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残酷な真実
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最初に感じたのは違和感だった。
約束の時間ちょうどに来た護君は安形さんに案内されてリビングに入ってきた。一礼をして安形さんが部屋を出ると〈誰?〉と問われる。運転手として認識はしていたが、家の中でのアテンドを任されていた事が意外だったようだ。
「静流君と僕の秘書。主に静流君の秘書だけど、僕のスケジュール管理やなんかもしてくれてるよ」
「α?」
「そう」
「そうなんだ…」
何か言いたそうな顔をするが口には出さない。いつもの挑発フェロモンも健在だ。
ソファーに座るように促すと僕の向かい側に座る。隣に座ることはもうないのだと淋しく思った時にふと違和感を感じた。
はじめは理解できなかった。
挑発フェロモンが強すぎて気付けないのかと思ったのだ。違う、そう思いたかったのだ。
護君のフェロモンが全く感じられない。
以前は檜の香りに纏わりつくようにしていたはずの柑橘系の香りが〈柑橘系の香り〉だけを主張しているのだ。
叫び出しそうだった。
気持ちが悪い。
どうしてこの人は平然と僕の前に座っているのだろう。
静流君を呼びたかったがまだ何の話もできていない。
僕は気持ちの悪さを耐えて話し合いを始めた。
「話たいことって?」
僕の言葉に少し考えるそぶりを見せたあと、護君がゆっくりと口を開いた。
「婚約を解消して欲しい」
〈婚約の解消〉そう言った護君にかつての誠実さは無かった。
「理由を聞いても?」
「光流のことが嫌いになったんじゃないんだ。ただ、小学生の頃に決められて当たり前のように感受してきたけど……自分の足で歩いてみたくなったんだ」
首を垂れて、言い聞かせるように言葉を紡ぐ。
「臭い……」
思わず呟いてしまった。
主張する柑橘系の香り。まるで〈これは私だけのαなの〉と僕に語りかけるようなその香り。
僕の言葉は護君の耳には届かなかったようで首は垂れたままだ。
「理由はそれだけなの?」
僕の言葉に顔を上げる。
目を合わせようとするが逸されてしまう。
結末は決まってしまったが、それでも誠実さのかけらを感じる事ができればと問いかける。
「大学に入って、今までできない経験をして思ったんだ。自分の世界はあまりにも狭い。大学を自分で選んだだけでこんなにも世界が広がるのなら、この先に待つものがどれだけ大きいのか見たくなったんだ」
薄っぺらい、心のこもらない言葉。
期待するだけ無駄だったのだと痛感する。
「それは、僕の隣では見られない世界なのかな?」
「俺は、そう判断した。
婚約を解消して欲しい」
重ねられた言葉。
返す言葉はひとつしかなかった。
「わかりました。父には僕から話しておきます。
詳しい話し合いは後日、日程はこちらから連絡します」
僕がそう告げると彼はそそくさと席を立つ。向井さんが用意してくれたお茶は手付かずのままだ。
彼女の何が良かったの?
僕に何が足りなかったの?
思いが抑えきれなかったのだろう。
「彼女とお幸せに」
ドアノブに手をかけた彼にふと思い出したかのように装い声をかける。そして、振り返った彼に笑顔を向ける。
〈彼女〉と具体的に言ったことに驚いたのだろう。彼が驚愕の表情を浮かべるが、ドアの前で待機していた安形さんに〈お客さまがお帰りです〉と声をかける。彼女はその意図を理解して彼に退出を促す。
ドアノブに手をかけた時点で彼女がこちらに意識を向けるのは想定内だ。それ以前から神経を尖らせてはいたのだろうけど…。
護君は戻ってこようとしたが安形さんがそれを許さない。彼女は護君より遥かに高位だ。威嚇されてしまえば従わざるを得ないだろう。
姿が見えなくなったと同時にソファーに蹲る。挑発フェロモンの残り香で気持ちが悪い。身体も心も冷えていく。
「光流、大丈夫か?」
安形さんの威嚇フェロモンに気付いた兄が部屋に飛び込んでくる。
「何をされた?」
ソファーに蹲った僕の横に座り背中を撫でる。
「……護君のフェロモンがわからないんだ。
挑発フェロモンの香りしかしない」
僕の言葉に静流君が息を飲む。
「何で?
何で平気な顔で婚約を解消して欲しいって言えるの?
