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1巻
1-2
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内心の動揺をひた隠し、再会の言葉を探す。ああ……己のコミュ力が恨めしい。気の利いた言葉一つ浮かんでこない。よし! こうなったら直球だ。
「あー、会えて良かった。その……ねぇ、君に会いに来たんだよ、約束をどうしても守りたくて」
「アッシュ……」
「そうだよ、アッシュだよ。覚えていてくれてありがとう。それからここまで来てくれた事も、……ありがとう」
「アッシュ……」
壊れたスピーカーみたいに彼は僕の名前を繰り返す。
困ったな……こういう時はどうすればいい?
僕の困惑を見透かしたように、タイミング良く声がかかる。
「失礼、私はユーリウス様の従者アレクシだ。アッシュ君、どうしても今日帰らないといけないのかい? そうじゃないならぜひ屋敷に泊まっていってはくれないか。ここまで訪ねて来てくれた君をこんな風に帰す事など、公爵家としてとてもできない」
ここまで走ってきたのだろう。右に左に乱れたグレージュの髪を整える事も忘れ、荒い息のままアレクシと名乗った柔和な顔の従者は言った。
「大丈夫だけど……ちょっと待ってて。……おじさ~ん、料金はそのまま受け取ってくれていいから、僕の搭乗キャンセルで! ユーリ、本当に泊まってもいいの?」
「……ユーリ……?」
ん? ……何を戸惑ってるんだろう? あぁっ! ヤバイ、脳内の呼び名で呼んでしまった。距離を詰めるのが早すぎただろうか。コミュ力~! もっと仕事しろっ!
心配で思わず「ダメかな」って聞いたら、ユーリはうつむき加減に、それでもはにかみながら「かまわない」って返してくれた。
ホッとしながらアレクシさんに誘導されて公爵家の馬車に乗り込む。おおっ、クッションがふかふかだ。
ユーリは僕の手を握りしめたまま、それでも何も話さない。僕は場の空気に耐えきれず、たまりかねて彼の頭を一撫でした。するとその綺麗な目から大きな雫が零れ落ちた。
う、うぉぉぉ! こんな時、なんて言葉をかければいいのかさっぱり分からない。だから黙ってハグをする。ハグするのが一番良いって確か『初めての育児』に書いてあった!
「う……うぅ……うああ……ああ……うぅ……」
どうしていいかも分からずに、彼の涙が止まるまで僕はひたすら抱きしめ続けた。
「あ、それ」
ようやく泣き止んだ彼を改めてよく見てみれば、その手にはお土産代わりに置いていった僕の自慢の望遠鏡を握りしめている。
ガラスから凸レンズを作るのは少し大変だった。だけど、前世の夜には見えなかった満天の星をどうしても鮮明に見たくって必死に作ったのだ。彼はそれをここまでずっと握りしめてきたらしい。
「ねぇ、アッシュ、望遠鏡……なぜ置いていったんだ?」
「望遠鏡は大事だけど、君の方が大事だもの」
たった一つしかない望遠鏡。だけどそれより貴重で大切で、代わりの利かない唯一無二、それがユーリだ。
「大事……アッシュは僕が大事なのか? どうして? たった一度しか会ってないのに……」
「どうしても! だってあの日、君を護るって決めたんだもの」
「それだけでここまで来たのか?」
「そうだよ。それよりあの屋敷は不用心だよね。正門の施錠ガバガバだったよ?」
「あの門を越えてきたのか……」
あの夏の日と同じように、ユーリは目を見開く。
そんなに驚く事だろうか。別に鉄壁の要塞、アルカトラズじゃあるまいし……
「それよりほら、覗いてごらんよ」
「何も見えない……」
「馬鹿だね、こんな狭いところでこんな近くを見てるからだよ。ほら、レンズを外に向けて向こうの木を見て」
人は辛い時ほど近視になる。目の前の事情にいっぱいいっぱいで……世界が広いって事をつい忘れてしまう。
「すごい……あんなに遠くのものが近くに見える……」
「広い世界に目を向けていれば色んな物が見えてくるよ。君は今、自分には何もないって思ってるだろうけど、そんな事ない。見えてないだけでほんとはちゃんとそこにある。これからは僕だってここにいる。ねっ?」
さっきから一度も離される事のない僕の手を、さらに強くきゅっと握ったのが伝わってきた。
誰よりも狭い世界で生きてきた僕が何を偉そうに……笑っちゃうね。心の中で盛大に突っ込みを入れる。さっきの言葉も本当は、前世で僕が祖母に言われ続けた事だ。
「情報がその箱の中にしかないと思っているなら大間違いですよ。遠ざけているから見えていないだけで、そこかしこに情報はちゃんとあるんです」
そう言われたのがついこの間の事のようだ。やはり祖母はリスペクトすべき存在。言葉の一つ一つが今になって身に染みる……
それにしても、今ここで彼に会えて良かった。実は、僕が再会を急いだのには訳があるんだ。
母親を死に至らしめた公爵家だけに受け継がれるスキル【毒生成】。死因を聞いて僕は気づいた。
僕の記憶に間違いがなければ、それはあるファンタジー小説の中に出てくるラスボスの魔法だ。
この世界には魔法がない。いや、正確には固有スキルが魔法みたいなものだ。だけど魔法という表現を使わないから、ここがその世界だとそのスキル名を聞くまで気がつかなかった。
前世で読んだ、ネット限定で公開されて大人気を博したファンタジー。それが『セイントキングダム』。
世界を恨んだある公爵の大魔法によって世界は腐り、崩壊へと向かう。それを防ぐため、選ばれし勇者は行く先々で様々な亜人を仲間に加え、悪の公爵へ決戦を挑む……という、典型的とも言えるありきたりな勇者の冒険譚だ。
なのにとても人気だったのは、これが読者参加型という、ある種お祭りのような作品だったからだ。
大筋の話、登場人物、変えられないエピソード以外は全て読者からの投稿をもとに進められる。
話が崩壊しない程度の規定はあれど、参加者みんながまるで自分の作品のようにこの小説を愛し、そして熱狂的なムーブメントを呼んだのだ。
とはいえ、あくまでネット上での事。権利関係でもめにもめ、紙媒体へと進化はできなかった……それはそれは残念な結末。
そう、僕も暇つぶしとして幾度か投稿した事があり、実は一度だけ採用された事がある。
その投稿エピソードこそが、まさにラスボス公爵と英雄の出会いの場面だった。五百文字程度の短い文章だったけど、僕は公爵のビジュアルに思春期の理想をぎっしりと詰め込み、それはもう事細かに描写して採用されたのだ。
絶望に濡れる濃紫の瞳、人を寄せ付けないプラチナの髪、百八十を超す長身に、すらりとして均整の取れた身体、背に孤独の影を背負い、甘いバリトンの声は……以下略……
ぎゃぁぁぁー! 恥ずかしい! それなんて厨二……
ああ……どうりで初対面から妙に顔を直視できない訳だ。恥じ入っていたのか、僕は……
だからこんなにも彼を守らなきゃって、使命感にも似た感情が湧き上がったのか!
ラスボス公爵には『毒公爵』という二つ名以外の正式名はなく、『ユーリウス』なんて雅びな名前も持っていなかった。結びつく訳がない。体躯の良いセクシーで大人な公爵と、成長期前のきゃるるんな彼に共通点はほとんどない。瞳の色と髪色以外は……
あああ……「見えてないだけでそこかしこに情報はちゃんとある」……やはり祖母は正しかった。
話を戻すと、そのラスボス公爵の大魔法の名前がまさに【毒生成】だったのだ。
って事はある意味、僕はユーリの生みの親みたいなもの。やぁ公爵、こんなところで再会できるなんて嬉しいよ。だけど大丈夫! 君には僕がついてるからね。生みの親だもの、君の事は必ず僕が守ってあげる!
