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epilogue
もうひとつの
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「何で、」
連絡の取れなくなった紗凪の言葉に従うのは癪に障るけれど、それ以外の方法は無いのだと仕方なく貴哉の会社に手紙を送った。だけど、返事が無いどころか返ってきたのは受取拒否と赤い字で書かれた手紙。
赤い字の下には貴哉のフルネームが書かれ、その筆跡から本人が書いたものだと認めるしかなかった。
紗凪に連絡を取ろうとしても電話もメッセージも拒否されたようで連絡が取れず、両親や祖父母のスマホを使っても同じことだった。
⌘ ⌘ ⌘
日に日に大きくなるお腹は隠すことができず、荷物を取りに来た夫からは「紗柚に知らせたくないから」と告げられ、「育てるつもりなら紗柚はこっちで育てるから」と冷たく拒否されてしまった。
紗凪が言った通り、とっくの昔に私のしたことはバレていたのだろう。
「紗柚の兄弟よ?」
「でも僕の子じゃない」
「このまま産めば自然に籍に入るけどね」
「だから、紗柚が気付く前に家を出たって気付きなよ」
冷たい声と冷たい視線。
優しい顔しか見せたことのなかった夫の冷たい態度に戸惑うけれど、それでも引き下がるわけにはいかなかった。
「紗柚には兄弟だって「僕の子じゃないし、僕は認めない」」
今までパイプカットをお願いした時でも聞いたことのなかった夫の強い声に「認めないって、」と弱い声が出てしまう。
こんなはずじゃなかったのに。
子どもができたと知れば貴哉は喜んでくれると思っていた。
夫とは紗柚の養育権を放棄すると言えば円満に別れることができると思っていた。
貴哉との子どもを汐勿の後継にして、紗柚はあちらの家に行けばみんなが幸せになれると思っていた。
貴哉が手紙を読んでさえくれれば事態は変わると思い何度か手紙を送ったけれど、何度目かの手紙を送った後に《受取人は退職しました》と添えた手紙と共に、私の送った手紙がまとめて送り返されたことで諦めるしかないと自分に言い聞かせた。
貴哉と私の経緯を知っている友人には頼ることはできないし、頼るとしても真実を告げるには私のプライドは高すぎる。
貴哉が去り、紗凪とも連絡が取れず、夫からも拒否され、家族との関係も上手くいかない。
子どもを諦めることは時期的にもうできない。
⌘ ⌘ ⌘
大きくなっていくお腹を人に見られたら紗柚が知ってしまうと言われ、外出は許されない。
『汐勿の家に迷惑をかけないで』
無理やり外出をしようとした私にかけられたのは、そんな母の冷たい言葉だった。
外出はできないけれど、汐勿の家に迷惑をかけないようにと生活の面倒は見てもらえるせいで不自由は無い。
妊婦健診を受ける必要があるけれど、紗柚を産む時にお世話になった産院には行くことは許されなかった。仕方なく市外の産院に通うことになったけれど、送迎してくれる母との車中での会話はよそよそしい。
「紗柚はいつ帰ってくるの?」
「この子がいるなら帰ってこないって」
母が紗柚と夫の帰宅を待っていることには気付いていた。紗柚は可愛い初孫だし、夫のことも気に入ってる。
きっと母は、以前の生活が戻ることを望んでいるのだろう。
⌘ ⌘ ⌘
「その子を産むのは勝手だけど、僕の子としては認めないし、その子と一緒に生活する気はないから」
「でも、」
「もう堕ろせないんでしょ?
僕と別れて紗柚の親権を放棄してくれれば余計なことは言わないよ。
紗羅ちゃんだって、そう言ってたじゃない」
「それは、」
「元彼が旦那になってくれると思ってたんだもんね。
逃げられるなんて、考えても無かったんだよね」
柔らかな口調で嘲笑を浮かべながら言葉を続ける。
「戻って欲しいなら、諦めなよ」
「諦めるって、」
「里子に出して養子縁組してもらったら籍は残らないよね」
夫なりに考えた結論は、貴哉を諦めて自分を選ぶことを強要することだった。
「あ、でもうちの方の跡取りのことも考えたいから紗柚に兄弟作ってあげようね、僕が戻ったら」
「紗柚がいるじゃない。
だったらこの子を汐勿の跡取りに、」
「だって、僕の子じゃないでしょ?
