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「ただいまぁ。あれ、お母さん。葉奈は?」
仕事から帰ってくるなり明日夏はダイニングを見回し、母に尋ねた。母はキッチンで料理をしながら答える。
「うん。ちょっと前に電話があってね、少し遅くなるから先にご飯食べててって言ってたわよ」
明日夏はダイニングテーブルの椅子に座ると、続けて母に尋ねる。
「……どっか行ってるの?」
「ええ、陽生さんとドライブに行ってるわ。お昼前に出たけど、どこまで行ってるんだか」
「へー。……あっそォ」
明日夏はひじを付いてニヤけた顔をした。
「どうしたの? 楽しいことでもあった?」
「べーつにィ。さって、私も今の内にいろいろ終わして二人のこと待ってなくっちゃ。お風呂って沸いてるのよね」
そう言うと、明日夏は立ち上がって浴室へと向かった。
「遅いなぁ。……おい、ちょっと電話してみるか?」
ダイニングテーブルの椅子に座っている鐡哉が容子に話しかけた。
その時、玄関の扉が開く音がした。
「たっだいまー!」
ハイテンションの葉奈の声が玄関から聞こえてきたかと思うと、ドタドタと賑やかに足音を鳴らして荷物を持った葉奈と二賀斗がダイニングに入ってきた。
「すみませんでした。もう少し早く帰ってくるつもりだったんですが、こんなに遅くなっちゃって」
二賀斗は、腰を低くしながら頭を掻いて鐡哉にお辞儀をした。
「おお、遅かったな。年ごろの娘なんだから、もう少し……」
「パパ。私があっちこっちにニーちゃんを連れまわしちゃったのよ。ごめんね、ニーちゃん」
葉奈は二賀斗に向けてこっそりとウィンクをする。
「夕飯済ませちゃったけど、二人はごはん食べてきたの?」
容子は流し台に食器を運びながら二人に尋ねた。
「うん、大丈夫。お腹いっぱい胸いっぱいだからー」
明日夏はダイニングテーブルの椅子から上目遣いで二賀斗を見つめていた。
「な、何。……何か変?」
二賀斗は、怖じ怖じしながら明日夏に話しかけた。
「別にィ。ニーさんこそ、何おどおどしてんのよ」
明日夏は頬を緩ませて、そう答えた。
「ねえ、ママ。ケーキ買ってきたから食べよ!」
葉奈はケーキの入った箱をテーブルの上に置くと、ドカッと勢いよくダイニングテーブルの椅子に座った。
「えーっ。どんなの買ってきたの?」
明日夏が丁寧な指使いで箱を開ける。
「わーっ。可愛いィ! 葉奈ちゃん、センスいいね」
「うふっ。ありがと。これ探してあっちこっちしてたの」
四号(十三センチ)のホールケーキが箱から姿を現した。中央には赤と藍色のラズベリーがふんだんに盛られ、リボンの形をした桜色のチョコレートがその周りに散りばめられている。
「ローソクもらってきたから、これ乗せよ」
そう言うと、葉奈はケーキの真ん中にローソクを数本挿した。
「ママも早く座って。ニーちゃんも座って」
葉奈は二人を急かすと、テーブルの傍の引き出しからライターを取り出し、ローソクに火を灯した。
「なんだ、今日は誰かの誕生日だったか?」
鐡哉は容子に尋ねた。葉奈は忙しい口調で父に答える。
「記念日だよ、記念日。明日夏おねーちゃん、電気消して」
葉奈は一人、あれこれと指図をする。明日夏がダイニングの灯りのスイッチを消すと、部屋は暗くなり、テーブルに置かれたホールケーキに灯るローソクの灯りが優しい光で家族を照らし出した。オレンジ色の光に照らされて、みんなが穏やかな表情になってゆく。すると、葉奈が椅子から突然、立ち上がった。
「はーい、注目!」
皆が一斉に葉奈の方を向いた。葉奈は神妙な面持ちで口を開いた。
「パパ、ママ。……私のこと、何不自由なくここまで育ててくれて本当にありがとうございました。我ながらホント、わがままな娘でした、気分屋な娘でした。すごく反省しています。でも、これからはしっかりと生きていきます。パパやママのようにしっかりとした人生を送ります。私、……陽生さんと結婚します!」
