深夜水溶液

海獺屋ぼの

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第一話 白い灯台

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 その音楽スタジオは控えめに言って見窄らしかった。看板がなければ零細企業の備品倉庫にしか見えない。壁は元の色が分からないくらい黒ずんでいた。
「ここで合ってますよね?」
 竹井くんはナビの地図と私の顔を見比べながら不安そうに呟いた。
「合ってるね……」
 としか私は返せなかった。確かにカーナビの地図はこの場所を示しているし、一応は看板も掛かっている。
「とりあえず行きましょうか……」
「だね」
 来てしまったものは仕方ない。不本意だけれど、一応私たちの雇用主だ。
 スタジオの横のコインパーキングに車を停めた。パーキングの左端に植えられた桜の木の葉がカサカサ揺れている。秋の桜。春はまだとうぶん先だ。
 近くで見るとそのスタジオの古さが一層際立って見えた。アンティークだとかレトロだとかそんな情緒的な古さではない。それはうち捨てられた納屋のような古さだ。私の実家の近くにはこんな感じの小汚い建物はたくさんあった。生活感がかろうじてある廃墟。そんな雰囲気が漂っている。
 意を決してスタジオのガラス戸を開いた。立て付けが悪いのか、ギチギチという嫌な金属音が響いた。
「こんにちはー」
 恐る恐る声を掛ける。
「やや、いらっしゃい。呼び出してすまないね。ささ、中に入って入って」
 社長だ。前に見たときと何ら変わらない老紳士。私たちは彼に会釈すると建物に足を踏み入れた。
 スタジオに入ってそのギャップに驚かされた。外観があれほど残念だったのに内部は最新鋭の設備で埋め尽くされていた。天井のスピーカーからはドヴォルザークの「新世界より第四楽章」が流れている。
 各練習スタジオの扉も重厚で高級感があった。備え付けのソファーもテーブルも。その全てが一級品だと分かる。(家具に疎い私の感想だけれど)
「まぁ座りなさい。今お茶を煎れるよ」
 そう言うと社長は立ち上がった。
「私がやります!」
 反射的に私も立ち上がった。正直、気が気じゃない。私だって社長にお茶出しさせられるほど図々しくはないのだ。
「ハハハ、気にしないでいいよ。今日、君たちはお客さんだ」
 社長はそう言って私に座るように促した。本当に勘弁して欲しい。自分の祖父母より年上の人間に接待されるのは正直きつい。
「有栖ちゃんは良くしてくれるかね?」
 社長は穏やかな口調で言いながらお茶を私たちの前に並べた。反射的に会釈してお茶を受け取る。
「はい! すごく! もう世話になりっぱなしです」
「そうかい。なら良かったよ。あの子昔から血の気多かったから心配でね。竹井くんはよく知ってるだろうけど」
 今度は竹井くんに話が振られる。竹井くんは「まぁ、そうですね」と無難に答えた。
「そんなに固くならなくてもいいよ。ここは僕の隠れ家みたいなものだし、今回呼んだのは会社とは関係ないからね。まぁ……。なんだ。君たちと普通に話したかったんだ。企業的な利害は関係なくね」
 社長は言葉は丁寧で素直で正直な気持ちなのだろう。少なくともそれは理解できた。まぁ、理解できたところで警戒心がなくなるわけでもないけれど。
 気がつくとスピーカーから聞こえるメロディーはサティの「グノシエンヌ」に変わっていた。不安感が高まるメロディー。ピアノの鍵盤を鬱々しく叩く様子が目に浮かぶ。
 ふと、車に残してきたケーキのことを思い出した。モンブランタルトは無事だろうか? そんな意味のない心配が浮かんだ。まぁ大丈夫だろう。モンブランタルト強盗なんてのはいないと思う。
「せっかくだからスタジオ見てみるかい? ここはニンヒアでは一番古いスタジオだから面白いものもあるよ」
 社長はニッコリ笑った。私も笑い返す。口角が吊りそうになった。
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