それはそうと、戻ったらまずは何か食べさせなくちゃ。まぁこんなにも細くなって……
僕は前世であんな終わりを迎えたから、今世は少しばかり食にうるさいのだよ。反動ってやつ。
公爵邸に戻ると、執事のおじいさんが満面の笑みで出迎えてくれた。
「おお、無事お会いできたようで、良かったですな」
「その節はどうも、執事さん。あの、さっきのトマトはどこですか? それと厨房を借りても良いですか?」
「私の事はオスモとお呼びください、小さなお客人。調理場……トマトを調理なさるのですか?」
おっと、聞き捨てならないな。
「ちょうど食材も持ってるし、何か作って食べさせようかなって。なんだか随分痩せたみたいだから。それから僕はそれほど小さくないですよ」
こういう事はハッキリ言っておかないとね。
「え……ですが、ユーリウス様は今何もお召し上がりにはなれず……」
なにっ! 新情報だ。だからあんなに痩せたのか。まぁ気持ちは分かるけど……
「食べられないの? それとも食べたくないの?」
「味がしないんだ……。何を食べても味がしないから食べたくない……」
気分的なものだろうかと聞いてみると、実際味がしないと言う。
何て事だ! 彼は味覚障害を起こしている。『ストレスによる心因性症状一覧』にあったあれだろうか? それとも他に原因が? どうしよう……
「でも……食べてみたいな。アッシュが作ってくれるものなら食べてみたい。作るところを見てていいかい?」
公爵様が厨房なんかに入っていいんだろうか? 少なくともオスモさんが一瞬顔をしかめたのを見逃さなかったよ、目ざといのだ僕は。
まあいいかと厨房に移動して、調理台にお土産にしようと買い込んだ、村では手に入らない食材の数々を並べる。なんて間の良い。
調理台は今の僕にはとても、いや少し、……ほんのちょっとだけ高い。空いた木箱を足台にして次々と弱った胃にも優しいものを作っていく。
まずはトマトとチーズのカプレーゼを……おっとその前に、大事な事を忘れていた。
僕は調理の手を止めて真っ赤なトマトをひと切れ取り、そのまま彼の口へポイっと放り込む。
「あ……甘い……なぜ……? アッシュ! 味が分かる!」
味見するって約束を果たそうと舌が反応したのかな? なら、やっぱり心因性で確定だ……
「成功かな?」
「ふふ、成功だ」
「二つの意味で成功だね」
よかった。これで作り甲斐がある。過去にお料理動画を視漁っておいて良かったよ。
栄養と消化を考え、白パンとミルクにチーズをたっぷり入れたミルク粥と、それからミルクにすりおろし人参を入れた甘くて優しい味のポタージュスープを作った。明日になったらもう少し固形のものを作ってあげよう。
「ふーふー、はい、あーん。熱いから火傷しないよう気をつけて」
「え、あ、だけど……その……、ああ、ん! このパン粥、美味しい。とても美味しい」
口元までスプーンを運ぶと、公爵様の矜持だろうか? ユーリは少しだけ躊躇った。けど最後には観念してひな鳥のように口を開ける。カワイイなぁ……
「じゃあもう一口ね、ふー、はいあーん」
「誰かと一緒の食事なんて……大伯父以外……初めてだ。ん、やっぱり美味しい」
そう言えば貴族の食事はお付きの人って背後で見てるだけだっけ? こんな時くらい一緒に食べてあげればいいのに。貴族ってホントめんどくさい。
そうやって手ずから食べさせているうちに、器はどんどん空になっていった。
そのまま調理台をテーブルにしていたから、シェフをはじめとした使用人たちはドン引きしてるみたい。遠巻きにされたまま背中に彼らの視線だけが突き刺さる。まぁ別に気にしないけどね。
そんな中、従者のアレクシさんだけが空になった器を感慨深げに眺めている。彼は本当に主人想いの善良な従者だ。
ユーリはお腹がいっぱいになって気が抜けたのか、なんだか眠そうだ。食事も済んだし、次は休息が必要だよね。
うとうとし始めたユーリをアレクシさんと一緒に寝室へ送る道すがら、ふいに荒れ果てたその部屋が視界に入った。
「どうしたのこれ? とてもその……あー、ここだけ台風でもきたのかな?」
「あ……それは……その……僕が……あの……」
ユーリは口ごもる。あああれか。思春期の子供が壁に穴開けたり……それの最上級バージョン。
「そういう事ね。でもなんでまたそのままに? 片付けようよ」
少ないったって、これだけの使用人がいてこのままだなんて……怠慢じゃないの?
「触らないよう、ユーリウス様がおっしゃいまして……」
「ユーリはガベージアートが趣味なの? もう片付けていいよね。良くないよ、荒れた部屋をそのままにしておくのは。部屋の乱れは心の乱れって言うからね」
「かまわない。いいよ、アッシュの好きにして……」
僕は本以外で部屋を散らかした事はあまりない。だが、母親と言い合いをするたび無性に書棚を分類し直した。するといつの間にか心は整った。もちろんこれも祖母の教えだ。
壊れた家具を部屋から出し、汚れたラグも剥がしてもらう。本当は破れたカーテンも外したかったが、見てはいけないものがうっかり見えてしまったのでそのままにした。
裏庭の方を見ないように伏せられた、ユーリの視線……。ああ……ここは地雷なのか。そうか。そうなのか……
おどろおどろしい裏庭。何があったかは大体想像がつく。同じような描写をWEB小説で読んだから。
……僕は何も見なかった。おかしな空気感を誤魔化すように寝室への道を急いだ。
体力の限界だったのか、寝室へ着くなり、ユーリはすぐに寝入ってしまった。アレクシさんは感慨深げに微笑み、僕に頭を下げる。
「こんなに安らかな表情でお眠りになるのはいつぶりだろうか。アッシュ君、君にはいくら感謝してもし足りないよ」
感謝……感謝か。僕は実際、自分のやりたい事をしている訳だが付け入るスキは逃さない。
「そう思うのなら一つお願いを聞いてもらってもいい? どうしてもしたい事があるんだ」
時間は有限。僕の夜はまだまだ終わらない。
まだ陽も昇りきらない早朝、焦ったようなユーリの声が屋敷に響いた。
「アレクシ! アッシュの姿が見えないんだ! どこに行った? 帰ったりはしていないだろうか?」
「大丈夫ですよ。アッシュ君は庭にいます」
「えっ……庭に……?」
庭という言葉を聞いて、ユーリの声に不安が滲む。
「アッシュ君を信じてぜひカーテンをお開けください。そこに彼はいます。心配いりませんよ」
その会話のあとも待てど暮らせどカーテンは開かない。大丈夫だよ、信じてユーリ。僕はユーリのどんな姿も受け入れ態勢万全だから。
この窓から庭を眺める……それはユーリにとって心の傷とも言えるものだ。
昨夜アレクシさんから聞かされたこの惨状の詳細は、胸を締め付けられるほど痛々しく惨く、そして辛いものだった。
ユーリのお母さん、カルロッタさんはいつもこの庭に立っていた。最愛の夫と出会った薔薇園だけが彼女にとって世界の全て。美しい顔は正気を失いユーリと同じ紫の瞳には狂気が灯った。彼女は血濡れた指を拭いもしないで薔薇の手入れだけを続けていたのだ。
後ろからどれほど息子が母を呼ぼうが、気を引こうと必死になって話しかけようが、チラリとも振り向かないで背中だけを向け続けたのだ……。だからユーリは毒素を吐いた。その薔薇を見るのも嫌だと半狂乱になりながら。
どれほど逡巡したのだろう。しばらくして、カーテンはようやくソロリソロリと開かれた。
「あ……」
よく見て、ユーリ。カルロッタさんの庭はもうどこにもない。
そこに広がるのは一面の焼け野原。毒を中和するため、僕は夜明けを待って野焼きをしたのだ。
「灰は毒を中和するうえに、栄養になるからね。きっと来年にはとても良い土になるよ」
