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後編
羊飼いに牧童に 1
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伯爵は、目覚めた日以降、あまりすることがなくなっていた正装をしている。
古き時代の正装だ。
フロックコートの袖口より長く、ふわりと見えている白のリネンシャツ。
腰下までのウエストコートは青みがかった銀色で、同色の釦で前を留めている。
そこに、首につけた装飾用の白いクラヴァットが緩くかかっていた。
今日のフロックコートは真っ黒だ。
刺繍などは施されていない。
カフスリンクスも釦も、縞目のない黒いオニキスが使われている。
カーリー曰く「染色はしておりません」とのことだが、伯爵は、とくにこだわってはいない。
黒いズボンに黒の革靴。
白手袋をはめて、黒いシルクハットを頭にのせる。
最後に、カーリーが差し出した薄紫の宝石がついたロッドを受け取った。
ちょうどいい頃合いだ。
ディエゴが襲われ、リーストン騎士団を処断して2ヶ月が経つ。
大人しくしているとは思っていなかったが、ゴドヴィの稚拙な策に、ほとほと呆れてしまった。
───血を重ねて優秀になる者もいれば、その逆もある、ということか。
伯爵の心は晴れている。
ゴドヴィが質を落としていることには、多少の落胆を覚えるものの、手早く片付けられるのは有り難かった。
伯爵は、心身の苛烈な戦いなど望んではいないのだ。
「この2ヶ月は楽しかったな、カーリー」
「さようにございますね」
「今後は、こうした日々を続けたいものだ」
「仰る通りにございます」
伯爵は「番人の鍵」を手にし、ふっと笑った。
当時のカーリーは深く考えることなく、単純に手っ取り早い資金調達の手段として劣化版の「境界鍵」を売ったのだろう。
だが、今となっては、別の価値がついている。
何もない空間に現れた鍵穴に鍵をさして、回した。
スッと足を踏み出す。
一瞬の静けさのあと、大きなざわめきが広がった。
伯爵が来たのは、貴族会議の議場なのだ。
しかも、ど真ん中にいる。
ぐるりは階段状に大勢の貴族で埋め尽くされていた。
まるで伯爵を取り囲んでいるかのようだ。
ざわつきながら、全員が伯爵を見下ろしている。
「どういうことですかな。ここは貴族会議の議場ですよ? 呼ばれてもいない者が来るべき場ではない」
金髪に茶色の瞳の年若い男。
ジルベス・ゴドヴィだとわかっていたが、無視した。
代わりに、正面の高い席にいる男に向かって、胸に手をあて、軽く会釈をする。
「第12代リセリア帝国皇帝陛下、お初にお目にかかります。キルテス伯爵家当主オスカーにございます」
「なにを馬鹿な! オスカー・キルテスは2百年も前に死んでいるはずだ!」
声を上げたのはジルベス・ゴドヴィだった。
皇帝アヴァナル・モディリヤは顔色を真っ青にして震えている。
───スラノの血統は変わらんな。いや、素直に臆病になれるだけ可愛げがある。
スラノは臆病であるにもかかわらず、臆病さを隠し続けていた。
それが始末に悪かったのだ。
対して、現皇帝は表情に「臆病さ」が現れている。
「代々、名を受け継ぐことなどめずらしくもないと思いますがね? 確かゴドヴィ公爵家にも、ローランドという名の子息がいたかと。それに比べれば、オスカーなどというのは、ありふれた名ですよ、ジルベス殿」
ローランドは、スラノの右腕であり、伯爵も面識のあるゴドヴィ公爵家の初代当主の名だ。
ちらっと視線を向けただけで、ジルベスの額に汗が浮いた。
ほかの貴族たちは「お喋り」をやめ、大人しくなっている。
それを見つつ、懐から2通の封書を取り出した。
呼び出しに応じられなかった貴族からのものだ。
「私はガルチェナ男爵の代理として来た次第で」
「そのような勝手は認めない!」
「おや? 委任は正当な権利だと法によって定められていますが、ジルベス殿は帝国法をご存知ない? これはこれは、リセリア帝国貴族として、なんとも……」