僕のこと拒否せずに普通に夫婦生活送ってたら騙されてあげたかもしれないのに、紗柚を産んだからって僕のこと拒否するから。
こんなことになるなんて、考えてなかったんでしょ、あの時は」
夫の言葉であの時のことを思い出し、自分の浅はかさを思い知る。
後継は欲しかったけれど夫との子どもが欲しいわけじゃない。だけど、貴哉との行為を知ってしまった身体を持て余し、行為はしたいけれど子どもは要らないと夫に告げてしまった。
方法はいくらでもあったのに。
夫に避妊を強要しなくても夫に告げずにピルを飲むことだってできたし、避妊リングを黙って入れることだってできた。物足りないと思うような夫との行為なら隠し通すことは難しくなかったはずだ。
「捨てられた相手の子ども、育てたいの?
それとも紗凪君に対する当て付け?」
私と貴哉、そして紗凪と貴哉の関係に気付いたなんて思いもしなかったけれど、夫は夫なりに私にその事実を突きつけるタイミングを見計らっていたのかもしれない。
「だって、私の子どもよ?」
「でも僕の子じゃない。
結局、そばで支えてあげられるのは僕なんだよ?」
宥めるような優しい言葉を口にするけれど、その目は冷たい。
口では私を気遣うふりをしておいて私から子どもを奪い、私を支配することが目的なのだろう。
「その子を諦めればうまくいくんだよ。
紗柚だって帰ってくるし、お父さんやお母さんとの関係も少しずつ修復できるだろうし」
この子を諦められないのを知っていて私を追い詰める言葉を続ける。
「赤ちゃんが欲しいならその子を諦めて、僕の子を産めば全て上手くいくよ。
ほら、里子のこととか、養子縁組のこととか調べたから読んでおいて」
そんな言葉と共に私のスマホに送られてきたのは夫が調べた里子と養子縁組に対する資料の数々だった。
「強制じゃないよ。
だけど、どうするのが1番良いか、分かるよね。
もしお父さんやお母さんが許したとしても僕は許さないし、僕が許したとしてもお父さんとお母さんは許さないと思うよ」
紗柚の荷物を取りに来るふりをして私の様子を見にくる度に、そんなことを言って嗤う夫に日に日に追い詰められていく。
どうすれば1番良いかなんて夫に言われなくても分かってる。だけど、この子を諦めることはできない。
この子と過ごすことができるのなら夫の子どもを産むことだって考えるけど、この子の存在は許されないのだろう。
⌘ ⌘ ⌘
「この子がいるなら帰ってこないって。
里子とか養子縁組のことを考えろって言われた」
誰にも相談できず、唯一話すことのできる母に言ったのは私に寄り添って欲しかったから。だって、母はふたり目の子どもを諦める辛さを知っているはずだから。
「そう、」
「そうって、他に何か言うことないの?」
「仕方ないと思うけど、里子とか、養子縁組とか、そのつもりなら早く手続きとかしないといけないんじゃないの?」
だけど、返ってきた答えは私の望むものではなかった。
「ねえ、それ本気で言ってる?」
「当たり前でしょ。
その子が生まれても紗柚達が帰ってこなかったらどう思われるのか考えたことある?
