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ある程度話がまとまった頃、いよいよピエタの町は夜に沈みはじめた。
エンディミオンたちは緊張感を持ち直したが、待ち構えている時ほど何事も起こらない。
だんだんと風が強くなってきたが、それだけ。
時おり邸の窓を叩くように風が吹きつけ、その度にルチアーノが大袈裟なほど怯えるが、邸の外で魔物が動く気配はなく、鳥の羽ばたきひとつ聞こえない。
それがいっそう不気味に思えて、携帯食だけの夕飯はメロ以外ほとんど喉を通らなかった。
昨晩と合わせて一睡もせずに夜を越すのも明日に障るからと、侯爵の寝室を中心に何部屋かに分かれて休息をとりはじめたが、全員眠れる気はしなかった。
*
新月を前に、夜闇を照らすのは邸の窓から漏れる明かりと、無機質な星の煌めきだけ。
そんな中、二、三日眠らなかったからといってどうということもなく、闇魔法に対抗し得る星を持ったラガロだけが邸の外に出て、金の眼を光らせながら周囲を警戒していた。
魔物や鳥たちが襲ってくるとしても夜がいちばん深まった頃だと予測はしているが、宿営地に魔物が現れた時のようなピリピリと首筋を走る感覚は今のところない。
風に混じり、昼間と変わらない気持ちの悪い空気が聖堂のほうから流れてくるのは苛立たしいが、ずいぶん安い挑発だとそこへ飛び込む動機になるほどではなかった。
こちらを煽るかのような静寂に、ただ手をこまねいているだけなのはもちろん性に合わない。
けれどこの場を離れて単身乗り込もうとは思わないのは、「そうすべきではない」とわかっているからだ。
今夜何か起こそうと思っても、碌なことにはならない。
それはラガロの星が明確に告げていることだった。
「────探しものは見つかったのか?」
「ダメだね。ぜーんぜんっ」
侯爵の寝室の真下、聖堂を臨めるバルコニーを庭から見上げると、フェリックスが石造りの欄干に腰かけて向こうの様子を伺っていた。
諦め悪く、探索の魔法を使っているのはすぐにわかった。
人物でも魔物でも、何か決定打になりそうなものを探っているのか、室内から漏れる明かりに浮かぶ顔は青白く、泥水の中で綺麗な水を選り分けているような顔をしている。
「どうせ何もわからないなら魔力を無駄にするな」
「わー。やなコト言う。
せめてなんかわかんないかなーっていう努力賞でしょ」
フェリックスはいつものように胡散臭い顔で笑っているが、ラガロは目を眇めて腕組みをした。
「それが無駄だと言っている」
「無駄かー。やっぱここからだと遠いから、もちょっと近くに行ってみたいとこだけど、どう思う?」
「部屋に戻って休め」
「取りつく島もないじゃん」
金の目の気迫に、フェリックスはケラケラと笑って手を振った。
「そんな怖い顔で見張ってなくても、お前を出し抜いて何かできるとも思ってないから心配は無用だって」
「口先だけで誤魔化せる相手か判断してものを言え」
「えぇー、めっちゃ本心で言ってるのに疑われるのは心外なんですケド?」
「本心で言っていても、行動は別だろう」
「……ま、それはそーだね」
ラガロの容赦ない追求に、そう簡単じゃないかとフェリックスは笑顔を消して頷いた。
「大したカードも持ってないし、お前相手に説き伏せるのはメンドウだと思ってるのはホント。力じゃどうしたって敵わないしなー。……二人で試しに乗込んでみるのはあり?」
「今夜はやめておけ」
「あー、やめておいたほうがいいワケね。それってラガロの勘?」
「確信だ」
「そっかー、なら困ったなあ」
大して困ってもいない顔で、諦めたように見せかけた空気をまとい、その実で全く諦めていない赤い目が夜の中に浮かんでいる。
そこにほとんど尽きかけている魔力を注ぎ込み、見えないものを見ようとしている輝きが消えない。
スコルピオーネの星を得てから、フェリックスの目の赤みは増した。
そこに噴水の泉に浮かんでいた祝福の星そのものが宿ったように、ラガロの星の力でもフェリックスの使う探索魔法を抑えることは難しい。
どうしても、そこに行きたい理由があるのか。