ぐっと、ジルベスが言葉を詰まらせる。
大勢の貴族の前で「帝国法を知らない」と言ったも同然になってしまったのだ。
面目は丸潰れとなり、これ以上、口を挟めるわけがない。
ローランドであれば、感情的に言い返したりせず、薄笑いでも浮かべただろう。
カーリーの「若く知見が狭い」との見立ては正しい。
「まぁ、いいでしょう。ともかくも、私はガルチェナ男爵の代理として、この2通の書状をあずかっているのです。1通は、あなたがたの考えに賛同する内容」
ざわっと議場の空気が揺らぐ。
絶対に投じられないはずの1票が目の前にあるのだ。
信じられないといった表情の者が大半なのもうなずける。
「さて、問題は、もう1通のほうなのですがね。こちらには、1通目を提出するか破棄するかの条件が書かれているのですよ。ジルベス殿、あなたが議長のようなのでお訊きしますが、読み上げてもよろしいですかな?」
ジルベスは汗びっしょりになっていた。
自分たちのしている事が、本人に筒抜けになっていたと悟っている。
ようやく自らの愚かさにも気づいたのだ。
「よ、よろしい。読み上げたまえ」
なんとか威厳を保とうとしているようだが、声が震えている。
取り繕っている姿は、みっともなくも見苦しい。
「ガルチェナ男爵領をキルテス伯爵領帰属とすること。簡単に言えば、我が領地との併合を望まれておいでなのです」
「そ、それだけ……」
ジルベスのほうに顔を向け、伯爵は口の端を吊り上げる。
優しくするのは、ここまでだ。
「それだけのはずがないだろう」
びくっと、ジルベスが体をこわばらせた。
議場内の誰もが、伯爵に恐怖しているのを感じる。
「これは私からの条件だ。キルテス及びガルチェナ領は、今後、新たな国となり、リセリアより独立する。当然だが、自治権を有した国家であり、リセリアの干渉は受けないものとする」
誰も返答をしないが、これをのまないわけにはいかない。
そして、彼らは愚かだからこそ、この条件を受け入れるのだ。
「いかがかな、諸君。この程度で、私を法の番人から引きずり下ろせるのならば、安いものではないかね?」
古き時代の正装だ。
フロックコートの袖口より長く、ふわりと見えている白のリネンシャツ。
腰下までのウエストコートは青みがかった銀色で、同色の釦で前を留めている。
そこに、首につけた装飾用の白いクラヴァットが緩くかかっていた。
今日のフロックコートは真っ黒だ。
刺繍などは施されていない。
カフスリンクスも釦も、縞目のない黒いオニキスが使われている。
カーリー曰く「染色はしておりません」とのことだが、伯爵は、とくにこだわってはいない。
黒いズボンに黒の革靴。
白手袋をはめて、黒いシルクハットを頭にのせる。
最後に、カーリーが差し出した薄紫の宝石がついたロッドを受け取った。
ちょうどいい頃合いだ。
ディエゴが襲われ、リーストン騎士団を処断して2ヶ月が経つ。
大人しくしているとは思っていなかったが、ゴドヴィの稚拙な策に、ほとほと呆れてしまった。
───血を重ねて優秀になる者もいれば、その逆もある、ということか。
伯爵の心は晴れている。
ゴドヴィが質を落としていることには、多少の落胆を覚えるものの、手早く片付けられるのは有り難かった。
伯爵は、心身の苛烈な戦いなど望んではいないのだ。
「この2ヶ月は楽しかったな、カーリー」
「さようにございますね」
「今後は、こうした日々を続けたいものだ」
「仰る通りにございます」
伯爵は「番人の鍵」を手にし、ふっと笑った。
当時のカーリーは深く考えることなく、単純に手っ取り早い資金調達の手段として劣化版の「境界鍵」を売ったのだろう。
だが、今となっては、別の価値がついている。
何もない空間に現れた鍵穴に鍵をさして、回した。
スッと足を踏み出す。
一瞬の静けさのあと、大きなざわめきが広がった。
伯爵が来たのは、貴族会議の議場なのだ。
しかも、ど真ん中にいる。
ぐるりは階段状に大勢の貴族で埋め尽くされていた。
まるで伯爵を取り囲んでいるかのようだ。
