最後の山羊

春野 サクラ

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 二賀斗はフロントガラス越しにぼんやりと外の景色を眺める。
 いったい、これで何度目が覚めたことだろう。運転席に座ったままの態勢で眠ったものだから、全然熟睡できなかった。車の時計を見てみる。
 〈午前五時か……〉
 二賀斗はそっと運転席のドアを開けて外に出る。昨日の豪雨が嘘のように空は青く輝いていた。背伸びをして清々しい空気を胸いっぱいに吸い込む。
 「んんーッ」
 二賀斗は振り返って外から車の中を見る。疲れていたのか、葉奈は微動だにせず深い眠りの中にいた。二賀斗は頬を緩めると、そのまま静かに山を下っていった。

 「……うう、ん」
 朝の日差しを感じ、葉奈は目を覚ます。
 「……」
 仰向けになったまま、ぼんやりと後部座席の天井を見つめる。
 「……あっ!」
 葉奈は飛び起きると、後部席のドアを開けて外に飛び出した。
 「……あ、あれ?」
 辺りを何度も見回したがお尋ね者の姿はどこにも見えない。爽やかな朝の風がそっと、葉奈の栗色の髪を軽く揺らす。
 「キョキョキョ……キョキョ……」
 近くで鳥の声が聞こえる。……空に目をやると、ふんわりとした雲がゆっくりと流れている。雨に濡れた木々の葉が日差しを受けてまぶしく輝いている。葉奈は小屋の南側にある縁側まで歩いて行くと、そこでちょこんと体育座りをした。
 「……よいしょ、……よいしょ。……はあー、やっと到着ー」
 しばらくすると、二賀斗がいくつものレジ袋を携えて坂道を上ってきた。そしてそのままの格好で車の後部を外から覗き込んだ。
 「そーやっていつも未亡人をのぞき見してるのかァー!」
 葉奈が小屋から声を上げて茶々を入れた。
 「ああっ! そっちに居たのかよ!」
 二賀斗の顔が赤くなった。
 「あははは」
 葉奈は無邪気に笑った。二賀斗は葉奈が座っている小屋の方に歩を進める。
 「起きたらにっかどさんいなかったから、びっくりしちゃったわ。歩いて帰っちゃったのかと思った。こんな車貢がれても困るしさぁ」
 縁側で体育座りをしながら葉奈は笑顔で二賀斗に話しかけた。
 「おいおい、車で来ておいて徒歩で帰るやつぁいねーだろ」
 二賀斗は、座っている葉奈のそばに買い物袋を無造作に置いた。
 「いろいろ食い物とか買ってきたからさ、食おうか。昨日みたいに遠慮なんかしたらダメだぞォ」
 「あ、……はい。……なんか、ありがとうございます」
 そして二人は縁側に並んで座ると、朝の食事を始めた。
 食事をしながら二人は色々な会話を交わした。……この小屋の奥に集落があるが、すでに家屋群は廃墟となっていること。二賀斗の職業や出身地。葉奈の親は亡くなっていて、葉奈には誰も身寄りがいないこと。この小屋が葉奈の祖母の実家であること。この小屋を継ぐためにここに来たことなど。……彼女は学生時代のことについての話はすんなりと話すものの、自分自身のことや家族のことには触れさせないよう、上手く話を誘導していた。そのため二賀斗自身、彼女の祖母の話をなかなか聞き出せすにいた。
 しかしながら、常に笑みを絶やさずどんな話にも共感してくれるこの葉奈という少女、二賀斗は彼女と会話を交わしながら強く実感した。
 〈確かにあの時の高校生や、アパートのおばさんが言ってた通りだ。……なんか、惹かれるものがある〉
 二賀斗は戸惑った。一体どれが本当の彼女なのかと。礼儀正しく隣人に挨拶する彼女、凶暴な眼つきをした彼女、弱々しく怯えた声を出す彼女、そして優しく微笑む今の彼女。

