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第1章 暗い闇と蒼い薔薇
いくらでも残酷に 1
しおりを挟む「……下……下……殿……殿下……」
声が遠くから聞こえてくる。
体を軽く揺すられ、ハッとして飛び起きた。
ベッド脇にサイラスが立っている。
隣を見たが、レティシアの姿はない。
「サイラス! 彼女は……っ……?」
「お話はあとで。一刻の猶予もありません。今すぐ、この城から出ねばならないのです」
サイラスの緊迫した様子に、ユージーンも悟った。
大公が、来る。
大公の怒りの直撃は免れないだろう。
そうは思っていたが、座して死を待つこともできない。
すぐに起き上がり、ベッドを降りた。
「こちらへ」
部屋の端に行くサイラスの後を追う。
角のところで、壁に両手をついた。
体を固定するためだ。
サイラスが両手を、ぱんっと打ち鳴らす。
とたん、部屋がグラリと揺れた。
さっきまで昏倒していたせいもあるのか、眩暈がする。
「さあ、まいりましょう」
閉まっている赤い扉には、大きなバツ印の傷があった。
そこから部屋の外に出る。
ユージーンが、あの部屋を訪れた際の景色とは異なっていた。
サイラスの「換敷」は、2つの場所を瞬時に入れ替えることができるのだ。
自分たちが転移するのではなく、場所のほうを移動させる魔術だった。
複数回の転移や長距離の転移に、魔力耐性のないユージーンは耐えられない。
だから、あえて「換敷」を使ったのだろう。
いかにもサイラスらしい心遣いだと思った。
(大事な人、か。そうかもしれん。サイラスは、いつも俺のことだけを考えてくれている。俺も大事にせねばな)
レティシアは、ユージーンがサイラスの話をした際、嬉しそうな顔をしている。
きっと「大事な人がいる」というのは、いいことに違いない。
暗い廊下を少し歩いた先に簡素な木製の扉があった。
この城の構造を考えると、非常に特異な扉と言える。
サイラスが鍵を使って扉を開けた。
ギザギサの小さな突起が、いくつもついている銀色の鍵だ。
魔術がかかっている鍵だったのかもしれない。
ユージーンは、サイラスがそれをどこで手に入れたのかにまでは、気を回せずにいる。
いつもサイラスは必要なものを、必要な時に準備をしているので。
ユージーンの前に立つサイラスの右手が円を描く。
描いたのは円なのに、現れたのは、そっけない柱が2本。
柱と柱の空間から、こことは別の景色が見えた。
王宮内の自分の私室だとわかる。
サイラスが使ったのは「点門」という、特定の場所を繋ぐ魔術だった。
2人が柱の間をくぐり抜けると同時に、柱が消える。
(換敷に点門か……どちらも魔力消費が大きいのだったな)
サイラスに教わった知識が、ユージーンに罪悪感をいだかせた。
どちらも発動後1回限りの大技だ。
その2つを同時に使ったのだから、きっとサイラスには多大な負担がかかっている。
自分に魔力耐性があれば、と思わずにはいられない。
が、ユージーンは王族なのだ。
王族には器がない。
そのため魔力を蓄積することもできないし、耐性も持てない。
ユージーンが魔力を多少なりとも有しているのは、国王との血の繋がりによる。
国王は魔術師長にのみ魔力を与えているが、血の経路を辿り、下級魔術師程度の魔力が自然とユージーンに流れ込むのだ。
王宮内や、せいぜい王都くらいまでの転移であればユージーンにもできる。
さりとて長距離となると、身体的にかなりの負担がかかってしまう。
意識を失う程度ではすまなくなる可能性もあった。
つまり、ユージーンの魔術は、ほとんど使いものにならない、ということ。
今までは、最低限、自分の身を守れれば、それでいいと思ってきたが、少し考えを改めなければならない、と思った。
即位をすると「与える者」となり、魔術は使えなくなる。
だとしても、それまでの間、せめて足を引っ張らないように。
「申し訳ございません、殿下。私の失態にございます」
部屋に着くなり、サイラスが頭を下げた。
めずらしく苦々しそうに顔をしかめてもいる。
「どういう意味だ?」
ユージーンにしてみれば、サイラスは、なにも悪くない。
