暁の山羊

春野 サクラ

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 一つ一つの小さな小さな時間が積み重なり、折り重なり、あの日から十八年の歳月が築かれた。
 桃月、三月。そして今日、葉奈は晴れて高等部の卒業式を迎える。学園の高等部の体育館には卒業生の他、在校生や保護者が一堂に会し、式が催されていた。
 「……如月葉奈」
 「はい!」
 肩下まで真っ直ぐに伸びた艶やかな黒髪をなびかせ、漆黒のセーラー服に身を包んだ葉奈が凛とした表情で壇上に上っていく。校長からの卒業証書を両手でつかむと、静かに一礼をする。精悍な瞳に、桜色の唇をほんの少しだけ上向かせ身を振り返らせる。葉奈の黒髪が、まるでマントをはためかせるかのように颯爽と宙を舞う。さながら円卓の騎士のような荘厳とした葉奈の歩く姿に、会場にいる人々は皆、目を奪われた。
 「はぁ。すごいオーラのある子だなぁ」
 「なんだか舞台を見てるみたいねぇ……」
 父と母の耳に、保護者からの忌憚のないつぶやきが聞こえてくる。
 「……なんか、最近あいつも丸くなったなあ」
 「そうですね。なにかあったのかしら」
 父と母も同じようにつぶやいた。

 卒業式も無事に終わり、体育館の周りには卒業生や在校生らが賑やかに別れを惜しんでいた。
 「葉奈センパイ! 私たちのこと忘れないでくださいね!」
 「センパイ! これからもセンパイの活躍見てますから!」
 「ありがとー。でもどっから見るのよ」
 「えっ? テレビとか、映画とか……」
 「なんじゃそりゃ! 勝手に芸能人にするなー」
 「あははははー」
 葉奈は後輩たちとじゃれ合っている。
 「センパイ。……なんか、顔が変わりましたね」
 「えっ? どんな風に?」
 「センパイって、ちょっと猫目な感じだったのに、なんかやわらかい雰囲気になったって感じです」
 「そお? ……うーん。まぁ、緊張しっぱなしの高校生活だったからねェー。卒業出来てやっと本来の顔に戻ったって感じよ!」
 「ええーっ! なんですかそれー。あははははは」
 葉奈を取り巻く後輩たちが一斉に笑い出した。
 「じゃあ、みんなもがんばってね。バイ!」
 葉奈は右手を大きく振って、後輩たちに別れを告げた。葉奈を慕う後輩たちが一斉に葉奈に向けて声をあげる。
 「葉奈センパーイ! ファイトー!」
 葉奈はその声に振り返ると、振っていた手を空高く上げて後輩たちの声援に応えた。