ざわつきながら、全員が伯爵を見下ろしている。
「どういうことですかな。ここは貴族会議の議場ですよ? 呼ばれてもいない者が来るべき場ではない」
金髪に茶色の瞳の年若い男。
ジルベス・ゴドヴィだとわかっていたが、無視した。
代わりに、正面の高い席にいる男に向かって、胸に手をあて、軽く会釈をする。
「第12代リセリア帝国皇帝陛下、お初にお目にかかります。キルテス伯爵家当主オスカーにございます」
「なにを馬鹿な! オスカー・キルテスは2百年も前に死んでいるはずだ!」
声を上げたのはジルベス・ゴドヴィだった。
皇帝アヴァナル・モディリヤは顔色を真っ青にして震えている。
───スラノの血統は変わらんな。いや、素直に臆病になれるだけ可愛げがある。
スラノは臆病であるにもかかわらず、臆病さを隠し続けていた。
それが始末に悪かったのだ。
対して、現皇帝は表情に「臆病さ」が現れている。
「代々、名を受け継ぐことなどめずらしくもないと思いますがね? 確かゴドヴィ公爵家にも、ローランドという名の子息がいたかと。それに比べれば、オスカーなどというのは、ありふれた名ですよ、ジルベス殿」
ローランドは、スラノの右腕であり、伯爵も面識のあるゴドヴィ公爵家の初代当主の名だ。
ちらっと視線を向けただけで、ジルベスの額に汗が浮いた。
ほかの貴族たちは「お喋り」をやめ、大人しくなっている。
それを見つつ、懐から2通の封書を取り出した。
呼び出しに応じられなかった貴族からのものだ。
「私はガルチェナ男爵の代理として来た次第で」
「そのような勝手は認めない!」
「おや? 委任は正当な権利だと法によって定められていますが、ジルベス殿は帝国法をご存知ない? これはこれは、リセリア帝国貴族として、なんとも……」
ぐっと、ジルベスが言葉を詰まらせる。
大勢の貴族の前で「帝国法を知らない」と言ったも同然になってしまったのだ。
面目は丸潰れとなり、これ以上、口を挟めるわけがない。
ローランドであれば、感情的に言い返したりせず、薄笑いでも浮かべただろう。
カーリーの「若く知見が狭い」との見立ては正しい。
「まぁ、いいでしょう。ともかくも、私はガルチェナ男爵の代理として、この2通の書状をあずかっているのです。1通は、あなたがたの考えに賛同する内容」
ざわっと議場の空気が揺らぐ。
絶対に投じられないはずの1票が目の前にあるのだ。
信じられないといった表情の者が大半なのもうなずける。
「さて、問題は、もう1通のほうなのですがね。こちらには、1通目を提出するか破棄するかの条件が書かれているのですよ。ジルベス殿、あなたが議長のようなのでお訊きしますが、読み上げてもよろしいですかな?」
ジルベスは汗びっしょりになっていた。
自分たちのしている事が、本人に筒抜けになっていたと悟っている。
ようやく自らの愚かさにも気づいたのだ。
「よ、よろしい。読み上げたまえ」
なんとか威厳を保とうとしているようだが、声が震えている。
取り繕っている姿は、みっともなくも見苦しい。
「ガルチェナ男爵領をキルテス伯爵領帰属とすること。簡単に言えば、我が領地との併合を望まれておいでなのです」
「そ、それだけ……」
ジルベスのほうに顔を向け、伯爵は口の端を吊り上げる。
優しくするのは、ここまでだ。
「それだけのはずがないだろう」
びくっと、ジルベスが体をこわばらせた。
議場内の誰もが、伯爵に恐怖しているのを感じる。
「これは私からの条件だ。キルテス及びガルチェナ領は、今後、新たな国となり、リセリアより独立する。当然だが、自治権を有した国家であり、リセリアの干渉は受けないものとする」
誰も返答をしないが、これをのまないわけにはいかない。
そして、彼らは愚かだからこそ、この条件を受け入れるのだ。
「いかがかな、諸君。この程度で、私を法の番人から引きずり下ろせるのならば、安いものではないかね?」
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