銀狼様とのスローライフ

八百屋 成美

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5.

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「……貸して。雑巾はそうやって絞るんじゃないよ」

 僕はため息交じりに手を差し出した。
 黒焦げになった台所の大掃除。煤だらけの壁を拭くために雑巾を絞ろうとしたリュカは、ありあまる握力で雑巾を引きちぎってしまったのだ。ボロ雑巾は文字通りボロ屑となり、無惨な姿で床に転がっている。

「ぬぐぅ……。加減が難しいのだ。布ごときが我の筋力に耐えられぬとは、人間の道具はなんと軟弱な」
「君がゴリラなだけだよ。ほら、新しい雑巾。今度は優しくね」

 リュカは渡された雑巾を、まるで壊れ物を扱うかのように指先でつまんでいる。
 身長一八五センチ超え、筋肉質の絶世の美青年が、小さくなっておっかなびっくり床を拭いている図は、シュールすぎて少し笑えてくる。

「……笑うな。我はこれでも反省している」

 黄金の瞳が、恨めしげにこちらを見上げた。
 どうやら彼は、自分が「役立たず」であることをひどく気にしているらしい。
 狩ってきた獲物は炭になり、台所は半壊し、掃除すらまともにできない。神獣としてのプライドがズタズタなのだろう。

「怒ってないよ。掃除もあらかた終わったし、そろそろお昼にしようか」

 僕は手を洗って、生き残ったカセットコンロを取り出した。
 IHヒーターは無事だったけれど、電気系統がショートしている可能性があるので念のため使わないことにしたのだ。
 土鍋に水を張り、昆布を入れて火にかける。

「……また、何か作るのか?」

 リュカが不安そうに覗き込んでくる。また爆発するのではないかと警戒しているようだ。

「安心して。火を使うのはこのコンロだけ。君の出番はないから」
「うっ……」

 言葉に詰まるリュカを横目に、僕は冷蔵庫から冷やご飯と卵、それに刻んだネギを取り出した。
 昨日の残りの大根の葉も刻んで入れよう。
 昆布出汁が温まってきたら、冷やご飯を投入してほぐす。塩と醤油で薄く味付けをして、グツグツと煮立ってきたら溶き卵を回し入れる。最後にネギと大根の葉を散らして、蓋をして蒸らす。
 ほんの十分ほどで、湯気とともに優しい香りが漂い始めた。

「よし、できた。卵雑炊だよ」

 ちゃぶ台に土鍋を運ぶと、リュカが目を丸くした。

「これが……貴様の狩りか?」
「狩りじゃないよ、料理。さっきの猪は残念だったけど、お腹には優しいほうがいいでしょ」

 器によそって差し出すと、リュカは恐る恐るスプーンを手に取った。
 ふうふう、と僕が冷ます真似をすると、彼もぎこちなく真似をして、一口すする。

「……!」

 その瞬間、彼の黄金の瞳が輝いた。

「温かい……。それに、なんだこの優しい味は。口の中で解けていくようだ」
「出汁が効いてるからね。消化にもいいし、煤を吸い込んだ喉にもいいはずだよ」
「美味い。……美味いぞ、ミナト」

 リュカは夢中でスプーンを動かし始めた。
 ガツガツと食べるのではなく、一口一口を味わうように。その表情は、先ほどまでのしょげた様子が嘘のように幸福そうだ。
 
 ――ああ、これだ。
 僕が求めていたのは、こういう時間だったのかもしれない。
 誰かのために手間をかけて、それを「美味しい」と食べてくれる人がいる。
 会社員時代、コンビニ弁当をパソコンの前で流し込むだけだった日々にはなかった、温かな充足感。

「おかわりはあるか?」
「あるよ。土鍋いっぱい作ったからね」

 空っぽの器を差し出すリュカを見て、僕は自然と笑みがこぼれた。
 手がかかるし、常識はないし、家を壊しかけたけれど。
 こうして美味しそうにご飯を食べてくれるなら、まあ、許してあげてもいいかなと思う。
 食後。
 満腹になったリュカは、また何か思いついたように立ち上がった。

「よし、腹も満ちた。食後の茶くらいは我が淹れよう」
「ストップ!!」

 僕は反射的に叫んで、リュカの腕を掴んだ。
 彼はキョトンとしてこちらを見る。

「なんだ? 茶くらいなら、火を使わずに水魔法で……」
「それがダメなんだって! 君の魔法は規格外なんだから、家の中で使ったら今度は水浸しになるよ!」
「む……しかし、それでは我がただ飯を食らうだけの穀潰しになってしまうではないか」

 リュカは眉を下げた。
 どうやら彼は、「恩返しをする」と言った手前、何もせずに世話になることが我慢ならないらしい。
 その律儀さは嫌いじゃないけれど、これ以上家を破壊されるのは勘弁してほしい。
 僕はリュカの手を引き、座布団の上に座らせた。

「いいかい、リュカくん」
「……なんだ」
「君にとっての『当たり前』は、人間界では『大災害』なんだ。だから、家事に関しては一切手出し無用。君はそこに座って、ニコニコしていればいいの」
「ニコニコ……? 愛想を振りまけというのか? 我は神獣だぞ、人間に媚びなど……」
「媚びろとは言ってないよ。ただ、君が大人しくしていてくれることが、僕にとって一番の『助け』になるんだ」

 僕は諭すように言った。
 これは半分本音で、半分は彼を傷つけないための嘘だ。
 けれどリュカは、ハッとしたように顔を上げた。

「そうか……。我の力が強すぎるが故に、貴様の生活を脅かしてしまうということか」
「まあ、大きく言えばそういうことかな」
「なるほど。強大すぎる力は、時として守るべきものを傷つける……。ふむ、深いな」

 何やら勝手に納得してくれたようだ。
 彼は深く頷くと、居住まいを正して僕を見た。

「わかった。ならば我は、貴様の平穏のために『何もしない』という任務を遂行しよう」
「うん、その言い方はちょっと引っかかるけど、結果オーライだね」
「だがミナトよ。これだけは言っておく」

 リュカの瞳が、鋭く光った。
 スウェット姿のままだが、その纏う空気は紛れもなく「神獣」のそれだった。

「家の中のことは貴様に任せる。だが、外からの脅威に対しては、我が盾となろう。この家の結界、そして貴様の身の安全。それだけは、我が守る」

 その言葉には、揺るぎない力が宿っていた。
 ただの居候ではない。守護者としての矜持。
 ドキリ、と心臓が跳ねた。

「……わかった。頼りにしてるよ」

 僕が言うと、リュカは満足げに目を細めた。

「うむ。では、茶を頼む。少しぬるめでな」
「はいはい、ただいま」

 結局、こき使われているのは僕の方じゃないか?
 そんな疑問も湧いたけれど、台所に向かう僕の足取りは軽かった。
 リビングでは、銀色の髪の美青年が、借りてきた大型犬のように行儀よく座って待っている。
 「お手」と「待て」を覚えたばかりの、手のかかる同居人。
 おひとりさまの気楽さは消えてしまったけれど、代わりに得た賑やかさは、そう悪いものでもない気がしていた。
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