「アッシュ……」
今にも泣き出しそうなユーリの顔。カーテンを開ける、たったそれだけの事に彼はどれほどの勇気を振り絞ったのか。
「ここにおいでよユーリ」
「僕は……行けない……そこに……庭には出たくないんだ……」
「そっか。じゃぁそこで見ててね。『種子創造』」
汚染を免れた綺麗な土面にスキルで苗を植えていく。赤青黄色、色とりどりの、祖母がよく植えていた小さく素朴な花たち。
「これが僕のスキル『種子創造』だよ。土が戻ったところから順番に植えていこう! ほら見て、お日様を浴びてお花が生き生きしてるでしょ。君が見るべきものはこういう光景なんだよ!」
昨夜、僕はアレクシさんに言ったのだ。
荒れた庭をこんな風に放置してはいけない。生き物はちゃんと世話しないとダメなのだと。荒れた庭を視界に入れるたびによりいっそう心は荒れていく。枯れた植物をそのままにすると心も同じように枯れていく。生きた人間は生きた花を視界に入れて元気を分けてもらうんだと。庭は心のあり方を映し出す。
……まぁ、全部僕の尊敬する祖母の受け売りだけど……
我ながらよく頑張ったと思う。僕は一睡もせず夜通し枯れた草木を抜き、色の変わった土を集め、腐食した支柱を廃棄した。僕はたった一晩でカルロッタさんの薔薇園とユーリによる毒の痕跡を消したのだ。
瞬きもせず庭に見入るユーリの頬は、心なしか上気している。
「どうかな?」
「驚いた……とても嬉しいよ。ああ……この庭は僕と君の庭に生まれ変わったんだ……。そうだ、薔薇園なんてここにはなかった。ここは初めから僕と君、二人だけの庭だった……」
窓際まで駆け寄った僕へと、白魚のようなユーリの指がまっすぐ伸ばされる。
「あ、待った! さすがにちょっと灰まみれで申し訳なさすぎる。手を洗ってくるからちょっと待ってて」
「いいんだアッシュ。そのままでいい。その手を取りたいんだ。ふふ、アッシュが灰まみれだなんて……、名は体を表すとはこの事だ。灰は栄養になる……か……ふふ、あはは」
ユーリのこんな笑い声、出会ってから初めて聞く。ああ……感動で胸がつぶれそうだ。
昨日は泣いて、今日は大笑いして、ユーリの顔にはたった一日で色んな表情が戻ってきた。ガラス玉みたいな濃紫の瞳にも輝きが充ちている……
良かった。この顔が見られただけでも、ここに来た甲斐があったというものだ。
灰だらけの僕に執事のオスモさんは朝からお湯を溜めてくれた。朝風呂か……めんどくさいな。けど、ユーリが背中を流すと言い張っているのでありがたくお受けしよう。
そうしたらその後は厨房に籠らなければ。なにしろユーリときたら、僕の手作り朝食しか食べないと言い張るのだ。
シェフは憮然としていたが知った事か! オスモさんとアレクシさん以外、僕はこの屋敷の使用人を好きにはなれない。いつも遠巻きに僕とユーリを眺めるだけで決して近寄ってはこないから。
朝食を作る僕の周りをウロウロとする可愛いユーリ。子供みたいだ。
「夜は湯葉を作ってあげる。栄養があって食べやすいよ。実はね、昨日の晩から仕込んであるんだから!」
「ふふ、楽しみだ。待って、じゃあ今日も一緒にいられるのかい?」
「うんまぁ、でも明日にはいったん帰るよ。刈り入れもあるし」
「え……」
「そんな顔しないの。またすぐに遊びに来るから」
参ったな……。僕は自ら地雷を踏んだようだ……
明日の帰郷を告げてから、ユーリの情緒は乱れに乱れ、誰の言葉にも耳を貸さずに僕の腕にすがり続けた。
これは……デジャブだ! あの日の別れ際と同じじゃないか! ああ……。あの時どれほど大変だった事か。僕は内心のオロオロをおくびにも出さず、ただひたすら説得を試みる。
「アッシュ……帰ってはダメだ」
「刈り入れが終わったら戻ってくるから」
「アッシュ……帰らないで……」
「すぐだよ。すぐ戻ってくる。今回は急な事だったから、なんにも準備してないんだ」
「必要なものなら公爵家で全て整える。それでは駄目か?」
「そっちの準備じゃなくて……」
参ったな……。すがりつくその姿が愛しいと言えば愛しい。あ、あれ? 僕は何を言ってるんだ。
とにかくこのままここに居座るなんて事、ちょっとそれはポリシーに反する。
「ユーリ、君と僕は友達だって言ったよね。僕は友達って対等なものだと思ってる」
……今までリア友いた事ないけどね。けど『友人関係に悩んだら読む本』にはそう書いてあった。
ユーリはその紫の瞳に今にも零れ落ちそうなほどの涙を溜め、それでも僕の話を静かに聞く。なんてお行儀が良いんだろう。いつでも食い気味に母の話を遮っていた前世の自分とはえらい違いだ。猛省……
「何の用意もなくこのまま君の厚意に甘えてだらだらとお世話になるなんて、周りは僕がたかってるって思うだろうし僕もそんなのは嫌だ」
「そ、そんなの気にする必要など……領内にいるのは僕の領民で……この屋敷には僕と僕の使用人しかいない……」
大上段な台詞のはずが自嘲気味に聞こえるのはなぜなのか。
それでも僕は冷静に説得を続ける。
彼との間に利害があるのは嫌だという事、何があろうと僕はユーリと対等でいたいという事。
「僕が出会ったのは公爵じゃない、ただの泣き虫な男の子だ。僕はユーリに、僕の前では肩書なんか何もないただのユーリでいて欲しい」
「……ただの僕なら空っぽだ……。僕は公爵でなければ何の価値もない存在だから……」
「ユーリのバカ! 僕のユーリを価値がないなんて言わないで!」
なんて事を言うんだろう!
思わず大声になる僕にユーリの肩がビクっと竦む。だけど彼は我が子も同然。ユーリの発したその言葉は、まるで自分が否定されたみたいでとてもスルーはできなかったのだ。
「ユーリは僕の事を権威に群がる農家の子だって、そう思う?」
「まさか! 思わないよ……」
ユーリは油断するとすぐ闇に呑まれそうになる。ラスボスまっしぐら、大変だ。目が離せない。
「良かった。ねぇユーリ、僕はいつでも自分の意思で君の傍にいたい。君に乞われたからとか、アレクシさんに頼まれたからとか……そんな理由でここにいるのはイヤなんだ」
ユーリは従者のアレクシさんに一瞬だけ視線をやる。昨日から見ていたけど、アレクシさんの深い思いはどうも一方通行のようだ。
これほど彼の事を考えているのに、ユーリときたらわりとそっけない。主従関係って報われない。
このまま彼の傍にいたいのは正直な気持ちだ。だけど、うちみたいな零細農家はこんな僕一人でもいないととても困るだろう。家族に迷惑かけてまでワガママを通すのは、前世で色々やらかした身の上としてもうしないって決めている。
だからこそ一回家に帰る。ちゃんと色々下準備をして、それから自分の意思でここに戻ってくる。僕はそう切々と訴えた。
「すぐに戻るから、待っててくれる? そうしたら二人で生きていこう? 百年先まで一緒だって誓うよ。信じてる! 同じ時間を刻んでいけるって!」
勢いで言ってはみたけど、まだ出会ってから数日なのに何を言ってるんだろうか僕は……。ぽろっと『歴史を超えて歌い継がれる最強恋愛ソング』の中にある一曲の歌詞が口を衝いて出てしまった。だけどその違和感に気づく者は、ありがたい事にここにはいない。
それどころか、ユーリにはなぜかその言葉が響いたようだ。すごいな、最強恋愛ソング……
「信じたい……僕たちは同じ時間を刻めるって……信じたい、だからアッシュ……、一日も早く僕の元へ帰ってきて……」
その後僕たちは、昨晩と違い随分遅くまで話し込んだ。
その中身はたわいもない内容ばかりだったけど、彼はそのうちに小さな寝息を立て始めた。僕を両腕で抱きしめながら……
これは抱き枕というやつだろうか……?
