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影と日向 1
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アントワーヌを怒らせてはいけない。
が、アントワーヌから逃げなくてはいけない。
ジョゼフィーネの頭にある、2つのこと。
より重要なのは2つ目だった。
今のアントワーヌは、とても危険だと感じられる。
殺されるのではないかとの不安をいだいていた。
心の警鐘が鳴り続けている。
なにかをしくじって殺されることはできないのだ。
ジョゼフィーネは帰ることしか考えていないのだから。
「トニー……ここは、リフルワンス……?」
「そうだよ、ジョージー。もう何も心配することはないんだ。ここにいれば安全だからね」
こくりと、うなずいてみせる。
ひとまず自分のいる場所の確認はできた。
ここはやはりリフルワンスで、けれど屋敷ではない。
どこかの廃屋のようだ。
室内も荒れていて、薄汚かった。
座れそうなイスすらない有り様だ。
汚れているから座れないのではなく、壊れそうで座れない。
「これから……どう、なるの……?」
アントワーヌが濁った目のままで微笑む。
ひどく怖かったが、怯えた様子を見せれば、アントワーヌは怒るに違いない。
リフルワンスの「ジョージー」は、アントワーヌに怯えたことなどなかった。
それを踏襲すべく、ジョゼフィーネは意識を分散させる。
嫌なことがあった時の精神的な対処方法だ。
真っ向から受け止めず、言葉を聞いていても、別のことを考える。
メイドや姉たちの仕打ちに、こんなふうにしてジョゼフィーネは耐えてきた。
「これからのことは私に任せてほしい。明日にはここを出て、ちゃんとした屋敷に移るつもりだよ。別宅を、友人が手配してくれている」
別宅。
つまり、そういうことだ。
アントワーヌは、自分を愛妾として囲うつもりでいる。
そこに連れて行かれるのだけは避けたかった。
殺されなくても、なにをされるかわからない。
じくじくと胸の奥が痛む。
ディーナリアスの暖かい手が恋しかった。
ほかの誰かにさわられるのは嫌だと感じる。
きっと。
自分とアントワーヌになにかあったとしても、それが本意でなかったことを、ディーナリアスはわかってくれるだろう。
そして許してもくれる。
だとしても、ジョゼフィーネ自身が嫌なのだ。
(そんなの……死んでも嫌……でも、殺されたら、もうディーンに会えない……)
どちらも嫌だが、逃げる方法も思いつかない。
心で逃げるのは得意だが、実際の「逃走」などしたことがなかった。
力ではアントワーヌに勝てないとわかっている。
うまく丸め込めればいいのだが、ジョゼフィーネは言葉を操るのも苦手だ。
こんな時、記憶にあるドラマでは「トイレに…」と言い、その場を離れたりするのが定番だった。
さりとて、この世界には「トイレ」というものがない。
赤ん坊の頃、状況把握に努めていた際に知り、驚いたのを覚えている。
この世界の人の体質は、どこか根本的に前世の記憶とは違うのだ。
が、少し違うアレンジを加えれば、なんとかなるかもしれない。
はたと思いつき、ジョゼフィーネは少しうつむいた。
ディーナリアスからは「顔が正直」と言われている。
アントワーヌに表情を読まれることは避けたかった。
「あの……ここ、空気が……ちょっとだけ……外に、出たい、かも……」
外に出て、隙をうかがい、逃げる。
周囲がどうなっているのかわからないが、様子を見る時間くらいはあるはずだ。
場合によっては、アントワーヌを突き飛ばしてでも逃げる。
そう決めた。
引きこもりでハイパーネガティブ思考だったジョゼフィーネなら、逃げるなんて考えもせず、諦めていただろう。
転生後に自分で何かを判断したり、決断したりしたこともなく生きてきた。
けれど、ロズウェルドに行って、ディーナリアスと出会い、変わったのだ。
自分にも何かできることはないかと、探すようになっている。
「ジョージー、その気持ちはわかるよ。私も外の空気が吸いたい」
やった!と、思ったのだが、それはすぐに落胆に変わった。
アントワーヌが表情を曇らせたからだ。
「外には魔術師たちが大勢いてね。味方だと言われているけれど、信用できない。だから、明日の朝までは我慢してくれないか?」
そう言われてしまっては、これ以上、強くは言えない。
きっかけひとつで、アントワーヌを怒らせる可能性があった。
朝まで待つしかないのだろうか。
思った時だ。
不意に、アントワーヌから抱き寄せられていた。
強く抱き締められ、ジョゼフィーネは思わずアントワーヌの胸に両手を置く。
反射的に、押し返そうとしたのだ。
『あの男に奪われるくらいなら……ジョージーを殺すしかない……そのほうが彼女にとっても幸せだろう』