赤い目を睨みつけながら湧きあがったその問いを、ラガロは飲み込んだ。
それは、自分が負う役目ではない。
「今お前に必要なのは休息だな」
「え、やさしいこと言うラガロとか気味悪いんだけど」
「優しさで言っているわけではないから安心しろ」
何を言っても煙に巻いて核心を悟らせない男を暴くのは、自分ではない。
例えこのまま問い詰めたところでかわされるだけだとわかりきっていたし、そこにフェリックスを任せるのに最も適任だと思える人影が見えたので、ラガロは赤い目からあっさりと視線を逸らせた。
急に身を引いたラガロの視線が自身の背後に向かったのを、フェリックスも自然に追う。
「……フェリックス様。私も、今宵は休まれたほうが良いと思いますわ」
「クラリーチェ」
いつの間にか、バルコニーにクラリーチェが立っていた。
「……あれー?セーラちゃんとベアトリーチェ嬢と休んでたんじゃなかった?」
「アンジェロ様にいっとき護衛をお任せしてまいりました」
「アンジェロなら一晩でも二晩でも任されそうだよねー」
柔和な空気を作り直し、フェリックスはクラリーチェに向かい合った。
「フェリックス、俺は見回りに戻るが、余計なことは絶対するなよ」
そう釘を刺しながら、あとをクラリーチェに託してラガロはその場を去って行った。
「オレって信用なくない?」
ラガロが残した言葉を茶化すように笑って見送ったけれど、クラリーチェがその冗談を笑うことはない。
「フェリックス様のことを心配されているのだと思いますわ」
「ラガロが?オレを?ないない」
「もちろん、私も案じておりました!」
重くなりそうな雰囲気を察して努めて明るく返したフェリックスに、遮るような強さでクラリーチェも言い足した。
言葉の強さに驚いて、困ったような笑顔を作るフェリックスに、クラリーチェはポツポツと胸の中にある不安を吐き出す。
「……ジョバンニが魔力枯渇の話をした時、フェリックス様は最終的な限界を見誤らなかったと言っていましたが、それでも、もうずいぶんと無理をしていらっしゃいます」
「うーん、でも、ねえ?今っていちばんムリのしどきじゃない?」
「そのムリは、本当に必要な無理でしょうか?私には、フェリックス様のおっしゃっているムリが、別のところにあるような気がします」
「ええ?クラリーチェはおかしなこと言うなあ」
少しの違和感は、どこからあっただろうか。
それまで馬車の中ではほとんど意識を失っているように眠っていて、昨晩は魔物の襲撃で休むどころではなく、王都を経って二日でどうにかなるような疲労ではなかったはずだ。
それでもピエタの町に入ってからは、おそろしいほどの集中力でつねに魔法を使っていた。
広範囲に及ぶものではなく、聖堂に焦点を合わせて、泥の中の何かをずっと細い棒で探っているような、そんな魔力の練り方だと思った。
地下に下りた時は、危険のないように周辺を探っていたけれど、それでも意識はずっと聖堂のほうへ向かっていた。
疲れきって、やめたいのに、やめることを許されていないような切迫さが、フェリックスに暗い影を落としている。
些細な吐息や表情、会話の運び方、そのどれをとってもいつもどおりのはずなのに、クラリーチェにはその影が付きまとっているように見えた。
「フェリックス様がお気持ちを見せてくださらないのがお上手なことはもちろん存じております。
それでも、違うことくらいは私にもわかります。
私に言う必要がなく、誤魔化されたいのだとも重々承知で、それでもそんなにお辛そうな状態を、私も見過ごせません」
フェリックスの目から決して逸らさず、クラリーチェの強い瞳が射抜く。
いつだって真っ直ぐ見てくるその目に、フェリックスは今度こそ本当に困った顔になる。
「……オレ、そんなにわかりやすいかなぁ」
観念するような弱い声がこぼれ、ふと魔法の気配が切れた。
赤い祝福から、宝石の瞳に戻り、クラリーチェを真正面から見つめ返す。
余計なものは何も見ていない、クラリーチェだけを映している瞳だ。
「私は、いつもフェリックス様を見ておりますから」
「やっぱりクラリーチェはそれくらい熱烈なほうが可愛いよね」