 葉奈と父母の三人は、自宅に帰る途中で昼食を摂り、家に戻った時は午後も三時を回っていた。自宅に戻った時には早帰りの明日夏がソファでテレビを見ていた。
 「あら、お帰り。どうだった? 卒業式」
 明日夏は葉奈に声をかけた。
 「やっと行儀のいい子ってやつから卒業出来るのかって思うと、うれしいわあー」
 葉奈はその場でクルッと一回転した。黒いスカートがふんわりと浮き上がる。
 「葉奈が卒業証書をもらって壇上から下りてくる姿が、何とも勇ましかったなぁ」
 父が感慨深げに話す。
 「へえー。それはそれは。将来は舞台俳優ですか? 葉奈ちゃんは」
 「ふふん。味気ないよね、そんなの」
 葉奈は薄ら笑いをすると、二階に上がって行った。
 父と母はダイニングテーブルの椅子に座ってくつろぎ出した。明日夏は一人、葉奈の後ろ姿を目で追いかけたが、葉奈の姿が見えなくなると首の向きを元に戻した。
 〈……でも、やっぱり〉
 明日夏は立ち上がると、二階の葉奈の部屋に向かった。明日夏は葉奈の部屋の前に立つと木製のドアを手の甲で軽くノックした。
 「葉奈ぁ、ちょっといい?」
 「なーに?」
 明日夏はドアを押して部屋の中に入った。葉奈は制服のスカーフを外そうとしていた。
 「どうしたの?」
 「うん……。ねぇ、葉奈。少し……顔が変わったのかな?」
 明日夏は、恐る恐る葉奈に尋ねてみた。
 「ええっ? なにそれ。私が整形でもしたって言うのォ?」
 葉奈は腰に手を置いて苦笑いした。
 「う、ううん。そんなんじゃなくて、あの……何か雰囲気が変わったなーって思っちゃったからさ」
 明日夏は慌てて手を振って取り繕った。
 「ふうん。そう見える? 成長したからじゃないの? 私だっていつまでも子供じゃないからね」
 葉奈は首を傾けて、微笑んだ。
 「あ、うん。……そうかも、ね」
 明日夏はそう言うと、うつむいたまま葉奈の部屋を立ち去った。
 階段をゆっくりと下り、明日夏はリビングのソファに再び腰を落とす。
 〈でも……やっぱり見間違いじゃないよ! あの子の顔、葉奈ちゃんになってる! 前はあんなに猫顔だったのに、今のあの子の顔。……葉奈ちゃんに瓜二つよ! 一体何があったっていうの? どういうことなの!〉
 明日夏は振り向くと母に声をかけた。
 「ねぇ、お母さん。……葉奈って、顔変わった感じしない?」
 「ん、そう? ……まぁ、変わったかもね。葉奈だってもう十八なんだもの、大人の顔立ちにだってなるでしょ」
 「ねェ、お父さんは葉奈の顔どう思う?」
 「んん。……きれいになったな。うん」
 父は、お茶をすすりながらそう答えた。
 〈そっか。二人とも葉奈ちゃんの顔、知らないんだもんね〉
 明日夏は下を向いてしばらく考え込んだ。
 〈これって偶然なの? それともやっぱり生まれ変わりなの? ……でも、あの子の話口調とか、やっぱり葉奈ちゃんじゃないよ。あの時はほんのちょっとしか話せなかったけど、葉奈ちゃんて控えめであんな気分屋じゃなかった。……でも顔は葉奈ちゃんよ? でも、中身は違う。……もしかしたら外見だけの生まれ変わりってことなの? もう、何が何だかわからないわッ! 一体どうなってるのよ、あの子の身体は! あぁもう、気が狂いそう!〉
 眉間の古傷が疼いた。すでに何十年も昔の出来事になっているはずなのに、昨日のことのように当時のことが頭に浮かぶ。明日夏は思わず両手で頭を抱え込んだ。

 「五時半か。……そろそろ行くかい?」
 父はリビングに吊るされた時計に目をやると、ソファに落としていた腰をやおら上げた。
 「明日夏さん、ちょっと葉奈ちゃん呼んできて」
 ダイニングにいる母が明日夏に声をかけた。
 「……うん」
 明日夏はソファから立ち上がると、階段を上って葉奈の部屋に向かった。
 「葉ー奈ー? 準備できたー?」
 部屋の中からは、応答がない。
 「葉奈、入るわよ」
 明日夏は扉を押して部屋の中に入っていった。
 葉奈は、掃き出し窓から外に出て、ベランダの手すりに腕をもたれて夕暮れの空を見ていた。西の空は輝く黄色に染まり、東の空は高貴な青みを帯びた紫色に彩られている。そして棚引く雲は、まるで空を焼く紅蓮のように赤く燃えていた。
 「……葉奈」
 明日夏は、葉奈の背中に向かって声をかけた。その声に気が付くと、葉奈はゆっくりと振り返り、小さく微笑んだ。
 壮麗な夕映えの空。全身を朱色に染めあげた葉奈の姿は、あたかも古代ギリシャの彫刻のような神々しさを帯びていた。
 「…………」
 明日夏は口を開けたまま、無意識にその姿を見つめた。……息をする事も忘れるほど深く、深く見入っていた。
 「お姉ちゃん。……明日夏お姉ちゃん」
 葉奈の声で明日夏は我に返った。
 「あ、ああ。うん」
 「お姉ちゃん、入るんなら声かけてよ。びっくりしちゃうじゃん」
 葉奈は明るい表情で、ベランダから部屋に戻ってきた。
 「あ、うん。ごめんね、声はかけたんだけどさ。あら、かわいい服装ね」
 「そお? へへへ」
 ブルーのデニムにベージュのパーカーを身に着けた葉奈は、少し照れた顔をした。
 「じゃ、行こうか」
 「……明日夏お姉ちゃん」
 葉奈は、そっと明日夏の背中に寄り添った。
 「ええっ? なに、どうしたの」
 明日夏はびっくりして背中の葉奈を見ようとした。葉奈は明日夏の耳元で小さくささやいた。
 「十八年間、お世話になりました」
 「えっ!」
 葉奈の言葉を聞いて、明日夏は強引に振り返って葉奈の方を見た。
 「な、なによ、その言い方。まるでお嫁にでも行くような言い方ね」
 「んふふ」
 葉奈はニヤついた笑顔を浮かべると、再び明日夏の耳元でささやいた。