まぁ別に? 問題ないっちゃ問題ないけど? 一回り大きなユーリの腕にすっぽりと包まれていると……なんか……妙に身体が熱い。……ああ、眠気と共に僕の体温も上がってきたのかもしれない……
そう結論付け、少し考えた結果同じように彼をソロソロと抱きしめ返し、昨夜の完徹に白旗を上げた僕はあっさり眠りに落ちていった。
翌朝、厨房に新しく置かれた僕と彼のためだけの、小さいけど高そうなテーブルで朝食を済ませた。
その後、彼はしびれを切らした家庭教師に無理やり書斎へ連れていかれた。葬儀があったり正気でなかったり、あげく王都に出かけていたりして、もう何日も勉強は中断されていた。成果報酬である家庭教師は、このままじゃ今月のお給料がガタ減りなのだとか。
ユーリは今日は嫌だと随分拗ねていたけど、「その間にたくさんの作り置きのおかずを用意しておいてあげる」と言ったら、振り返りならもしぶしぶ書斎へ入っていった。
日持ちのしそうなものを中心にこしらえながら、僕は通りかかったオスモさんに、いくつかの疑問をぶつけてみた。
「なんだってまた、公爵家では近親婚を続けていたんですか? 良くない影響が出る事は周知のはず。それに公爵家にだけ爵位の継承が血族限定という特例があるのはなぜ? まぁそっちはなんとなく想像つくけど……」
「……公爵位を直系血族にしか継承しないのは、想像通りスキルのためです」
【毒生成】のスキルを確実に継ぎ、そして王家が抱え込むために王家によって定められた忌まわしき因習。それが近親婚であり血族継承。血を濃くし毒の純度を上げる、それだけのために。
だが濃くなり過ぎたその毒は、結果スキルの持ち主を体の内から蝕み……成人を迎えられない早死にが続いた。血統が途切れる事を恐れた王家は、今度はそれを禁忌とした。なんて身勝手な。
「なんか……王族に連なる希少な家系のわりに扱いがこう、雑……」
「王族に連なるとはいえ、体内で毒を作る公爵家のスキルを彼らはよく思ってはいないのです」
書斎から戻ってきたアレクシさんはオスモさんの言葉を引き継ぎながら忌々しげに眉をひそめる。
「むしろ忌み嫌っていると言ってもいい。都合のいい時だけその毒を差し出させておきながら……。いいかい、ユーリウス様は王宮での行事に招かれる事はない」
ユーリに届けられる形ばかりの招待状には、末尾に必ず『体調等を鑑み、けして無理に参加はしないように』と書かれている。それがアレクシさんには許せないらしいのだとか……
「ふーん、でも公式行事なんて面倒なもの出なくていいならそれに越した事ないと思うんだけど。準備するのも移動も、それに行ってからも、全部大変でしょ?」
しがらみの多い貴族社会では断るのも一苦労だ。「一つ楽できて良かったね」と言うとアレクシさんの困り眉は困惑と共にさらに下がった。
そこに本日の抗議、いや、本日の講義を終えたユーリが飛び込んでくる。
「楽……ふふ、アッシュはいつも素敵な考え方をするね。そうか、そう思えば良かったのか」
「ユーリ、講義はもう終わったの? ほら、貯蔵庫いっぱいに作っておいたよ。スーシェフがスキルで保存をかけてくれたからしばらく持つよ。いい? ちゃんと食べなきゃダメだよ。次来た時には一緒にお風呂に入って確認するからね」
ユーリは顔を伏せながら、それでも赤い顔で「分かった……」と素直に返事をしてくれた。昨日の説得は功を奏したようだ。
◇◆◇
「アレクシ、アッシュに頼んでくれたのか? ここに留まってくれるように……」
「え、ええ。今のユーリウス様には彼が必要かと思いましたので。ですが彼は先ほどお話しされていた事と同じ事を申されました」
アッシュの言葉が思い出される。彼は僕に肩書のないただのユーリウスでいて欲しいと言ったのだ。対等でいたいと、そうまっすぐ僕の目を見て……
「彼を利用していると周りに誤解されるのは嫌だ。たとえそれが真実じゃなくても、そう思われるのも、付け込まれる隙を作るのも絶対嫌だ。彼の足を引っ張りたくない……そう頑なにおっしゃいました」
「そんな事を……」
感情に任せ、きっとアッシュは自分が何を口にしたかも覚えていないだろう。だが僕は忘れない。彼はハッキリ「僕のユーリ」と、そう言ったのだ。
それだけではない。彼は無駄にさせてしまった翼竜便の代金をアレクシが支払おうとしても、固辞したというのだ。あれは自分の意志で決めた事だからと。
「翼竜の代金は決して安くはなかったはずだ……」
「自分でそうしたいと思ったんだから払ってもらうのは筋違いだ、そうおっしゃって。お小さいのに随分と男気にあふれた少年ですね、アッシュ君は」
「そう、自分の意志……そうか……」
そうだ。アッシュは家令によって連れてこられたアレクシとも、大伯父上によって雇われた家庭教師とも違う。自分の意志で、誰に何を言われたでもなくここに来たのだ。いくら開け放たれていようが、誰も足を踏み入れなかった正門をくぐって、自分自身で僕の元へとやってきた……
ならば残りの数時間を悲しい気持ちで過ごしたくない。アッシュと過ごせる時間はあとたった一日なのだ。
彼はすぐに戻ってくると言った。だがそれは数日したら、という意味ではないだろう。
何しろアッシュは僕と同じまだ十二歳。両親は家を離れる事にそう易々と許可を出したりはしないはずだ。マァの村はこの公爵領の管轄地で、口減らしが必要なほど貧しくはない。せめて成人までは手元に置きたいのが普通の親というものだろう。
アッシュの言う準備が何の事かは分からない。だが彼は、家族に対しても誠実であろうとしているのだ。僕も誠実であらねばならない。彼と歩むに相応しい男として。
「あー、会えて良かった。その……ねぇ、君に会いに来たんだよ、約束をどうしても守りたくて」
「アッシュ……」
「そうだよ、アッシュだよ。覚えていてくれてありがとう。それからここまで来てくれた事も、……ありがとう」
「アッシュ……」
壊れたスピーカーみたいに彼は僕の名前を繰り返す。
困ったな……こういう時はどうすればいい?
僕の困惑を見透かしたように、タイミング良く声がかかる。
「失礼、私はユーリウス様の従者アレクシだ。アッシュ君、どうしても今日帰らないといけないのかい? そうじゃないならぜひ屋敷に泊まっていってはくれないか。ここまで訪ねて来てくれた君をこんな風に帰す事など、公爵家としてとてもできない」
ここまで走ってきたのだろう。右に左に乱れたグレージュの髪を整える事も忘れ、荒い息のままアレクシと名乗った柔和な顔の従者は言った。
「大丈夫だけど……ちょっと待ってて。……おじさ~ん、料金はそのまま受け取ってくれていいから、僕の搭乗キャンセルで! ユーリ、本当に泊まってもいいの?」
「……ユーリ……?」
ん? ……何を戸惑ってるんだろう? あぁっ! ヤバイ、脳内の呼び名で呼んでしまった。距離を詰めるのが早すぎただろうか。コミュ力~! もっと仕事しろっ!
