暁の山羊

春野 サクラ

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 そして、時は風のように流れ、葉奈は高校最後の冬休みを迎えた。
 「行ってきます。あれ? 葉奈は?」
 明日夏は、母に尋ねた。
 「まだ寝てるのかもね。冬休みだから」
 「……ふーん、余裕ね。……まあ、葉奈ちゃんは優秀だからね」
 皮肉を含んだ一言をいうと、明日夏はダイニングテーブルに置かれた弁当を手に取った。
 母は、黙って明日夏の言葉を聞き流す。すると、二階から階段を踏む音か聞こえてきた。
 「……はぁーあ」
 眠い目をこすりながら葉奈が二階から下りてきた。そしてそのままテーブルの椅子に腰を掛ける。
 「あれェ、お姉ちゃんまだいたの? 私、早起きしちゃったかなァ」
 寝ぼけた顔で葉奈は明日夏に声をかける。
 「……余裕ですね。受験生様は」
 冷ややかなまなざしをして、明日夏は玄関に向かった。
 「べえー。……お姉ちゃんって、いっつも嫌味なこと言うよねえ」
 葉奈はダイニングテーブルの椅子に座ると、立て肘ついて顔を膨らませた。
 「……あなたのことが心配なのよ」
 母はため息交じりに、葉奈にそう言い聞かせた。

 年が明けて、元日。ダイニングでは母と明日夏、葉奈が昼食の用意をしていた。鐡哉は一人、リビングのソファでテレビを見ている。
 葉奈は一人、切り餅を焼こうと用意している。
 「葉奈ちゃん、お姉ちゃんの分も焼いてあげて」
 母は、葉奈の背中越しから静かに話しかける。葉奈は苦虫を噛むような顔をすると、抑揚のないつまらなそうな声で明日夏に尋ねる。
 「……お餅、食べるのー」
 「いらない」
 言葉少なめに明日夏は答える。
 「っそ……」
 葉奈はボソッと言うと、トースターに切り餅を数個入れ、スイッチを押した。電熱線がじわじわとオレンジ色に変わってゆく。トースターの中の切り餅がみるみるうちに膨らんでいく。葉奈はトースターの中をじっと眺めている。しばらくするとチーンと音が鳴った。葉奈はトースターの扉を開けると、無造作に素手で切り餅を掴んだ。すると、餅の焦げた部分が割れて葉奈の人指し指が不意にその中にのめり込んだ。
 「あつッー! あちちちーっ!」
 葉奈は反射的に手を大きく振ったが、餅は指に執拗にくっつき、なかなか離れない。
 「あつッ! ゥあああッ!」
 「葉奈! どうしたの!」
 葉奈の唐突な悲鳴に、明日夏が急いで葉奈の元に駆け寄る。葉奈はその場に腰を落とすと、顔を歪ませて指を抑えた。
 「ああ―ッ! あ――ッ!」
 明日夏はすぐさま冷蔵庫の冷凍室の扉を開けて凍り切った保冷剤を掴むと、そのまま直に葉奈の指に押し付けた。
 「キャア―――ッ!」
 氷点下の鋭利な凍度が葉奈の白い指目掛けて深く突き刺さる。葉奈は急激な冷たさに思わず声を張り上げた。
 「ちょっと、我慢して!」
 明日夏は暴れる葉奈の手を強引に掴んで保冷剤を押し当て続けた。
 「葉奈、どうしたの!」
 「どうしたッ!」
 ダイニングテーブルで準備していた母も、ソファに座っていた父も、慌てて葉奈の元に駆け寄ってきた。
 「葉奈、どう? 痛む?」
 明日夏は、葉奈の指を冷え切った保冷剤で押さえながら尋ねた。
 「……あ、あああ」
 葉奈の目は、眼球が飛び出すほどに大きく見開かれ、肌の色は青ざめていた。口はだらしなく開かれ、よだれが漏れている。
 「葉奈。……ちょっと、どうしたの?」
 明日夏は葉奈の指を握りながら、その異常な顔つきを不安げに見つめた。
 「あああああああああああああああああああああああああ―――――――――――――――――――ッ!」
 突然、葉奈は喉の奥深くから甲高い叫び声を吐き出すと、明日夏の手を振り払い、両手で頭を抱えて床にひれ伏した。
 「どうした! 葉奈ぁ!」
 父が葉奈の肩を掴んだ。葉奈は憑りつかれたように頭を執拗に振り払い、叫び続けた。
 「がああッ! ああ、ああああああああ―――――――ーーーーッ!」
 葉奈の瞳からは、堰を切ったように大粒の涙が流れ落ちてくる。
 「……救急車。き、救急車! 救急車呼ばなきゃ!」
 明日夏はそう叫ぶと、急いで立ち上がった。
 「はあっ、あ、ああ……」
 葉奈は右手を上げて、明日夏を制止した。
 「ゲホッ、ゴホォ。……ォオッ。……あ、ああ。……ハア、ハア。……大丈夫。おねえ……大丈夫」
 荒い息をしながらも、葉奈は明日夏にそう言った。
 「えッ? ……葉奈、あんた大丈夫なの?」
 明日夏は眉間に皺を寄せながら、落ち着かない顔で葉奈を見つめた。
 「どれ、ちょっと見せてみろ」
 父は焦燥した顔をする葉奈の指を掴んで診てみた。
 「……なんだ、なんともなってないぞ。赤くもなってない」
 母は安堵の表情を浮かべた。
 「よかったわ。すごい声で叫んだから、びっくりしちゃったわよ」
 母が葉奈に話しかける。
 「葉奈ぁ。ごめんね、ごめんね! 冷たかったよね」
 明日夏は、膝を落として葉奈の手をやさしく握った。
 「……ち、ちょっと。ごめん」
 葉奈は下を向きながら立ち上がると、ふらついた様子で階段を上り、二階の自分の部屋に入っていった。
 「……どうしちゃったのかしら」
 母は、不安な顔つきで葉奈の後ろ姿を見つめた。
 「悪いことしちゃったかなぁ。あんな大声で叫ぶなんて、……相当冷たかったのかも知ンない」
 明日夏は立ち上がると、気落ちした顔で二階に通じる階段を見つめた。
 ところが、しばらくすると葉奈は上着を着て階段を下りてきた。
 「あっ、葉奈。……えっ? ちょっと、どこ行くの?」
 ダイニングテーブルの椅子に座っている明日夏が葉奈を呼び止めた。
 「葉奈ちゃん、大丈夫なの? お昼は? お昼どうするの?」
 母も葉奈に声をかける。
 「大丈夫。ちょっと外に出てくるね。すぐ戻るから」
 葉奈は笑顔で玄関に向かっていった。
 「……なんだい、ずいぶんと愛想がいいな」
 父が新聞を読みながらつぶやいた。
 「お姉ちゃんが心配したからね、ご機嫌なんでしょ」
 母は、明日夏の方を向いて微笑んだ。
 「そりゃあ、痛がってれば心配で見に行くでしょ。だれだって。……でも、ほんと大丈夫かな」
 明日夏は不安な顔つきをしながら、ダイニングのドアをじっと見つめた。

