銀狼様とのスローライフ

八百屋 成美

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 完全復活だ。
 丸一日寝込んだおかげで、僕の体調はすっかり元通りになっていた。
 久しぶりに台所に立ち、包丁を握る感覚に心が弾む。

「おまたせ。約束通り、美味しい朝ごはんだよ」

 ちゃぶ台に並べたのは、炊きたての白米、豆腐とわかめの味噌汁、だし巻き卵、そして昨夜のうちに仕込んでおいた鰆の西京焼きだ。
 純和風の朝食。リュカの反応はどうだろうか。

「……ほう。今日は随分と慎ましいな」

 リュカは焼き魚を興味深そうに眺めた。
 本当に上達した箸を器用に使い、身をほぐして口に運ぶ。

「ん……美味い。見た目は地味だが、味が奥深いな。この白米とよく合う」
「でしょう? 病み上がりにはこれくらいが丁度いいんだ」

 リュカは満足げに頷き、次々と箸を進めていく。
 その食欲旺盛な姿を見ているだけで、こちらの元気まで湧いてくるようだ。
 昨日の、今にも泣き出しそうだった不安げな顔はもうない。いつもの尊大で、自信に満ちた神獣様に戻っている。

「ミナトよ、貴様も食え。病み上がりで痩せ細っているぞ」
「痩せてないってば。でも、ありがとう」

 彼が自分の皿からだし巻き卵を半分、僕の茶碗に乗せてくれた。
 なんだか餌付けされている気分だ。でも、その不器用な気遣いがくすぐったくて、僕はまた笑ってしまった。
          

 食後、縁側で並んでお茶を飲んでいる時だった。
 穏やかな日差しが、リュカの長い銀髪を照らしていた。
 普段は無造作に後ろで束ねているか、そのまま流している彼の髪だが、今日は寝起きのせいか少し絡まっているように見える。

「リュカ、ちょっとこっち向いて」
「ん? なんだ」
「髪、ボサボサだよ。ブラッシングしてあげる」

 僕が櫛を取り出すと、リュカは少し驚いたような顔をした後、素直に背中を向けた。

「……頼む。人間の姿だと、自分で手入れをするのが億劫でな」
「獣の姿なら、自分で舐めて毛づくろいできるもんね」
「まあな。だが、背中だけは届かん。群れの仲間にやってもらうのが常だ」

 なるほど、グルーミングか。
 僕は彼の背後に座り、腰まである長い銀髪に櫛を通し始めた。
 するり。
 指通りは驚くほど滑らかだ。
 一本一本が光の糸のように輝き、手に吸い付くような重みがある。
 少し絡まっていた毛先を丁寧にほぐし、頭頂部から毛先へと櫛を滑らせる。そのたびに、リュカが気持ちよさそうに目を細めるのが横顔で見えた。

「……気持ちいいか?」
「うん。すごく綺麗な髪だね。手入れしがいがあるよ」
「そうではない。……貴様の手つきだ」

 リュカが低く喉を鳴らした。
 まるで、猫が喉をゴロゴロ鳴らすような、甘えた響き。

「誰かに毛並みを整えられるというのは、これほど心地よいものだったか。……貴様の指先から、温かいものが流れ込んでくるようだ」
「大げさだなぁ」

 僕は苦笑しながらも、櫛を置いた手で、彼の頭をマッサージするように撫でた。
 さらさら、ふわふわ。
 人型になっても、その手触りの良さは変わらない。いや、温かい体温が直接伝わってくる分、こちらのほうが愛着が湧くかもしれない。
 無心で髪を梳いていると、ふいにリュカが身体を預けてきた。
 ドサリ、と僕の胸に彼の背中が重なる。

「ちょっと、重いよリュカ」
「黙って受け止めろ。……安心するのだ」

 彼は僕の膝の間に自分の身体を滑り込ませ、完全に脱力していた。
 無防備だ。
 背後を取らせるというのは、動物にとって急所を晒すのと同じことのはず。
 それを、最強の神獣が、ただの人間である僕に許している。

「……我ら銀狼族にとって、首筋や背中を預けるのは、絶対的な信頼の証だ」

 僕の思考を読んだかのように、リュカが呟いた。

「貴様にならば、いつ喉笛を噛み切られても構わん」
「そんな物騒なことしないよ……」
「わかっている。貴様は、我を傷つけるより、自分が傷つくことを選ぶような甘い人間だからな」

 リュカは僕の手を掴み、自分の唇へと運んだ。
 手の甲に、あたたかく湿った感触が落ちる。
 キスではない。敬愛を示すような、あるいは所有権を主張するような、ゆっくりとした口づけ。

「だが、覚えておけミナト。貴様が我に背中を預ける時、我は躊躇なくその全てを守り抜く」

 彼の言葉に、胸が熱くなった。
 僕が彼を「綺麗にする」だけの行為を、彼は「命を預け合う儀式」のように受け取ってくれている。
 その重さが、今は心地いい。

「……はい、出来上がり」

 僕は最後に髪を三つ編みにして、ゴムで結んだ。
 銀色の太い三つ編みが、彼の背中で揺れる。

「どう? 邪魔にならないように編んでみたけど」

 リュカは自分の髪を手に取り、まじまじと見つめた。

「ふむ……。悪くない。貴様が編んでくれたのなら、これはただの髪ではないな」
「じゃあ何なの?」
「『絆』の形だ」

 キザなことを真顔で言う。
 でも、その顔がとても嬉しそうで、僕は「そうだね」と頷くしかなかった。

「さて、次は我が貴様を整えてやろう」

 リュカがくるりと振り返り、僕に向き直った。
 黄金の瞳が、獲物を狙うように僕を捉える。

「えっ、僕はいいよ。髪短いし」
「髪ではない。……ここだ」

 彼の手が伸びてきて、僕の首筋に触れた。
 昨日の「清拭」の時と同じ、熱を帯びた指先。

「昨日、汗を拭いた時に気づいたのだが……貴様のここの肌は、とても柔らかい」

 親指の腹で、首筋の脈打つ部分をなぞられる。
 ゾクリ、と背筋が震えた。

「りゅ、リュカ……?」
「舐めたい衝動に駆られるが……今は我慢してやろう。その代わり」

 彼は僕の首筋に顔を埋め、深く、深く息を吸い込んだ。

「スーッ……」

 吸気音が響く。
 彼の鼻先が肌に触れ、くすぐったさと共に、不思議な安堵感が広がっていく。
 彼が僕の匂いを吸い込むたび、僕の中の不安や孤独も一緒に吸い出されていくような気がした。

「……うん。今日もいい匂いだ。我の匂いと、貴様自身の匂いが混じり合っている」

 リュカは満足げに顔を上げ、ニカッと笑った。

「これでまた、悪い虫は寄ってこないだろう」
「虫除けかよ……」
「最強の魔除けだ。感謝しろ」

 彼は上機嫌で立ち上がり、編んでもらった髪を揺らして庭へと降りていった。

「今日は天気がいい。布団を干すぞ、ミナト!」
「あ、うん。手伝うよ」

 僕は慌てて立ち上がった。
 首筋に残る彼の体温と、擽ったい感触。
 それを手でそっと確かめながら、僕は彼の大きな背中を追いかけた。
 穏やかな午後の時間。
 こんな幸せな時間が、ずっと続けばいい。
 本気でそう思っていた。
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