鐡哉と容子は、その言葉を聞くなり、狐に摘ままれたような表情で葉奈を見つめた。
「葉奈ちゃん! 告ったのねッ!」
明日夏が両手を合わせて大声で叫んだ。
鐡哉は明日夏の歓喜の声に被せるように声を上げた。
「いい加減にしろッ! 一体、なんなんだッ! 葉奈、お前! ……だ、大学行かないって言ったと思ったら今度はヒロと結婚するだとォ? な、何考えてるんだ! 明日夏、電気をつけなさい!」
明日夏は静かに椅子から身を起こすと、照明のスイッチを指で押した。緊張の走る部屋に白色の灯りが広がった。
「ヒロッ!」
「はい」
「お、お前、忘れてるわけじゃないんだろッ! ウチの娘だぞ! お前のために育てたわけじゃないんだぞ!」
鐡哉は勢いよく立ち上がると、鬼のような形相のまま声を荒げて二人に言い放った。
「パパ」
「葉奈、お前は黙ってなさいッ!」
葉奈はゆっくりと二賀斗のそばに歩み寄ると、今まで見せたことのないような落ち着いた、柔らかい表情を鐡哉の前に現した。
「パパ。……初めて、お目にかかります。私、葉奈と言います」
鐡哉と容子はその言葉を聞くなり目を点にした。
「……は? 葉奈、お前……何を言ってるんだ」
鐡哉は不安そうな顔つきで葉奈を見る。
二賀斗は葉奈の手を握ると、落ち着いた表情で口を開いた。
「……おじさん、覚えてますか。十八年前、女の赤ん坊をここに連れてきた時のことを。あの時、俺はこう言いました。“もしかしたら、この子は葉奈の生まれ変わりかもしれない”って」
その言葉に、呆けた父母の顔が徐々に驚嘆の色に染まってゆく。眉を曇らせながら、鐡哉がおぼつかない声を出す。
「ま、……まさか。いや、そんな」
二賀斗は、ズボンのポケットからスマホを取り出すと、画面をフリックし、一枚の画像を写し出した。
「おじさん、見てください。これが、俺の探し求めていた葉奈です」
画面には、十八年前の二賀斗の若かりし日に葉奈と二人で撮った一枚のポートレートが写っていた。
「こ、これ! あなたッ! は、葉奈ちゃんがいるわ!」
容子が驚愕の声を吐く。鐡哉はスマホの画像と目の前の葉奈を何度も何度も見比べた。
「じゃ、じゃあ! 今までの葉奈は! 葉奈はどこに行ったんだッ!」
「……パパ、ママ。お正月に私、明日夏さんに保冷剤で指を冷やされたときがあったのを覚えてますか? あの時の痛みで葉奈さんの中にいた私が目を覚ましたんです。……と同時に、葉奈さんは深い眠りに就きました。もう……葉奈さんが目覚めることは、ないと思います」
容子も鐡哉も目を見開き、青ざめた顔をしていた。
「お願いします! 葉奈との結婚を認めてください! 葉奈を、俺に預けてくださいッ!」
二賀斗は、強い眼差しで鐡哉を見つめた。葉奈は二賀斗に握られた手を握り返すと、重ねて言った。
「私からもお願いします。どうか、認めてください。私は、私はそのためだけにこの世界に生まれてきたんです」
鐡哉は、力なく椅子に腰を落とした。大きく目を見開き、荒い息をしながら腕を組んで落ち着かない様子をしている。
「そんな、……し、信じられん。……一体、どういう」
ホールケーキに乗せられたローソクは小さな灯りに吸い取られて、もはや無くなりかけていた。クリームには燃えカスがへばり付き、無残な姿を披露している。明日夏は軽く息を吐き、ケーキの上の微かな灯りを吹き消した。黒い煙がフッと現れて、部屋の中に希釈されていった。
「……お父さん。初めっから組み込まれていたのよ、私たちは。……この物語の中にね」
明日夏はテーブルに両肘を乗せると、頬杖をついて葉奈が買ってきたケーキを眺めて言った。