 時計は午後四時を指し示す。
 「あの子、すぐ戻るって言って、どこ行ったのかしら」
 母が時計を見ながらソワソワし始めた頃、玄関の扉が開く音がした。すると、激しく床を踏み叩く音とともに葉奈が勢いよくダイニングに入ってきた。
 「あーっ! もう、ほんとウザい! 言い寄ってくる男みんな死ねッ!」
 目を吊り上げて、口汚いセリフを吐いて葉奈は二階に上がって行った。
 父は、そ知らぬふりでソファで新聞を読む。母と明日夏は顔を見合わせる。
 「……そんなにもたなかったわね、お愛想」
 冷めた視線で明日夏は階段を見つめた。

 それから二週間後。凍える曇り空の下、大学の入学試験を受験するために葉奈は明日夏と二人、試験会場へと向かった。
 「ここから先は私、入れないからね。くれぐれも受験する教室なんか間違えないでよ」
 「別にィ、大丈夫よ。たかが問題解くだけでしょ、緊張なんかしないわよ」
 葉奈は、すかした顔でうそぶいた。
 「はいはい。……まあ、優秀な葉奈ちゃんなら心配ないか。じゃあ行ってらっしゃい。帰りは一人で帰れるわよね」
 「うん。お姉ちゃんありがとね!」
 葉奈は愛嬌たっぷりに笑うと、明日夏に手を振って会場の奥に向かって歩き出した。明日夏は、葉奈の後ろ姿を柔らかい表情で見送る。
 「まったくもう、ほんと気分屋なんだから。……あーあ。あんなかわいい笑顔なんか見せつけられたら、憎めないじゃないの」
 明日夏は苦笑すると、葉奈の後ろ姿に背を向けて、職場へと歩いて行った。



 それから、葉奈の高等部卒業を一ヶ月後に控えたある日の晩。自宅アパートで一人寂しく食事をしていた二賀斗のスマホが、明日夏から電話が来たことを知らせてくれた。二賀斗は急いで箸を置き、電話に出る。
 「はい、もしもし」
 「こんばんは。お久しぶりです、ニーさん。早速なんだけどさ、来月の三月十日に葉奈の卒業式があるんだけどね、そのあとみんなで夕食会をしようってことになったのよ。だから、夜は予定開けといてね。ニーさんも葉奈に直接会うの何年か振りでしょ。楽しみにしててね」
 「あ、あの……。その日はちょっと都合がぁ……」
 二賀斗はたどたどしい口調で誘いを断ろうとした。
 「ち、ちょっと、葉奈ぁ……」
 明日夏の声が突然、途切れる。
 「もしもし! ニーちゃん? 私よ! 葉奈だけどォ、夕食会来れるでしょ?」
 明日夏に替わって、はつらつとした葉奈の声が聞こえてきた。
 「お、おお、葉奈ちゃんか。こんばんは。いやー、もうすぐ卒業なんだね。えーっとォ……、行きたいのはやまやまなんだけどさ……」
 二賀斗は作り笑顔をしながら恐縮した声でやんわりと断りの言葉を絞り出そうとしていた。
 「なに、来れないの? ひっどーい! ニーちゃんってそんな人だったの! あーっそ!」
 ひどい剣幕で葉奈は二賀斗に突っかかった。
 「ちょっと! 葉奈、スマホ返しなさいよ」
 明日夏の声が、葉奈の後ろの方から聞こえてくる。
 「あっ、ああーっ、ごめん! 違った、勘違いしてた! 行けるよ、行ける。葉奈ちゃんの卒業祝いだもんな、絶対に行くよ。うん!」
 「だよねー。じゃあ、場所が決まったらまた電話するね。あと、安いお祝いはいらないからねー。おやすみー」
 葉奈は言いたいことを一通り言うと、電話をブチッと切った。二賀斗は軽く溜め息をつくとスマホをテーブルに置いてしばらくの間、口を一文字に結んだまま黙り込んだ。テレビの音が部屋中に流れているにも関わらず、二賀斗の頭の中は闇夜のように静寂だった。
 「あの子のことは見守っていかなきゃならない。……それが俺の役目だ。たとえあの子が葉奈じゃなくたって」
 二賀斗は、ぼんやりとテーブルに置かれたスマホを見つめた。
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