高く結い上げて、風に攫われていくクラリーチェの長い黒髪を指で巻き取り、フェリックスは一歩踏み込んで距離を縮めた。
戯れにそんなことをされると今は少し逃げ出したくなるクラリーチェだけれど、その髪に触れるささやかな動作が、逃したくない、縋りたい、というフェリックスの心の表れのようで、覚悟を決めてその場に踏みとどまった。
それがフェリックスの見せた嘘でも自分の勘違いでも、そのすべて丸ごと受け止めたい。
フェリックスの婚約者に名乗りをあげた少女の頃から、相手のどんな姿だって受け入れる、そういう覚悟で想いを深めるのがサジッタリオの一途さである。
「サジッタリオの矢は、どこまでも恋しい方を追うものですから、諦めてくださいませ」
「ふはっ、もう刺さってるかもしれないのに?」
「それなら本望でございます」
屈託なく笑ったフェリックスに、今はもう追い詰められている気配はない。
指先でクラリーチェの髪を遊びながら、どこから、何を話そうか、考えている気配がする。
「ねえ、クラリーチェ────」
フェリックスのためらっていた口が言葉を選んだ瞬間だった。
「「…………!!!!」」
二人はそろって聖堂を振り返った。
フェリックスの探索魔法を無理やりに引き出すほどの、クラリーチェのたゆまぬ鍛錬で培われた騎士の感覚を突然斬りつけるような、圧倒的な存在感────
「魔物だ!!」
今までどこに隠れていたのか、宿営地で見た魔物が子どもに見えるほどの巨体の大鷲が十体以上、聖堂の屋根の上に飛び上がり旋回をはじめた。
今まで感じたこともないほどの殺気をまとい、羽ばたきとともにこちらを殴りつけてくるようだ。
どこかでラガロが地上から邸の上に飛び上がった音がした。
窓があちこちで開き、エンディミオンたちも異変に気がついたのがわかる。
こちらへ来る、全員がそう思い臨戦態勢に入ったが、魔物は高く舞い上がると、一直線に南東へ向かいはじめた。
「え?!あちらは……」
「昨日の宿営地だ!」
魔物が向かったのは、峠をひとつ越えた先。
「どうして……」
魔物が飛び去ったあと、ピエタの町にはまた静寂が戻ってきた。
エンディミオンたちは緊張感を持ち直したが、待ち構えている時ほど何事も起こらない。
だんだんと風が強くなってきたが、それだけ。
時おり邸の窓を叩くように風が吹きつけ、その度にルチアーノが大袈裟なほど怯えるが、邸の外で魔物が動く気配はなく、鳥の羽ばたきひとつ聞こえない。
それがいっそう不気味に思えて、携帯食だけの夕飯はメロ以外ほとんど喉を通らなかった。
昨晩と合わせて一睡もせずに夜を越すのも明日に障るからと、侯爵の寝室を中心に何部屋かに分かれて休息をとりはじめたが、全員眠れる気はしなかった。
*
新月を前に、夜闇を照らすのは邸の窓から漏れる明かりと、無機質な星の煌めきだけ。
そんな中、二、三日眠らなかったからといってどうということもなく、闇魔法に対抗し得る星を持ったラガロだけが邸の外に出て、金の眼を光らせながら周囲を警戒していた。
魔物や鳥たちが襲ってくるとしても夜がいちばん深まった頃だと予測はしているが、宿営地に魔物が現れた時のようなピリピリと首筋を走る感覚は今のところない。
風に混じり、昼間と変わらない気持ちの悪い空気が聖堂のほうから流れてくるのは苛立たしいが、ずいぶん安い挑発だとそこへ飛び込む動機になるほどではなかった。
こちらを煽るかのような静寂に、ただ手をこまねいているだけなのはもちろん性に合わない。
けれどこの場を離れて単身乗り込もうとは思わないのは、「そうすべきではない」とわかっているからだ。
今夜何か起こそうと思っても、碌なことにはならない。
それはラガロの星が明確に告げていることだった。
「────探しものは見つかったのか?」
「ダメだね。ぜーんぜんっ」
侯爵の寝室の真下、聖堂を臨めるバルコニーを庭から見上げると、フェリックスが石造りの欄干に腰かけて向こうの様子を伺っていた。
諦め悪く、探索の魔法を使っているのはすぐにわかった。
人物でも魔物でも、何か決定打になりそうなものを探っているのか、室内から漏れる明かりに浮かぶ顔は青白く、泥水の中で綺麗な水を選り分けているような顔をしている。
