暁の山羊

春野 サクラ

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 それから数日たったある日の昼すぎ。外回りをしている二賀斗のスマホに連絡が入った。
 「ん? この番号、誰だ?」
 二賀斗は足を止めて電話に出てみた。
 「もしもしィ」
 「あっ、ニーちゃん? 私、葉奈」
 「ああ、葉奈ちゃんかぁ。なんだい、これ葉奈ちゃんの番号か。どうしたの?」
 「うん、あした土曜日じゃない。ニーちゃんって明日なにしてるの?」
 「明日かぁ……。明日は十一時くらいまではちょっと予定が入ってて外に出てるけど、それ以外は特に用事はないかなぁ」
 「じゃさあ、明日行きたいところがあるからさ、連れてってくれない?」
 「ええッ? ……い、いいけど。……どこ行くの?」
 「それは明日のお楽しみ。じゃあ、お昼前に迎えに来てね。お昼はどっかで食べよ。じゃねー」
 二賀斗は通話が切れたスマホの画面をしばらく見つめていたが、ふと顔を上げて周りの風景を目に映した。知らないうちに街並みはすっかり春らしい色に染まっていた。新緑が似合う明るい日差しに柔らかな風。
 「いつの間にか、春になってたんだなぁ……」
 二賀斗はスマホをズボンのポケットに入れると、色ずく街を颯爽と歩き出した。

 翌日、約束の時間を少し過ぎた頃、二賀斗の車が低廉なエンジン音を上げて葉奈の自宅前にやってきた。
 「あっ、来た!」
 庭にいた葉奈は、そのエンジン音を聞きつけると小走りで通りの方に向かう。二賀斗はエンジンを停めると、運転席のドアを開けて車から降りてきた。
 「ニーちゃん!」
 葉奈は笑顔で二賀斗に向かって手を振る。
 「おおっ、葉奈ちゃん。おはよう、……でもない時間帯か。はは」
 二賀斗は葉奈の姿を見つけると、今まで抱いていた葉奈に対する微かな希望をもはや全て取り払ったかのように、実にすがすがしい顔で葉奈に挨拶をした。
 「うふふ。そうだね、とりあえず今日はよろしくお願いしまーす」
 葉奈は、いたいけな笑顔で二賀斗の挨拶に応えた。
 「おはようございます、陽生さん」
 葉奈の後ろから容子が顔を出した。
 「無理言っちゃってすみませんね。今さっき、今日のこと聞いたばかりで……」
 「いえいえ。どうせ家に居たってテレビ見てるだけですから。じゃあ、行ってみるかい」
 「うん。じゃ、ママ行ってくるね。遅くなんないうちに帰るから」
 二人は車に乗り込むと、手を振る容子を後にした。

 幹線道路の車の流れに乗りながら二賀斗のワゴン車が当てもなく進む。
 「さってと、ところで何処に行くんだい?」
 二賀斗はハンドルを握りながら軽く葉奈に尋ねた。
 「……ねェ、ニーちゃん。……私って、捨て子だったんだって?」
 ハンドルを握っていた二賀斗の手がその瞬間、大きく揺れた。
 「ォわっ!」
 「きゃあッ!」
 二賀斗はとっさにフットブレーキを踏み込んでブレーキをかけた。車は大きく揺れながら甲高い音を立てて路肩に急停車する。そして、しばらくするとハザードランプがチカチカと点滅し出した。
 「ハァ、ハァ、ハァ。……ご、ごめん。あぶなかった……」
 二賀斗の手が動揺して小刻みに震えている。ハンドルに頭を押しつけ、荒い息をしながら二賀斗は恐る恐る葉奈の方を向いた。
 「あっぶなー。……もしかして、びっくりしちゃった? ニーちゃん」
 葉奈はあっけらかんとした顔でそう話す。
 「……だ、だれがそんなこと言ったんだよ! ……冗談にしても、笑えないぞ。葉奈ちゃん!」
 二賀斗は額に脂汗を滴らせ、厳しい表情で葉奈を見つめる。
 「ニーちゃん。いいよ、そんな取り繕わなくったって。第一、ニーちゃんの顔に”バレちゃった”って書いてあるよォ」
