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翌朝、結愛が眠い目を擦りながらダイニングに下りてきた。
「おはよう、結愛」
髭を剃り、身支度を整えた陽生が朝食の準備をしていた。
「あーッ、パパ――ッ! やっと戻った――!」
結愛は嬉しそうに陽生に抱きついた。
「長い間迷惑かけちゃってゴメンね。ひと段落ついたから今日からまた結愛と一緒にご飯食べられるよ」
「やったー! やっぱりみんなで一緒に食べないとおいしくないもんねッ」
「良かったね、結愛ちゃん」
明日夏の声に大きく頷くと、結愛は上機嫌で席に着く。そして収友も二階から降りてきた。
「……あ、父さん。おはよう」
「おう、おはよう。今日からまた一緒にご飯食べような」
陽生のその声に、収友は少し照れながらも微笑みを見せた。

明日夏と二人の子どもを送り出すと、陽生は食事の後片付けを始めるために席を立ったが、容子は席に着いたままうつむいた顔をしていた。
「お義母さん、どうかしましたか?」
「……ううん、大丈夫。少し休んだら洗濯物やっちゃおうかしらね」
そう言うと容子は頬を軽く擦り、椅子から身を起こして洗濯機のある浴室へと歩いていった。

洗い物を終えた陽生は、リビングの掃き出し窓から身を乗り出すと、庭の植木に水やりをしている容子に声をかける。
「お義母さん。ちょっと出かけてきます。あの子たちが帰ってくる頃までには戻りますから」
容子はニコッと笑って陽生の声に応えた。
陽生は外出の準備を整えると、容子に声をかけ、駅へと向かう。道すがら赤いポストを見つけると、肩にかけたボディーバックから一枚の封筒を取り出した。
―菩提寺享一郎様―
陽生は宛名を確認すると、祈るような思いでポストの投函口に差し込んだ。

午前十時三十分。地下鉄の二番出口の階段を上り切り、陽生は地上に姿を現す。
「うひゃー。こんなところにあるのかァ」
陽生は口を開けて周辺を見回す。
「あー、国会議事堂だよ。……こんなマジマジと見るのなんて小学校以来だな。そもそもこんなところまで来る用事なんてないからなぁ」
少しだけ興奮した面持ちで足早に歩道を歩く。すると左手に長方形の建物が現れた。
「……ここか、国会図書館は」
陽生は国立国会図書館を見上げると、緊張した足取りで中に入って行った。

新館入口で利用者登録を終えると、利用カードが渡された。陽生は入館ゲートを通って早速、図書館内に入る。
館内は平日の午前中にもかかわらず人で溢れていた。
「さてと……」
陽生は辺りを見回し、空いている机を見つけるとそこに陣取り、利用者端末であるデスクトップパソコンを操作して検索をし始めた。
〈日本で出版された本は全てここに来ることになっている。だから出版された郷土史はどこのやつもここにあるはず……。白い女のことが書かれているかどうかはわからないけど、取りあえず葉奈のばあさんの珠子の本籍地のM県の郷土史を調べてみるか〉
陽生がキーボードを叩いて検索をすると、パソコンのディスプレイには数十件の検索結果が表示された。
「市町村じゃなくって県単位で検索かけたからこのくらい出るのはわかるけど、さてどっから見るか……」
少しの間ディスプレイとにらめっこをしていたが、適当に三点を選ぶと、利用申し込みをした。
それからしばらくして端末を確認すると、”準備中”の文字が”到着済”となっていたためカウンターに向かい、その本を受け取った。そして閲覧室で本との戦いが始まる。

陽生が資料との戦いを始めた頃、自宅では洗濯物を干し終えた容子がダイニングテーブルの椅子に腰を掛けてうずくまっていた。
「……はぁ。……はぁ」
眉間に深く溝を掘ると、右手で胸の辺りを押さえつけた。
「……はあッ、……ぁガッ!」
断末魔のような声を出し、容子は頭ごとテーブルの上に崩れ落ちた。

「うーん……。なんだかなぁ。郷土史ってこんなもんなんだ。……なんかこう、素直に読み進めないんだよな。やたら大げさな書き方っていうか、自己主張が強いってゆうか。とりあえず今日読んだのっていうのは……九冊か。時間かけた割には収穫が無かったな」
溜め息をつきながら陽生は腕時計に目をやった。
「あれ、三時か。帰るのに一時間は掛かるからもう出なくっちゃな」
陽生は立ち上がると、資料をカウンターに返却して足早に図書館を後にした。