油断していた自分が悪いのだ。
もっと言えば、レティシアが逃げるのを手伝ったとも言える。
もちん、花瓶で殴られるなんて予見できるはずもなかったのだけれど。
「あの娘自身に、なんらかの魔術がかけられていると予測しておくべきでした。あの娘は魔術が使えませんが、防御の魔術がかけられていたのでしょう。そのせいで、殿下の命を危険に晒してしまいました」
「多少、頭は痛むが……それほど大袈裟に考えることはないだろ?」
「いいえ、殿下。魔術で花瓶が飛んできたのでしょうが、かなりの威力であったはずです」
サイラスは「魔術」と言っているが、ユージーンはそれが魔術でなかったことを知っている。
さりとて、当然のことながら、サイラスには言えなかった。
隠し事をするのは気が進まないものの、しかたがない。
彼女がなぜそんなことをしたのかも、わかっているからだ。
「幸い、大怪我はされておりませんが、打ちどころが悪ければ、命にかかわっていたかもしれないのですよ」
気づかわしげに言いながら、サイラスが歩み寄ってくる。
おそらく治癒をしようとしているのだろう。
「サイラス、治癒はよい」
「殿下?」
「今日は、お前に負担をかけ過ぎている。王宮医師に任せることにしよう」
治癒の魔術を使えば、傷はすぐに癒えるし、痛みもなくなる。
が、怪我の度合いによって異なるものの、治癒は魔力の消費量が、それなりに大きいのだ。
サイラスは副魔術師長の任を与えられている。
魔術師として優秀だからなのだが、それは、第一に魔力の器が大きいことを意味していた。
だからといって、無尽蔵にあるわけでもない。
大きな魔術を使うのは魔力量が減るだけではなく、体に負担もかかるのだ。
「殿下のお気遣いは嬉しく思います。ですが、殿下をお守りできず、このような怪我を負わせてしまいました。その上、治癒も任せて頂けないのなら、私はなんのために殿下のお側に仕えているのか、ということになりましょう?」
そう言われると、非常に心苦しくなる。
罪悪感が、いよいよ強くなった。
なにしろ怪我を負ったのはユージーン自身の「恋心」が原因なのだ。
「……お前が、そういうのなら、任せる」
「ありがとうございます、殿下」
サイラスの治癒で、すぐに痛みが取れる。
さわってみた感じ「瘤」もなくなっていた。
「あの娘は”扉”についても、知っていたのかもしれませんね。大公様の孫娘なのですから。それも、私の落ち度です」
またしてもサイラスに頭を下げられ、ユージーンは呻きたくなる。
サイラスのせいではないと、うっかり口にしてしまいそうだった。
罪悪感に圧し潰されそうになるのを、必死で耐える。
レティシアは、ユージーンにサイラスを裏切らせないために「知恵」を絞ってくれたのだ。
(……レティシアの好意を無にはできん)
花瓶で王太子の頭を殴るというのが「好意」なのかはともかく。
良かれと思っての行動には違いない。
が、扉の件に彼女はいっさい関わっていなかった。
隔離を目的とする部屋の扉は封印されており、外からのみの魔術開閉式となっている。
ゆえに、本来、中からは開かない。
あの城の扉のほとんどには「錠鎖」が、刻印の術によって、かけられていた。
そのため、真っ赤に塗り潰されている。
ユージーンは部屋に入った際、ワイン瓶の底で扉にわずかな傷をつけた。
刻印の術は塗料を使う。
それに傷がつけば、術が緩むのだ。
レティシアを逃がす前提だったのではないが、彼女を閉じ込めているという感覚が嫌だったのだ。
あの時にはもう、ユージーンは希望に手を伸ばしていたから。
「いや……お前のせいではない。気に病むな、サイラス。うまく事を運べなかった、俺が悪いのだ」
彼女を手に入れたいとの自分の願いのため、サイラスは手を尽くしてくれた。
にもかかわらず、どうしても彼女に無理を強いることはできなかった。
レティシアに嫌われていない、という小さな小さな希望にすがりついて、成すべきことのできなかった自分は、きっと愚かなのだろう、と思う。
(お前に隠し事をするのは心苦しいが……俺は、あれの心を諦めきれんのだ)
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