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翌朝。
目が覚めると、断固拒否したが、結局勝手に布団に入ってきた隣に寝ているはずのリュカの姿がなかった。
「……あれ? いない」
布団にはまだ微かに温もりが残っている。
まさか、昨日の「一生養う」発言は冗談で、やっぱり森に帰ったのだろうか。
それならそれで、平穏なスローライフが戻ってくるだけだ。少し胸に穴が空いたような寂しさはあるけれど、元々住む世界が違うのだから。
「うん、顔を洗おう」
僕は自分に言い聞かせるように呟いて、縁側へ向かった。
雨戸を開け、朝の新鮮な空気を吸い込もうとした、その時だ。
ズゥゥゥゥゥン……。
地面が揺れるような地響きと共に、庭先に巨大な黒い影が落ちてきた。
「うわあっ!?」
腰を抜かしそうになりながら見上げると、そこには昨日の銀色の狼――ではなく、スウェット姿のリュカが立っていた。
そして、彼の足元には。
「……イノシシ?」
いや、ただのイノシシではない。
軽トラックほどもありそうな、巨大な牙を持った山の主クラスの猪が、絶命して転がっていた。
「おはよう、ミナト。目覚めたか」
リュカは朝の散歩から戻ったような爽やかな笑顔で、汗一つかいていない。
その美貌は朝日に輝き、パツパツのスウェットさえなければ絵画のようだ。
「これ……どうしたの?」
「朝飯だ」
彼は誇らしげに胸を張った。
「昨夜、貴様は『肉が好きだ』と言っていただろう? だから、手頃な獲物を狩ってきた。この森の主らしいから、味は良いはずだぞ」
「しゅ、主を狩ったの!?」
「造作もないことだ。我にかかれば、この程度の獣など赤子も同然」
フフン、と鼻を鳴らすリュカ。
どうやら、昨日の「一生養う」という言葉を行動で示したらしい。
確かに僕は昨日、唐揚げを食べながら「肉が好き」とは言った。言ったけれど、まさか朝っぱらから解体前の巨獣が庭に転がることになるとは予想していない。
「……ありがとう、リュカ。気持ちは嬉しいよ。でもね」
僕は引きつった笑みを浮かべた。
「これ、誰が捌くの?」
「む?」
「僕はスーパーでパック詰めされた肉しか扱ったことがないんだ。こんな……毛皮がついたままの巨大な塊、包丁も通らないよ」
そう言うと、リュカは「なんだ、そんなことか」と呆れたように肩をすくめた。
「貴様は本当に無力だな。まあいい、我が狩った獲物だ。調理も我がやってやろう」
「え、できるの?」
「愚問だ。我は何百年も生きている神獣だぞ? 火を操ることなど呼吸をするより容易い」
リュカは自信満々に猪の足を掴むと、軽々と持ち上げた。数百キロはあるはずなのに、まるで発泡スチロールでも持っているかのような軽さだ。
「台所を借りるぞ。貴様はそこで座って待っていろ」
「ちょ、ちょっと待って! 家の中で解体する気!?」
「安心しろ、汚しはしない」
制止する間もなく、リュカは獲物を担いで勝手口から土間へ、そして台所へと入っていってしまった。
嫌な予感がする。
猛烈に、嫌な予感がする。
僕は慌てて後を追った。
「リュカ、本当に大丈夫なの? 包丁、そこにあるけど……」
「道具など不要だ。我の『鬼火』で焼き尽くせば、毛皮を剥ぐ手間も省ける」
「は? 鬼火?」
リュカが右手をかざした。
その掌に、ボウッ! と青白い炎が生まれる。ガスコンロの火とは違う、揺らめく魔法のような炎だ。
「おい、ちょっと待て! 室内で火を使うのは――」
「極上の焼き加減にしてくれるわ!」
僕の静止は間に合わなかった。
リュカが放った青い炎は、猪を包み込み――いや、勢い余って換気扇を舐め、天井の梁を焦がし、瞬く間に台所全体に熱波を撒き散らした。
ドォォォォォォン!!