 葉奈のその言葉に、二賀斗は思わず顔を下げた。そして少しためらいながらも二賀斗は再び顔を上げた。
 「……い、いつ。……いつ気が付いたんだよ」
 「んー、ずいぶん前からかな。だって、……ねェ。やっぱり顔が似てないじゃない、家族のだれとも。それでね、ちょっと前に市役所で戸籍を取ってみたのよ。そしたら民法なんとかの裁判確定日ってゆうのが書かれててね。で、それを調べてみたら、……あー、やっぱりって、まぁそんな感じかなァ。そのあとで明日夏お姉ちゃんに話をしてみたら、正直に“捨て子だった”って言ってくれたからさ。でもまだパパとママにはこのこと言ってないよ。今のところ私とニーちゃんとお姉ちゃんの三人だけの秘密。……どお? ドキドキしちゃう?」
 「な……なんで、なんでそんなこと……調べたんだよ」
 二賀斗は焦燥しきった顔で、たどたどしく声を出した。
 「えー? だって別に悪いことじゃないじゃん。自分のことだもん。……そんなァ、ニーちゃん私なんとも思ってないよ。そんな怖い顔しないで早く出発しようよー」
 「……ど、どこに行こうってんだよ」
 二賀斗はうつむいて、そして小さな声で尋ねた。
 「……私を拾ったところ。そこに行きたい」
 「……なんで」
 「うん。私ね、自分の人生を振り返る旅をしようって考えてるの。……で、まずは私の生まれたところに行こうってわけ。じゃあ、気を取り直してレッツゴー!」
 二賀斗は息を整えるとハザードランプを消し、ゆっくりと車を発進させた。葉奈は他愛もない話を助手席から二賀斗に話しかけるが、二賀斗は動揺していて全く耳に入ってこなかった。
 「ニーちゃん、いつお昼にするの?」
 「あっ、ああ。そうだった、そうそう。えーっと、ファミレスでいいかい?」
 そう言うと、二賀斗は慌てて目の前に見えるファミレスに向かって舵を切った。

 食事を終えて時刻は午後一時。二人は再び車に乗り込み、目的地に向けてひた走る。
 「最近のファミレスのメニューって、ちょっと凝り過ぎてるよねェ」
 「は、はは。……そんなもんかねぇ」
 修学旅行気分で妙にはしゃぐ葉奈とは対照的に、二賀斗は葉奈から事実を告げられた動揺をいつまでも胸の中に引きずっていた。
 車外の風景が、ビル群から徐々に住宅群へ。そしてその姿もだんだんと少なくなり、森林が目立つようになった頃に目的地の周辺にたどり着いた。有卦川の流れは相変わらずの勢いだったが、当時あったスーパーは既にその姿を消していた。広大な敷地には雑草が我がもの顔で繁茂している。
 〈……はぁ。懐かしいなぁ。何もかもなくなっちまったけど〉
 葉奈が中学校に入る少し前あたりから二賀斗はこの地にも足を運ばなくなり、辺りの雰囲気もすっかり様変わりしていた。元々少なかった民家も今では本当に数えるほどに少なくなり、過疎化していることは明らかだった。
 二賀斗の車は、旧道を通って山の方へと走っていく。林の間を通り、注意深くそのまま数百m進むと右側にひっそりと山の上に続く道が辛うじて見えた。
 〈草がすごい伸びてるな。……この車で上まで行けるンかなァ〉
 二賀斗の車は、雑草を踏み越えて木々が生い茂る山道を進んでいく。低い唸り声をあげながら車はゆっくりと山道を上る。
 上る途中で、車は何度か石に乗り上げた。
 「きゃっ!」
 終始笑顔でいた葉奈も、この時ばかりは顔を硬直させてシートベルトを強く掴んでいた。
 そのまましばらく山道を上ると、突然林が開け、頭上に青い空が広がり込んだ。
 坂道を上り抜けると、二賀斗は正面に鎮座する山桜の木のそばに車を停めた。
 西の空はすでに鮮やかな黄昏色に染まっている。あと十数分もすれば完全に日も沈むであろう時刻に二人は目的地に到着した。
 「はぁ……。何とか着いたぁ。やっぱりここは何度来てもおっかないわ。……葉奈ちゃんどうする? 遅くなっちまったけど降りるかい?」
