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その後の寅雄は、準備のために走り回った。まず、行きつけの飲み屋『火酒本舗』を訪れる。店の扉をガラッと開けると、店内にはテーブルといすとカウンターが並んでいる。
「すみませ~ん。今、準備中で……って寅雄じゃねえか。どうしたんだ?」
紺色の制服を着た背の高い店員が、声をかける。彼は寅雄の教育学部の数少ない友人で、『火酒本舗』の店長の息子なのだ。学業が暇なときには、こうして家業を手伝っている。
「実は、日本反帝同盟のことで、ちょっとな」
「はぁ? 寅雄、まだ、あんな胡散臭い極左サークル、辞めてなかったのかよ? 政治と宗教にはかかわるなって言っただろう。今は入ってから間がないから、火遊び程度で済んでいるけど、そのうち、抜けたくても本当に抜けられなくなるぜ。やつらはイデオロギーヤクザだからな」
「今は理由があって、まだ抜けるわけにはいかないんだ。それで今日は、頼みがあって来た。数日後にサークルの先輩方が、この店に飲みに来るが、そのときに小細工をしてほしくてな。これから俺が言う材料をそろえてほしい」
「おいおい、オレだって話ぐらいは聞くけどよぉ、あまり危ないことに巻き込まないでくれよ。オレにもしものことがあったら、親父もお袋も悲しむんだからよ。寅雄にも、死んだら悲しんでくれる家族がいるじゃねえか。家族愛って、気づかないのは本人だけで、実際には親は、かなり子供のことを心配しているんだぜ。でなきゃ、義務教育でもない大学まで通わせてくれねえよ。寅雄が何を企んでいるか知らねえけど、親だけは泣かすなよ」
そこで、寅雄は、そろえてほしい材料について話した。
「……なるほど。そういうことなら、協力させてもらうぜ。ただし、材料費はきちんと払えよ。あと、材料の加工は、オレは手伝えないから、自分できっちりやれよ」
こうして二人は、予約席の札を席に置き、材料を買ってきて加工し始めた。
その日は、七時ぐらいから日本反帝同盟の先輩方十数人を招き、酒宴が始まった。幹事である寅雄の「乾杯!」の合図で、皆がビールを飲み始め、飲み会が始まる。
「この店は、おでんが美味しいんですよ。先輩方もいかがですか?」
寅雄の勧めで、先輩方は「夏だけど、おでんも悪くないな」だの「冷酒に合いそうだ」だのと言いながら、おでんを注文する。しばらく、おでんを肴にしてビールや冷酒を飲んでいると、ふいに先輩方は、「何だ、こりゃ?」と首をかしげ始めた。それもそのはず。皆が口から、くしゃくしゃに丸められた紙を取り出したのだ。広げてみると、「井森寅雄が新たな革命組織を立ち上げる」だの「井森寅雄が極左組織を倒す」だのと書かれていた。そこで寅雄は、待ってましたとばかりに立ち上がる。
「あれれぇ、先輩方、いったい、何が起きたのでしょうか? まるで、『項羽と劉邦』で、強制労働に行かされる途中の農民たちが食べた魚から、『陳勝が王たらん』と書かれた布切れが出てきたみたいですね」
いささか芝居がかってはいるが、酒で頭が回らなくなっている先輩方は、信じてしまったようだ。実は、この紙片は、店に卵の上部だけを小さく割る器具があったのを、寅雄が思い出し、生卵の上部を小さく割って中に紙片をしのばせ、そのままゆで卵にして、おでんの出汁につけたのだ。
まずは成功だが、これは第一段階に過ぎない。先輩方の中には、まだ半信半疑の者もいるのだ。早速、次の料理を運んでもらう。
次は米粉のパンだ。これも中からは、「井森寅雄が新たな革命組織を立ち上げる」などと書かれた板切れが出てきた。これも実は、近所の喫茶店で作っている米粉のパン生地の中に、板切れを混ぜて焼いたものである。そして、寅雄は先ほどと同様に芝居がかった動作をして、酒で頭が回らなくなっている先輩方は信じてしまった。
そして、飲み会が終わって帰宅する頃になると、先輩方は、
「今すぐ一回生に演説とかさせるわけにはいかないが、井森には原稿を書かせても良いんじゃないか? それから、井森のマルクス主義の学識を、多少は認めてやっても良いんじゃないか?」
などと言い合うようになった。寅雄は思わず内心でガッツポーズをしていた。そんな中で、長い髪の毛でポッチャリした眼鏡の女子が、寅雄に声をかけてきた。
「井森くんだったよね。今日の作戦は、なかなか見事だったよ」