心配で思わず「ダメかな」って聞いたら、ユーリはうつむき加減に、それでもはにかみながら「かまわない」って返してくれた。
ホッとしながらアレクシさんに誘導されて公爵家の馬車に乗り込む。おおっ、クッションがふかふかだ。
ユーリは僕の手を握りしめたまま、それでも何も話さない。僕は場の空気に耐えきれず、たまりかねて彼の頭を一撫でした。するとその綺麗な目から大きな雫が零れ落ちた。
う、うぉぉぉ! こんな時、なんて言葉をかければいいのかさっぱり分からない。だから黙ってハグをする。ハグするのが一番良いって確か『初めての育児』に書いてあった!
「う……うぅ……うああ……ああ……うぅ……」
どうしていいかも分からずに、彼の涙が止まるまで僕はひたすら抱きしめ続けた。
「あ、それ」
ようやく泣き止んだ彼を改めてよく見てみれば、その手にはお土産代わりに置いていった僕の自慢の望遠鏡を握りしめている。
ガラスから凸レンズを作るのは少し大変だった。だけど、前世の夜には見えなかった満天の星をどうしても鮮明に見たくって必死に作ったのだ。彼はそれをここまでずっと握りしめてきたらしい。
「ねぇ、アッシュ、望遠鏡……なぜ置いていったんだ?」
「望遠鏡は大事だけど、君の方が大事だもの」
たった一つしかない望遠鏡。だけどそれより貴重で大切で、代わりの利かない唯一無二、それがユーリだ。
「大事……アッシュは僕が大事なのか? どうして? たった一度しか会ってないのに……」
「どうしても! だってあの日、君を護るって決めたんだもの」
「それだけでここまで来たのか?」
「そうだよ。それよりあの屋敷は不用心だよね。正門の施錠ガバガバだったよ?」
「あの門を越えてきたのか……」
あの夏の日と同じように、ユーリは目を見開く。
そんなに驚く事だろうか。別に鉄壁の要塞、アルカトラズじゃあるまいし……
「それよりほら、覗いてごらんよ」
「何も見えない……」
「馬鹿だね、こんな狭いところでこんな近くを見てるからだよ。ほら、レンズを外に向けて向こうの木を見て」
人は辛い時ほど近視になる。目の前の事情にいっぱいいっぱいで……世界が広いって事をつい忘れてしまう。
「すごい……あんなに遠くのものが近くに見える……」
「広い世界に目を向けていれば色んな物が見えてくるよ。君は今、自分には何もないって思ってるだろうけど、そんな事ない。見えてないだけでほんとはちゃんとそこにある。これからは僕だってここにいる。ねっ?」
さっきから一度も離される事のない僕の手を、さらに強くきゅっと握ったのが伝わってきた。
誰よりも狭い世界で生きてきた僕が何を偉そうに……笑っちゃうね。心の中で盛大に突っ込みを入れる。さっきの言葉も本当は、前世で僕が祖母に言われ続けた事だ。
「情報がその箱の中にしかないと思っているなら大間違いですよ。遠ざけているから見えていないだけで、そこかしこに情報はちゃんとあるんです」
そう言われたのがついこの間の事のようだ。やはり祖母はリスペクトすべき存在。言葉の一つ一つが今になって身に染みる……
それにしても、今ここで彼に会えて良かった。実は、僕が再会を急いだのには訳があるんだ。
母親を死に至らしめた公爵家だけに受け継がれるスキル【毒生成】。死因を聞いて僕は気づいた。
僕の記憶に間違いがなければ、それはあるファンタジー小説の中に出てくるラスボスの魔法だ。
この世界には魔法がない。いや、正確には固有スキルが魔法みたいなものだ。だけど魔法という表現を使わないから、ここがその世界だとそのスキル名を聞くまで気がつかなかった。
前世で読んだ、ネット限定で公開されて大人気を博したファンタジー。それが『セイントキングダム』。
世界を恨んだある公爵の大魔法によって世界は腐り、崩壊へと向かう。それを防ぐため、選ばれし勇者は行く先々で様々な亜人を仲間に加え、悪の公爵へ決戦を挑む……という、典型的とも言えるありきたりな勇者の冒険譚だ。
なのにとても人気だったのは、これが読者参加型という、ある種お祭りのような作品だったからだ。
大筋の話、登場人物、変えられないエピソード以外は全て読者からの投稿をもとに進められる。
話が崩壊しない程度の規定はあれど、参加者みんながまるで自分の作品のようにこの小説を愛し、そして熱狂的なムーブメントを呼んだのだ。
とはいえ、あくまでネット上での事。権利関係でもめにもめ、紙媒体へと進化はできなかった……それはそれは残念な結末。
そう、僕も暇つぶしとして幾度か投稿した事があり、実は一度だけ採用された事がある。
その投稿エピソードこそが、まさにラスボス公爵と英雄の出会いの場面だった。五百文字程度の短い文章だったけど、僕は公爵のビジュアルに思春期の理想をぎっしりと詰め込み、それはもう事細かに描写して採用されたのだ。
絶望に濡れる濃紫の瞳、人を寄せ付けないプラチナの髪、百八十を超す長身に、すらりとして均整の取れた身体、背に孤独の影を背負い、甘いバリトンの声は……以下略……
ぎゃぁぁぁー! 恥ずかしい! それなんて厨二……
ああ……どうりで初対面から妙に顔を直視できない訳だ。恥じ入っていたのか、僕は……
だからこんなにも彼を守らなきゃって、使命感にも似た感情が湧き上がったのか!
ラスボス公爵には『毒公爵』という二つ名以外の正式名はなく、『ユーリウス』なんて雅びな名前も持っていなかった。結びつく訳がない。体躯の良いセクシーで大人な公爵と、成長期前のきゃるるんな彼に共通点はほとんどない。瞳の色と髪色以外は……
あああ……「見えてないだけでそこかしこに情報はちゃんとある」……やはり祖母は正しかった。
話を戻すと、そのラスボス公爵の大魔法の名前がまさに【毒生成】だったのだ。
って事はある意味、僕はユーリの生みの親みたいなもの。やぁ公爵、こんなところで再会できるなんて嬉しいよ。だけど大丈夫! 君には僕がついてるからね。生みの親だもの、君の事は必ず僕が守ってあげる!