 「ひゃー。けっこう怖かったね。……へへへ、スリルあり過ぎー」
 二人は車から降りると、葉奈は山桜を見上げる。
 「うわー。おっきいねぇ。これ……桜の木?」
 「うん、そうだね」
 二賀斗も、その山桜を懐かしそうに見上げた。
 〈そういや昔、この場所金払って借りてたなぁ。あのときの借賃だって、もう何年も前にあの息子に連絡を取って解約して以降、払っちゃいないけど。……でも、この荒れ具合からするとアイツもここを見限ったってことなんだろうな。……もう、誰もここに興味を示さない。……もう誰の記憶にも残らない場所、ってことか〉
 「ねー、ニーちゃん。あっち行こーよ。見晴らし良さそうだよ」
 葉奈は、見晴らしのいい南側の平地に小走りで向かった。
 「ニーちゃん! けっこう見晴らしいいよー」
 「だろうね」
 二賀斗も葉奈の方に向かって歩き出した。
 「私って、どのあたりに捨てられてたの?」
 「ん? ああ。あの山桜の根元にいたんだよ。……見つけたときはホントびっくりしたなぁ」
 二賀斗は腕を組むと、そこから見える風景を眺めながら当時のことを思い出していた。
 「……今の葉奈ちゃんの姿を見たら、たぶん君を捨てた親も後悔するんじゃないのかな。こんなにも才色兼備なレディーになってるんだからさ」
 葉奈は、二賀斗と同じく遠くの風景を見つめながら二賀斗の話に口角を上げて答えた。
 「ふふふ。そうだといいけどね。……でもそんな人、いないかもしンないよ。そもそも」
 「えっ?」
 「ねえ! なにあの小屋! あそこ行ってみようよ」
 葉奈は小屋を見つけるなりそちらの方に向かって走り出した。その姿を見て二賀斗も葉奈の後を追うように小走りで小屋の方に進んだ。
 葉奈は小屋のそばに近寄ると、興味津々な顔つきで小屋を一望する。
 「うっわー。すっごいオンボロ小屋。見て! 蜘蛛の巣だらけだよ、これじゃ中入れないね。……なに、なんで太陽光パネルがこんなとこにあるの? 誰か住んでるんかな。ねェ、ニーちゃん」
 「んん。……俺が住んでたんだよ、昔。ちょっとの間だけどね。このパネルはそのとき付けたものだ。……こんなボロボロになっちまったんだな」
 二賀斗はすっかりくすんでしまった太陽光パネルを懐かしむように撫でた。
 「うえー。なーんでこんなとこに住んでたのよ、ニーちゃん。……まさか一人でこんなとこに住んでたの?」
 「いや、まあ。……一人じゃなかったんだけどね」
 「あーっ。これ以上奥には行けないや。草がすごすぎだもの。戻ろ、ニーちゃん」
 小屋の奥に行くのを諦めた葉奈は、スキップしながら元の山桜の方に移動した。
 「元気だなぁ、葉奈ちゃんは」
 二賀斗も葉奈の後を追って山桜の木の方に歩き出した。
 山桜に近づくなり葉奈はそのまま幹にしがみついて、懸命に上り始めた。そして巨大な枝にたどり着くと、腰を下ろして木の上から二賀斗に手を振った。
 「ヤッホー」
 二賀斗は顔を上げて手を振る葉奈を見つめた。
 「ははは。……さーてと、そろそろ帰るか。もうすぐ日も沈むし、遅くなると家に着くのが夜中になっちまうよ」
 「よっ!」
 威勢のいい掛け声とともに葉奈は太い枝から飛び降りると、見事な着地を決めた。そして二賀斗のそばにふんわりと近寄る。葉奈の黒髪がゆらゆらと揺れてる。……少し、風が吹いてきた。
 「ところでさァ、ニーちゃんって、いくつになったの?」
 「んん? ああ。……五十になるな。もういいオッサンだよ」
 二賀斗は問われるがままにそう答えると、軽く笑った。
 「ふーん。確かにオジサンだよね。……なんで結婚しないの? 相手が見つかんないの?」
 「ええっ? ……んー。まあ、そうだね。俺みたいなヤツに興味もってくれるヒトなんていないからね」