びくっと体が震える。
アントワーヌの内側から聞こえてくる「心の声」は本物なのだ。
ジョゼフィーネは、他者の左胸にふれると、その相手の「心の声」が聞こえる。
なぜかは知らない。
赤ん坊の頃、メイドに抱きかかえられていた時に気づいた。
嫌でも聞こえる嘲りや罵声は、耳から入ってきているものではなかったからだ。
彼女たちは声に出していないのに聞こえてくる。
気づいてからは、意識的に人の体にふれないようにしてきた。
廃園で、ジョゼフィーネは初めてアントワーヌに抱きしめられ、知ったのだ。
口では「婚姻」と言いながら、アントワーヌが、自分を「愛妾」にしようとしていたことを。
だから、別れを告げた。
もう2度と、人の心なんて読みたくないとも思っていたのだけれど。
アントワーヌからの手紙に狼狽えて倒れかかり、支えられた時に、不可抗力でサビナの胸にふれてしまった。
けれど、その際に聞こえてきた言葉が、ジョゼフィーネにサビナを信じさせたのだ。
『ディーンがどう言おうと、私はこのかたをお守りする。命を懸けてでも』
本当は、こんな信頼の仕方は良くないと思っている。
それでも嬉しかった。
だから、サビナに手紙を見せる勇気も出たのだ。
今では本当にサビナを信頼している。
けして、心を読むような真似はしないと誓ってもいた。
「トニー……トニーは、私を殺すの?」
言った瞬間、バッとアントワーヌがジョゼフィーネから離れる。
蒼褪めた顔で、ジョゼフィーネを見ている。
「私ね、ロズウェルドに行って、変わった……魔術……みたいなもの、使えるし」
嘘でもないが、本当でもないことを言ってみた。
アントワーヌは魔術を恐れている。
自分のことも恐れて手出ししないのではないか、と思ったのだ。
が、その思いとは逆に、アントワーヌが懐からナイフを取り出す。
「やはり……こうするしか、きみを助ける手立てはないようだ……」
「トニー、私……あなたに感謝してる……だから、傷つけたくないけど……」
精一杯、アントワーヌを睨んでみた。
必死だったのだ。
ここで死ぬわけにはいかない。
ディーナリアスの元に帰りたい。
彼との人生を諦めない。
引きこもりで、いつも後ろに下がり、逃げてばかりいた頃とは違う。
強い想いが、ジョゼフィーネの中にある。
それが良かったのか、ジョゼフィーネの言葉を、どう受け止めたのか。
アントワーヌが、わずかに後ずさっていた。
が、アントワーヌから逃げなくてはいけない。
ジョゼフィーネの頭にある、2つのこと。
より重要なのは2つ目だった。
今のアントワーヌは、とても危険だと感じられる。
殺されるのではないかとの不安をいだいていた。
心の警鐘が鳴り続けている。
なにかをしくじって殺されることはできないのだ。
ジョゼフィーネは帰ることしか考えていないのだから。
「トニー……ここは、リフルワンス……?」
「そうだよ、ジョージー。もう何も心配することはないんだ。ここにいれば安全だからね」
こくりと、うなずいてみせる。
ひとまず自分のいる場所の確認はできた。
ここはやはりリフルワンスで、けれど屋敷ではない。
どこかの廃屋のようだ。
室内も荒れていて、薄汚かった。
座れそうなイスすらない有り様だ。
汚れているから座れないのではなく、壊れそうで座れない。
「これから……どう、なるの……?」
アントワーヌが濁った目のままで微笑む。
ひどく怖かったが、怯えた様子を見せれば、アントワーヌは怒るに違いない。
リフルワンスの「ジョージー」は、アントワーヌに怯えたことなどなかった。
それを踏襲すべく、ジョゼフィーネは意識を分散させる。
嫌なことがあった時の精神的な対処方法だ。
真っ向から受け止めず、言葉を聞いていても、別のことを考える。
メイドや姉たちの仕打ちに、こんなふうにしてジョゼフィーネは耐えてきた。
「これからのことは私に任せてほしい。明日にはここを出て、ちゃんとした屋敷に移るつもりだよ。別宅を、友人が手配してくれている」
別宅。
つまり、そういうことだ。
アントワーヌは、自分を愛妾として囲うつもりでいる。
そこに連れて行かれるのだけは避けたかった。
殺されなくても、なにをされるかわからない。
じくじくと胸の奥が痛む。
ディーナリアスの暖かい手が恋しかった。
ほかの誰かにさわられるのは嫌だと感じる。
きっと。
自分とアントワーヌになにかあったとしても、それが本意でなかったことを、ディーナリアスはわかってくれるだろう。
そして許してもくれる。
だとしても、ジョゼフィーネ自身が嫌なのだ。
(そんなの……死んでも嫌……でも、殺されたら、もうディーンに会えない……)
どちらも嫌だが、逃げる方法も思いつかない。
心で逃げるのは得意だが、実際の「逃走」などしたことがなかった。