夕空に映える鮮やかな黄色の光を背に陽生は自宅へと続く歩道を歩く。帰路に着く小学生たちの笑い声が通りを華やかにする。屈託のないその声を耳にしながら陽生は手首に巻かれた腕時計の文字盤に目をやった。
「もうちょっとでアイツらも帰ってくるな。……少し急ぐか」
陽生は早歩きになって家路を急いだ。
自宅に到着すると、庭に洗濯物が干しっぱなしの状態で置かれていた。
「……あれ? お義母さん、どっかに出かけてるンかな」
陽生は不思議に思いながら玄関の扉を開いた。
「お義母さんがいないんじゃ、早いとこ洗濯物取り込まないとなぁ」
ダイニングに通じるドアを開けると、暗い家の中でテーブルにうずくまっている容子の姿が見えた。
「あれ? お義母さんいたんだ。……寝てるンかな?」
陽生はそっとリビングに向かうと、掃き出し窓を静かに開いて庭の洗濯物を取り込み始めた。
「……よしっ、おわりっと」
取り込み終えた陽生がダイニングに目をやると、容子は微動だにせずうずくまったままでいる。陽生はその姿をじっと見つめると、突如、身体に緊張を走らせた。身構えるようにゆっくりとした動作で容子に近づいてゆく。荒い息づかいが薄暗い部屋に響く。
ダイニングテーブルに着くと陽生はそっと容子の肩に触れた。容子の身体は、物言わずしてテーブルに崩れ落ちる。
左の腕が力なく肩から垂れ下がると、振り子のように二、三回振れた。
陽生はその場に立ち尽くすと、そのまま固く目を閉じて唇を強く噛みしめた。そして、こぶしを握り締め肩を震わせた。
「ごめんなさいッ、お義母さん。こんな……こんな暗い所で独りにしてしまって。俺がもっと……しっかりとお義母さんの事を見ていれば……こんなところで死なせずに済んだのにッ」
陽が西の地平線に隠れ、桔梗色した夜の帳が東の空から姿を現してきた頃、一台の車が如月家に到着した。
「フーン、フフーン♪」
住宅街を通り抜け、結愛が鼻歌を口ずさみながら自宅に帰って来る。
「あれ? 車が止まってるー。 お客さんかな」
家の前に置かれた見慣れぬ車を目の前にすると、結愛は物珍しそうにその車をキョロキョロと見回した。そうして一通り物色を終えると、軽い足取りで玄関の扉を開けた。
「たっだいまー」
玄関からダイニングに通じるドアを開けると、ダイニングには横たわる容子と白衣をまとった男女二人。そしてその傍らに陽生がうな垂れて正座をしていた。
「……パパ。……何、してんの?」
陽生はうな垂れたまま微動だにしない。
「……四肢にチアノーゼが出ています。血圧が高かったですからね、奥さんは。……病歴から考えても、心不全で亡くなられたと考えて間違いないでしょう。……本当に、残念です」
医師と付き添いの看護師が目を閉じた容子に正座したまま一礼する。
「え? お……おばあちゃん。……し、し、死んじゃっ……たの?」
うつろな結愛の声に対し、陽生は目を伏せたまま小さな声で返事をする。
「……そう、だ」
結愛は一歩、また一歩とおぼつかない足取りで容子に近づくと、突然、膝を落として感情を爆発させた。
「お……おばあちゃアアアァ―――――ンッ!」
結愛が容子の亡骸に飛び掛かる。
「うえええええ――――ンッ!」
容子の身体に抱きついて、結愛は一心不乱にただ、泣き尽くした。
「死亡診断書は病院で発行しますので、明日にでもお越しください」
そう言うと、容子のかかりつけ医は腰を上げてその場を離れた。
「……ありがとう、ございました」
陽生はその場に座ったまま、医師に向けて頭を下げて見送った。

