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第一章 樹脂製の森に吹く涼しい風

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 浩樹の家で食事を終えると私は自宅に帰った。今日は両親が早く帰ってくるので買い出しに行かなければいけない。自宅に戻ると祖母が喫茶店で常連客と話をしていた。
「あら、お帰りなさい。ちょっと遅かったんじゃない?」
「うん。友達の家寄ってきたんだ」
「お友達? ああ、もしかしてこの前の子?」
「そう! ちょっと買い出し行ってくるね」
 私は常連客に挨拶するとそのまま店舗奥の自宅へ向かった。台所のテーブルの上に母からのメモが置いてある。内容は買ってきてほしいワインとおつまみのリスト。私はそれを握りしめると二階の自室に向かった。
 制服を脱ぐ。脱いだ制服からはほんのりとジャンクフードの匂いがした。食欲をそそる油のいい香りだ。
 それからタンスからワンピースを取り出して着た。京都で買ったお気に入りのワンピース。お気に入りの、そして思い出の。
 私は事あるごとにあちらでの暮らしを思い出した。京都府京都市。そこであった暮らし。今となってはあの場所であったすべてが愛しく思える。あの子のこともそうだし、あの人のことも……。
 あんなに完璧な場所はなかった。今はそう思う。あの子がいて、私を好きだと言ってくれる人がいた。きっとその完璧さはあの人たちの優しさに守られていたのだと思う。私はただ、その優しさに甘えていただけだ。借り物の完璧な場所。かりそめの楽園。そんな場所。
 かりそめでもいい。私はそれでもあの場所に居たかった。嘘でも偽物でもその場所は私の居場所だった……。
 結局のところ、私は未だに執着しているのだろう。鴨川の景色にいつまでもすがりついていたいのだ。でも神様はきっとそれを許さないと思う。
 あの場所を思い出にしたくない。それが私の素直で正直な気持ちだ。思い出にしてしまったら、自分自身を過去に置き去りにしてしまう気がする。
 置き去りにした過去はどうなってしまうのだろう? 忘れ去られ、誰も知らない場所になってしまうのではないだろうか? そう思うと怖くて怖くてたまらなくなった。
 今私は一番恐れているものは、あの人たちが私を思い出にしてしまうことだろう。記憶を過去の彼方へ追いやり、日常から排除されてしまうのがたまらなく怖い。
 ある意味であの人たちと出会ったことを私は後悔している。出会わなければ失わずにすんだのに……。そんな風に考えてしまう。分かってはいるのだ。この考えには無理がある。
 出会わなければ別れずにすんだと後悔するのは、生まれなければ死なずにすんだと言うくらいには意味のない話だから……。
 学習机の上には私とあの子、そしてあの人の写真が飾られている。彼らは笑顔で私を挟むようにそこに写り込んでいる。
 私は首を大きく横に振った。こんなことばかり考えていてはいけない。それより今はやるべきことがある。
 まずはワインを買いに行こう。そして……。水貴の話も考えなければ。
 私は財布をバッグにしまうと買い物に出かけた。
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