アルテミスデザイア ~Lunatic moon and silent bookmark~

海獺屋ぼの

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第四章 京都1992

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 府民ホールは人でごった返していた。駐車場も車だらけだ。
 私は家族に送られて出演者の控え室に向かった。控え室には私と同年代の人は居なかった。居たのは二○代から五○代くらいの人たちばかりだ。
「したらウチらは観覧席に行くで! ま、頑張って」
「ああ、ありがとう。お母さんたちも気をつけてな」
 母たちが行ってしまうと少しだけ不安な気持ちになった。まるで単身でスペースシャトルに乗せられたような気持ち。乗ったことはないけれど。
 私以外の出演者たちも緊張しているようで、皆そわそわしていた。人によっては発声練習したり、手に『人』の字を書いて飲み込んでいた。
 十五分ほどすると運営スタッフがやってきた。
 彼らは今回の注意事項を淡々と説明し、最後に質問を求めた。
 他の出演者は色々質問していたけれど、私は何も聞かなかった。聞いても仕方ない。順番が来たらステージに上がって歌うだけだ。
 開演直前。私たちはステージに移動した。緞帳が下がり、スタッフが忙しなく動き回っていた。会場には注意のアナウンスが響く。
 その頃には私の緊張はすっかりほぐれていた。自分でも不思議だけれど、腹をくくるとあまり気にならないらしい。
 そして……。いよいよ開演の時間だ――。
 開演すると司会者が慣れた調子で話し始めた。立ち位置からマイクの握り方、声の抑揚まで完璧に仕上がっている。彼がルーティン的にオープニングを終えるとすぐにのど自慢大会がスタートする。
「ではまずは1番の方どうぞ!」
 司会者に番号を呼ばれた出演者はステージ中央に出て行った……。
 それからのど自慢大会は流れるように進行した。番号を呼ばれた出演者がステージに上がると曲名を言って歌った。中にはサビまで歌えないで鐘を鳴らされる人もいた。
 素人大会だけあって様々な人が出ている。コスプレしたお姉さんから農作業着のおじいさんまで。よりどりみどりだ。
 三坂逢子もこんな風にイベントに出ているのだろうか?
 私は順番を待ちながらそんなことを考えていた。緊張こそしていなかったけれど、身体には汗が滲んでいた。
 そして……。遂に私の順番が来た。
「では一二番の方どうぞ!」
 司会者に呼ばれ私はステージの真ん中へ向かった。会場が一瞬静まり返る。
「一二番! 鴨川月子! デザイア」
 私のその声に反応するようにオーケストラが演奏を開始した。曲のイントロが会場に鳴り響く。
 デザイアのイントロが終わると私は一心不乱に歌い始める。
 今回選んだ曲は『レイズ』の二人とセッションしたのと同じ曲だ。もともと好きな曲だし、コピーならこの曲しかないと思っていた。
 中森明菜のデザイア。私はこの曲で最初のステージに立ちたかった。
 私は歌いながら健次と栞のことを考えていた。健次に私の欲望が届いて欲しかった。
 清らかな願い『Wish』ではない。
 欲望に駆られた願い『DESIRE』を届けたかった。
 私は栞ほど澄んではいないのだ。あんなに誠実で実直ではない。でも今は欲に塗れた自分自身がとても誇らしく思えた。
 清らかで潔癖でなければ夢が叶わないなんて嘘だ。私はそう思った。
 誠実さは大切だし、潔癖でいることは美徳だけれど、夢を叶えることとは何の関係もないと思った。
 鐘が鳴らされる頃にすっかり気持ち良くなっていた。身体中から汗が噴き出し、手の甲までびっしょり濡れている。本当に気持ちが良い。こののまま死んでも後悔がないくらいだ――。

 のど自慢大会は無事終わった。少しずつ会場から人が出て行く。
 帰りがけ。ホールの入り口で健次と会った。
「あー! ケンちゃん来てくれたんやな! 嬉しいわー。どうやったウチの歌?」
「良かったで! ほんまに良かった。お前すごいなー。歌うのがうまいとは思っとったけどここまでとは知らんかったで」
 健次は本当に感心しているようだった。
 彼に褒められるのなんて何年ぶりだろう?
 のど自慢大会の結果は私の優勝だった。どうやら他の参加者たちよりは評価されたらしい。素直に嬉しく思う。
「ありがとー。ケンちゃんに褒められるなんてほんまにほんまにほんーまに嬉しい!!」
「ほんまにお前はすごいな! 正直舐めとったで……」
「わー! 酷いわー。ケンちゃんには時々歌聴かせてたのに……」
 私は笑いながらむくれて見せた。
「すまんすまん。堪忍な! でもよかったなー。優勝できて!」
「まだやねん。まだまだや。ウチはこれくらいでは満足せーへん」
 ここは入り口なのだ。入り口でしかない。
 私のそんな言葉に健次はキョトンとした。
「なんや? まだ何かしたいんか?」
「そーやで! ウチは日本一の歌手になるんや! いつか武道館いっぱいに人集めて歌うんやで!」
「お前なー。夢持つんはええことやけど、ハードル高ないか?」
「何ケンちゃん? ウチにはでけへんゆーんか?」
 私は再びむくれる。今度は少しだけ本気でむくれた。
「いや……。出来ないとはゆーてへんけど、難しいやろ?」
「あーあ、やっぱりケンちゃんはウチのこと舐めとる! そしたらな! ウチが武道館でもしコンサート出来たらどうする? ウチのゆーこと聞いてくれる?」
 交換条件。私のエゴイズム。
「ハハハ、かまへんで! 武道館でコンサート出来たらえーなー」
 健次は私の言葉を流すようにそう言った。
 健次のその態度が最高に気に入らなかった。一人の女として気に入らない。
「ケンちゃん! よーく聞きや! もし、ウチが武道館でコンサート出来たらケンちゃんに嫁に取ってもらうで! わかったか?」
 私は啖呵を切るように言うと彼の頬を思い切り引っ張った。
「痛い痛い! わかったから離せや!」
 彼の頬を離すと赤くなっていた。流石に力を入れすぎたかもしれない。私はダメ押しに言葉を続ける。
「よーし、約束やで! 絶対武道館行ったるからな!」
 ようやく約束できた。と私は思った。無理矢理だけれど約束は約束だ。
 これが私と健次にとって最初の誓いだったと思う。
 
 その日。私にとって生きるための最大の理由が出来た。
 一九九二年の夏。私たちは初めて同じレールの上に立つことが出来たのだ。
 そのときの私たちにはレールの先に何が待ち受けているのか知るよしもなかった――。
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