最後の山羊

春野 サクラ

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 山での一件からすでに数日が経っていた。今日は朝から小雨が降り続いてる。
 二賀斗は明日夏から頼まれていた例の件についてとりあえず報告しようと思い、スマホを取り出し明日夏に電話を入れた。
 「痛っ!」
 スマホが不意に左のこめかみに触れた。
 「あいつのせいで、……ったく腹立つなァ」
 「……もしもし、ニーさん?」
 石を投げつけられたことを思い出していると、スマホから明日夏の声が聞こえてきた。今日の天気をそのまま声にしたような暗い声。
 「ああ、久しぶり。最後にあった日からずいぶん経っちまったけど、……少しは元気出たかい」
 二賀斗は居間のソファに座り込むと、電話越しに明日夏の調子を尋ねてみた。
 「……うん、少しね。ニーさんは?」
 やわらかな明日夏の声。静かで落ち着いた、と言えば聞こえはいいが、聞いてるこちらもその影響を受けてしまいそうなほど寂しい声だった。
 「ああ、うん。……まあ、特に変わりないよ。……うん」
 「……そう。なによりだわ」
 明日夏は口数少なめに答えた。
 明日夏と最後に会った日から優に半年以上の時間が過ぎていたが、聞こえてくるその声はあの時と何ら変わりなく沈んだままだった。
 「……えーっとォ。ずいぶん待たせちゃってけどさ、あーちゃんからのお願いごと、とりあえずなんとか調べられたよ」
 「……え? えっ! ほんとッ!」
 その知らせを聞くなり明日夏の声色のトーンが一気に晴れ上がった。
 「は、ははは! 何だよ今の声。すごい気持ちが入ってたなァ。やっと機嫌が直ったか?」
 明日夏のその声を聞いて二賀斗はつい、笑ってしまった。
 「……べ、別に拗ねてなんかないわ! もう、ニーさん茶化さないでよ」
 二賀斗には明日夏の声の調子がやっと昔の頃に戻ったように聞こえたが、これから話す内容が明日夏にとって喜ばしいことでないことは目に見えている。二賀斗は一呼吸置くと、落ち着いた声で話を続けた。
 「あーちゃんが探していた旅館の女の人、三輪珠子っていう名前の人だったよ」
 「……うん」
 二賀斗は電話越しの明日夏の声に異様な熱意を感じた。飲み込まれそうなほどの意気。……だが、覚悟を決めて話を進める。
 「その人さ。もう、……亡くなっていたよ」
 「…………」
 「……も、もしもし。……あーちゃん、聞いてる?」
 「……うん。……そうなんだ」
 二賀斗はこれ以上この話しをするべきかどうか迷い出した。電話越しでも今の明日夏の表情が容易に想像することができたから……。
 「……どうする? 電話、切るかい?」
 「……続きの話がないなら、……切りたいな」
 薄い氷のように、もろく壊れそうな明日夏の声。二賀斗は一呼吸置くと、さらに話を続けた。
 「……実はさ、その珠子さんて人には娘がいたんだよ、一人。でも、……あの、その娘さんもさ、亡くなってた」
 「……うん」
 明日夏の声色が深く、深く沈んでいくのが手に取るように分かった。だが、それに対してなんにもできない歯がゆさが二賀斗の口を詰まらせる。
 「……ホント、この件に関しちゃ何にもいいことが言えなくて申し訳ないとしか言えないよ。でもさ、調べてみたらその珠子さんの娘にも娘、つまり孫がいることがわかったんでさ、実はその子に会いに行ってきたんだよ。この前。……でもさァ、すっごいヒステリックなヤツで全然、話にならなかった。……ちょっと危ない感じだったよ」
 「……そう」
 「なあ、あーちゃん。……その……もう亡くなっちゃってるから今さらどうしょうもないんだけどさぁ。その珠子さんて人がさ、仮にだよ。仮に何かしでかしたとしてさぁ、あーちゃんは珠子さんと何をそんなに話ししたかったの?」
 二賀斗はスマホを耳に当てながら珍しく真剣なまなざしで明日夏に問いかけた。
 「……ん。いろんなこと。……会いたかったなぁ、珠子さんに。……ほんと」
 「……あーちゃん」
 二賀斗は眉間にしわを寄せた。
 「ニーさん、ほんとにありがとう。ニーさんだって忙しいのに、私のわがままに付き合ってくれて……。大変だったよね。ほんとにありがとう」
 通話口の向こうから聞こえてくる明日夏の声。久しぶりに聞く明るい口調。……ただ、二賀斗は明日夏の涙を堪えている息づかいを聞き逃さなかった。
 「……あーちゃん、ほんとはどうなんだよ、調子」
 「……変わり、ないわ」
 「あー。真面目に答えろよ」
 二賀斗の真剣な口調が通話口の向こう側に流れてしばらくの間が空いた後、明日夏は静かに声を出した。
 「……うん。実はね……、有害動物の駆除頭数を引き上げるってゆう計画が県で出てるの。……ニーさん。わたしはね、人間だけが住みやすい生態系なんておかしいって思うの。動物とか植物とか、そんなの関係なくみんなが住んでるこの星は、当然みんなのものよ。……ちがうかな」
 本当に、さみしそうに明日夏は答えた。
 「あー、言っとくぞ。無理はするなよ! あの、なんだ。ダメかもしんないけどさ、俺、その子にもう一度会ってみるよ。それでお婆さんのことで何か知ってる事があったら、それ全部聞いてくるからさ。とりあえずまた連絡するよ」
 「……うん、ありがと。……私、やっぱりニーさんしか頼る人がいない。ほんと、わがままばっかり言ってごめんなさいッ! ううッ……」
 明日夏が泣いているのがはっきりとわかった。
 「俺なら大丈夫だ。……また連絡するからな」
 「……うん」
 二賀斗は後ろ髪引かれる思いで通話を切った。……そして、そのままうなだれた。
 「ハァ――。……また、余計なこと言っちまった。これでまたアイツのところに行かなきゃならねえのかー」
 二賀斗は頭を抱えてその場にうずくまった。