「お父さんもお母さんも、そして私も、結局はこのお二方が結ばれるってゆう物語の役者だったのよ。……おじいちゃんの新婚旅行先での出来事から始まって、ニーさんが葉奈ちゃんを探す旅に出て、葉奈ちゃんが亡くなって、いつの間にか生まれ変わって、そして二人が結ばれる。私は彼女の姉さん役。お父さんとお母さんは養父母の役。葉奈ちゃんの医大合格も単なる小道具。……お父さん、この子がニーさんの探し求めていた”葉奈”ちゃんよ。そう言われたってにわかには信じられないでしょうけど、でも信じるしかないのよ。実際”葉奈”ちゃんがここにこうしているんだから。そして私のかわいい妹であり、お父さんとお母さんの愛してやまない娘が大好きな人と結ばれたいって言うんだから、祝ってあげようよ。どうせ何時かは巣立っていくんだからさ。……まぁ、ちょっと早いかもしれないけどね。でもその分、私がずっと一緒にいてあげるからさ」
鐡哉は腕を組んだまま、瞼を固く萎めて深く息を吸った。
「……役者の一人かぁ。であれば随分と手の込んだ劇だったな。……まったく、不思議なことだらけだ。ふふっ。本当に不思議だよ。そうかぁ。……はぁ。何だかふと、竹取物語を思い出したよ」
「へぇー。お父さんも案外、気の利いた台詞を言うのね」
明日夏が目を細めて父の言葉を評した。
「ハァ――……。どうにもこうにも、気持ちの整理が追い付かん。こんなことが本当にあるとは……。しかしまぁ、これが娘を嫁がせる親の気持ちかぁ……。何とも切ないもんだな」
鐡哉は、意見を求めるような顔で容子を見る。容子は頷いて微笑んだ。
「葉奈ちゃんからはいい思い出をたくさんもらいましたね。家の中が賑やかになって、本当に楽しかったわ。お父さん、昔のあの子はいなくなっちゃいましたけど、それでも葉奈ちゃん自身が消えてなくなる訳じゃないんですから。……私もちょっと、頭がこんがらがっちゃっててうまく話せないわ」
「ん。そうだな。……ヒロ」
「はい」
「とにかく、この子を泣かせるようなことだけはするなよ」
「はい!」
その声を合図に、明日夏が一声上げる。
「じゃあ、ケーキ食べよ! 葉奈ちゃんも手伝って、お皿とかフォークとか……」
「あ、はい!」
食卓が一気に騒がしくなった。鐡哉は目を閉じてこの心地よい喧騒を楽しんでいた。二賀斗は席に座ると、鐡哉の柔らかい表情を敬意を払って見つめていた。
「突然のことで、本当に申し訳ありませんでした」
玄関先で二賀斗は、深々と両親にお辞儀をした。
「ああ。……まぁ、お前もいい歳だからあれこれ言うつもりはないが、しっかりな」
「ニーさん、送っていくわ」
明日夏は二賀斗とともに玄関から外に出ていった。黒に近い藍色の夜空。白百合のような黄色みがかった白色の月がはるか遠くに浮かんでいる。
「なーんか、くすぐったい風ねェ」
「あーすーかー。お前ひどいぞォ。葉奈の事とか、全部知ってたんだな」
二賀斗は眉をひそめて、嫌味な言い方で明日夏に話しかけた。明日夏は両手を顔の前で合わせて謝るポーズをとった。
「ごめーん。だってェ、葉奈ちゃんに黙っててって言われてたんだもん」
明日夏は合わせた手を下げて微笑んだ顔を見せた。
「葉奈ちゃんさ、ニーさんに告白するって息巻いてたのよ。あの小屋で告るんだって……。ニーさん、おめでとう。幸せになってね」
「……明日夏。全部、全部君のお陰だ。葉奈に出会えたことも、失ったと思ってた葉奈にまた出会えたことも、そしてアイツとこうやって結婚できることも。……本当に、明日夏は俺にとっての恩人だよ。ほんとにありがとう」
二賀斗は真摯な顔で明日夏に気持ちを伝えた。
葉奈は、一階にある鐡哉の書斎の扉を手の甲で二回、軽く叩いた。
「ん?」
鐡哉の低い声が、部屋の中から聞こえてきた。
「パパ、私。入っても、いいですか?」
「ああ、どうぞ」
