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しとしとと、長雨が続いている。
外仕事ができないこんな日は、家の中で静かに過ごすに限る。
僕は読みかけの本を閉じ、ふと視線を上げた。
居間のソファには、リュカが寝転がっている。
今日は珍しく、少し不機嫌そうだ。
時折、頭を振ったり、耳のあたりを手でかいたりしている。
「……リュカ、どうかしたの?」
「ん? いや……耳が、むず痒いのだ。奥の方で何かがカサカサしているような……」
彼は顔をしかめて、また耳の付け根をボリボリと掻いた。
その仕草は、完全に犬が耳を気にしている時のそれだ。
「ああ、耳垢が溜まってるのかもね。……掃除しようか?」
「掃除? 耳をか?」
「そう。僕がやってあげるよ。こっちにおいで」
僕は座布団を二つ折りにし、自分の膝をポンポンと叩いた。
いわゆる「膝枕」の体勢だ。
「……貴様の膝にか?」
リュカが怪訝そうに眉を寄せる。
無理もない。成人男性が成人男性に膝枕をするなんて、絵面的にはかなりシュールだ。
「嫌ならいいけど。自分でやるのは難しいよ? 中を傷つけるかもしれないし」
「……むぅ」
リュカは少し迷った後、観念したように立ち上がった。
そして、僕の前に来ると、どさりと横になり、恐る恐る僕の太ももに頭を乗せた。
ズシリ。
重い。
頭蓋骨の重みと、首の筋肉の硬さが伝わってくる。
下から見上げる黄金の瞳が、至近距離で僕を捉えた。
「……悪くないな」
リュカが小さく呟く。
彼の銀色の髪が、僕の太ももに散らばって、サラサラとくすぐったい。
整いすぎた顔が膝の上にあるというのは、なんとも言えない背徳感と緊張感がある。
「じゃあ、始めるよ。動かないでね」
僕は竹製の耳かきを手に取り、彼の耳元に顔を寄せた。
左手で耳たぶを軽く引っ張り、耳の穴を広げる。
形のいい耳だ。人間と同じ形をしているけれど、やはりどこか感覚が鋭敏なのか、僕が触れただけでピクリと震えた。
「……っ」
耳かきの先端を、慎重に差し入れる。
カサッ、という音がして、リュカの喉が鳴った。
「んぅ……」
「痛い?」
「いや……違う。なんだこれは……背筋がゾクゾクする」
リュカが僕の太ももの布地をギュッと掴んだ。
どうやら、くすぐったいのと気持ちいいのが混ざり合っているらしい。
「力を抜いて。すぐに終わるから」
カリ、カリ、と優しく内壁を掻いていく。
僕が動かすたびに、リュカの吐息が熱くなり、膝の上の頭が重くなる。完全に脱力してきている証拠だ。
「……あ、そこ……」
「ここ?」
「うむ……そこだ……」
恍惚とした表情で、リュカが目を細める。
長いまつ毛が震え、頬がほんのりと朱に染まっている。
無防備だ。あまりにも無防備すぎる。
野生動物にとって、聴覚は命綱のはずだ。その急所である耳を、人間に――僕に、完全に預けている。
「……ねえ、リュカ」
作業を続けながら、僕は静かに問いかけた。
「怖くないの? 耳なんて、一番大事な場所でしょう?」
もし僕が敵なら、この瞬間に彼の鼓膜を突き破ることだってできる。
そんな想像をかき消すように、リュカは閉じていた目を開け、黄金の瞳で僕を見上げた。
「貴様だからだ」
迷いのない声だった。
「他の誰かが我の耳に触れようとすれば、その腕を食いちぎるだろう。だが……貴様にならば、何をされても構わん」
「……大げさだなぁ」
「本気だ。貴様の指先からは、害意など微塵も感じない。あるのは、温かい慈しみだけだ」
リュカは僕の膝に頬をすり寄せた。
甘えるような、それでいて所有権を主張するような仕草。
「この場所は、いいな。貴様の匂いが濃くする。心臓の音も聞こえる」
「そ、そう……?」
「ああ。トクトクと、心地よいリズムだ。……我の『番』が生きている証の音だ」
彼はそう言うと、僕の太ももに顔を埋め、深く息を吸い込んだ。
熱い吐息が布越しに皮膚に届く。
太ももの内側という、デリケートな場所に顔を埋められ、僕は思わず身体を強張らせた。
「りゅ、リュカ! くすぐったいって!」
「じっとしていろ。……落ち着くのだ」
彼は僕の腰に腕を回し、さらに強く抱きついてきた。
逃げられない。
耳かきはとっくに終わっているのに、彼は一向に起き上がる気配がない。
それどころか、僕のお腹に耳を押し当て、子守唄でも聴くように目を閉じている。
「……ずっと、こうしていたい」
消え入りそうな声で、彼が呟いた。
その声には、神獣としての威厳はなく、ただ温もりを求める寂しがり屋の響きがあった。
「外は雨だ。世界が冷えている。……だが、ここには春がある」
「……大げさだってば」
僕は苦笑して、彼の頭に手を置いた。
銀色の髪を梳くように撫でると、彼は気持ちよさそうに目を細める。
僕もまた、この時間が愛おしかった。
雨音に閉ざされた家の中で、二人きり。
世界中でたった一人、僕だけが、この誇り高き神獣の無防備な姿を知っている。
その優越感と、彼を守ってあげたいという庇護欲が、胸を満たしていく。
「……じゃあ、雨が止むまで、こうしてようか」
「うむ。……あとで、反対の耳も頼む」
「はいはい」
僕たちはそのまま、長い時間を過ごした。