とたんに、寅雄はドキリとして、心臓が口から飛び出そうだった。何を隠そう。この女子こそ、日本反帝同盟の紅一点、総合科学部三回生のくるす来栖ゆうき優希なのだ。彼女いない歴=年齢の寅雄も、憧れてはいたが、手が届かない高嶺の花として、初めから諦めていた。その来栖優希が、向こうから声をかけてきたのだから、寅雄としては、この機会を逃す手はない。顔中真っ赤にしながら返事をする。
「い、いや……俺なんて、まだまだですよ……。今日なんて……辰夫先輩の仇を討つために……何とかして同志を集めようと……必死だっただけですから……」
優希はクスクス笑いながら、寅雄にスマホを差し出す。
「井森くんって、本当に面白い子だね。何なら、あたしとLINEアドレスを交換しない? ちょうど、あたしも夜中とかに、雑談できる相手が欲しかったからさ」
「良いんですか、俺なんかで? 俺なんて、ただの歴史小説オタクで、何のとりえも無いんですよ?」
「何言ってんのよ。そこが良いんじゃん。うちのサークルなんて、ほとんど哲学や経済学しか興味ないオタクばっかりだから、『三国志』とか『項羽と劉邦』とか語り合える人なんていないもん。井森くんみたいな人は貴重だよ」
早速、二人はLINEアドレスを交換する。この夜は、寅雄はサークル内の地位を上げたうえに、彼女までできるという、人生で最高の夜になった。
そして、その夜から優希とのLINEは始まった。
『こんばんは。井森くん、起きてる?』
『そりゃ、まだ十二時前ですから、起きてますよ』
『あはは。それもそうか。大学生は十二時前には寝ないよねぇ。子供じゃあるまいし』
『まあ、眠れなかったら、寝酒に缶ビールぐらいは飲みますがね』
二人とも緊張しているためか、まずはお互いに何気ない会話から入る。そんな雰囲気を壊そうとしたのか、優希が切り出す。
『まあ、お互いに緊張して話すのも何だから、ビール飲みながらでも良いよ。あたしも缶ビール飲んでるしさ。しらふじゃできない話もあるしね』
それを聞いて、寅雄も缶ビールを開けて飲む。
『ここからが本題だけどさ。井森くんって、今のサークルの現状を、どう思っている?』
とたんに寅雄は警戒し始めた。サークル内には極左組織のスパイが入りこんでいると、辰夫に聞かされていたので、優希がスパイではないかと疑ってしまったのだ。
『どうって言われましても、来栖さんこそ、どう思っているんですか? 俺みたいに入部して間もないやつに、そこまでわかるはずがないでしょう』
『あら、ひょっとして、あたしのこと警戒しているの? なら、身の潔白を証明するわ。これを見て』
その直後、優希から画像が送られてくる。寅雄は驚きのあまり、目が点になった。何と、それは優希が、極左組織の機関紙とレーニンの写真を、火にくべている画像だったのだ。
『どう? 少しは信用してくれた? この画像が極左組織の手に渡れば、あたしは粛清ものよ。こんなこと、井森くんをよほど信用していなければ、できないよ』
『わかりました。来栖さんのこと、信用します。実際、俺も辰夫さんの死が事故死だとは、どうしても信じられないんです。辰夫さんは、交通ルールをよく守る人でした。事故には人一倍、気をつけていたのに、それが事故死で詳しい説明もないなんて、おかしいです』
そこまで打つと、寅雄は思わず涙がこぼれてきた。誰にも言えずに胸の内にしまっていたことを、ようやく吐き出せたのだ。
『来栖さん、俺、すっごく嬉しいです。ようやく、来栖さんという信用できる人に出会えて。これで、ようやくサークルの闇に切り込めそうな気がします』
『あたしも同感よ。今まで、ずっと孤独だったもん。あたしの場合、兄が熱心な活動家でね。兄の影響で、極左や政治に興味をもつようになったの。日本反帝同盟に入ったのも、兄に熱心に誘われたからよ。入部した当初、あたしも熱心にマルクス主義を勉強し、活動にも参加した。当時は井森くん同様、三国志を熱心に読み込んでいたからね。劉備や諸葛亮が義のために身を捧げたように、あたしも共産革命に人生を捧げるんだって思っていた』
寅雄はすごく共感した。理想のために人生を捧げる生き方を、優希は寅雄以上に実践したのだ。