  二賀斗は腰に手を置きながら苦笑いした。
 「寂しくない? たった一人で生きてくなんて」
 葉奈は二賀斗の顔を覗き込むように上目遣いで二賀斗を見つめる。
 「なっ、どうしたんだよ。今日は随分とつまんないことで絡んでくるね」
 二賀斗は少しだけ身体を反って葉奈の視線から逃げた。
 「……ねェ。ニーちゃんってさァ、好きな人がいるんだって?」
 「へ? い、いないよ、そんな人。なんだよ急に」
 「えー。そうなの? 明日夏お姉ちゃんが言ってたよ。今でもその人を想ってるって」
 「そんな人いないって! 何言ってんだよ!」
 二賀斗は下を向くと、うろたえながらうわずった声で答えた。
 〈あンのやろう、なに余計なこと言ってやがんだ!〉
 「ねえ、教えてよ。その人のこと」
 葉奈は首をかしげて興味深げな顔をして二賀斗に尋ねる。
 「はあ? だからいないって。聞かないでくれよ、五十にもなるオヤジにそんな話。何も楽しくないだろが。逆にこっちが恥ずかしくなってくるよ」
 二賀斗は頭を掻きながらそっぽを向いて答えた。
 「ニーちゃーん。私って恋愛経験ゼロなんだよ? そんな私からすればニーちゃんのそういう経験談って、すっごい貴重なんだけどなぁ。……だからさ、私へのアドバイスだと思って少しだけでも聞かせてよ。もう逃げたって駄目だよ。明日夏お姉ちゃんからは好きな人がいるって言うことは聞いてるんだからさ」
 葉奈は、愛くるしい微笑みを見せながら二賀斗に迫ってきた。
 「そんなぁ……」
 二賀斗は腰に手を置いたまま困った様子で葉奈の顔を何気に見つめた。二賀斗の視界に映り込む葉奈の澄んだ瞳。魅入るようにそのまま視線の動きを止めると、催眠術にでもかけられたかのように二賀斗の意識が葉奈の瞳に吸い取られていった。
 「……話してよ、ニーちゃん」 
 「……」
 二賀斗が今まで堅く閉ざしてきた幾つもの心の扉が、葉奈の柔らかい笑顔によって次々と開かれてゆく。固く結んでいた唇が徐々に開き、そして無意識に言葉を出してゆく。
 「……アイツとは、この場所で……出会ったんだ」
 夕焼けに染まる山河を視界に入れながら、一つ一つ思い出すように二賀斗は小さな声で話していく。
 「最悪な出会いだった。怒鳴られて、なじられて。……でも、段々と打ち解けていって。……気が強くってさ、でも臆病で、寂しがり屋で、……そして、たまらなく優しくて」
 二賀斗は鼻を赤くすると、急に空に向かって顔を上げた。
 「憑りつかれてるんだよ、俺は。……俺はアイツに憑りつかれたまま一生を終えるんだ」
 葉奈は自分の足元を見つめながら二賀斗に問いかけた。 
 「興味深いなー。ニーちゃんがそこまで想うなんて。……その人ってどんな人だったの?」
 二賀斗は葉奈と逆の方向に顔を向けて答えた。
 「……優しい笑顔。……純白の、百合のようだった。……今の君に、とてもよく似ていたよ」
 その言葉を聞くなり葉奈はにやけた表情を現した。
 「え? そうなのー? ……ニーちゃん、もしかして私のことそんな感じで今まで見てたんだ。じゃあ二人きりでここに来たのやばいじゃん」
 「やめてくれッ! 俺はあいつの、葉奈のそんなところに惹かれたんじゃない! もっと、もっと葉奈の心の奥底にある大切なものに惹かれたんだ!」
 葉奈の茶化した言葉に、二賀斗は思わず語気を強めて言い放った。
 「……その人、葉奈さんって言うんだ。……私も葉奈。……なに、私の名前ってニーちゃんが付けたの?」
 「……それは違うよ。君のお父さんが付けたんだ。ただの偶然だよ。それより今日の目的は君の自分探しのはずだろ、俺探しじゃないんだから早く探そうよ」
 そっぽを向いたまま二賀斗は眉をひそめて葉奈に話しかけた。