 父と母は、玄関で姉妹を待っている。
 「……遅いな。また言い合いでもしてるのか? あいつらは」
 父が腕時計を見る。
 「ああああああああああああ―――――――――――!」
 突然、二階から大声で泣き叫ぶ声が聞こえてきた。
 「な、なんだ! また喧嘩か!」
 父と母は、急いで二階に上って行った。
 「どうした! 今からお祝いだっていうのに、また喧嘩か!」
 父は声を荒げて葉奈の部屋に入ってきた。部屋の中では明日夏が膝を落とし、頭を抱えて号泣していた。
 「あ、パパ」
 涙を流す明日夏を抱きかかえていた葉奈が、顔を上げて父を見る。
 「なにをやったんだ、今度は」
 「えーっ? なにもしてないよ。ただ“十八年間お世話になりました”ってお姉ちゃんに言ったら急に泣かれちゃったんだよォ」
 「そ、そうなのか?」
 「あらぁー。優しいのねぇ、葉奈ちゃんは。そんなこと言われたら誰だって泣いちゃうわよねェ」
 「ううっ、うええええ……」
 母は膝をついて、号泣する明日夏の背中をやさしく擦った。
 「パパもママも今までありがとね」
 葉奈は屈託のない笑顔で感謝の言葉を両親に贈った。
 「いえいえ、こちらこそ。真っ直ぐに育ってくれてありがとうございました」
 「ほんとだ。自慢の娘だよ、葉奈は」
 父も母も笑顔で葉奈に答えた。
 「そろそろ行かないと遅れるぞ。うちらだけじゃなく、ヒロだって来るんだろ?」
 「そうね。さぁ、明日夏さん。とりあえず涙を拭きましょ。陽生さんに何だって言われちゃうわよ」
 母は明日夏の両肩をやさしく叩いた。
 「グスッ……、ウッ。……ウゥ」
 明日夏は立ち上がると、頬を伝った涙の道を手のひらで拭いた。そして目の前にいる黒髪の葉奈をしっかりと見つめると、明日夏は両手を大きく広げて葉奈を包むように抱きしめた。……力いっぱいに葉奈の身体を抱きしめた。
 「ありがと。……本当にありがと。生まれてきてくれて」
 「……うん」
 母は父の袖を引っ張って部屋から出るよう促した。父はそれに軽くうなずいて二人に背を向けた。
 「下で待ってるぞ」
 そう言って、二人は一階に下りていった。
 しばらくすると、葉奈と目を赤く腫らした明日夏が仲良く階段を下りてきた。
 「明日夏、約束の時間に間に合いそうか?」
 父が明日夏に尋ねた。
 「あっ、やばい! いそがなきゃ! ニーさんのほうが先に着いちゃうかも。ぐずぐずしてると帰っちゃうわよ、あの人の場合」
 明日夏は忙しく靴を履くと、玄関を飛び出した。
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