爆発音のような轟音と共に、黒煙が上がる。
「うわあああああああ!!」
「ぬおっ!?」
火災報知器がジリジリと鳴り響く中、僕は必死で水を汲んだバケツを抱えて走った。
幸い、炎は魔法的なものだったせいか、リュカが慌てて手を振るとすぐに消えた。
しかし。
「……ゴホッ、ゴホッ……」
煙が晴れたあとに残ったのは、煤で真っ黒になった台所と、炭化して石のようになった巨大な何か。
そして、顔中を煤だらけにして呆然と立ち尽くす、絶世の美青年だった。
「…………」
「…………」
沈黙が落ちる。
窓を開け放ち、煙を追い出しながら、僕は黒い塊を見下ろした。
かつて猪だったそれは、今や見る影もない炭のオブジェと化している。
換気扇はひしゃげ、壁紙は焦げ、床は油と煤でベトベトだ。
「……あのさ、リュカくん」
僕は震える声で言った。怒りよりも、脱力感が勝っていた。
「……なんだ」
リュカもしょんぼりとしていた。
立派な犬耳の幻覚がぺたんと伏せられ、尻尾の幻覚が足の間に丸め込まれているのが見えるようだ。
「火力調整、できなかったの?」
「……久々の実体化で、力の加減を誤ったようだ。それに、人間の家の台所がこれほど脆いとは……」
「君が規格外なだけだよ!!」
僕は思わず叫んだ。
祖父母の大切な家が。僕の聖域だった台所が。
「す、すまん……。貴様に、美味いものを食わせてやろうと……」
リュカが俯く。
その黄金の瞳が、申し訳なさそうに揺れているのを見て、僕は大きなため息をついた。
……ずるい。そんな顔をされたら、怒れないじゃないか。
彼は彼なりに、僕に恩返しをしようとしてくれたのだ。方向性は間違っていたけれど、その気持ち自体は嘘じゃない。
「はぁ……。もういいよ。怪我がなくてよかった」
「ミナト……」
「その代わり! 掃除は手伝ってもらうからな。あと、今後一切、家の中で魔法を使うのは禁止! 料理もしなくていい!」
「し、しかし、それでは我の立つ瀬が……」
「君が料理をすると家がなくなる! 大人しく座っててくれ!」
僕は腕まくりをして、雑巾を手にした。
リュカは「うう……」と情けない声を漏らしながら、小さくなって元イノシシの黒い炭を運び出し始めた。
――こうして、僕は悟った。
この美貌の神獣様は、生活能力においては壊滅的なポンコツだということを。
そして、彼を養い介護するのは、どうやら僕の役目になりそうだということを。
「……前途多難どころじゃないな、これ」
煤だらけの台所を磨きながら、僕は天井を仰いだ。
スローライフは遠のくばかりだけれど、不思議と「一人ぼっち」の寂しさは、もう感じなくなっていた。
目が覚めると、断固拒否したが、結局勝手に布団に入ってきた隣に寝ているはずのリュカの姿がなかった。
「……あれ? いない」
布団にはまだ微かに温もりが残っている。
まさか、昨日の「一生養う」発言は冗談で、やっぱり森に帰ったのだろうか。
それならそれで、平穏なスローライフが戻ってくるだけだ。少し胸に穴が空いたような寂しさはあるけれど、元々住む世界が違うのだから。
「うん、顔を洗おう」
僕は自分に言い聞かせるように呟いて、縁側へ向かった。
雨戸を開け、朝の新鮮な空気を吸い込もうとした、その時だ。
ズゥゥゥゥゥン……。
地面が揺れるような地響きと共に、庭先に巨大な黒い影が落ちてきた。
「うわあっ!?」
腰を抜かしそうになりながら見上げると、そこには昨日の銀色の狼――ではなく、スウェット姿のリュカが立っていた。
そして、彼の足元には。
「……イノシシ?」
いや、ただのイノシシではない。
軽トラックほどもありそうな、巨大な牙を持った山の主クラスの猪が、絶命して転がっていた。
「おはよう、ミナト。目覚めたか」
リュカは朝の散歩から戻ったような爽やかな笑顔で、汗一つかいていない。
その美貌は朝日に輝き、パツパツのスウェットさえなければ絵画のようだ。
「これ……どうしたの?」
「朝飯だ」
彼は誇らしげに胸を張った。
「昨夜、貴様は『肉が好きだ』と言っていただろう? だから、手頃な獲物を狩ってきた。この森の主らしいから、味は良いはずだぞ」
「しゅ、主を狩ったの!?」
「造作もないことだ。我にかかれば、この程度の獣など赤子も同然」
フフン、と鼻を鳴らすリュカ。
どうやら、昨日の「一生養う」という言葉を行動で示したらしい。