葉奈はドアノブを押して扉を開けると、ゆっくりと部屋の中に入った。机で書きものをしていた鐡哉はその手を止め、座っている椅子を半回転させて葉奈の方を向いた。葉奈は行儀よく扉を閉めると、立ったまま静かな表情で鐡哉を見つめた。
「どうした」
鐡哉は優しい声で葉奈に尋ねた。
「はい。あの、……いろいろとご迷惑ばかりかけてしまって、すみませんでした」
「ふふふ。随分と礼儀正しくて他人行儀だなぁ。それが本当の葉奈の言い方なのかい?」
「あっ……はい」
葉奈は両手をお腹の辺りで重ねると、心苦しそうにうつむいた。
「あの生意気な言いっぷりなんか、よくできてたなぁ。全然分からなかったよ」
「葉奈さんの記憶は全部、私の中に残っているんです。だから、口調とかも真似ができるんですけど……正直、怖かったです。こんなぶっきら棒な言い方していいのかなって」
「はっはっはっ! こりゃ傑作だ! はっはっはっ。……まぁ、正直なところあいつがいないって思うとすごく寂しいよ。その上、お前もここからいなくなると思うと、何だか頭の中が空っぽになるようで……うん。とても……寂しいね」
鐡哉は、うつむくと遠い目をした。
「パパ。今まで私を育ててくれて本当にありがとうございました。このご恩は一生、忘れません。ただ私、どうしても陽生さんの子どもが欲しいんです。家族が欲しいんです。……私のお母さんは私をハタチの時に身ごもりました。何もせずにです。私のおばあちゃんも、同じように誰とも交わらずに母を身ごもったそうです。……私は父親の愛情というものを知りませんでした。でもここに来てお父さんができて、お母さんができて、お姉ちゃんができて……すごく楽しい記憶が私の中で溢れているんです。そんな楽しい家庭を、私も陽生さんと一緒に作っていきたいんです」
葉奈は目を潤ませながら思いの丈を父に伝えた。父は優しい笑顔で葉奈を見つめた。
「……明日夏が生まれたときにこう思っていたっけなぁ。“この子の望むようにさせよう、進みたい道に進ませよう”ってね。妊婦さんの子どもが生まれたときにも同じように思っていたよ。“どうか進みたい道に進めますように”って。……それなのに、私はお前に進むべき道を強要してしまっていたよ。多分、うれしかったんだと思う。後継ぎができたってことでね。いや、あさましい」
鐡哉は右手で顔を覆うと、そのままその手で顔を軽くにぎりしめた。父のその姿を見つめながら、葉奈は意を決したように口を開く。
「……パパ。せっかく受かった大学に行かないって言ってほんとにすみませんでした。でも、私の気持ちはすぐにでも陽生さんに私の気持ちを伝えて結婚したかったんです。あの人と結ばれたかったんです。……そして今夜パパに陽生さんとの結婚を許してもらって、私ほんとに幸せです。ありがとうございました。……それで、あの……、本当に自分勝手な考えを言ってしまいますが、私、陽生さんとの間に子供を作って、その子をある程度育てたら、その後にパパの跡を継ぐために医大に行きたいんです。パパの恩にどうしても報いたいんです。だから、……どうか合格した医大に入学させてください! わがままなことばかり言っているのは十分わかってます。でも、お願いします! お金は一生かけてでも必ずお返ししますからッ!」
葉奈は深く頭を下げて父に懇願した。鐡哉は椅子から立ち上がると、葉奈の右肩にそっと手を乗せた。
「進みたい道があるのなら進みなさい。私のためじゃなく、自分のためにね。お金のことなんか気にするな。但し、……昔のように気分屋の葉奈でいてくれ。そのほうが何かと楽しいからな」
「はいッ! あ……。え、ええと、うん! ありがとッ、パパ!」
「はっはっはっ! そうだ!」
玄関からダイニングに戻ってきた明日夏が父の笑い声を耳にする。
「あら、なにお父さん大声で笑ってるの?」
明日夏は母に尋ねた。母は流しで洗い物をしながら首をかしげてほくそ笑んだ。その顔をみると明日夏も口元を上げ、二階の自分の部屋に向かって行った。