 葉奈は、濃い藍色をした瞳で二賀斗の横顔を微笑みながら眺めていたが、二賀斗の言葉が途切れると性懲りもなくまた尋ね出した。
 「ニーちゃん、葉奈さんと付き合えなかったの?」
 「……付き合えなかったね」
 「どうして?」
 「どうしても」
 「いまどうしてるのかな、葉奈さん」
 「……さあてね」
 「会いたい?」
 「…………」
 「会って、みたい?」
 「……会いたいね。会えるンなら」
 オレンジ色に輝く西の空を背にして葉奈は手を後ろに回すと、二賀斗に微笑みかけた。
 「会えたら、何て言葉をかける?」
 二賀斗は頭を下げると、鼻を親指の爪で数回擦ってこう答えた。
 「……おかえり。おかえりって言うかな。ふっ、ありきたりなセリフだな」
 二賀斗は苦笑いをして数回肩を震わせた。二賀斗は顔を上げて南の空を眺める。徐々にオレンジ色の空は東の深い青色に侵食されていく。
 「さーってと、ほんとに帰るかァ。今からじゃ帰りは相当遅くなるぞー。早いとこ帰る連絡をしなきゃ明日夏にぶん殴られちまうよ」
 二賀斗は作り笑いを浮かべて葉奈の顔を見た。
 「……」
 葉奈は微笑みを浮かべて二賀斗を見つめていた。
 「ん? どした、葉奈ちゃん」
 葉奈は何も言わず、ただ黙って二賀斗に微笑んでいる。
 「何だい、まだ居たいの?」
 二賀斗は困惑した表情を浮かべて葉奈に問いかけた。
 青色に包まれた空の下で、葉奈はそっとくちびるを動かす。そこから言葉が顔を出す。
 「……ただいま」
 二賀斗の顔が瞬時に固まる。心臓の鼓動が急激に早くなり、顔が紅潮していく。手が微妙に震え出すと、二賀斗は息を荒くしながら必死で唾を飲み込んだ。瞼を固く閉ざし、深呼吸して荒ぶる気持ちを何とか落ち着かせようとした。
 「ハア―――……。もう、もう帰ろう。遅くなるとおじさんに怒られるから」
 二賀斗は眉をひそめて憮然とした表情をすると、車の方に向きを変えた。
 「ただいま」
 葉奈は二賀斗の背中に向けて優しく声をかける。だが、その瞬間、髪を逆立てて二賀斗の激しい感情が爆発した。
 「やめろオオ――ッ! やめてくれェ――ッ! 一体なんのつもりなんだよッ! なんでそんなに俺の大切な思い出をバカにするんだァ――!」
 二賀斗は振り返ると、声を振り絞って夕空に吠えた。肩を大きく揺らし、息を荒げて二賀斗は今にも襲い掛かるような形相で葉奈を睨みつけた。
 葉奈は微塵も動ぜず、微笑みながら二賀斗を見つめている。
 「ハア、……ハア。……こ、声を荒げて悪かった。もう、本当に帰ろう」
 二賀斗は下を向いて息を整えた。
 「開いてますわよ、お兄さん!」
 下を向いていた二賀斗の目が大きく見開かれた。呼吸が一瞬、止まる。二賀斗は恐る恐る顔を上げた。
 葉奈は柔らかな笑顔で二賀斗を見つめると、その口元を揺らした。ふわりと葉奈の優しい声が風に乗り、二賀斗の耳に触れる。
 「嫌いじゃないよ。……にっかどさん」
 大きく見開かれた二賀斗の目から涙が一粒、頬にこぼれた。
 身体を強張らせて呆然と立ち尽くす二賀斗に向かって葉奈は、言葉を紡ぐ。
 「他に何が聞きたい? 二人で探検した廃墟のこと? あなたの下着の色? 一緒に食べたカレーの味? 私だって信じてくれるなら何でも言うよ、にっかどさん」
 「ああ……あああ、あああああああああああ―――――――――――――!」
 二賀斗は膝から崩れ落ちると、そのまま両手を地面に着けた。
 「ああああッ! ごォああああああああああああ―――――――――――!」
 二賀斗は激しく泣き叫んだ。最愛の人を失った深い悲しみと、巡り合いを切望する苦しみと、やっと出会えた歓喜と、終着駅にたどり着けた安堵と、望郷の想いがごちゃ混ぜになって一気に二賀斗の目から涙となってあふれ出した。
 「あがっ、……うっ。あああああ――――――――……」