「どうせ何もわからないなら魔力を無駄にするな」
「わー。やなコト言う。
せめてなんかわかんないかなーっていう努力賞でしょ」
フェリックスはいつものように胡散臭い顔で笑っているが、ラガロは目を眇めて腕組みをした。
「それが無駄だと言っている」
「無駄かー。やっぱここからだと遠いから、もちょっと近くに行ってみたいとこだけど、どう思う?」
「部屋に戻って休め」
「取りつく島もないじゃん」
金の目の気迫に、フェリックスはケラケラと笑って手を振った。
「そんな怖い顔で見張ってなくても、お前を出し抜いて何かできるとも思ってないから心配は無用だって」
「口先だけで誤魔化せる相手か判断してものを言え」
「えぇー、めっちゃ本心で言ってるのに疑われるのは心外なんですケド?」
「本心で言っていても、行動は別だろう」
「……ま、それはそーだね」
ラガロの容赦ない追求に、そう簡単じゃないかとフェリックスは笑顔を消して頷いた。
「大したカードも持ってないし、お前相手に説き伏せるのはメンドウだと思ってるのはホント。力じゃどうしたって敵わないしなー。……二人で試しに乗込んでみるのはあり?」
「今夜はやめておけ」
「あー、やめておいたほうがいいワケね。それってラガロの勘?」
「確信だ」
「そっかー、なら困ったなあ」
大して困ってもいない顔で、諦めたように見せかけた空気をまとい、その実で全く諦めていない赤い目が夜の中に浮かんでいる。
そこにほとんど尽きかけている魔力を注ぎ込み、見えないものを見ようとしている輝きが消えない。
スコルピオーネの星を得てから、フェリックスの目の赤みは増した。
そこに噴水の泉に浮かんでいた祝福の星そのものが宿ったように、ラガロの星の力でもフェリックスの使う探索魔法を抑えることは難しい。
どうしても、そこに行きたい理由があるのか。
赤い目を睨みつけながら湧きあがったその問いを、ラガロは飲み込んだ。
それは、自分が負う役目ではない。
「今お前に必要なのは休息だな」
「え、やさしいこと言うラガロとか気味悪いんだけど」
「優しさで言っているわけではないから安心しろ」
何を言っても煙に巻いて核心を悟らせない男を暴くのは、自分ではない。
例えこのまま問い詰めたところでかわされるだけだとわかりきっていたし、そこにフェリックスを任せるのに最も適任だと思える人影が見えたので、ラガロは赤い目からあっさりと視線を逸らせた。
急に身を引いたラガロの視線が自身の背後に向かったのを、フェリックスも自然に追う。
「……フェリックス様。私も、今宵は休まれたほうが良いと思いますわ」
「クラリーチェ」
いつの間にか、バルコニーにクラリーチェが立っていた。
「……あれー?セーラちゃんとベアトリーチェ嬢と休んでたんじゃなかった?」
「アンジェロ様にいっとき護衛をお任せしてまいりました」
「アンジェロなら一晩でも二晩でも任されそうだよねー」
柔和な空気を作り直し、フェリックスはクラリーチェに向かい合った。
「フェリックス、俺は見回りに戻るが、余計なことは絶対するなよ」
そう釘を刺しながら、あとをクラリーチェに託してラガロはその場を去って行った。
「オレって信用なくない?」
ラガロが残した言葉を茶化すように笑って見送ったけれど、クラリーチェがその冗談を笑うことはない。
「フェリックス様のことを心配されているのだと思いますわ」
「ラガロが?オレを?ないない」
「もちろん、私も案じておりました!」
重くなりそうな雰囲気を察して努めて明るく返したフェリックスに、遮るような強さでクラリーチェも言い足した。
言葉の強さに驚いて、困ったような笑顔を作るフェリックスに、クラリーチェはポツポツと胸の中にある不安を吐き出す。
「……ジョバンニが魔力枯渇の話をした時、フェリックス様は最終的な限界を見誤らなかったと言っていましたが、それでも、もうずいぶんと無理をしていらっしゃいます」
「うーん、でも、ねえ?今っていちばんムリのしどきじゃない?」
「そのムリは、本当に必要な無理でしょうか?私には、フェリックス様のおっしゃっているムリが、別のところにあるような気がします」