仕事から帰ってくるなり明日夏はダイニングを見回し、母に尋ねた。母はキッチンで料理をしながら答える。
「うん。ちょっと前に電話があってね、少し遅くなるから先にご飯食べててって言ってたわよ」
明日夏はダイニングテーブルの椅子に座ると、続けて母に尋ねる。
「……どっか行ってるの?」
「ええ、陽生さんとドライブに行ってるわ。お昼前に出たけど、どこまで行ってるんだか」
「へー。……あっそォ」
明日夏はひじを付いてニヤけた顔をした。
「どうしたの? 楽しいことでもあった?」
「べーつにィ。さって、私も今の内にいろいろ終わして二人のこと待ってなくっちゃ。お風呂って沸いてるのよね」
そう言うと、明日夏は立ち上がって浴室へと向かった。
「遅いなぁ。……おい、ちょっと電話してみるか?」
ダイニングテーブルの椅子に座っている鐡哉が容子に話しかけた。
その時、玄関の扉が開く音がした。
「たっだいまー!」
ハイテンションの葉奈の声が玄関から聞こえてきたかと思うと、ドタドタと賑やかに足音を鳴らして荷物を持った葉奈と二賀斗がダイニングに入ってきた。
「すみませんでした。もう少し早く帰ってくるつもりだったんですが、こんなに遅くなっちゃって」
二賀斗は、腰を低くしながら頭を掻いて鐡哉にお辞儀をした。
「おお、遅かったな。年ごろの娘なんだから、もう少し……」
「パパ。私があっちこっちにニーちゃんを連れまわしちゃったのよ。ごめんね、ニーちゃん」
葉奈は二賀斗に向けてこっそりとウィンクをする。
「夕飯済ませちゃったけど、二人はごはん食べてきたの?」
容子は流し台に食器を運びながら二人に尋ねた。
「うん、大丈夫。お腹いっぱい胸いっぱいだからー」
明日夏はダイニングテーブルの椅子から上目遣いで二賀斗を見つめていた。
「な、何。……何か変?」
二賀斗は、怖じ怖じしながら明日夏に話しかけた。
「別にィ。ニーさんこそ、何おどおどしてんのよ」
明日夏は頬を緩ませて、そう答えた。
「ねえ、ママ。ケーキ買ってきたから食べよ!」
葉奈はケーキの入った箱をテーブルの上に置くと、ドカッと勢いよくダイニングテーブルの椅子に座った。
「えーっ。どんなの買ってきたの?」
明日夏が丁寧な指使いで箱を開ける。
「わーっ。可愛いィ! 葉奈ちゃん、センスいいね」
「うふっ。ありがと。これ探してあっちこっちしてたの」
四号(十三センチ)のホールケーキが箱から姿を現した。中央には赤と藍色のラズベリーがふんだんに盛られ、リボンの形をした桜色のチョコレートがその周りに散りばめられている。
「ローソクもらってきたから、これ乗せよ」
そう言うと、葉奈はケーキの真ん中にローソクを数本挿した。
「ママも早く座って。ニーちゃんも座って」
葉奈は二人を急かすと、テーブルの傍の引き出しからライターを取り出し、ローソクに火を灯した。
「なんだ、今日は誰かの誕生日だったか?」
鐡哉は容子に尋ねた。葉奈は忙しい口調で父に答える。
「記念日だよ、記念日。明日夏おねーちゃん、電気消して」
葉奈は一人、あれこれと指図をする。明日夏がダイニングの灯りのスイッチを消すと、部屋は暗くなり、テーブルに置かれたホールケーキに灯るローソクの灯りが優しい光で家族を照らし出した。オレンジ色の光に照らされて、みんなが穏やかな表情になってゆく。すると、葉奈が椅子から突然、立ち上がった。
「はーい、注目!」
皆が一斉に葉奈の方を向いた。葉奈は神妙な面持ちで口を開いた。
「パパ、ママ。……私のこと、何不自由なくここまで育ててくれて本当にありがとうございました。我ながらホント、わがままな娘でした、気分屋な娘でした。すごく反省しています。でも、これからはしっかりと生きていきます。パパやママのようにしっかりとした人生を送ります。私、……陽生さんと結婚します!」