 声にならない声。嗚咽を漏らしながら二賀斗はすべてを吐き出そうとした。葉奈は膝を落とすと、泣きじゃくる二賀斗の右肩にそっと手を触れた。
 「ただいま。にっかどさん」
 「葉奈! 葉奈ああ! 本当にィ、ほんとにお前なのかアア―――!」
 「うん、そうだよ。……三輪葉奈。やっとあなたに会えたね」
 「葉奈! 葉奈ッ! 葉奈あああ! 会いたかった! 会いたかったんだッ! 何年も何年も君を探して……あああッ」
 二賀斗は地面に頭を擦りつけて泣き叫んだ。
 「やっと会えたのに、……抱きしめてくれないの?」
 葉奈は、うなだれた二賀斗の頭越しにそうささやいた。
 「うっ、あうう。……ど、どうやれば、いいんだ。……一度も、そんなことしたことないのに」
 鼻水をすすり、二賀斗は肩を揺らし、荒い息をしながらたどたどしく答えた。
 「まったくもぅ。……なんにも経験してこなかったの?」
 葉奈は二賀斗の右腕を掴んで、ゆっくりと身を起こさせた。二賀斗の両手についた土を払い、その手をそのまま自分の腰に回した。
 「このまま、ギュッと抱きしめればいいのよ」
 葉奈は自身の手を二賀斗の腰に回すと、遠慮なしに強く抱きしめた。そして二賀斗の胸の中に顔を埋めた。
 「ふふ。懐かしいにっかどさんの匂い。……大好きな匂い。私の居場所」
 触れるだけで脆く壊れそうな、透明で繊細な葉奈の身体。二賀斗は葉奈の腰に手を触れるだけで精いっぱいだった。それでも彼女から漂う清爽とした香りを感じるだけで心が満たされた。
 葉奈は、二賀斗の胸に顔をうずめたまま話しかけた。
 「明日夏さんに聞いたよ。私のこと見つけて、養子にしてくれるようにパパに話してくれたんだってね。ありがと。やっぱりにっかどさんは私を見ていてくれてる。……どんな時も、私を守ってくれてる。……ほんと、大好きだよ」
 二賀斗はその言葉を耳にすると、手のひらを硬く握りしめ、強く瞼を閉じた。
 「葉奈、俺は罪人だ。君を殺した張本人だ。君の言葉をちゃんと聞いていれば、君はあの時死なずに済んだ! ごめん。本当にごめんなさいッ!」
 「……聞いて、にっかどさん。私はあの時、命を落としてよかったって思ってるの。だって、どのみちいつかは必ずあのチカラを使わされる時が来るんだもの。全然知らない人のために使うより、にっかどさんや明日夏さんのためにあのチカラが使えたんだからそれでよかったの。だからもう、そんな風に言わないで」 
 葉奈は二賀斗の胸の中で思いきり甘えると、子猫のように胸の中から顔を出し、二賀斗に尋ねた。
 「にっかどさん。……私がなりたいものって、覚えてる?」
 愛くるしい葉奈の笑顔。十八年前の、あの頃と寸分違わず輝いている。その瞳を見ているだけで自分の存在まで吸い込まれそうになる。そして瑞々しいまでに艶やかな肌。二賀斗はふと、自分の手を見つめた。妙に骨っぽくてカサついた指先。今まで生きてきた長い年月がその指に刻印されている。二賀斗は、いとおしい笑顔を見せつける葉奈に少しためらいながらも優しく微笑み返すと、その腰に回していた手をそっと緩めた。
 「……ほんとに、本当に奇跡だよ、君とまたこうして出会えるなんて。会いたくて会いたくて、毎日が千切れる思いだったよ。……でもさ、この世界のどこかに君がいるんだって思えるだけで俺は十分生きる希望が持てる。君が生きているこの世界で俺も生きているんだって思うだけで俺は生きていける。……お嫁さんになりたいんだったよな。君なら誰とだって結婚できる。幸せになってくれよ、葉奈」
 二賀斗の腰に回していた葉奈の手がするりと解かれた。葉奈は右手を大きく振り被ると、勢いよく二賀斗の左の頬に打ち下ろした。
 バチンッ!と癇癪玉が破裂するような強い炸裂音と、身を揺るがす衝撃が二賀斗の脳髄に響く。二賀斗の身体は大きく揺さぶられた。