それはそうと、戻ったらまずは何か食べさせなくちゃ。まぁこんなにも細くなって……
僕は前世であんな終わりを迎えたから、今世は少しばかり食にうるさいのだよ。反動ってやつ。
公爵邸に戻ると、執事のおじいさんが満面の笑みで出迎えてくれた。
「おお、無事お会いできたようで、良かったですな」
「その節はどうも、執事さん。あの、さっきのトマトはどこですか? それと厨房を借りても良いですか?」
「私の事はオスモとお呼びください、小さなお客人。調理場……トマトを調理なさるのですか?」
おっと、聞き捨てならないな。
「ちょうど食材も持ってるし、何か作って食べさせようかなって。なんだか随分痩せたみたいだから。それから僕はそれほど小さくないですよ」
こういう事はハッキリ言っておかないとね。
「え……ですが、ユーリウス様は今何もお召し上がりにはなれず……」
なにっ! 新情報だ。だからあんなに痩せたのか。まぁ気持ちは分かるけど……
「食べられないの? それとも食べたくないの?」
「味がしないんだ……。何を食べても味がしないから食べたくない……」
気分的なものだろうかと聞いてみると、実際味がしないと言う。
何て事だ! 彼は味覚障害を起こしている。『ストレスによる心因性症状一覧』にあったあれだろうか? それとも他に原因が? どうしよう……
「でも……食べてみたいな。アッシュが作ってくれるものなら食べてみたい。作るところを見てていいかい?」
公爵様が厨房なんかに入っていいんだろうか? 少なくともオスモさんが一瞬顔をしかめたのを見逃さなかったよ、目ざといのだ僕は。
まあいいかと厨房に移動して、調理台にお土産にしようと買い込んだ、村では手に入らない食材の数々を並べる。なんて間の良い。
調理台は今の僕にはとても、いや少し、……ほんのちょっとだけ高い。空いた木箱を足台にして次々と弱った胃にも優しいものを作っていく。
まずはトマトとチーズのカプレーゼを……おっとその前に、大事な事を忘れていた。
僕は調理の手を止めて真っ赤なトマトをひと切れ取り、そのまま彼の口へポイっと放り込む。
「あ……甘い……なぜ……? アッシュ! 味が分かる!」
味見するって約束を果たそうと舌が反応したのかな? なら、やっぱり心因性で確定だ……
「成功かな?」
「ふふ、成功だ」
「二つの意味で成功だね」
よかった。これで作り甲斐がある。過去にお料理動画を視漁っておいて良かったよ。
栄養と消化を考え、白パンとミルクにチーズをたっぷり入れたミルク粥と、それからミルクにすりおろし人参を入れた甘くて優しい味のポタージュスープを作った。明日になったらもう少し固形のものを作ってあげよう。
「ふーふー、はい、あーん。熱いから火傷しないよう気をつけて」
「え、あ、だけど……その……、ああ、ん! このパン粥、美味しい。とても美味しい」
口元までスプーンを運ぶと、公爵様の矜持だろうか? ユーリは少しだけ躊躇った。けど最後には観念してひな鳥のように口を開ける。カワイイなぁ……
「じゃあもう一口ね、ふー、はいあーん」
「誰かと一緒の食事なんて……大伯父以外……初めてだ。ん、やっぱり美味しい」
そう言えば貴族の食事はお付きの人って背後で見てるだけだっけ? こんな時くらい一緒に食べてあげればいいのに。貴族ってホントめんどくさい。
そうやって手ずから食べさせているうちに、器はどんどん空になっていった。
そのまま調理台をテーブルにしていたから、シェフをはじめとした使用人たちはドン引きしてるみたい。遠巻きにされたまま背中に彼らの視線だけが突き刺さる。まぁ別に気にしないけどね。
そんな中、従者のアレクシさんだけが空になった器を感慨深げに眺めている。彼は本当に主人想いの善良な従者だ。
ユーリはお腹がいっぱいになって気が抜けたのか、なんだか眠そうだ。食事も済んだし、次は休息が必要だよね。
うとうとし始めたユーリをアレクシさんと一緒に寝室へ送る道すがら、ふいに荒れ果てたその部屋が視界に入った。
「どうしたのこれ? とてもその……あー、ここだけ台風でもきたのかな?」
「あ……それは……その……僕が……あの……」
ユーリは口ごもる。あああれか。思春期の子供が壁に穴開けたり……それの最上級バージョン。
「そういう事ね。でもなんでまたそのままに? 片付けようよ」
少ないったって、これだけの使用人がいてこのままだなんて……怠慢じゃないの?
「触らないよう、ユーリウス様がおっしゃいまして……」
「ユーリはガベージアートが趣味なの? もう片付けていいよね。良くないよ、荒れた部屋をそのままにしておくのは。部屋の乱れは心の乱れって言うからね」
「かまわない。いいよ、アッシュの好きにして……」
僕は本以外で部屋を散らかした事はあまりない。だが、母親と言い合いをするたび無性に書棚を分類し直した。するといつの間にか心は整った。もちろんこれも祖母の教えだ。
壊れた家具を部屋から出し、汚れたラグも剥がしてもらう。本当は破れたカーテンも外したかったが、見てはいけないものがうっかり見えてしまったのでそのままにした。
裏庭の方を見ないように伏せられた、ユーリの視線……。ああ……ここは地雷なのか。そうか。そうなのか……
おどろおどろしい裏庭。何があったかは大体想像がつく。同じような描写をWEB小説で読んだから。
……僕は何も見なかった。おかしな空気感を誤魔化すように寝室への道を急いだ。
体力の限界だったのか、寝室へ着くなり、ユーリはすぐに寝入ってしまった。アレクシさんは感慨深げに微笑み、僕に頭を下げる。
「こんなに安らかな表情でお眠りになるのはいつぶりだろうか。アッシュ君、君にはいくら感謝してもし足りないよ」
感謝……感謝か。僕は実際、自分のやりたい事をしている訳だが付け入るスキは逃さない。
「そう思うのなら一つお願いを聞いてもらってもいい? どうしてもしたい事があるんだ」
時間は有限。僕の夜はまだまだ終わらない。
まだ陽も昇りきらない早朝、焦ったようなユーリの声が屋敷に響いた。
「アレクシ! アッシュの姿が見えないんだ! どこに行った? 帰ったりはしていないだろうか?」
「大丈夫ですよ。アッシュ君は庭にいます」
「えっ……庭に……?」
庭という言葉を聞いて、ユーリの声に不安が滲む。
「アッシュ君を信じてぜひカーテンをお開けください。そこに彼はいます。心配いりませんよ」
その会話のあとも待てど暮らせどカーテンは開かない。大丈夫だよ、信じてユーリ。僕はユーリのどんな姿も受け入れ態勢万全だから。
この窓から庭を眺める……それはユーリにとって心の傷とも言えるものだ。
昨夜アレクシさんから聞かされたこの惨状の詳細は、胸を締め付けられるほど痛々しく惨く、そして辛いものだった。
ユーリのお母さん、カルロッタさんはいつもこの庭に立っていた。最愛の夫と出会った薔薇園だけが彼女にとって世界の全て。美しい顔は正気を失いユーリと同じ紫の瞳には狂気が灯った。彼女は血濡れた指を拭いもしないで薔薇の手入れだけを続けていたのだ。
後ろからどれほど息子が母を呼ぼうが、気を引こうと必死になって話しかけようが、チラリとも振り向かないで背中だけを向け続けたのだ……。だからユーリは毒素を吐いた。その薔薇を見るのも嫌だと半狂乱になりながら。
どれほど逡巡したのだろう。しばらくして、カーテンはようやくソロリソロリと開かれた。
「あ……」
よく見て、ユーリ。カルロッタさんの庭はもうどこにもない。
そこに広がるのは一面の焼け野原。毒を中和するため、僕は夜明けを待って野焼きをしたのだ。
「灰は毒を中和するうえに、栄養になるからね。きっと来年にはとても良い土になるよ」