新しい世界ってなに?」
兄に問いかける。
「自分の足で歩いてみたいって。
一緒に歩いて行こうって約束したのに」
恨み言のような言葉が溢れ出す。
覚悟はしていたのに。
覚悟はできていたはずなのに。
突きつけられた現実はあまりにも残酷だった。
護君と番となる日を待ち望んでいた。
護君しかいないと思っていた。
それなのに護君の番になったのは僕じゃない誰かだった。
苦しい。
抑えきれない感情が涙となってこぼれ落ちる。
「静流君、眠い」
僕は泣きながら助けを求めた。
眠くて眠くて仕方がない。
考えることを諦めた僕の身体は急激に眠りを求めていく。
「向井さんのプリンは?」
「起きてからでも大丈夫かな?」
自分で考えることを拒否して静流君に答えを委ねる。
「寝てもいいけど部屋に行こうね」
眠りにつく前に聞いた声は限りなく優しいものだった。
約束の時間ちょうどに来た護君は安形さんに案内されてリビングに入ってきた。一礼をして安形さんが部屋を出ると〈誰?〉と問われる。運転手として認識はしていたが、家の中でのアテンドを任されていた事が意外だったようだ。
「静流君と僕の秘書。主に静流君の秘書だけど、僕のスケジュール管理やなんかもしてくれてるよ」
「α?」
「そう」
「そうなんだ…」
何か言いたそうな顔をするが口には出さない。いつもの挑発フェロモンも健在だ。
ソファーに座るように促すと僕の向かい側に座る。隣に座ることはもうないのだと淋しく思った時にふと違和感を感じた。
はじめは理解できなかった。
挑発フェロモンが強すぎて気付けないのかと思ったのだ。違う、そう思いたかったのだ。
護君のフェロモンが全く感じられない。
以前は檜の香りに纏わりつくようにしていたはずの柑橘系の香りが〈柑橘系の香り〉だけを主張しているのだ。
叫び出しそうだった。
気持ちが悪い。
どうしてこの人は平然と僕の前に座っているのだろう。
静流君を呼びたかったがまだ何の話もできていない。
僕は気持ちの悪さを耐えて話し合いを始めた。
「話たいことって?」
僕の言葉に少し考えるそぶりを見せたあと、護君がゆっくりと口を開いた。
「婚約を解消して欲しい」
〈婚約の解消〉そう言った護君にかつての誠実さは無かった。
「理由を聞いても?」
「光流のことが嫌いになったんじゃないんだ。ただ、小学生の頃に決められて当たり前のように感受してきたけど……自分の足で歩いてみたくなったんだ」
首を垂れて、言い聞かせるように言葉を紡ぐ。
「臭い……」
思わず呟いてしまった。
主張する柑橘系の香り。まるで〈これは私だけのαなの〉と僕に語りかけるようなその香り。
僕の言葉は護君の耳には届かなかったようで首は垂れたままだ。
「理由はそれだけなの?」
僕の言葉に顔を上げる。
目を合わせようとするが逸されてしまう。
結末は決まってしまったが、それでも誠実さのかけらを感じる事ができればと問いかける。
「大学に入って、今までできない経験をして思ったんだ。自分の世界はあまりにも狭い。大学を自分で選んだだけでこんなにも世界が広がるのなら、この先に待つものがどれだけ大きいのか見たくなったんだ」
薄っぺらい、心のこもらない言葉。
期待するだけ無駄だったのだと痛感する。
「それは、僕の隣では見られない世界なのかな?」
「俺は、そう判断した。
婚約を解消して欲しい」
重ねられた言葉。
返す言葉はひとつしかなかった。
「わかりました。父には僕から話しておきます。
詳しい話し合いは後日、日程はこちらから連絡します」
僕がそう告げると彼はそそくさと席を立つ。向井さんが用意してくれたお茶は手付かずのままだ。
彼女の何が良かったの?
僕に何が足りなかったの?
思いが抑えきれなかったのだろう。
「彼女とお幸せに」
ドアノブに手をかけた彼にふと思い出したかのように装い声をかける。そして、振り返った彼に笑顔を向ける。
〈彼女〉と具体的に言ったことに驚いたのだろう。彼が驚愕の表情を浮かべるが、ドアの前で待機していた安形さんに〈お客さまがお帰りです〉と声をかける。彼女はその意図を理解して彼に退出を促す。
ドアノブに手をかけた時点で彼女がこちらに意識を向けるのは想定内だ。それ以前から神経を尖らせてはいたのだろうけど…。
護君は戻ってこようとしたが安形さんがそれを許さない。彼女は護君より遥かに高位だ。威嚇されてしまえば従わざるを得ないだろう。
姿が見えなくなったと同時にソファーに蹲る。挑発フェロモンの残り香で気持ちが悪い。身体も心も冷えていく。
「光流、大丈夫か?」
安形さんの威嚇フェロモンに気付いた兄が部屋に飛び込んでくる。
「何をされた?」
ソファーに蹲った僕の横に座り背中を撫でる。
「……護君のフェロモンがわからないんだ。
挑発フェロモンの香りしかしない」
僕の言葉に静流君が息を飲む。
「何で?
何で平気な顔で婚約を解消して欲しいって言えるの?
新しい世界ってなに?」
兄に問いかける。
「自分の足で歩いてみたいって。
一緒に歩いて行こうって約束したのに」
恨み言のような言葉が溢れ出す。
覚悟はしていたのに。
覚悟はできていたはずなのに。
突きつけられた現実はあまりにも残酷だった。
護君と番となる日を待ち望んでいた。
護君しかいないと思っていた。
それなのに護君の番になったのは僕じゃない誰かだった。
苦しい。
抑えきれない感情が涙となってこぼれ落ちる。
「静流君、眠い」
僕は泣きながら助けを求めた。
眠くて眠くて仕方がない。
考えることを諦めた僕の身体は急激に眠りを求めていく。
「向井さんのプリンは?」
「起きてからでも大丈夫かな?」
自分で考えることを拒否して静流君に答えを委ねる。
「寝てもいいけど部屋に行こうね」
眠りにつく前に聞いた声は限りなく優しいものだった。
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