『でも、そのうち、あたしはサークルの宣伝のために入部させられたんだって気づいたの。日本反帝同盟って、男ばかりじゃん。そんな中に女の子が一人でもいると、サークルの信用やイメージアップにもなるしね。そのことを兄に問い詰めたんだけどさ。兄は、レーニンは革命のためには手段を選ばなかった、おまえもそれを見習え、と言うばかりだった』
『何ですか、それ? 来栖さんを政治のために利用していると言っているようなものじゃないですか。ひどいですよ』
『それでも、あたしは極左組織の報復を怖れて、退部もできなかった。おまけに、スパイによる密告も怖くて、サークル員の誰にも本音を打ち明けられなかった。でも、井森くんが現れて、ようやく本音を言えたんだ。信頼の証として、これから二人きりのときは、あたしのこと、優希って呼んで良いよ。あたしも寅雄って呼ぶからさ』
『良いですよ。優希さん』
その後、二人はすっかり打ち解けて話しこんだ。今の互いの生活に関しても、話題は尽きなかった。
『あたしのアパート、基本的に女性ばかりだから、のぞきなんかやるゲスな男は近づけないんだけどさ。柔道部や合気道部の女子もいるからね。男友達のアパートに泊まりに行くことはあっても、うちのアパートの部屋に男友達を呼ぶことはないから、セキュリティは万全よ。まあ、アパートの住人どうしで、親睦を深めるために、飲み会をやることはあるけどさ。もっとも、あたしはすぐ政治談議をやる性格だから、ウザがられていて、あまり住人どうしの飲み会には行かないんだけどね』
『俺だって、似たようなもんですよ。学部でもアパートでも浮いていて、ろくに友達もいませんから。もっとも、俺の場合は、周囲が美少女ゲームやガンダムのアニメしか興味ないオタクばかりだから、話が合わなくて自分から縁を切りましたが』
『あっははは。何だか、あたしたちって、似たものどうしだね。寅雄は、それでも極左組織に反旗を翻せる勇者で、あたしは助けを求めているけど行動に移せないお姫様ってところかな。ドストエフスキーが書いているように、人間って、自分と完全に性格が一致する同族とは、反発しあって仲良くなれないけど、少しでも違うところがあれば、わりと惹かれあうもんだからさ。寅雄とは末永く仲良くやれそうな気がするわ。二人で飲んだら、楽しいだろうなぁ。まあ、スパイに見つかれば大変だから、飲みに行けないけどさ』
二人は夜遅くまで語り合い、明け方近くに眠りに就いた。
「すみませ~ん。今、準備中で……って寅雄じゃねえか。どうしたんだ?」
紺色の制服を着た背の高い店員が、声をかける。彼は寅雄の教育学部の数少ない友人で、『火酒本舗』の店長の息子なのだ。学業が暇なときには、こうして家業を手伝っている。
「実は、日本反帝同盟のことで、ちょっとな」
「はぁ? 寅雄、まだ、あんな胡散臭い極左サークル、辞めてなかったのかよ? 政治と宗教にはかかわるなって言っただろう。今は入ってから間がないから、火遊び程度で済んでいるけど、そのうち、抜けたくても本当に抜けられなくなるぜ。やつらはイデオロギーヤクザだからな」
「今は理由があって、まだ抜けるわけにはいかないんだ。それで今日は、頼みがあって来た。数日後にサークルの先輩方が、この店に飲みに来るが、そのときに小細工をしてほしくてな。これから俺が言う材料をそろえてほしい」
「おいおい、オレだって話ぐらいは聞くけどよぉ、あまり危ないことに巻き込まないでくれよ。オレにもしものことがあったら、親父もお袋も悲しむんだからよ。寅雄にも、死んだら悲しんでくれる家族がいるじゃねえか。家族愛って、気づかないのは本人だけで、実際には親は、かなり子供のことを心配しているんだぜ。でなきゃ、義務教育でもない大学まで通わせてくれねえよ。寅雄が何を企んでいるか知らねえけど、親だけは泣かすなよ」
そこで、寅雄は、そろえてほしい材料について話した。
「……なるほど。そういうことなら、協力させてもらうぜ。ただし、材料費はきちんと払えよ。あと、材料の加工は、オレは手伝えないから、自分できっちりやれよ」
こうして二人は、予約席の札を席に置き、材料を買ってきて加工し始めた。
その日は、七時ぐらいから日本反帝同盟の先輩方十数人を招き、酒宴が始まった。幹事である寅雄の「乾杯!」の合図で、皆がビールを飲み始め、飲み会が始まる。
「この店は、おでんが美味しいんですよ。先輩方もいかがですか?」