力ではアントワーヌに勝てないとわかっている。
うまく丸め込めればいいのだが、ジョゼフィーネは言葉を操るのも苦手だ。
こんな時、記憶にあるドラマでは「トイレに…」と言い、その場を離れたりするのが定番だった。
さりとて、この世界には「トイレ」というものがない。
赤ん坊の頃、状況把握に努めていた際に知り、驚いたのを覚えている。
この世界の人の体質は、どこか根本的に前世の記憶とは違うのだ。
が、少し違うアレンジを加えれば、なんとかなるかもしれない。
はたと思いつき、ジョゼフィーネは少しうつむいた。
ディーナリアスからは「顔が正直」と言われている。
アントワーヌに表情を読まれることは避けたかった。
「あの……ここ、空気が……ちょっとだけ……外に、出たい、かも……」
外に出て、隙をうかがい、逃げる。
周囲がどうなっているのかわからないが、様子を見る時間くらいはあるはずだ。
場合によっては、アントワーヌを突き飛ばしてでも逃げる。
そう決めた。
引きこもりでハイパーネガティブ思考だったジョゼフィーネなら、逃げるなんて考えもせず、諦めていただろう。
転生後に自分で何かを判断したり、決断したりしたこともなく生きてきた。
けれど、ロズウェルドに行って、ディーナリアスと出会い、変わったのだ。
自分にも何かできることはないかと、探すようになっている。
「ジョージー、その気持ちはわかるよ。私も外の空気が吸いたい」
やった!と、思ったのだが、それはすぐに落胆に変わった。
アントワーヌが表情を曇らせたからだ。
「外には魔術師たちが大勢いてね。味方だと言われているけれど、信用できない。だから、明日の朝までは我慢してくれないか?」
そう言われてしまっては、これ以上、強くは言えない。
きっかけひとつで、アントワーヌを怒らせる可能性があった。
朝まで待つしかないのだろうか。
思った時だ。
不意に、アントワーヌから抱き寄せられていた。
強く抱き締められ、ジョゼフィーネは思わずアントワーヌの胸に両手を置く。
反射的に、押し返そうとしたのだ。
『あの男に奪われるくらいなら……ジョージーを殺すしかない……そのほうが彼女にとっても幸せだろう』
びくっと体が震える。
アントワーヌの内側から聞こえてくる「心の声」は本物なのだ。
ジョゼフィーネは、他者の左胸にふれると、その相手の「心の声」が聞こえる。
なぜかは知らない。
赤ん坊の頃、メイドに抱きかかえられていた時に気づいた。
嫌でも聞こえる嘲りや罵声は、耳から入ってきているものではなかったからだ。
彼女たちは声に出していないのに聞こえてくる。
気づいてからは、意識的に人の体にふれないようにしてきた。
廃園で、ジョゼフィーネは初めてアントワーヌに抱きしめられ、知ったのだ。
口では「婚姻」と言いながら、アントワーヌが、自分を「愛妾」にしようとしていたことを。
だから、別れを告げた。
もう2度と、人の心なんて読みたくないとも思っていたのだけれど。
アントワーヌからの手紙に狼狽えて倒れかかり、支えられた時に、不可抗力でサビナの胸にふれてしまった。
けれど、その際に聞こえてきた言葉が、ジョゼフィーネにサビナを信じさせたのだ。
『ディーンがどう言おうと、私はこのかたをお守りする。命を懸けてでも』
本当は、こんな信頼の仕方は良くないと思っている。
それでも嬉しかった。
だから、サビナに手紙を見せる勇気も出たのだ。
今では本当にサビナを信頼している。
けして、心を読むような真似はしないと誓ってもいた。
「トニー……トニーは、私を殺すの?」
言った瞬間、バッとアントワーヌがジョゼフィーネから離れる。
蒼褪めた顔で、ジョゼフィーネを見ている。
「私ね、ロズウェルドに行って、変わった……魔術……みたいなもの、使えるし」
嘘でもないが、本当でもないことを言ってみた。
アントワーヌは魔術を恐れている。
自分のことも恐れて手出ししないのではないか、と思ったのだ。
が、その思いとは逆に、アントワーヌが懐からナイフを取り出す。
「やはり……こうするしか、きみを助ける手立てはないようだ……」
「トニー、私……あなたに感謝してる……だから、傷つけたくないけど……」
精一杯、アントワーヌを睨んでみた。
必死だったのだ。
ここで死ぬわけにはいかない。
ディーナリアスの元に帰りたい。
彼との人生を諦めない。
引きこもりで、いつも後ろに下がり、逃げてばかりいた頃とは違う。
強い想いが、ジョゼフィーネの中にある。
それが良かったのか、ジョゼフィーネの言葉を、どう受け止めたのか。
アントワーヌが、わずかに後ずさっていた。
応援ありがとうございます!
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