春雷のあと

紫乃森統子

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四.人選

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「太兵衛さまは、どうして私を離縁なさらないのでしょう」
 初は義妹の峰と縁側に並んで、話し込んでいた。
 中庭の桜はその枝に蕾を抱き、ただ一本、春めいてきた柔らかな日の光の中に立っている。
 義父の清左衛門は相変わらず家には落ち着かなかったし、義母の睦子は同じ奥屋敷に居ながらも初を疎ましがって寄り付かない。
 唯一こうしてまともに相手をしてくれるのは、太兵衛の妹の峰だけであった。
「それは勿論、おねえさまをお好きだからじゃないかしら」
 無邪気にそう答える峰は、まだ十六という若さだ。
 他に何の理由があるのかと、本当にそう思っている様子で、初は峰のその素直さに幾分心が救われる気がしていた。
「そうだと良いのだけれど……、でもきっと太兵衛さまは、私のことを持て余しておいでだわ」
 家のことを考えれば八年も子を産まぬ妻など早々に離縁して、新たな妻女を迎えるべきなのだ。
 それを踏み止まるからには、何か別のわけがあるに違いないと思っている。
「お嫂さまは、少し御子のことを思い詰めすぎていらっしゃるのだわ。きっとお兄さまもそれが心配で考えるなと仰るのよ」
 確かに、毎夜同じ話をしては溜め息を吐かれるが、少なくとも初にはそれが心配しているようには感じられない。
 義母と同様の、どこか疎んじるような気配だ。
「また以前のようにご祈願には通わないのですか? 外に出れば気も紛れるのではないかしら」
 屋敷に籠ってばかりでは、見えるものも見えなくなってしまう、と峰は励ますように言う。
 そうね、と賛同したいところだったが、この年明け頃からは義母も太兵衛も初の外出を喜ばず、これは愈々初を他の家中の目に触れさせることすら厭うようになったのだと理解していた。
「お詣りに出ればまた厭味を言われてしまうわ。だからそうね、お許しが頂ければ、久し振りに実家の兄夫婦に会いに行くのも良いかもしれませんね」
「そうよ、そうするべきだわ。母上はお兄さまの言う事なら聞いてくれるはずだから、お兄さまにお願いなさるといいのよ」
「そうね、今夜にでもお願い申し上げてみるわ」
 初が言うと、峰はにこりと笑った。
 
   ***
 
「八巻の家に行くことはならん」
 夕餉のあとで峰に勧められた通り太兵衛に頼み込むも、返ってきたのはその一言だった。
「なぜです? 今年は年始の挨拶もお連れ下さいませんでしたし、何かわけでもあるのですか」
 太兵衛は城に詰めることのほうが多く、初が知らぬだけで八巻家との間に何事かあったのかもしれないと思った。
 得てしてそれは大方のところ当たっていたようで、太兵衛はじっと初の顔を見詰めてから深い吐息を漏らした。
「岩角の野盗を取り締まるのに、番頭を指揮に立てて派兵することになった」
 野盗、と聞いて初は眉を顰めた。
 農村を襲って衣食を奪い、街道を行く旅人を襲って金品を巻き上げる盗賊の改めは、番頭の行うことではない。
 にも関わらず、わざわざ番頭を駆り出すのは随分と大掛かりなことだ。
「筆頭家老の剱持殿が私をその役目に推挙なされた」
「それでは、城下を離れることになりますか」
「むろん。今も郡代の麾下で調べを進めているようだが、警固が必要とのことだ。捕物に加わるようなことはないが、何しろ被害の範囲が広い。下役だけでは足りんのだ」
 三日後には出立すると言い、太兵衛は今一度息をつく。
 あまり乗り気でないことは、初にも察しがついた。
「どのくらい掛かりますか」
「わからん。奉行の手際次第だろう」
「そうですか……」
 赤沢家の中は、今や当主の清左衛門より太兵衛のほうが実権を握っているような節がある。
 その太兵衛が不在となると、家内の均衡が崩れるような不安があった。
 特に義母の権威が増大するように思えて、初は胸の底に重い鉛の沈むような気持ちがした。
「暫く屋敷を空けることになるが、大丈夫か」
 初の憂いを見透かしたように、太兵衛が問う。
 太兵衛は決して美丈夫というわけでなく、容貌だけで見ればごく凡庸な男だ。
 そこに加えて積年の苦労が滲んで、実際よりも幾分年嵩に見える。
 初に子が出来ないことも、それを巡って義母と溝を深めていることも、その一因となっているのは疑いようもない。
「母上にはあまりそなたに関わらぬよう話してあるが、私の不在を良いことに要らぬことを言うかもしれん。離縁を唆すかもしれんが、そなたの処遇を決めるのは夫である私だ。何を言われても決して真に受けてはならんぞ」
「……はい」
「峰が嫁ぐ前で良かった。そなたも不用意に母上を刺激することのないようにな」
 嫁姑の仲が険悪なのを、太兵衛は逐一気に掛けているようだった。
 主に姑の睦子を牽制することが多かったが、それも睦子にとっては不服なようで、太兵衛に窘められると決まって初への小言が増える。それが時折、峰にまで飛び火するようになっており、それが居た堪れなかった。
「ですが、御番頭のお役にある方は八人もおいでになるのに、なぜあなたなのです?」
「……そんなことは、おなごが気にすることではない」
 太兵衛は一瞬目を泳がせて言うと、むつかしい顔をしたまま湯殿へ行くと言い置いて部屋を出て行った。
 
 

 
 
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