寅雄の勧めで、先輩方は「夏だけど、おでんも悪くないな」だの「冷酒に合いそうだ」だのと言いながら、おでんを注文する。しばらく、おでんを肴にしてビールや冷酒を飲んでいると、ふいに先輩方は、「何だ、こりゃ?」と首をかしげ始めた。それもそのはず。皆が口から、くしゃくしゃに丸められた紙を取り出したのだ。広げてみると、「井森寅雄が新たな革命組織を立ち上げる」だの「井森寅雄が極左組織を倒す」だのと書かれていた。そこで寅雄は、待ってましたとばかりに立ち上がる。
「あれれぇ、先輩方、いったい、何が起きたのでしょうか? まるで、『項羽と劉邦』で、強制労働に行かされる途中の農民たちが食べた魚から、『陳勝が王たらん』と書かれた布切れが出てきたみたいですね」
いささか芝居がかってはいるが、酒で頭が回らなくなっている先輩方は、信じてしまったようだ。実は、この紙片は、店に卵の上部だけを小さく割る器具があったのを、寅雄が思い出し、生卵の上部を小さく割って中に紙片をしのばせ、そのままゆで卵にして、おでんの出汁につけたのだ。
まずは成功だが、これは第一段階に過ぎない。先輩方の中には、まだ半信半疑の者もいるのだ。早速、次の料理を運んでもらう。
次は米粉のパンだ。これも中からは、「井森寅雄が新たな革命組織を立ち上げる」などと書かれた板切れが出てきた。これも実は、近所の喫茶店で作っている米粉のパン生地の中に、板切れを混ぜて焼いたものである。そして、寅雄は先ほどと同様に芝居がかった動作をして、酒で頭が回らなくなっている先輩方は信じてしまった。
そして、飲み会が終わって帰宅する頃になると、先輩方は、
「今すぐ一回生に演説とかさせるわけにはいかないが、井森には原稿を書かせても良いんじゃないか? それから、井森のマルクス主義の学識を、多少は認めてやっても良いんじゃないか?」
などと言い合うようになった。寅雄は思わず内心でガッツポーズをしていた。そんな中で、長い髪の毛でポッチャリした眼鏡の女子が、寅雄に声をかけてきた。
「井森くんだったよね。今日の作戦は、なかなか見事だったよ」
とたんに、寅雄はドキリとして、心臓が口から飛び出そうだった。何を隠そう。この女子こそ、日本反帝同盟の紅一点、総合科学部三回生のくるす来栖ゆうき優希なのだ。彼女いない歴=年齢の寅雄も、憧れてはいたが、手が届かない高嶺の花として、初めから諦めていた。その来栖優希が、向こうから声をかけてきたのだから、寅雄としては、この機会を逃す手はない。顔中真っ赤にしながら返事をする。
「い、いや……俺なんて、まだまだですよ……。今日なんて……辰夫先輩の仇を討つために……何とかして同志を集めようと……必死だっただけですから……」
優希はクスクス笑いながら、寅雄にスマホを差し出す。
「井森くんって、本当に面白い子だね。何なら、あたしとLINEアドレスを交換しない? ちょうど、あたしも夜中とかに、雑談できる相手が欲しかったからさ」
「良いんですか、俺なんかで? 俺なんて、ただの歴史小説オタクで、何のとりえも無いんですよ?」
「何言ってんのよ。そこが良いんじゃん。うちのサークルなんて、ほとんど哲学や経済学しか興味ないオタクばっかりだから、『三国志』とか『項羽と劉邦』とか語り合える人なんていないもん。井森くんみたいな人は貴重だよ」
早速、二人はLINEアドレスを交換する。この夜は、寅雄はサークル内の地位を上げたうえに、彼女までできるという、人生で最高の夜になった。
そして、その夜から優希とのLINEは始まった。
『こんばんは。井森くん、起きてる?』
『そりゃ、まだ十二時前ですから、起きてますよ』
『あはは。それもそうか。大学生は十二時前には寝ないよねぇ。子供じゃあるまいし』
『まあ、眠れなかったら、寝酒に缶ビールぐらいは飲みますがね』
二人とも緊張しているためか、まずはお互いに何気ない会話から入る。そんな雰囲気を壊そうとしたのか、優希が切り出す。
『まあ、お互いに緊張して話すのも何だから、ビール飲みながらでも良いよ。あたしも缶ビール飲んでるしさ。しらふじゃできない話もあるしね』
それを聞いて、寅雄も缶ビールを開けて飲む。
『ここからが本題だけどさ。井森くんって、今のサークルの現状を、どう思っている?』
とたんに寅雄は警戒し始めた。サークル内には極左組織のスパイが入りこんでいると、辰夫に聞かされていたので、優希がスパイではないかと疑ってしまったのだ。