 「ミーンミンミン……」
 朝起きると、部屋にはカーテン越しにギラギラとした日差しが入り込んでいた。太陽の熱にたたき起こされたようなものだ。二賀斗はベッド棚に置いてある置き時計を見る。
 〈午前八時……あっちーなぁ〉
 ベッドから起き上がり、カーテンを開けると、モワッとした風が身体にへばり付く。
 「はぁ……どうせ話にならねえんだから、天気の悪い日より今日みたいに天気のいい日に行ったほうがまだ気分的にも救われるってものか……」
 そう呟くと、早速出かける準備に取り掛かった。

 あの子のいる場所までは高速を使っても数時間はかかる。そう何度も何度も気軽に行ける距離ではないので、今日行って話ができなかったらそれでこの件を終わりにする。二賀斗はそう心に誓って目的地に向け車を走らせた。そして旅の途中、思い立ったかのように洋菓子店に立ち寄ると、ご機嫌伺いの手土産としてケーキを数個購入してみせた。
 「こんなんで機嫌がよくなるとは思えないけど、なんとか上手くいってくれよ……」
 そう言うと、大事そうに後部座席に手土産を置き、急ぎアクセルを踏み込んで孫娘のところへ向けてひた走った。

 午後一時過ぎ。二賀斗はスーパーフレッシュ大吉に到着した。雲が多少なりとも浮かんでいるが、空は晴れ渡っている。
 「あの山上る前にちっと、トイレに行ってくるか」
 二賀斗はスーパーのトイレを拝借した後、手土産を持って颯爽と歩き出した。

 「……ハァ……ハァ」
 二賀斗はネクタイを緩め、スーツの上着を肩に載せて、額の汗を腕で拭いながら坂道を上っていく。そして上り始めて数十分後、ようやくあの集落の入り口にたどり着いた。腕時計を見ると、時刻は午後二時を回っていた。
 「ここに来るまでほんと、遠路はるばるだぁ。ハァー、ハァー……。マジで何度も来れねえよ……」
 立ち止まってその場で汗を拭き、荒い息を整え、そして緩めたネクタイを締める。最後にスーツの上着を着ると、手土産を持って小屋の方に向かって恐る恐る歩み出した。
 「気をつけねーとなぁ。まーた石とか投げられたら、今度はタンコブじゃすまねぇぞ」
 「それはどーも、すみませんでしたッ!」
 その声を聞くなり二賀斗はピタッと足を止めた。そして、調子の悪い機械のようにゆっくりと、ぎこちなく首を左右に振って辺りを見回した。
 山桜の幹の陰からあの子は、あの時着ていた体操着姿のまま顔を出した。
 「ほんとに一体、何の用で……」
 眉間にしわを寄せた彼女が突然、目を丸くする。
 「あっははははは――!」
 彼女は大声で笑い出した。
 「……え? えっ? ……な、なに。何か付いてる?」
 二賀斗は手で顔をさわってみた。
 彼女は指で涙を拭うと、こう言った。
 「はーあ。……何かご用ですか? 変態さん」
 「は? ……そんな、変ですか?」
 二賀斗の困った顔に向かって、彼女は薄笑いし、見下すような視線で答えた。
 「開いてますわよ、お兄さん」
 「え? 開いてるって、……えッ!」
 二賀斗はとっさに下を見た。
 〈チャック、開いてるじゃん!〉
 二賀斗は急いでズボンのチャックを上げた。顔が見る見るうちに赤くなっていく。身体中から妙な汗が出てくるのがわかる。頭が、混乱してきた。
 「あ……あのの、すいませんでしたッ! この、この前はア! あの、これれ……これれすいませんッ!」
 言葉にならない言葉で謝罪すると、二賀斗は手土産を地面に置き、脇目も振らずに一目散で上ってきた道を駆け下りた。