鐡哉と容子は、その言葉を聞くなり、狐に摘ままれたような表情で葉奈を見つめた。
「葉奈ちゃん! 告ったのねッ!」
明日夏が両手を合わせて大声で叫んだ。
鐡哉は明日夏の歓喜の声に被せるように声を上げた。
「いい加減にしろッ! 一体、なんなんだッ! 葉奈、お前! ……だ、大学行かないって言ったと思ったら今度はヒロと結婚するだとォ? な、何考えてるんだ! 明日夏、電気をつけなさい!」
明日夏は静かに椅子から身を起こすと、照明のスイッチを指で押した。緊張の走る部屋に白色の灯りが広がった。
「ヒロッ!」
「はい」
「お、お前、忘れてるわけじゃないんだろッ! ウチの娘だぞ! お前のために育てたわけじゃないんだぞ!」
鐡哉は勢いよく立ち上がると、鬼のような形相のまま声を荒げて二人に言い放った。
「パパ」
「葉奈、お前は黙ってなさいッ!」
葉奈はゆっくりと二賀斗のそばに歩み寄ると、今まで見せたことのないような落ち着いた、柔らかい表情を鐡哉の前に現した。
「パパ。……初めて、お目にかかります。私、葉奈と言います」
鐡哉と容子はその言葉を聞くなり目を点にした。
「……は? 葉奈、お前……何を言ってるんだ」
鐡哉は不安そうな顔つきで葉奈を見る。
二賀斗は葉奈の手を握ると、落ち着いた表情で口を開いた。
「……おじさん、覚えてますか。十八年前、女の赤ん坊をここに連れてきた時のことを。あの時、俺はこう言いました。“もしかしたら、この子は葉奈の生まれ変わりかもしれない”って」
その言葉に、呆けた父母の顔が徐々に驚嘆の色に染まってゆく。眉を曇らせながら、鐡哉がおぼつかない声を出す。
「ま、……まさか。いや、そんな」
二賀斗は、ズボンのポケットからスマホを取り出すと、画面をフリックし、一枚の画像を写し出した。
「おじさん、見てください。これが、俺の探し求めていた葉奈です」
画面には、十八年前の二賀斗の若かりし日に葉奈と二人で撮った一枚のポートレートが写っていた。
「こ、これ! あなたッ! は、葉奈ちゃんがいるわ!」
容子が驚愕の声を吐く。鐡哉はスマホの画像と目の前の葉奈を何度も何度も見比べた。
「じゃ、じゃあ! 今までの葉奈は! 葉奈はどこに行ったんだッ!」
「……パパ、ママ。お正月に私、明日夏さんに保冷剤で指を冷やされたときがあったのを覚えてますか? あの時の痛みで葉奈さんの中にいた私が目を覚ましたんです。……と同時に、葉奈さんは深い眠りに就きました。もう……葉奈さんが目覚めることは、ないと思います」
容子も鐡哉も目を見開き、青ざめた顔をしていた。
「お願いします! 葉奈との結婚を認めてください! 葉奈を、俺に預けてくださいッ!」
二賀斗は、強い眼差しで鐡哉を見つめた。葉奈は二賀斗に握られた手を握り返すと、重ねて言った。
「私からもお願いします。どうか、認めてください。私は、私はそのためだけにこの世界に生まれてきたんです」
鐡哉は、力なく椅子に腰を落とした。大きく目を見開き、荒い息をしながら腕を組んで落ち着かない様子をしている。
「そんな、……し、信じられん。……一体、どういう」
ホールケーキに乗せられたローソクは小さな灯りに吸い取られて、もはや無くなりかけていた。クリームには燃えカスがへばり付き、無残な姿を披露している。明日夏は軽く息を吐き、ケーキの上の微かな灯りを吹き消した。黒い煙がフッと現れて、部屋の中に希釈されていった。
「……お父さん。初めっから組み込まれていたのよ、私たちは。……この物語の中にね」
明日夏はテーブルに両肘を乗せると、頬杖をついて葉奈が買ってきたケーキを眺めて言った。