紗柚だって戸惑うに決まってるでしょ?」
「別に、兄弟だって言えば良いじゃない」
「兄弟なんかじゃないでしょ」
吐き捨てるように口にしたのは、それが母の本音だったからなのだろう。
どうしたら良いかなんて分かってる。
紗柚の兄弟だと認められないことだって分かってる。
だけも少しだけ、嘘だとしても少しだけ寄り添って欲しかった。『気持ちは分かるけど、』そんな一言だけでも貰えたら気持ちを切り替えることができそうな気がしていた。
それなのに寄り添ってもらえなかった。
否定しかされないこの子が不憫だと思った。
その子に寄り添うとができるのは、私しかいない。
「そうだよね、」
暗い声が出る。
この子と一緒にいられるのなら何でもするけれど、この子と一緒にいられないのなら何もしたくない。
「ごめん、お腹が張ってるからシートベルト外すね」
誰とも話したくなかった。
何も考えたくなかった。
母のことを無視するようにシートを少し倒し、目を瞑る。そして、心の中で『ごめんね』と謝る。
謝罪の言葉はこの子に対してなのか、自分に対してなのか、それとも父親である貴哉に対してなのか。
「大丈夫なの?」
気遣うような言葉だったけれど、その口調は冷たい。
自分の気持ちが伝わらず、自分の思いを汲んでもらえない遣る瀬無い想いに、ふと紗凪を思い出す。
あの日、あの時、紗凪もこんな想いでいたのだろうか。
貴哉に捨てられ、私にも母にも責められ、私よりももっと遣る瀬無い思いを抱え、全てを諦めるしかなったのだろう。
「ごめんね、」
素直にそんな言葉を口から溢れる。
紗凪のことを妬み、恨み、全てを奪ってきたけれど、本当は紗凪のせいではないと知っていた。だけど、そのことに気付いても後戻りしたくなかったし、後戻りできる段階でもなかった。
私がほんの少しでも紗凪に寄り添うことができていたら、結末は違っていたかもしれない。
「何か言った?」
私の呟きに母が応える。
家から離れた産院には通うせいで、帰宅時に空いた道でスピードを出すのはいつものことだった。
「何も、」
母の言葉に応えながら目を開ける。
法定速度を超えたスピードで走る車。
対向車はいるけれど、後続車は見当たらない。
きっと今が、そのタイミングなのだろう。
前を向いて運転する母は私の動きに気付かない。
無言で手を伸ばし、ハンドルを左に切る。母の悲鳴が聞こえたけれど、母が助かることを祈りながら迫り来る街灯を見ていることしかできなかった。
街灯には助手席側からぶつかるだろうし、母はシードベルトをしている。シードベルトを外した私は、この子と共に世界を終わらせることになるだろう。
母の悲鳴とそれを掻き消す衝撃音。
そして、叩きつけられるような衝撃。
この痛みは私のものなのか、この子のものなのか。
私を呼ぶ声は母のものなのだろうけれど、母の安否は気にならなかった。
もしもこの事故のニュースが貴哉に届いたら後悔してくれるだろうか。
もしもこの事故のニュースが紗凪に届いたら私を許してくれるだろうか。
「ごめんね、」
世界が終わるその時に、私が思い浮かべたのは1番憎んでいたはずの紗凪のことだった。
Fin
連絡の取れなくなった紗凪の言葉に従うのは癪に障るけれど、それ以外の方法は無いのだと仕方なく貴哉の会社に手紙を送った。だけど、返事が無いどころか返ってきたのは受取拒否と赤い字で書かれた手紙。
赤い字の下には貴哉のフルネームが書かれ、その筆跡から本人が書いたものだと認めるしかなかった。
紗凪に連絡を取ろうとしても電話もメッセージも拒否されたようで連絡が取れず、両親や祖父母のスマホを使っても同じことだった。
⌘ ⌘ ⌘
日に日に大きくなるお腹は隠すことができず、荷物を取りに来た夫からは「紗柚に知らせたくないから」と告げられ、「育てるつもりなら紗柚はこっちで育てるから」と冷たく拒否されてしまった。
紗凪が言った通り、とっくの昔に私のしたことはバレていたのだろう。
「紗柚の兄弟よ?」
「でも僕の子じゃない」
「このまま産めば自然に籍に入るけどね」
「だから、紗柚が気付く前に家を出たって気付きなよ」
冷たい声と冷たい視線。
優しい顔しか見せたことのなかった夫の冷たい態度に戸惑うけれど、それでも引き下がるわけにはいかなかった。
「紗柚には兄弟だって「僕の子じゃないし、僕は認めない」」
今までパイプカットをお願いした時でも聞いたことのなかった夫の強い声に「認めないって、」と弱い声が出てしまう。
こんなはずじゃなかったのに。
子どもができたと知れば貴哉は喜んでくれると思っていた。
夫とは紗柚の養育権を放棄すると言えば円満に別れることができると思っていた。
貴哉との子どもを汐勿の後継にして、紗柚はあちらの家に行けばみんなが幸せになれると思っていた。
貴哉が手紙を読んでさえくれれば事態は変わると思い何度か手紙を送ったけれど、何度目かの手紙を送った後に《受取人は退職しました》と添えた手紙と共に、私の送った手紙がまとめて送り返されたことで諦めるしかないと自分に言い聞かせた。
貴哉と私の経緯を知っている友人には頼ることはできないし、頼るとしても真実を告げるには私のプライドは高すぎる。
貴哉が去り、紗凪とも連絡が取れず、夫からも拒否され、家族との関係も上手くいかない。
子どもを諦めることは時期的にもうできない。
⌘ ⌘ ⌘
大きくなっていくお腹を人に見られたら紗柚が知ってしまうと言われ、外出は許されない。
『汐勿の家に迷惑をかけないで』
無理やり外出をしようとした私にかけられたのは、そんな母の冷たい言葉だった。
外出はできないけれど、汐勿の家に迷惑をかけないようにと生活の面倒は見てもらえるせいで不自由は無い。
妊婦健診を受ける必要があるけれど、紗柚を産む時にお世話になった産院には行くことは許されなかった。仕方なく市外の産院に通うことになったけれど、送迎してくれる母との車中での会話はよそよそしい。
「紗柚はいつ帰ってくるの?」
「この子がいるなら帰ってこないって」
母が紗柚と夫の帰宅を待っていることには気付いていた。紗柚は可愛い初孫だし、夫のことも気に入ってる。
きっと母は、以前の生活が戻ることを望んでいるのだろう。
⌘ ⌘ ⌘
「その子を産むのは勝手だけど、僕の子としては認めないし、その子と一緒に生活する気はないから」
「でも、」
「もう堕ろせないんでしょ?