「ええ?クラリーチェはおかしなこと言うなあ」
少しの違和感は、どこからあっただろうか。
それまで馬車の中ではほとんど意識を失っているように眠っていて、昨晩は魔物の襲撃で休むどころではなく、王都を経って二日でどうにかなるような疲労ではなかったはずだ。
それでもピエタの町に入ってからは、おそろしいほどの集中力でつねに魔法を使っていた。
広範囲に及ぶものではなく、聖堂に焦点を合わせて、泥の中の何かをずっと細い棒で探っているような、そんな魔力の練り方だと思った。
地下に下りた時は、危険のないように周辺を探っていたけれど、それでも意識はずっと聖堂のほうへ向かっていた。
疲れきって、やめたいのに、やめることを許されていないような切迫さが、フェリックスに暗い影を落としている。
些細な吐息や表情、会話の運び方、そのどれをとってもいつもどおりのはずなのに、クラリーチェにはその影が付きまとっているように見えた。
「フェリックス様がお気持ちを見せてくださらないのがお上手なことはもちろん存じております。
それでも、違うことくらいは私にもわかります。
私に言う必要がなく、誤魔化されたいのだとも重々承知で、それでもそんなにお辛そうな状態を、私も見過ごせません」
フェリックスの目から決して逸らさず、クラリーチェの強い瞳が射抜く。
いつだって真っ直ぐ見てくるその目に、フェリックスは今度こそ本当に困った顔になる。
「……オレ、そんなにわかりやすいかなぁ」
観念するような弱い声がこぼれ、ふと魔法の気配が切れた。
赤い祝福から、宝石の瞳に戻り、クラリーチェを真正面から見つめ返す。
余計なものは何も見ていない、クラリーチェだけを映している瞳だ。
「私は、いつもフェリックス様を見ておりますから」
「やっぱりクラリーチェはそれくらい熱烈なほうが可愛いよね」
高く結い上げて、風に攫われていくクラリーチェの長い黒髪を指で巻き取り、フェリックスは一歩踏み込んで距離を縮めた。
戯れにそんなことをされると今は少し逃げ出したくなるクラリーチェだけれど、その髪に触れるささやかな動作が、逃したくない、縋りたい、というフェリックスの心の表れのようで、覚悟を決めてその場に踏みとどまった。
それがフェリックスの見せた嘘でも自分の勘違いでも、そのすべて丸ごと受け止めたい。
フェリックスの婚約者に名乗りをあげた少女の頃から、相手のどんな姿だって受け入れる、そういう覚悟で想いを深めるのがサジッタリオの一途さである。
「サジッタリオの矢は、どこまでも恋しい方を追うものですから、諦めてくださいませ」
「ふはっ、もう刺さってるかもしれないのに?」
「それなら本望でございます」
屈託なく笑ったフェリックスに、今はもう追い詰められている気配はない。
指先でクラリーチェの髪を遊びながら、どこから、何を話そうか、考えている気配がする。
「ねえ、クラリーチェ────」
フェリックスのためらっていた口が言葉を選んだ瞬間だった。
「「…………!!!!」」
二人はそろって聖堂を振り返った。
フェリックスの探索魔法を無理やりに引き出すほどの、クラリーチェのたゆまぬ鍛錬で培われた騎士の感覚を突然斬りつけるような、圧倒的な存在感────
「魔物だ!!」
今までどこに隠れていたのか、宿営地で見た魔物が子どもに見えるほどの巨体の大鷲が十体以上、聖堂の屋根の上に飛び上がり旋回をはじめた。
今まで感じたこともないほどの殺気をまとい、羽ばたきとともにこちらを殴りつけてくるようだ。
どこかでラガロが地上から邸の上に飛び上がった音がした。
窓があちこちで開き、エンディミオンたちも異変に気がついたのがわかる。
こちらへ来る、全員がそう思い臨戦態勢に入ったが、魔物は高く舞い上がると、一直線に南東へ向かいはじめた。
「え?!あちらは……」
「昨日の宿営地だ!」
魔物が向かったのは、峠をひとつ越えた先。
「どうして……」
魔物が飛び去ったあと、ピエタの町にはまた静寂が戻ってきた。
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