「お父さんもお母さんも、そして私も、結局はこのお二方が結ばれるってゆう物語の役者だったのよ。……おじいちゃんの新婚旅行先での出来事から始まって、ニーさんが葉奈ちゃんを探す旅に出て、葉奈ちゃんが亡くなって、いつの間にか生まれ変わって、そして二人が結ばれる。私は彼女の姉さん役。お父さんとお母さんは養父母の役。葉奈ちゃんの医大合格も単なる小道具。……お父さん、この子がニーさんの探し求めていた”葉奈”ちゃんよ。そう言われたってにわかには信じられないでしょうけど、でも信じるしかないのよ。実際”葉奈”ちゃんがここにこうしているんだから。そして私のかわいい妹であり、お父さんとお母さんの愛してやまない娘が大好きな人と結ばれたいって言うんだから、祝ってあげようよ。どうせ何時かは巣立っていくんだからさ。……まぁ、ちょっと早いかもしれないけどね。でもその分、私がずっと一緒にいてあげるからさ」
鐡哉は腕を組んだまま、瞼を固く萎めて深く息を吸った。
「……役者の一人かぁ。であれば随分と手の込んだ劇だったな。……まったく、不思議なことだらけだ。ふふっ。本当に不思議だよ。そうかぁ。……はぁ。何だかふと、竹取物語を思い出したよ」
「へぇー。お父さんも案外、気の利いた台詞を言うのね」
明日夏が目を細めて父の言葉を評した。
「ハァ――……。どうにもこうにも、気持ちの整理が追い付かん。こんなことが本当にあるとは……。しかしまぁ、これが娘を嫁がせる親の気持ちかぁ……。何とも切ないもんだな」
鐡哉は、意見を求めるような顔で容子を見る。容子は頷いて微笑んだ。
「葉奈ちゃんからはいい思い出をたくさんもらいましたね。家の中が賑やかになって、本当に楽しかったわ。お父さん、昔のあの子はいなくなっちゃいましたけど、それでも葉奈ちゃん自身が消えてなくなる訳じゃないんですから。……私もちょっと、頭がこんがらがっちゃっててうまく話せないわ」
「ん。そうだな。……ヒロ」
「はい」
「とにかく、この子を泣かせるようなことだけはするなよ」
「はい!」
その声を合図に、明日夏が一声上げる。
「じゃあ、ケーキ食べよ! 葉奈ちゃんも手伝って、お皿とかフォークとか……」
「あ、はい!」
食卓が一気に騒がしくなった。鐡哉は目を閉じてこの心地よい喧騒を楽しんでいた。二賀斗は席に座ると、鐡哉の柔らかい表情を敬意を払って見つめていた。
「突然のことで、本当に申し訳ありませんでした」
玄関先で二賀斗は、深々と両親にお辞儀をした。
「ああ。……まぁ、お前もいい歳だからあれこれ言うつもりはないが、しっかりな」
「ニーさん、送っていくわ」
明日夏は二賀斗とともに玄関から外に出ていった。黒に近い藍色の夜空。白百合のような黄色みがかった白色の月がはるか遠くに浮かんでいる。
「なーんか、くすぐったい風ねェ」
「あーすーかー。お前ひどいぞォ。葉奈の事とか、全部知ってたんだな」
二賀斗は眉をひそめて、嫌味な言い方で明日夏に話しかけた。明日夏は両手を顔の前で合わせて謝るポーズをとった。
「ごめーん。だってェ、葉奈ちゃんに黙っててって言われてたんだもん」
明日夏は合わせた手を下げて微笑んだ顔を見せた。
「葉奈ちゃんさ、ニーさんに告白するって息巻いてたのよ。あの小屋で告るんだって……。ニーさん、おめでとう。幸せになってね」
「……明日夏。全部、全部君のお陰だ。葉奈に出会えたことも、失ったと思ってた葉奈にまた出会えたことも、そしてアイツとこうやって結婚できることも。……本当に、明日夏は俺にとっての恩人だよ。ほんとにありがとう」
二賀斗は真摯な顔で明日夏に気持ちを伝えた。
葉奈は、一階にある鐡哉の書斎の扉を手の甲で二回、軽く叩いた。
「ん?」
鐡哉の低い声が、部屋の中から聞こえてきた。
「パパ、私。入っても、いいですか?」
「ああ、どうぞ」
葉奈はドアノブを押して扉を開けると、ゆっくりと部屋の中に入った。机で書きものをしていた鐡哉はその手を止め、座っている椅子を半回転させて葉奈の方を向いた。葉奈は行儀よく扉を閉めると、立ったまま静かな表情で鐡哉を見つめた。
「どうした」