確かに僕は昨日、唐揚げを食べながら「肉が好き」とは言った。言ったけれど、まさか朝っぱらから解体前の巨獣が庭に転がることになるとは予想していない。
「……ありがとう、リュカ。気持ちは嬉しいよ。でもね」
僕は引きつった笑みを浮かべた。
「これ、誰が捌くの?」
「む?」
「僕はスーパーでパック詰めされた肉しか扱ったことがないんだ。こんな……毛皮がついたままの巨大な塊、包丁も通らないよ」
そう言うと、リュカは「なんだ、そんなことか」と呆れたように肩をすくめた。
「貴様は本当に無力だな。まあいい、我が狩った獲物だ。調理も我がやってやろう」
「え、できるの?」
「愚問だ。我は何百年も生きている神獣だぞ? 火を操ることなど呼吸をするより容易い」
リュカは自信満々に猪の足を掴むと、軽々と持ち上げた。数百キロはあるはずなのに、まるで発泡スチロールでも持っているかのような軽さだ。
「台所を借りるぞ。貴様はそこで座って待っていろ」
「ちょ、ちょっと待って! 家の中で解体する気!?」
「安心しろ、汚しはしない」
制止する間もなく、リュカは獲物を担いで勝手口から土間へ、そして台所へと入っていってしまった。
嫌な予感がする。
猛烈に、嫌な予感がする。
僕は慌てて後を追った。
「リュカ、本当に大丈夫なの? 包丁、そこにあるけど……」
「道具など不要だ。我の『鬼火』で焼き尽くせば、毛皮を剥ぐ手間も省ける」
「は? 鬼火?」
リュカが右手をかざした。
その掌に、ボウッ! と青白い炎が生まれる。ガスコンロの火とは違う、揺らめく魔法のような炎だ。
「おい、ちょっと待て! 室内で火を使うのは――」
「極上の焼き加減にしてくれるわ!」
僕の静止は間に合わなかった。
リュカが放った青い炎は、猪を包み込み――いや、勢い余って換気扇を舐め、天井の梁を焦がし、瞬く間に台所全体に熱波を撒き散らした。
ドォォォォォォン!!
爆発音のような轟音と共に、黒煙が上がる。
「うわあああああああ!!」
「ぬおっ!?」
火災報知器がジリジリと鳴り響く中、僕は必死で水を汲んだバケツを抱えて走った。
幸い、炎は魔法的なものだったせいか、リュカが慌てて手を振るとすぐに消えた。
しかし。
「……ゴホッ、ゴホッ……」
煙が晴れたあとに残ったのは、煤で真っ黒になった台所と、炭化して石のようになった巨大な何か。
そして、顔中を煤だらけにして呆然と立ち尽くす、絶世の美青年だった。
「…………」
「…………」
沈黙が落ちる。
窓を開け放ち、煙を追い出しながら、僕は黒い塊を見下ろした。
かつて猪だったそれは、今や見る影もない炭のオブジェと化している。
換気扇はひしゃげ、壁紙は焦げ、床は油と煤でベトベトだ。
「……あのさ、リュカくん」
僕は震える声で言った。怒りよりも、脱力感が勝っていた。
「……なんだ」
リュカもしょんぼりとしていた。
立派な犬耳の幻覚がぺたんと伏せられ、尻尾の幻覚が足の間に丸め込まれているのが見えるようだ。
「火力調整、できなかったの?」
「……久々の実体化で、力の加減を誤ったようだ。それに、人間の家の台所がこれほど脆いとは……」
「君が規格外なだけだよ!!」
僕は思わず叫んだ。
祖父母の大切な家が。僕の聖域だった台所が。
「す、すまん……。貴様に、美味いものを食わせてやろうと……」
リュカが俯く。
その黄金の瞳が、申し訳なさそうに揺れているのを見て、僕は大きなため息をついた。
……ずるい。そんな顔をされたら、怒れないじゃないか。
彼は彼なりに、僕に恩返しをしようとしてくれたのだ。方向性は間違っていたけれど、その気持ち自体は嘘じゃない。
「はぁ……。もういいよ。怪我がなくてよかった」
「ミナト……」
「その代わり! 掃除は手伝ってもらうからな。あと、今後一切、家の中で魔法を使うのは禁止! 料理もしなくていい!」
「し、しかし、それでは我の立つ瀬が……」
「君が料理をすると家がなくなる! 大人しく座っててくれ!」
僕は腕まくりをして、雑巾を手にした。
リュカは「うう……」と情けない声を漏らしながら、小さくなって元イノシシの黒い炭を運び出し始めた。
――こうして、僕は悟った。
この美貌の神獣様は、生活能力においては壊滅的なポンコツだということを。
そして、彼を養い介護するのは、どうやら僕の役目になりそうだということを。
「……前途多難どころじゃないな、これ」
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