僕と別れて紗柚の親権を放棄してくれれば余計なことは言わないよ。
紗羅ちゃんだって、そう言ってたじゃない」
「それは、」
「元彼が旦那になってくれると思ってたんだもんね。
逃げられるなんて、考えても無かったんだよね」
柔らかな口調で嘲笑を浮かべながら言葉を続ける。
「戻って欲しいなら、諦めなよ」
「諦めるって、」
「里子に出して養子縁組してもらったら籍は残らないよね」
夫なりに考えた結論は、貴哉を諦めて自分を選ぶことを強要することだった。
「あ、でもうちの方の跡取りのことも考えたいから紗柚に兄弟作ってあげようね、僕が戻ったら」
「紗柚がいるじゃない。
だったらこの子を汐勿の跡取りに、」
「だって、僕の子じゃないでしょ?
僕のこと拒否せずに普通に夫婦生活送ってたら騙されてあげたかもしれないのに、紗柚を産んだからって僕のこと拒否するから。
こんなことになるなんて、考えてなかったんでしょ、あの時は」
夫の言葉であの時のことを思い出し、自分の浅はかさを思い知る。
後継は欲しかったけれど夫との子どもが欲しいわけじゃない。だけど、貴哉との行為を知ってしまった身体を持て余し、行為はしたいけれど子どもは要らないと夫に告げてしまった。
方法はいくらでもあったのに。
夫に避妊を強要しなくても夫に告げずにピルを飲むことだってできたし、避妊リングを黙って入れることだってできた。物足りないと思うような夫との行為なら隠し通すことは難しくなかったはずだ。
「捨てられた相手の子ども、育てたいの?
それとも紗凪君に対する当て付け?」
私と貴哉、そして紗凪と貴哉の関係に気付いたなんて思いもしなかったけれど、夫は夫なりに私にその事実を突きつけるタイミングを見計らっていたのかもしれない。
「だって、私の子どもよ?」
「でも僕の子じゃない。
結局、そばで支えてあげられるのは僕なんだよ?」
宥めるような優しい言葉を口にするけれど、その目は冷たい。
口では私を気遣うふりをしておいて私から子どもを奪い、私を支配することが目的なのだろう。
「その子を諦めればうまくいくんだよ。
紗柚だって帰ってくるし、お父さんやお母さんとの関係も少しずつ修復できるだろうし」
この子を諦められないのを知っていて私を追い詰める言葉を続ける。
「赤ちゃんが欲しいならその子を諦めて、僕の子を産めば全て上手くいくよ。
ほら、里子のこととか、養子縁組のこととか調べたから読んでおいて」
そんな言葉と共に私のスマホに送られてきたのは夫が調べた里子と養子縁組に対する資料の数々だった。
「強制じゃないよ。
だけど、どうするのが1番良いか、分かるよね。
もしお父さんやお母さんが許したとしても僕は許さないし、僕が許したとしてもお父さんとお母さんは許さないと思うよ」
紗柚の荷物を取りに来るふりをして私の様子を見にくる度に、そんなことを言って嗤う夫に日に日に追い詰められていく。
どうすれば1番良いかなんて夫に言われなくても分かってる。だけど、この子を諦めることはできない。
この子と過ごすことができるのなら夫の子どもを産むことだって考えるけど、この子の存在は許されないのだろう。
⌘ ⌘ ⌘
「この子がいるなら帰ってこないって。
里子とか養子縁組のことを考えろって言われた」
誰にも相談できず、唯一話すことのできる母に言ったのは私に寄り添って欲しかったから。だって、母はふたり目の子どもを諦める辛さを知っているはずだから。
「そう、」
「そうって、他に何か言うことないの?」
「仕方ないと思うけど、里子とか、養子縁組とか、そのつもりなら早く手続きとかしないといけないんじゃないの?」
だけど、返ってきた答えは私の望むものではなかった。
「ねえ、それ本気で言ってる?」
「当たり前でしょ。
その子が生まれても紗柚達が帰ってこなかったらどう思われるのか考えたことある?