午後も六時を半ば過ぎた頃、如月家の前にタクシーが一台停車する。車のドアを閉める音がしたかと思うと今度は玄関の扉がけたたましく開き、忙しい足音がダイニングに入ってきた。
「ニーさんッ! 何処ッ!」
明日夏が声を上げて部屋の中を見回す。リビングのソファには泣きつかれた結愛が制服姿のままで眠っていた。
奥にある容子の部屋から明かりが漏れているのに気付くと、音を立てて部屋の方に向かった。
「……ハア、ハア。……お母さん!」
部屋には布団に包まれた容子と、その傍に陽生と収友が正座をして座っていた。
明日夏はゆっくりと布団に近づき、膝を床に落とす。そして容子の死に顔を静かに見つめる。
「……明日夏。本当に……本当に申し訳ないッ。俺がそばについていながら、こんなことになっちまうなんて……ウウッ」
明日夏は母親の頭を数回、やさしく撫でると、愛しい顔つきで母親に話しかけた。
「お母さん。最後にさよならって言えなくてごめんね。向こうに行ったらさ、少しお父さんに物言ったほうがいいよ。今までずっとお父さんのわがままに付き合ってたんだから。……ありがとね、お母さん」
明日夏は振り向くと、目を赤く腫らしたまま微笑んで陽生に話しかけた。
「……ニーさん。ニーさんは今まで本当に色々とやってくれたわ。ウチの家事から何から。それだけじゃない、お母さんの話し相手や病院の付き添いまでしてくれて。本当に感謝してる。……本当に。だからさ、……これ以上はもう、何も言わないで」
陽生は下を向くと静かに首を縦に振った。明日夏は母の方に視線を戻すと、静かな口調でお願いをする。
「ニーさん。収ちゃん。ちょっとの間だけ、お母さんと二人きりにしてくれない?」
「……うん」
収友はゆっくりと腰を上げた。陽生もうつむいたまま収友と一緒に部屋を後にした。
「……お父さん。おばあちゃんのことは、仕方がないよ。お父さんがそんなに責任を感じることないと思うよ、僕は」
「……ん。ありがとな」
収友の慰めに、陽生は言葉少なめに相づちを打った。
夜深い午後十一時過ぎ。ゆっくりと階段を下りる足音がリビングに漂う。そしてその足音は容子の部屋に向かって進んで行き、部屋の前で止まった。しばらくして扉を叩く小さな音が廊下に響く。
「……だれ?」
「……あの、僕だけど」
「収ちゃん? どうしたの」
「うん。……あの、あーねーちゃんすごく寂しそうだったからさ、ちょっと心配になっちゃって……。大丈夫かなって……」
明日夏は顔をほころばせて扉の向こうに話しかけた。
「収ちゃん、ありがとね。どうぞ、入って」
「……うん」
収友は引き戸を引いてぼんやりと暗い豆電球の点いた部屋の中に入った。
「あーねーちゃん。あの、……一緒に寝てもいい?」
枕を手にした収友が明日夏に尋ねる。
「ええッ? こんなおばあさんと一緒に寝たいの?」
「……別に、あーねーちゃんのことおばあさんだなんて、そんな風に思ったこと僕は一度もないよ」
「……ありがとね。どうぞ。……それにしても枕まで持って来て、随分と用意周到ね」
収友は明日夏の隣に寝ころぶと、持ってきた枕に頭を沈めた。
「……おばあちゃんてどんな人だったの?」
「……やさしかったわよ。私が小さい頃、犬さんとか猫さんを拾ってくるとね、一緒になって体を洗ってくれたの。そういえば金魚が入ってた水槽も、毎週一緒に掃除したなぁ。なんか……色々思い出してきちゃった」
天井を見つめる明日夏は、懐かしむように話す。
「……僕、あーねーちゃんみたいになりたい」
収友も同じように天井を見つめながら声を出した。
「えっ? 私みたいに? ……結婚しないで年取っちゃうの?」
明日夏は横目に収友を見る。
「そんな……結婚とか女の子とか、そんなのどうでもいいよ。僕はもっと、自然のために何かしたいんだ。……あーねーちゃん、僕はこの世界のために一体どんなことをすればいいんだろう」
明日夏は、収友の横顔を見つめると、気持ちを落ち着かせるようなゆっくりとした口調で収友に話しかけた。
「うーん。……そうねェ。収ちゃんの気持ちはすごい伝わってくるわ。私はね、その気持ちを絶やさずに持ち続けることが大事なのかな、って思うの。やり方とかさ、そういう情報だけなら手にしようとすればいくらでも手に入るんだろうけどね。でも収ちゃんに必要なものってそういうヴァーチャル的なものじゃなく、もっとリアルなものなんじゃないのかなって思う。だからもっと知識を吸収して、そこから知恵を産み出して、そうすればきっと収ちゃんの進む道ってゆうものが見えてくるんじゃないのかなぁ。……ごめんね、まとまんない話しちゃって」
明日夏は照れた様子で舌を出した。
「……そんなことないよ、ありがとう。あーねーちゃん」
収友は真剣な表情で明日夏の言葉に耳を傾けていた。
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