてくれるってことかい?」
思わず笑いがこぼれる。
恭しく亜麻色の髪を梳られているのが似合うくせに。
「二ヶ月もそんなことをする性分ではないでしょう」
「するかもしれないよ?」
ナサニエルが摘まんだ髪を指の間で軽くねじり、チリチリと音が鳴った。
「きみの一部が無為に捨てられるのは、いかにももったいないからね」
「所有権を移譲した覚えはありませんが」
「知らないのかい? 散髪後の髪は拾い集めてはならない。それは貧しき者に残しておかねばならない」
誰の髪が落穂か。
いや、むしろ――。
「羅生門……」
「ラショモン?」
「芥川龍之介という作家の文学作品ですよ。ある男が、荒廃した城門で死体から髪を抜いてかつらを作ろうとする老婆に出会うんです」
ナサニエルはぱっと指を開いて、イェオリの髪を放した。菫色の瞳が、信じられないといったようにぐるりと円を描く。
「一体どんなノワール小説なんだい、それ」
「日本では、ほとんどの高校生が学校で習いますね。短編小説なので、数分で読めますし」
イェオリは仕事を放棄させられていたタブレットで羅生門の英訳を探し出すと、ナサニエルに差し出した。ノワール的なあらすじに引いたわりに、彼は素直に受け取ってそれを読み始める。
容赦なくハイコンテクストな会話を仕掛けてくるだけあって、異なる文化的背景への好奇心には勝てないらしい。
時間稼ぎに成功したイェオリは、「エリオットさまをお迎えに行ってまいります」と言い置いて書斎を抜け出した。
上着のポケットからスマートフォンを取り出して、しつこく下りてくる髪を払いのけながら予定を確認する。
可及的速やかに髪を切らなければ。
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