 「……ハア、ハア、ハア」
 杉林を駆け抜ける足が徐々に早歩きになり、徒歩になり……そして足が止まる。
 「あ――っ! かいたかいた恥かいたー! もーいいやッ! もう、これで終わり。みっともねぇってもんじゃねえよ! ったくゥ!」
 その場で一通り吠えると、二賀斗は再び歩き出す。
 「……はあ――っ。ったく、何しにここまで来たんだよ俺はァ。はぁーっ。…………あー、はら減ったなぁ。帰りに何か食うか。今いくら持ってんだっけ」
 二賀斗は歩きながら尻に手をやった。……財布がない。今度は胸ポケットを確認する。
 「あれ? ……あれ?」
 立ち止まって全部のポケットを確認する。
 「えッ! マジ? ……車の中か? ケーキ買った後にどこに……。え! もしかして、ケーキを入れた手提げ袋に入れちまったか? ……マジかよー!」
 二賀斗は両手で頭を抱えてその場にしゃがみ込んだ。 

 見るからに嫌そうな顔つきでもって辺りを見回すと、恐る恐る二賀斗は集落の入り口に再び足を踏み入れた。
 「にっかどさん!」
 二賀斗はその声を聞くと、反射的に肩をすぼめた。それからその声のする方向にそろりと視線を向ける。あの子は山桜の太い枝に乗っかってこちらを見下ろしていた。
 彼女は乗っていた山桜の太い枝からヒョイっと軽快に飛び降りると、やはり不敵な笑みで見下すように二賀斗を見つめて話しかける。
 「もらいものですけど、一緒に食べません?」
 彼女は土産袋を持ち上げて見せた。
 二賀斗は下を向いたまま恥ずかしそうに答える。
 「いいい、いいですよ、そんな。……め、めっそうもない。それより財布、ありませんでしたか?」
 彼女は袋から二賀斗の財布を持ち出すと、得意げに言い出した。
 「にっかどさん、はるきって言うんですかァ? 三十歳には見えないですよ、ふふふ」
 彼女は目を細めて、まるで女王様のように微笑む。
 〈免許証見やがったな、こいつ。性格悪ィー〉
 下を向いたまま、二賀斗は渋い顔をした。
 「ゆっくりしてってください♡」
 今度はアニメのキャラクターのような可愛らしい声を出して挑発してきた。
 「いやいやいや。もう、すぐおいとましますんで。財布だけ……」
 彼女との身長差は優に十五センチ以上あるが、二賀斗は終始小さくなって防戦一方の対応を迫られた。
 「どうぞ、こちらに……」
 彼女は、細く柔らかい手を小屋の方に向けて伸ばすと麗しく微笑んだ。
 「いやや、ほんとにもう、勘弁してください。帰りますんで、ホントに財布だけ」
 二賀斗は頭を下げたまま、ひたすら財布をねだった。
 彼女は下を向いたままの二賀斗にゆっくり近づくと、二賀斗の手にそっと財布を握らせた。
 二賀斗の手に触れた彼女の手は本当に白い、純白のユリのようだった。二賀斗が無意識に顔を上げると、そこには何の飾り気もない、やさしい微笑みをうかべた彼女の姿があった。……一瞬、ほんの一瞬だが、視線を奪われた。
 「……ん、んんッ」
 すぐ我に返った二賀斗は小刻みに頭を振ると、深くおじぎをして足早にその場を去った。

 駆け足で坂を下っていく。
 「あ――ッ! 最低だッ! ……もうここには来ない。この件はこれで終わりッ! 明日夏ゴメン!」
 二賀斗は顔を真っ赤にしながら、真っ直ぐに道を駆け下りていった。
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