風に散る─幕末戊辰二本松─

紫乃森統子

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本編

第十三章 両端に惑う(3)

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 人目につくことを憚り、他者と群れることもない。今でこそ砲術の鍛錬のために木村家に出入りしているが、それですら大概は用が済めば早々に引き揚げているようだった。
「それで。行くのか、行かんのか」
 佇立して動かない瑠璃に業を煮やしたか、栄治が訊ねる。
 と同時に、母屋の通り土間から誰かが出てくるのが見えた。見たところ瑠璃とそう歳の違わないだろう若い女だ。
 その腹は大きく膨らみ、女は大儀そうにゆっくりと敷居を跨ぐ。そうして一歩表へ出たところでこちらに気付いたらしく、女は首を傾げて会釈した。
「……誰じゃ?」
 先日までは見なかったが、使用人にも客人であるようにも見えなかった。
「ああ、なんだ、姫は知らなかったのか?」
「銃太郎殿は、まさか既に妻女がおられたのか」
「………」
 何かしらの事情で実家に帰っていたものが、婚家へ戻ってきたのだろう。そう考えが至ると同時に、胸に鉛玉を食らったような気がした。
 それがどういう感情なのかは自分でも分からず、努めて平静を装う。だが、栄治が訝るような視線を寄越したところを見ると、繕えてはいないのだろうと思った。
「……すまぬ、議論も白熱しているようだし、やはり今日は帰る」
 捨て台詞のように言い置くと、栄治が何事か言うのも耳には届かず、瑠璃は急ぎ足にその場を離れたのであった。
 
   ***
 
「山岡さん。今の方は?」
 表口から出て緩慢な動作で近付きながら、女は訊ねた。
 栄治は慌てて駆け去った瑠璃の背を見送りながら、大きく息を吸い込み、吐き出す。
「あれが城の姫君だ」
 やれやれと続けざまに嘆息して、栄治は気掛かりそうにしている女にわけを話す。
「たに殿、申し訳ない。どうも姫は妙な誤解をしたらしい」
 少し考えればすぐに気付きそうなものを、と小さくぼやいて栄治は項に手を宛がう。
 たには門柱に手を触れて瑠璃の走り去ったほうを覗き込む。
「あの方が……」
 郭内とは言え、独りで帰して良かったのかと不安げに訊ねるたにを、栄治は軽く掌を上げて遮った。
「まあ心配は要らんだろう」
「そんなこと言って、家中にもどんな方がいるか分かりませんよ」
「……そうだな。誤解にしても、銃太郎には俺から話しておこう」
 栄治はたにとは目を合わさず、そのまま銃太郎が貫治の門弟たちと話す道場に足を向ける。たにが不思議そうにその背を見送るのに気付いてはいたが、栄治はその誤解がどんなものかを態々説明することはなかった。
 
   ***
 
 逃げるように飛び出して、一ノ丁の往来と交わる辻まで来ると、瑠璃は漸く足を留めた。
 駆け足で息が上がったせいだけではない、何かもっと別な動悸が加わって息苦しくなったのである。
 挨拶もせずに走り去ろうとは、瑠璃自身も思いがけないことだった。
 まだ若いが、銃太郎も木村家の嫡男だ。妻女どころか子があったとしてもおかしくはない。
 妻子があったからといって師弟関係の何が変わるわけでもないのだが、何故あそこで逃げ出すような去り方をせねばならなかったのか、今も腑に落ちなかった。
 ただ何となく、その妻女と顔を合わせるのは嫌だと思ったのだ。
 栄治には慌てて取り繕ったものの、きっと妙だと思われただろう。こちらに気が付いていたふうの、あの妻女にも。
(参った、これでは次に訪ねにくい)
 咄嗟の機転が利かなかったことを大いに悔やむ。落ち着いてみれば、幾らでも如才なくやり過ごせたはずと思うのは、今ここにその人がいないからである。
 辻の手前で立ち尽くし、我が身の不甲斐なさに小さく吐息したその時、二ノ丁から城へ向けてやって来る小気味良い足音が聞こえて顔を上げた。
 駕籠だ。
 こんなところを駕籠で通れるような人物はそうそういない。二つ続いてやって来る駕籠を眺めていると、それは瑠璃の前で止まった。
「やあやあ、瑠璃様ではございませんか」
「まーたフラついておられたな!? 何を無防備にこんなところに突っ立って……!」
 新十郎がゆるりと駕籠を降りたのに対し、一学は駕籠の下がりきらぬうちに勢い良く飛び出した。
「まったく! 新十郎が独り歩きは慎むように申し上げたはず! 我らの話をお聞きにならんのであれば、砲術の許可を取り下げますぞ!」
「さて、それは困ったのう」
「シャーッ! 困ったのう、ではないわ! 大谷も木村の倅も何をしとるのか!」
「はいはい一学殿、恐らく大谷も多忙なのでしょう。木村銃太郎については後で尋問するとして、一先ず共に城へ戻るとしましょう」
 二人はそこで駕籠を引き返させ、瑠璃にも同道を促した。

 
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