「アッシュ……」
今にも泣き出しそうなユーリの顔。カーテンを開ける、たったそれだけの事に彼はどれほどの勇気を振り絞ったのか。
「ここにおいでよユーリ」
「僕は……行けない……そこに……庭には出たくないんだ……」
「そっか。じゃぁそこで見ててね。『種子創造』」
汚染を免れた綺麗な土面にスキルで苗を植えていく。赤青黄色、色とりどりの、祖母がよく植えていた小さく素朴な花たち。
「これが僕のスキル『種子創造』だよ。土が戻ったところから順番に植えていこう! ほら見て、お日様を浴びてお花が生き生きしてるでしょ。君が見るべきものはこういう光景なんだよ!」
昨夜、僕はアレクシさんに言ったのだ。
荒れた庭をこんな風に放置してはいけない。生き物はちゃんと世話しないとダメなのだと。荒れた庭を視界に入れるたびによりいっそう心は荒れていく。枯れた植物をそのままにすると心も同じように枯れていく。生きた人間は生きた花を視界に入れて元気を分けてもらうんだと。庭は心のあり方を映し出す。
……まぁ、全部僕の尊敬する祖母の受け売りだけど……
我ながらよく頑張ったと思う。僕は一睡もせず夜通し枯れた草木を抜き、色の変わった土を集め、腐食した支柱を廃棄した。僕はたった一晩でカルロッタさんの薔薇園とユーリによる毒の痕跡を消したのだ。
瞬きもせず庭に見入るユーリの頬は、心なしか上気している。
「どうかな?」
「驚いた……とても嬉しいよ。ああ……この庭は僕と君の庭に生まれ変わったんだ……。そうだ、薔薇園なんてここにはなかった。ここは初めから僕と君、二人だけの庭だった……」
窓際まで駆け寄った僕へと、白魚のようなユーリの指がまっすぐ伸ばされる。
「あ、待った! さすがにちょっと灰まみれで申し訳なさすぎる。手を洗ってくるからちょっと待ってて」
「いいんだアッシュ。そのままでいい。その手を取りたいんだ。ふふ、アッシュが灰まみれだなんて……、名は体を表すとはこの事だ。灰は栄養になる……か……ふふ、あはは」
ユーリのこんな笑い声、出会ってから初めて聞く。ああ……感動で胸がつぶれそうだ。
昨日は泣いて、今日は大笑いして、ユーリの顔にはたった一日で色んな表情が戻ってきた。ガラス玉みたいな濃紫の瞳にも輝きが充ちている……
良かった。この顔が見られただけでも、ここに来た甲斐があったというものだ。
灰だらけの僕に執事のオスモさんは朝からお湯を溜めてくれた。朝風呂か……めんどくさいな。けど、ユーリが背中を流すと言い張っているのでありがたくお受けしよう。
そうしたらその後は厨房に籠らなければ。なにしろユーリときたら、僕の手作り朝食しか食べないと言い張るのだ。
シェフは憮然としていたが知った事か! オスモさんとアレクシさん以外、僕はこの屋敷の使用人を好きにはなれない。いつも遠巻きに僕とユーリを眺めるだけで決して近寄ってはこないから。
朝食を作る僕の周りをウロウロとする可愛いユーリ。子供みたいだ。
「夜は湯葉を作ってあげる。栄養があって食べやすいよ。実はね、昨日の晩から仕込んであるんだから!」
「ふふ、楽しみだ。待って、じゃあ今日も一緒にいられるのかい?」
「うんまぁ、でも明日にはいったん帰るよ。刈り入れもあるし」
「え……」
「そんな顔しないの。またすぐに遊びに来るから」
参ったな……。僕は自ら地雷を踏んだようだ……
明日の帰郷を告げてから、ユーリの情緒は乱れに乱れ、誰の言葉にも耳を貸さずに僕の腕にすがり続けた。
これは……デジャブだ! あの日の別れ際と同じじゃないか! ああ……。あの時どれほど大変だった事か。僕は内心のオロオロをおくびにも出さず、ただひたすら説得を試みる。
「アッシュ……帰ってはダメだ」
「刈り入れが終わったら戻ってくるから」
「アッシュ……帰らないで……」
「すぐだよ。すぐ戻ってくる。今回は急な事だったから、なんにも準備してないんだ」
「必要なものなら公爵家で全て整える。それでは駄目か?」
「そっちの準備じゃなくて……」
参ったな……。すがりつくその姿が愛しいと言えば愛しい。あ、あれ? 僕は何を言ってるんだ。
とにかくこのままここに居座るなんて事、ちょっとそれはポリシーに反する。
「ユーリ、君と僕は友達だって言ったよね。僕は友達って対等なものだと思ってる」
……今までリア友いた事ないけどね。けど『友人関係に悩んだら読む本』にはそう書いてあった。
ユーリはその紫の瞳に今にも零れ落ちそうなほどの涙を溜め、それでも僕の話を静かに聞く。なんてお行儀が良いんだろう。いつでも食い気味に母の話を遮っていた前世の自分とはえらい違いだ。猛省……
「何の用意もなくこのまま君の厚意に甘えてだらだらとお世話になるなんて、周りは僕がたかってるって思うだろうし僕もそんなのは嫌だ」
「そ、そんなの気にする必要など……領内にいるのは僕の領民で……この屋敷には僕と僕の使用人しかいない……」
大上段な台詞のはずが自嘲気味に聞こえるのはなぜなのか。
それでも僕は冷静に説得を続ける。
彼との間に利害があるのは嫌だという事、何があろうと僕はユーリと対等でいたいという事。
「僕が出会ったのは公爵じゃない、ただの泣き虫な男の子だ。僕はユーリに、僕の前では肩書なんか何もないただのユーリでいて欲しい」
「……ただの僕なら空っぽだ……。僕は公爵でなければ何の価値もない存在だから……」
「ユーリのバカ! 僕のユーリを価値がないなんて言わないで!」
なんて事を言うんだろう!
思わず大声になる僕にユーリの肩がビクっと竦む。だけど彼は我が子も同然。ユーリの発したその言葉は、まるで自分が否定されたみたいでとてもスルーはできなかったのだ。
「ユーリは僕の事を権威に群がる農家の子だって、そう思う?」
「まさか! 思わないよ……」
ユーリは油断するとすぐ闇に呑まれそうになる。ラスボスまっしぐら、大変だ。目が離せない。
「良かった。ねぇユーリ、僕はいつでも自分の意思で君の傍にいたい。君に乞われたからとか、アレクシさんに頼まれたからとか……そんな理由でここにいるのはイヤなんだ」
ユーリは従者のアレクシさんに一瞬だけ視線をやる。昨日から見ていたけど、アレクシさんの深い思いはどうも一方通行のようだ。
これほど彼の事を考えているのに、ユーリときたらわりとそっけない。主従関係って報われない。
このまま彼の傍にいたいのは正直な気持ちだ。だけど、うちみたいな零細農家はこんな僕一人でもいないととても困るだろう。家族に迷惑かけてまでワガママを通すのは、前世で色々やらかした身の上としてもうしないって決めている。
だからこそ一回家に帰る。ちゃんと色々下準備をして、それから自分の意思でここに戻ってくる。僕はそう切々と訴えた。
「すぐに戻るから、待っててくれる? そうしたら二人で生きていこう? 百年先まで一緒だって誓うよ。信じてる! 同じ時間を刻んでいけるって!」
勢いで言ってはみたけど、まだ出会ってから数日なのに何を言ってるんだろうか僕は……。ぽろっと『歴史を超えて歌い継がれる最強恋愛ソング』の中にある一曲の歌詞が口を衝いて出てしまった。だけどその違和感に気づく者は、ありがたい事にここにはいない。
それどころか、ユーリにはなぜかその言葉が響いたようだ。すごいな、最強恋愛ソング……
「信じたい……僕たちは同じ時間を刻めるって……信じたい、だからアッシュ……、一日も早く僕の元へ帰ってきて……」
その後僕たちは、昨晩と違い随分遅くまで話し込んだ。
その中身はたわいもない内容ばかりだったけど、彼はそのうちに小さな寝息を立て始めた。僕を両腕で抱きしめながら……
これは抱き枕というやつだろうか……?