紗柚だって戸惑うに決まってるでしょ?」
「別に、兄弟だって言えば良いじゃない」
「兄弟なんかじゃないでしょ」
吐き捨てるように口にしたのは、それが母の本音だったからなのだろう。
どうしたら良いかなんて分かってる。
紗柚の兄弟だと認められないことだって分かってる。
だけも少しだけ、嘘だとしても少しだけ寄り添って欲しかった。『気持ちは分かるけど、』そんな一言だけでも貰えたら気持ちを切り替えることができそうな気がしていた。
それなのに寄り添ってもらえなかった。
否定しかされないこの子が不憫だと思った。
その子に寄り添うとができるのは、私しかいない。
「そうだよね、」
暗い声が出る。
この子と一緒にいられるのなら何でもするけれど、この子と一緒にいられないのなら何もしたくない。
「ごめん、お腹が張ってるからシートベルト外すね」
誰とも話したくなかった。
何も考えたくなかった。
母のことを無視するようにシートを少し倒し、目を瞑る。そして、心の中で『ごめんね』と謝る。
謝罪の言葉はこの子に対してなのか、自分に対してなのか、それとも父親である貴哉に対してなのか。
「大丈夫なの?」
気遣うような言葉だったけれど、その口調は冷たい。
自分の気持ちが伝わらず、自分の思いを汲んでもらえない遣る瀬無い想いに、ふと紗凪を思い出す。
あの日、あの時、紗凪もこんな想いでいたのだろうか。
貴哉に捨てられ、私にも母にも責められ、私よりももっと遣る瀬無い思いを抱え、全てを諦めるしかなったのだろう。
「ごめんね、」
素直にそんな言葉を口から溢れる。
紗凪のことを妬み、恨み、全てを奪ってきたけれど、本当は紗凪のせいではないと知っていた。だけど、そのことに気付いても後戻りしたくなかったし、後戻りできる段階でもなかった。
私がほんの少しでも紗凪に寄り添うことができていたら、結末は違っていたかもしれない。
「何か言った?」
私の呟きに母が応える。
家から離れた産院には通うせいで、帰宅時に空いた道でスピードを出すのはいつものことだった。
「何も、」
母の言葉に応えながら目を開ける。
法定速度を超えたスピードで走る車。
対向車はいるけれど、後続車は見当たらない。
きっと今が、そのタイミングなのだろう。
前を向いて運転する母は私の動きに気付かない。
無言で手を伸ばし、ハンドルを左に切る。母の悲鳴が聞こえたけれど、母が助かることを祈りながら迫り来る街灯を見ていることしかできなかった。
街灯には助手席側からぶつかるだろうし、母はシードベルトをしている。シードベルトを外した私は、この子と共に世界を終わらせることになるだろう。
母の悲鳴とそれを掻き消す衝撃音。
そして、叩きつけられるような衝撃。
この痛みは私のものなのか、この子のものなのか。
私を呼ぶ声は母のものなのだろうけれど、母の安否は気にならなかった。
もしもこの事故のニュースが貴哉に届いたら後悔してくれるだろうか。
もしもこの事故のニュースが紗凪に届いたら私を許してくれるだろうか。
「ごめんね、」
世界が終わるその時に、私が思い浮かべたのは1番憎んでいたはずの紗凪のことだった。
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捺之雨さん、感想ありがとうございます。
今回は紗凪以外はそれぞれ拗らせて身勝手な感情に振り回されながら話が進んでいきます。
それぞれの世界の終わりがどうなるのか、最後までお付き合いいただけると嬉しいです。