鐡哉は優しい声で葉奈に尋ねた。
「はい。あの、……いろいろとご迷惑ばかりかけてしまって、すみませんでした」
「ふふふ。随分と礼儀正しくて他人行儀だなぁ。それが本当の葉奈の言い方なのかい?」
「あっ……はい」
葉奈は両手をお腹の辺りで重ねると、心苦しそうにうつむいた。
「あの生意気な言いっぷりなんか、よくできてたなぁ。全然分からなかったよ」
「葉奈さんの記憶は全部、私の中に残っているんです。だから、口調とかも真似ができるんですけど……正直、怖かったです。こんなぶっきら棒な言い方していいのかなって」
「はっはっはっ! こりゃ傑作だ! はっはっはっ。……まぁ、正直なところあいつがいないって思うとすごく寂しいよ。その上、お前もここからいなくなると思うと、何だか頭の中が空っぽになるようで……うん。とても……寂しいね」
鐡哉は、うつむくと遠い目をした。
「パパ。今まで私を育ててくれて本当にありがとうございました。このご恩は一生、忘れません。ただ私、どうしても陽生さんの子どもが欲しいんです。家族が欲しいんです。……私のお母さんは私をハタチの時に身ごもりました。何もせずにです。私のおばあちゃんも、同じように誰とも交わらずに母を身ごもったそうです。……私は父親の愛情というものを知りませんでした。でもここに来てお父さんができて、お母さんができて、お姉ちゃんができて……すごく楽しい記憶が私の中で溢れているんです。そんな楽しい家庭を、私も陽生さんと一緒に作っていきたいんです」
葉奈は目を潤ませながら思いの丈を父に伝えた。父は優しい笑顔で葉奈を見つめた。
「……明日夏が生まれたときにこう思っていたっけなぁ。“この子の望むようにさせよう、進みたい道に進ませよう”ってね。妊婦さんの子どもが生まれたときにも同じように思っていたよ。“どうか進みたい道に進めますように”って。……それなのに、私はお前に進むべき道を強要してしまっていたよ。多分、うれしかったんだと思う。後継ぎができたってことでね。いや、あさましい」
鐡哉は右手で顔を覆うと、そのままその手で顔を軽くにぎりしめた。父のその姿を見つめながら、葉奈は意を決したように口を開く。
「……パパ。せっかく受かった大学に行かないって言ってほんとにすみませんでした。でも、私の気持ちはすぐにでも陽生さんに私の気持ちを伝えて結婚したかったんです。あの人と結ばれたかったんです。……そして今夜パパに陽生さんとの結婚を許してもらって、私ほんとに幸せです。ありがとうございました。……それで、あの……、本当に自分勝手な考えを言ってしまいますが、私、陽生さんとの間に子供を作って、その子をある程度育てたら、その後にパパの跡を継ぐために医大に行きたいんです。パパの恩にどうしても報いたいんです。だから、……どうか合格した医大に入学させてください! わがままなことばかり言っているのは十分わかってます。でも、お願いします! お金は一生かけてでも必ずお返ししますからッ!」
葉奈は深く頭を下げて父に懇願した。鐡哉は椅子から立ち上がると、葉奈の右肩にそっと手を乗せた。
「進みたい道があるのなら進みなさい。私のためじゃなく、自分のためにね。お金のことなんか気にするな。但し、……昔のように気分屋の葉奈でいてくれ。そのほうが何かと楽しいからな」
「はいッ! あ……。え、ええと、うん! ありがとッ、パパ!」
「はっはっはっ! そうだ!」
玄関からダイニングに戻ってきた明日夏が父の笑い声を耳にする。
「あら、なにお父さん大声で笑ってるの?」
明日夏は母に尋ねた。母は流しで洗い物をしながら首をかしげてほくそ笑んだ。その顔をみると明日夏も口元を上げ、二階の自分の部屋に向かって行った。
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