まぁ別に? 問題ないっちゃ問題ないけど? 一回り大きなユーリの腕にすっぽりと包まれていると……なんか……妙に身体が熱い。……ああ、眠気と共に僕の体温も上がってきたのかもしれない……
そう結論付け、少し考えた結果同じように彼をソロソロと抱きしめ返し、昨夜の完徹に白旗を上げた僕はあっさり眠りに落ちていった。
翌朝、厨房に新しく置かれた僕と彼のためだけの、小さいけど高そうなテーブルで朝食を済ませた。
その後、彼はしびれを切らした家庭教師に無理やり書斎へ連れていかれた。葬儀があったり正気でなかったり、あげく王都に出かけていたりして、もう何日も勉強は中断されていた。成果報酬である家庭教師は、このままじゃ今月のお給料がガタ減りなのだとか。
ユーリは今日は嫌だと随分拗ねていたけど、「その間にたくさんの作り置きのおかずを用意しておいてあげる」と言ったら、振り返りならもしぶしぶ書斎へ入っていった。
日持ちのしそうなものを中心にこしらえながら、僕は通りかかったオスモさんに、いくつかの疑問をぶつけてみた。
「なんだってまた、公爵家では近親婚を続けていたんですか? 良くない影響が出る事は周知のはず。それに公爵家にだけ爵位の継承が血族限定という特例があるのはなぜ? まぁそっちはなんとなく想像つくけど……」
「……公爵位を直系血族にしか継承しないのは、想像通りスキルのためです」
【毒生成】のスキルを確実に継ぎ、そして王家が抱え込むために王家によって定められた忌まわしき因習。それが近親婚であり血族継承。血を濃くし毒の純度を上げる、それだけのために。
だが濃くなり過ぎたその毒は、結果スキルの持ち主を体の内から蝕み……成人を迎えられない早死にが続いた。血統が途切れる事を恐れた王家は、今度はそれを禁忌とした。なんて身勝手な。
「なんか……王族に連なる希少な家系のわりに扱いがこう、雑……」
「王族に連なるとはいえ、体内で毒を作る公爵家のスキルを彼らはよく思ってはいないのです」
書斎から戻ってきたアレクシさんはオスモさんの言葉を引き継ぎながら忌々しげに眉をひそめる。
「むしろ忌み嫌っていると言ってもいい。都合のいい時だけその毒を差し出させておきながら……。いいかい、ユーリウス様は王宮での行事に招かれる事はない」
ユーリに届けられる形ばかりの招待状には、末尾に必ず『体調等を鑑み、けして無理に参加はしないように』と書かれている。それがアレクシさんには許せないらしいのだとか……
「ふーん、でも公式行事なんて面倒なもの出なくていいならそれに越した事ないと思うんだけど。準備するのも移動も、それに行ってからも、全部大変でしょ?」
しがらみの多い貴族社会では断るのも一苦労だ。「一つ楽できて良かったね」と言うとアレクシさんの困り眉は困惑と共にさらに下がった。
そこに本日の抗議、いや、本日の講義を終えたユーリが飛び込んでくる。
「楽……ふふ、アッシュはいつも素敵な考え方をするね。そうか、そう思えば良かったのか」
「ユーリ、講義はもう終わったの? ほら、貯蔵庫いっぱいに作っておいたよ。スーシェフがスキルで保存をかけてくれたからしばらく持つよ。いい? ちゃんと食べなきゃダメだよ。次来た時には一緒にお風呂に入って確認するからね」
ユーリは顔を伏せながら、それでも赤い顔で「分かった……」と素直に返事をしてくれた。昨日の説得は功を奏したようだ。
◇◆◇
「アレクシ、アッシュに頼んでくれたのか? ここに留まってくれるように……」
「え、ええ。今のユーリウス様には彼が必要かと思いましたので。ですが彼は先ほどお話しされていた事と同じ事を申されました」
アッシュの言葉が思い出される。彼は僕に肩書のないただのユーリウスでいて欲しいと言ったのだ。対等でいたいと、そうまっすぐ僕の目を見て……
「彼を利用していると周りに誤解されるのは嫌だ。たとえそれが真実じゃなくても、そう思われるのも、付け込まれる隙を作るのも絶対嫌だ。彼の足を引っ張りたくない……そう頑なにおっしゃいました」
「そんな事を……」
感情に任せ、きっとアッシュは自分が何を口にしたかも覚えていないだろう。だが僕は忘れない。彼はハッキリ「僕のユーリ」と、そう言ったのだ。
それだけではない。彼は無駄にさせてしまった翼竜便の代金をアレクシが支払おうとしても、固辞したというのだ。あれは自分の意志で決めた事だからと。
「翼竜の代金は決して安くはなかったはずだ……」
「自分でそうしたいと思ったんだから払ってもらうのは筋違いだ、そうおっしゃって。お小さいのに随分と男気にあふれた少年ですね、アッシュ君は」
「そう、自分の意志……そうか……」
そうだ。アッシュは家令によって連れてこられたアレクシとも、大伯父上によって雇われた家庭教師とも違う。自分の意志で、誰に何を言われたでもなくここに来たのだ。いくら開け放たれていようが、誰も足を踏み入れなかった正門をくぐって、自分自身で僕の元へとやってきた……
ならば残りの数時間を悲しい気持ちで過ごしたくない。アッシュと過ごせる時間はあとたった一日なのだ。
彼はすぐに戻ってくると言った。だがそれは数日したら、という意味ではないだろう。
何しろアッシュは僕と同じまだ十二歳。両親は家を離れる事にそう易々と許可を出したりはしないはずだ。マァの村はこの公爵領の管轄地で、口減らしが必要なほど貧しくはない。せめて成人までは手元に置きたいのが普通の親というものだろう。
アッシュの言う準備が何の事かは分からない。だが彼は、家族に対しても誠実であろうとしているのだ。僕も誠実であらねばならない。彼と歩むに相応しい男として。
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ダリルには前世の記憶があり、自分がBL小説『薔薇色の君』に登場する悪役令息だということも理解している。
最初は悪役令息の言動に抵抗があり、穏便に婚約破棄の流れに持っていけないか奮闘していたダリルだが、物語と違った行動をする度に過去に飛ばされやり直しを強いられてしまう。
そのやり直しで弟を巻き込んでしまい彼を死なせてしまったダリルは、心を鬼にして悪役令息の役目をやり通すことを決めた。
そしてついに、婚約者のアルフレッドから婚約破棄を言い渡された……――。
(もうこれからは小説の展開なんか気にしないで自由に生きれるんだ……!)
学園追放&勘当され、晴れて自由の身となったダリルは、高額な給金につられ、呪われていると噂されるハウエル公爵家の使用人として働き始める。
そこで、顔の痣のせいで心を閉ざすハウエル家令息のカイルに気に入られ、さらには父親――ハウエル公爵家現当主であるカーティスと再婚してほしいとせがまれ、一年だけの契約結婚をすることになったのだが……――
元・悪役令息が第二の人生で公爵様に溺愛されるお話です。
余命僅かの悪役令息に転生したけど、攻略対象者達が何やら離してくれない
上総啓
BL
ある日トラックに轢かれて死んだ成瀬は、前世のめり込んでいたBLゲームの悪役令息フェリアルに転生した。
フェリアルはゲーム内の悪役として15歳で断罪される運命。
前世で周囲からの愛情に恵まれなかった成瀬は、今世でも誰にも愛されない事実に絶望し、転生直後にゲーム通りの人生を受け入れようと諦観する。
声すら発さず、家族に対しても無反応を貫き人形のように接するフェリアル。そんなフェリアルに周囲の過保護と溺愛は予想外に増していき、いつの間にかゲームのシナリオとズレた展開が巻き起こっていく。
気付けば兄達は勿論、妖艶な魔塔主や最恐の暗殺者、次期大公に皇太子…ゲームの攻略対象者達がフェリアルに執着するようになり…――?
周囲の愛に疎い悪役令息の無自覚総愛されライフ。
※最終的に固定カプ
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