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本編
第十二章 恭順の翳り(2)
しおりを挟む「姫様には誤解のなきようお願い致したく。若君のお望みにございますれば、それがしにもまた傅役としての勤めがございます」
「……すまんが、私もこの後砲術を習いにゆかねばならぬ。日を改めて私からお伺いすると伝えて貰えるか」
「御言葉ではございますが、もう幾度も同様のお言承。未だ一度もお訪ね頂けておりませぬ」
恐縮した様子で目を伏せ、和左衛門は嗄れた声を殊更掠れさせる。
遭遇して請われる度に言い逃れてきたが、そろそろそれも難しくなってきたらしい。
一度や二度なら都合がつかぬと断る事も自然だが、こうも粘り強く迫り来られると流石の瑠璃も閉口した。
「義姉君様がおいでにならぬと、大層嘆いておられます」
眉間に寄せた皺が一層深くなり、和左衛門はついに板張りの床に額づいた。
和左衛門のその苦心の滲んだ様子が、俄かに良心を苛む。
無用の争いを避け、騒ぎに至らぬよう配慮の上でのことだが、若殿である僅か十三歳の五郎左衛門に対しては何も思うところはないのだ。
「本来、瑠璃様こそが若君の伴侶となるべき御方。にも関わらず、近頃は姫様の降嫁が実しやかに噂される始末。もしや義姉君様に疎んじられているのでは、とまで気に病んでおられ──」
「それは本当か? 今朝の挨拶で顔を合わせたが、元気そうだったがの?」
そればかりか、興味津々といった好奇に満ちた顔をしていたのを思い出す。
罷り間違っても取っ組み合いの喧嘩などしそうにないその立居振舞は、その齢には不似合いなほど落ち着いて洗練されたものである。
その上、今朝のあの様子を見る限りでは人懐こく、また素直そうな御子なのだ。
そうした若君を擁し、和左衛門が養嗣子を担ぎ京へ上らんと企てたことは間違いない。その強硬な姿勢に、藩邸では一時この男を斬らんとする動きすらあったという。
結局未遂となったが、以後も和左衛門の若殿付きという立場は変わらぬままだ。
「……私にも、私の立場とものの見方がある。そなたの申し分は心に留め置くが、今は行けぬ」
義弟にもそう伝えるよう声を紡ぎ、瑠璃は和左衛門へ背を向けたのであった。
***
銃太郎の率いる門下生たちは、北条谷の道場以外にも広々とした馬場で射撃訓練を行うことがあった。
物珍しさからか、馬場の周囲には家中のおなごや子供、使用人が鈴生りになってその様子を眺め、射撃が命中するとちょっとした歓声が上がることも多い。
そんな注目を浴びながらの訓練を終え、瑠璃は下駄を鳴らして城下町へ繰り出していくところであった。
六ノ丁の馬場から竹田御門の脇をすり抜け、小役人屋敷の並ぶ通りに出てから城下町へ向かう坂道を上る。
当然ながら銃太郎が笑顔で送り出してくれるはずもなく、散々に抑止され口論にすらなりかけたが、辟易した瑠璃がもういっそ伴をせよと半ば命じるように言い放ったのである。
「銃太郎殿も心配性じゃの。気が済めばすぐに帰るというのに」
「そういうわけにもいかないだろう」
寧ろ、今の今までこんなことを繰り返して、よく何事もなく今日までこれたものだと呆れ混じりの声を上げる。
「まあそれは恐らく鳴海のお陰じゃな。私がお忍びで出掛けると、あやつは必ず鬼の形相で城下に馬を駆る」
つまりは鳴海の弛まぬ牽制あっての平穏無事、という側面も大きいのだろう。それは瑠璃自身も自覚していた。
「それにしても……」
と、銃太郎はきょろきょろと辺りを見回し、背後の坂下に小さく見える竹田御門を振り返る。
「御門まで易々と迂回して、普段どこまで出歩いているんだ」
銃太郎は瑠璃が容易く土手を這い、小川の浅瀬を飛び越えて御門を迂回してきた道程を指して驚く。
随分と日が長くなったとはいえ、訓練後の夕空が迫る刻限である。
そんな時分に城下の土手や川や叢を縦横無尽に駆け回るなど、およそ城の姫君のすることではない。
「だから常々申しおろう? お忍びの場数が違うと。……けどまあ、銃太郎殿が一緒ではやはり少々目立つのう」
人より頭一つ丈が高く、それだけでも人目を引く。その上恵まれた体躯と浅黒い肌の、眉目の涼しい偉丈夫ときている。瑠璃が危惧してその顔を見上げると、銃太郎は微かに声を詰まらせた。
「だ、だとしても、瑠璃を一人にするわけにはいかない」
狼狽した銃太郎は、砲術の指導中には微塵も感じさせることのない可愛気があるように見えた。
「分かってる、そう慌てるな」
堪えきれずに忍び笑うと、銃太郎は憮然として瑠璃から目を逸らす。
街道を行き来する者の様子を何とは無しに覗いながら、瑠璃は上りきった坂を今度はゆっくりと商家の建ち並ぶほうへ下り始めた。
竹田御門を抜けた先の竹田坂を南向きの亀谷坂へ下り始めると、たまに立ち寄る甘味茶屋がある。この界隈は行き来する人間も多く、町方、武家、他領からやって来たであろう旅人の姿も多く見られる街道だ。
夕餉の支度の頃合い故か附木をはじめ、豆腐や青物を担ぐ棒手振の声も賑やかだった。
瑠璃は坂の中腹で立ち止まり、そうした往来の様子を一頻り眺める。
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