『どうって言われましても、来栖さんこそ、どう思っているんですか? 俺みたいに入部して間もないやつに、そこまでわかるはずがないでしょう』
『あら、ひょっとして、あたしのこと警戒しているの? なら、身の潔白を証明するわ。これを見て』
その直後、優希から画像が送られてくる。寅雄は驚きのあまり、目が点になった。何と、それは優希が、極左組織の機関紙とレーニンの写真を、火にくべている画像だったのだ。
『どう? 少しは信用してくれた? この画像が極左組織の手に渡れば、あたしは粛清ものよ。こんなこと、井森くんをよほど信用していなければ、できないよ』
『わかりました。来栖さんのこと、信用します。実際、俺も辰夫さんの死が事故死だとは、どうしても信じられないんです。辰夫さんは、交通ルールをよく守る人でした。事故には人一倍、気をつけていたのに、それが事故死で詳しい説明もないなんて、おかしいです』
そこまで打つと、寅雄は思わず涙がこぼれてきた。誰にも言えずに胸の内にしまっていたことを、ようやく吐き出せたのだ。
『来栖さん、俺、すっごく嬉しいです。ようやく、来栖さんという信用できる人に出会えて。これで、ようやくサークルの闇に切り込めそうな気がします』
『あたしも同感よ。今まで、ずっと孤独だったもん。あたしの場合、兄が熱心な活動家でね。兄の影響で、極左や政治に興味をもつようになったの。日本反帝同盟に入ったのも、兄に熱心に誘われたからよ。入部した当初、あたしも熱心にマルクス主義を勉強し、活動にも参加した。当時は井森くん同様、三国志を熱心に読み込んでいたからね。劉備や諸葛亮が義のために身を捧げたように、あたしも共産革命に人生を捧げるんだって思っていた』
寅雄はすごく共感した。理想のために人生を捧げる生き方を、優希は寅雄以上に実践したのだ。
『でも、そのうち、あたしはサークルの宣伝のために入部させられたんだって気づいたの。日本反帝同盟って、男ばかりじゃん。そんな中に女の子が一人でもいると、サークルの信用やイメージアップにもなるしね。そのことを兄に問い詰めたんだけどさ。兄は、レーニンは革命のためには手段を選ばなかった、おまえもそれを見習え、と言うばかりだった』
『何ですか、それ? 来栖さんを政治のために利用していると言っているようなものじゃないですか。ひどいですよ』
『それでも、あたしは極左組織の報復を怖れて、退部もできなかった。おまけに、スパイによる密告も怖くて、サークル員の誰にも本音を打ち明けられなかった。でも、井森くんが現れて、ようやく本音を言えたんだ。信頼の証として、これから二人きりのときは、あたしのこと、優希って呼んで良いよ。あたしも寅雄って呼ぶからさ』
『良いですよ。優希さん』
その後、二人はすっかり打ち解けて話しこんだ。今の互いの生活に関しても、話題は尽きなかった。
『あたしのアパート、基本的に女性ばかりだから、のぞきなんかやるゲスな男は近づけないんだけどさ。柔道部や合気道部の女子もいるからね。男友達のアパートに泊まりに行くことはあっても、うちのアパートの部屋に男友達を呼ぶことはないから、セキュリティは万全よ。まあ、アパートの住人どうしで、親睦を深めるために、飲み会をやることはあるけどさ。もっとも、あたしはすぐ政治談議をやる性格だから、ウザがられていて、あまり住人どうしの飲み会には行かないんだけどね』
『俺だって、似たようなもんですよ。学部でもアパートでも浮いていて、ろくに友達もいませんから。もっとも、俺の場合は、周囲が美少女ゲームやガンダムのアニメしか興味ないオタクばかりだから、話が合わなくて自分から縁を切りましたが』
『あっははは。何だか、あたしたちって、似たものどうしだね。寅雄は、それでも極左組織に反旗を翻せる勇者で、あたしは助けを求めているけど行動に移せないお姫様ってところかな。ドストエフスキーが書いているように、人間って、自分と完全に性格が一致する同族とは、反発しあって仲良くなれないけど、少しでも違うところがあれば、わりと惹かれあうもんだからさ。寅雄とは末永く仲良くやれそうな気がするわ。二人で飲んだら、楽しいだろうなぁ。まあ、スパイに見つかれば大変だから、飲みに行けないけどさ』
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