 「ぐぅッ! ……っうう」
 二賀斗は左手の甲で口元を強く押さえると、そのままゆっくりと怯えた目で葉奈の顔を見た。整いすぎるくらい整った葉奈の顔。透き通る素肌に深い黒色の髪が風に揺れる。葉奈は、長いまつ毛を携えたその大きな瞳で真っ直ぐに二賀斗を見つめる。炎にも似た激しい赤色の瞳で二賀斗を睨みつけた。
 「それって……あなたの、本心なの?」
 葉奈はこぶしを握り、猛烈な怒りの形相と震えた声で二賀斗に問いかけた。
 「私が、あなた以外の人と結婚するとでも思ってるの? 私が……あなた以外の誰かを愛しているとでも思ってるのッ!」
 葉奈の大きな瞳が涙に溶けて、その滴が一直線に澄んだ頬を伝って地表に落ちてゆく。葉奈はありったけの声を張り上げて目の前の愛する人に問いかけた。
 「あなたは私を待ってくれてたんじゃないの――ッ!」
 「待ってたよッ! ずっとずっと待ってた! ……毎日毎日、死ぬ思いで君を待ってた!」
 二賀斗も眉を吊り上げたまま葉奈に向けて叫んだ。大きな叫び声の後、両手で顔を覆い下を向いた。そして弱々しい声を腹の底から絞り出す。
 「待ってたけど、……待ってたけど今の俺をよく見ろよ。あれから何年が経った? 髪は白髪だらけ、皺も増えて、こんなジジイになんの価値がある? どうして君の隣になんかいれるんだよ。……時間が、経ち過ぎちまったんだよォ」
 紫がかった深い青色の空。山の向こうに微かなオレンジ色の枠が残る。葉奈は愁いを帯びた瞳で涙を流す二賀斗をじっと見つめた。
 「ごめんね、にっかどさん。こんなにも待たせちゃって。でも遅いことなんて全然ないよ、全然ない。私はね、あなたが好きなの、ほかの誰でもない。二賀斗陽生、あなたと一緒に生きていきたいの。……私の気持ち、もしかして重荷だった?」
 「ちがう! 違う違う違う! そんなんじゃない! そんなことじゃ、ないんだ。こんな姿の俺に……価値があるのかッ!」
 二賀斗は背を丸めて、握った両手のこぶしを顔に押し当てて答えた。
 「ひろきッ」
 葉奈が二賀斗の名前を呼んだ。
 西の山際を最後のオレンジ色の陽が彩る。葉奈は髪を一振りすると二賀斗に向かって満面の笑みを浮かべた。
 「今のあなたを好きになることがそんなにダメなことなの? あなたの価値はそんなところにはないよ。あなたの価値は私が一番知ってるじゃない。……ひろき、一緒に生きていこ。ひろきとなら私、どこまでだって歩いていけるし、いつも笑っていられるよ。だって、私たちコンビだもの。……愛想なんか尽かさないよ、私」
 そう言うと葉奈は二賀斗に向けて両手を差し出した。西の稜線を縁取る最後のオレンジ色の光がその瞬間、黄金色に大きく輝いた。最後の一瞬の閃光が葉奈の黒髪を昔の栗色に染め上げた。
 「私はここにいるよ。あなたの目の前にこうして立っているよ。あなたが私を望むならこの手を握って。そして、離さないで。あなたには苦しい思いをさせちゃったけど……わたしだって苦しかったんだから。……寂しかったんだからァ!」
 「葉奈あああ――――!」
 二賀斗は葉奈の胸の中に飛び込んだ。そして強く、包み込むように葉奈を抱きしめた。
 「離れたくなかった! 離れたく……なかったよ。もうどこにも……行かないでくれェ。もう一人はいやだよ。もう……うああああ―――!」
 「ひろき、結婚しよ。すぐに」
 「うん! 誰になんて言われたっていい、俺は葉奈と結婚する! もう絶対に離さない!」
 濃藍色の夜空に白い満月が光り輝く。山の冷たい風が抱き合った二人のそばを遠慮しがちに通り抜ける。二人は顔を見合わせると、お互いの気持ちを確かめるようにもう一度、強く抱き合った。
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