 二賀斗は腕時計をチラリと見る。
 「あっ、もうこんな時間か」
 話に夢中になって、時間を忘れてしまっていた。時刻はもうすぐ正午になる。
 「……どうか、しました?」
 笑顔で葉奈は尋ねる。
 「あ、ああ。うん。……そろそろ帰ろうかな、なんてね」
 「ふぅ――ん」
 葉奈は再び体育座りをすると、その頬を膝に乗せて二賀斗の方を向く。
 「とか言って、また来るんでしょ?」
 「え、ええっ? はははは……」
 照れ笑いをすると二賀斗は立ち上がって、空を見上げた。……ゆっくりと、雲が流れている。
 「ふぅー」
 二賀斗は大きなため息をついた。
 〈ばあさんのこと、聞けないか。……いや、それよりもなんつうところで生活してるんだ、この子は。しかもたった独りで〉
 二賀斗はしかめっ面して腕を組む。
 〈俺の親父も俺が高二の時に死んじまった。……お袋も相当苦労したんだろうな〉
 二賀斗はいつの間にか今の葉奈と当時の自分自身を重ね合わせていた。
 〈あんときの俺にはまだお袋がいた。……でも今のこいつには誰もいない〉
 まぶたを強く閉じ、唇を噛みしめた。
 〈電気も来てないこんな古びた小屋で、しかも辺りに見えるのは杉の木だらけ。何が悲しくてこんなとこで生活しなきゃならねえんだよ、お前は〉
 二賀斗はうつむいた。もはや頭の中は葉奈の生活ぶりの心配でいっぱいになっていた。
 〈……でも、俺なんかが関わったって、……余計なお世話だよな〉
 しばしの黙考の末、二賀斗は気持ちを固めた。
 「よーし、帰るとするか! ……じ、じゃあね」
 二賀斗は顔を上げて空を見上げると、そう言ってそのまま車の方に向かって歩き出した。
 葉奈は歩き出す二賀斗の後ろ姿を見ると、縁側から腰をあげてその後ろ姿に深くおじぎをした。
 「にっかどさん。こんなにもいろいろと手助けしてくださって、本当にありがとうございました」
 二賀斗は背中越しに凛とした葉奈の声を聞いた。二賀斗は振り返らず右手を上げてそれに応えた。一歩、もう一歩、二賀斗は愛車に近づく。そして運転席のドアノブに手をかける。
 「…………」
 二賀斗はドアノブにかけた手を見つめていたが、我慢できずに小屋の方に視線を向けた。
 葉奈が笑顔で大きく手を振っている。その姿を見るなり二賀斗は思わずドアノブに目を落とした。……ドアノブを強く握り締める。
 「…………ッ」
 突然、胸が閉めつけられた。……今まで感じたことのない、千切れるような胸の痛み。
 二賀斗は突如小屋に向かって走りだした。……こんな、感情に操られて身体が動くことなんて生まれて初めてのことだった。
 二賀斗は葉奈の目の前まで駆け寄ると少しためらいながらも葉奈の目をじっと見つめて口をひらいた。
 「あぁ、あのさッ! あの、その……め、迷惑でなければ……いや、絶対迷惑かけないからさ。ちょっとだけ、ちょっとの間だけここに居させてくれないかな? ……俺、車の中で寝るし、食費とかも俺出すからさッ! ……少しだけ、ここに居させてくれないかな」
 か細く震えた表情をする二賀斗に向かって、葉奈は優しい口調で尋ねた。
 「……にっかどさんて、どうしても叶えたい夢とか、願いって……ある?」
 「え? ……叶えたい夢? ……叶えたい夢、か」
 二賀斗は葉奈の質問に、しばし真剣に考えた。
 〈……宅建も取ったし社労士も取った。そのあとの目標は? 事業を拡大したいか? 別にそんなのない。名を売りたいとも思わない……〉
 「……ない。……ないよ。俺、何にも夢がねえじゃんか。目標がねえ!」 
 ふと、収の顔が脳裏に浮かんだ。
 〈これが……俺とお前の差ってことかよ〉
 「ふふ。……何にもないよ、なんにも。……空っぽだな、俺って」
 諦めたような表情で二賀斗は答えた。
 「いいですよ。ここにいても」
 葉奈は笑顔で承諾した。
 「へ? いいの?」
 二賀斗は肩透かしを食らったような顔をした。
 「でも、私も最近ここに来たばっかりだから色々教えてくださいね」
 「え? そうなの? い、いつ来たの?」
 二賀斗は目をパチクリさせる。
 「えーっとォ。……来て一ヵ月くらいしか経ってないかなぁ」
 平然とした顔で葉奈は答えた。
 「ええッ? そうなの? 風呂は? トイレは?」
 二賀斗は矢継ぎ早に葉奈に質問を浴びせかけた。
 「あのォ。にっかどさんが私の事どう見てるのかはわかんないですけど、私も一応レディーの分類には入るんかなーと思うんでェ、そうゆう話はやめてもらえますぅ?」
 葉奈は目を細めると、冷たい視線を二賀斗に投げかけた。
 「あ、あああ。す、すいません、すいません!」
 二賀斗は気まずそうな顔で謝った。
 「小屋の裏に共同の水汲み場があって、そこでわき水が汲めるの。ポリタンクに水を入れて日なたに置いといたんだけど、あんまりあったかくならないからマジックでポリタンクを黒く塗ったの。そしたら結構あったかくなったんで、それ使って身体とかきれいにしてました。おわりッ!」
 目を細めたまま不満げに葉奈は答えた。
 「メシは?」
 「貯金がいくらかあったんで、スーパーで缶詰とか、日持ちのするものいっぱい買い込みましたけど?」
 葉奈は眉をひそめて答えた。
 「そっか。……夜は?」
 「暗いんですぐ寝ちゃいます」
 「……そうだよね。暗いと何にもできないからなぁ。……ん? ち、ちょっと待ってて」
 何かを思い出したのか、二賀斗はズボンのポケットからスマホを取り出すと、急いでどこかに電話し始めた。
 「……あ、どうも、ご無沙汰してます。早速なんですけど、あれってまだあります? はい、やっぱりもらっていいですか? ええ、すいません。じゃ、今から伺いますんで」
 二賀斗は通話を切ると葉奈に畳みかけるように話しかけた。
 「葉奈ちゃん、また明日来るからさ、今日だけ辛抱してくれ。じゃ!」
 そう言うと二賀斗は急いで車に乗り込んで、勢いよく道を下って行った。
 葉奈は独り、あっけにとられた様子で車を見送った。
 車のエンジン音が聞こえなくなると、葉奈の表情も凪の様に静まり返った。聞こえてくるのはいつものように鳥の声と風の音。見えるものは空と雲と杉の林だけ。……日が暮れるまで葉奈は縁側でたたずみ、ぼんやりと風景を見ていた。そして空に一番星が見えるようになると、暗く静まり返った小屋に消えていった。
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