銀狼様とのスローライフ

八百屋 成美

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 山間の夜は早い。そして、肌寒い。
 日中はあんなに蒸し暑かったのに、日が落ちるとすうっと気温が下がる。特に昨日は雨だったせいか、畳の上を這う空気はひんやりとしていた。

「ふあぁ……。風呂、気持ちよかった」

 古いタイル張りの浴室から上がった僕は、タオルで髪を拭きながら居間に戻った。
 先に入浴を済ませたリュカは、すでに借り物のパツパツスウェットを着て、畳の上で優雅に座禅を組んでいた。

「ミナトよ、あの『シャワー』という水魔法の装置は素晴らしいな。滝行のような荒々しさと、雨のような優しさが同居している」
「気に入ったなら何よりだよ。お湯の出しっ放しには気をつけてね」
「うむ。学習した」

 神獣様は学習能力が高いらしい。シャンプーの使い方も一度教えただけで完璧にマスターしていた。おかげで、今の彼は森の匂いではなく、スーパーで特売だったフローラルの香りを漂わせている。
 そのギャップが少しおかしくて、僕は口元を緩めた。
 さて、と。
 一日の終わり、寝る時間になって、我が家には重大な問題が浮上していた。

「……布団が、ないんだよね」

 僕は押し入れを開けて溜息をついた。
 この家には、僕が使っている煎餅布団が一組しかない。
 客用の布団もあるにはあるのだが、長年しまわれていたせいで湿気臭く、とても今日すぐに使える状態ではなかった。天日干しをするにも、今日は掃除と料理で手一杯だったのだ。

「リュカ、悪いんだけど、今日は君が布団を使ってくれ。僕はソファで寝るから」

 僕がそう提案すると、リュカは眉をひそめた。

「何を言う。家主である貴様を差し置いて、居候の我が布団を占領できるわけがなかろう」
「でも、君は怪我人だし」
「神獣の回復力を舐めるな。傷などもう塞がっている」

 そう言って、リュカはスウェットの裾を捲り上げた。
 確かに、脇腹の傷は薄い痕になっているだけで、驚異的なスピードで治癒していた。鍛え上げられた腹直筋が目に眩しい。

「なら、僕が布団で、君がソファ……っていうのも、足がはみ出しそうで申し訳ないしなぁ」

 我が家のソファは二人掛けのコンパクトなものだ。身長一八五センチ超えの彼が寝るには小さすぎる。

「一緒に寝ればよかろう」

 リュカが事もなげに言った。

「狭いよ! シングルサイズの煎餅布団だよ? 男二人が並んで寝たら、寝返りも打てないって」
「ふむ……。確かに、この人間の姿は少々場所を取るな」

 リュカは顎に手を当てて考え込んだ。
 そして、黄金の瞳をすっと細め、名案を思いついたように口角を上げた。

「ならば、こうすれば解決だ」
「え?」

 リュカの体が、ふわりと銀色の光に包まれた。
 眩しさに僕が目を細めた次の瞬間。
 ボンッ、という低い音とともに、スウェットが畳の上に落ちた。
 そしてその布の山の上に、巨大な影が現れた。

『グルゥ……』

 そこにいたのは、昨日拾った銀色の狼――いや、昨日よりも毛艶が良く、一回り大きく見える神獣の姿だった。

「りゅ、リュカ?」
『うむ。この姿なら、布団からはみ出しても問題ない』

 頭の中に直接響く声。
 狼姿のリュカは、器用に前足で布団を整えると、その上にドカリと腹這いになった。
 シングルの布団の半分以上が、彼の銀色の毛並みで埋め尽くされる。

「いや、解決してないよ! 余計に狭くなってるじゃないか!」
『狭くはない。貴様はここに来ればいい』

 リュカは鼻先で、自分の腹のあたりをちょいちょいと示した。
 そのふさふさとした尻尾が、パタパタと畳を叩いている。

『山間の夜は冷える。貴様のようなひ弱な人間は、我の毛皮に包まれて寝るのが一番だ。極上の暖かさを提供してやろう』
「……えぇー……」

 僕は渋ったフリをした。
 けれど、視線はどうしてもその銀色の毛並みに吸い寄せられてしまう。
 昨日の泥汚れが落ち、シャンプーで洗われた毛並みは、月光を浴びてキラキラと輝いている。見るからに柔らかそうで、温かそうだ。

「……じゃあ、お言葉に甘えて」

 僕は電気を消し、恐る恐る布団に入った。
 リュカの背中に寄り添うように横になる。
 その瞬間、僕は思わず声を漏らした。

「うわ……っ」

 柔らかい。とてつもなく柔らかい。
 硬い剛毛かと思いきや、冬毛のような密度の高い綿毛が、僕の体を優しく受け止めた。
 そして、温かい。
 体温の高い獣の熱が、じんわりとパジャマ越しに伝わってくる。まるで巨大な高級羽毛布団と、高性能な湯たんぽを同時に手に入れたようだ。

『どうだ? 悪くないだろう』

 得意げな声が脳内に響く。
 リュカは長い首を曲げ、巨大な顎を僕の足元に乗せた。彼の体がカーブを描き、僕を包み込むような形になる。
 背中には彼の腹の温もり、足元には彼の顔の重み。
 完全に、銀色の毛皮にロックされていた。

「……最高だ。これ、人を駄目にする暖かさだよ」
『フン。光栄に思え。神獣を抱き枕にできる人間など、古今東西、貴様だけだぞ』
「はいはい、光栄ですとも」

 僕は体の向きを変え、リュカのお腹の方を向いた。
 目の前には、銀色の毛の壁。
 抗えない衝動に駆られ、僕はそっと手を伸ばし、その毛並みに顔を埋めた。
 もふぅ……。
 鼻孔をくすぐるフローラルの香りと、陽だまりのような獣の匂い。
 頬に触れる毛先がくすぐったくて、でも愛おしい。
 会社のデスクで死んだような目をしていた頃の僕に教えてやりたい。お前は今、世界一のモフモフに包まれて寝ているぞ、と。

「リュカ、ありがとう」

 毛並みの中で呟くと、リュカの喉がグルル、と嬉しそうに鳴った。
 心臓のトクトクという音が、ダイレクトに伝わってくる。
 恐ろしいはずの猛獣の鼓動が、今は最高の子守唄のように聞こえた。

『……おやすみ、ミナト。良い夢を』

 大きな尻尾が、僕の上から掛布団のようにふわりと被せられた。
 その重みと温かさに守られて、僕は田舎に来てから一番深い眠りへと落ちていった。
 翌朝、口の中に大量の犬の毛が入って目を覚ますことになるのだが、それはまた別の話だ。
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