リュカの寝息が聞こえ始め、僕もつられて微睡み始めた頃。
ピクリ。
リュカの身体が、不意に強張った。
さっきまでの弛緩した空気が、一瞬にして凍りつく。
「……リュカ?」
彼がガバッとはね起きた。
黄金の瞳は、猛禽類のように鋭く細められ、窓の外――雨に煙る森の方角を睨みつけている。
「……来たか」
低い、地を這うような唸り声。
そこにはもう、甘えていた時の面影はない。獲物を狩る捕食者の顔だ。
「何が? 誰か来たの?」
僕が尋ねると、リュカは振り返り、深刻な表情で僕を見た。
「嫌な気配だ。……かつて、我を傷つけた者たちの匂いがする」
ドクン、と心臓が跳ねた。
第一話で、彼が瀕死の重傷を負っていた理由。
その原因となった「何か」が、この平穏な隠れ家まで追ってきたのだ。
「ミナト。我から離れるな」
リュカが僕の腕を掴む。
その手は痛いほど強く、そして微かに震えているように感じられた。
雨音が、急に不吉なものに聞こえ始めた。
穏やかな日常の終わりを告げる、足音が近づいてくる。
外仕事ができないこんな日は、家の中で静かに過ごすに限る。
僕は読みかけの本を閉じ、ふと視線を上げた。
居間のソファには、リュカが寝転がっている。
今日は珍しく、少し不機嫌そうだ。
時折、頭を振ったり、耳のあたりを手でかいたりしている。
「……リュカ、どうかしたの?」
「ん? いや……耳が、むず痒いのだ。奥の方で何かがカサカサしているような……」
彼は顔をしかめて、また耳の付け根をボリボリと掻いた。
その仕草は、完全に犬が耳を気にしている時のそれだ。
「ああ、耳垢が溜まってるのかもね。……掃除しようか?」
「掃除? 耳をか?」
「そう。僕がやってあげるよ。こっちにおいで」
僕は座布団を二つ折りにし、自分の膝をポンポンと叩いた。
いわゆる「膝枕」の体勢だ。
「……貴様の膝にか?」
リュカが怪訝そうに眉を寄せる。
無理もない。成人男性が成人男性に膝枕をするなんて、絵面的にはかなりシュールだ。
「嫌ならいいけど。自分でやるのは難しいよ? 中を傷つけるかもしれないし」
「……むぅ」
リュカは少し迷った後、観念したように立ち上がった。
そして、僕の前に来ると、どさりと横になり、恐る恐る僕の太ももに頭を乗せた。
ズシリ。
重い。
頭蓋骨の重みと、首の筋肉の硬さが伝わってくる。
下から見上げる黄金の瞳が、至近距離で僕を捉えた。
「……悪くないな」
リュカが小さく呟く。
彼の銀色の髪が、僕の太ももに散らばって、サラサラとくすぐったい。
整いすぎた顔が膝の上にあるというのは、なんとも言えない背徳感と緊張感がある。
「じゃあ、始めるよ。動かないでね」
僕は竹製の耳かきを手に取り、彼の耳元に顔を寄せた。
左手で耳たぶを軽く引っ張り、耳の穴を広げる。
形のいい耳だ。人間と同じ形をしているけれど、やはりどこか感覚が鋭敏なのか、僕が触れただけでピクリと震えた。
「……っ」
耳かきの先端を、慎重に差し入れる。
カサッ、という音がして、リュカの喉が鳴った。
「んぅ……」
「痛い?」
「いや……違う。なんだこれは……背筋がゾクゾクする」
リュカが僕の太ももの布地をギュッと掴んだ。
どうやら、くすぐったいのと気持ちいいのが混ざり合っているらしい。
「力を抜いて。すぐに終わるから」
カリ、カリ、と優しく内壁を掻いていく。
僕が動かすたびに、リュカの吐息が熱くなり、膝の上の頭が重くなる。完全に脱力してきている証拠だ。
「……あ、そこ……」
「ここ?」
「うむ……そこだ……」
恍惚とした表情で、リュカが目を細める。
長いまつ毛が震え、頬がほんのりと朱に染まっている。
無防備だ。あまりにも無防備すぎる。
野生動物にとって、聴覚は命綱のはずだ。その急所である耳を、人間に――僕に、完全に預けている。
「……ねえ、リュカ」
作業を続けながら、僕は静かに問いかけた。
「怖くないの? 耳なんて、一番大事な場所でしょう?」
もし僕が敵なら、この瞬間に彼の鼓膜を突き破ることだってできる。
そんな想像をかき消すように、リュカは閉じていた目を開け、黄金の瞳で僕を見上げた。
「貴様だからだ」
迷いのない声だった。
「他の誰かが我の耳に触れようとすれば、その腕を食いちぎるだろう。だが……貴様にならば、何をされても構わん」
「……大げさだなぁ」
「本気だ。貴様の指先からは、害意など微塵も感じない。あるのは、温かい慈しみだけだ」
リュカは僕の膝に頬をすり寄せた。
甘えるような、それでいて所有権を主張するような仕草。
「この場所は、いいな。貴様の匂いが濃くする。心臓の音も聞こえる」
「そ、そう……?」
「ああ。トクトクと、心地よいリズムだ。……我の『番』が生きている証の音だ」
彼はそう言うと、僕の太ももに顔を埋め、深く息を吸い込んだ。
熱い吐息が布越しに皮膚に届く。
太ももの内側という、デリケートな場所に顔を埋められ、僕は思わず身体を強張らせた。
「りゅ、リュカ! くすぐったいって!」
「じっとしていろ。……落ち着くのだ」
彼は僕の腰に腕を回し、さらに強く抱きついてきた。
逃げられない。
耳かきはとっくに終わっているのに、彼は一向に起き上がる気配がない。
それどころか、僕のお腹に耳を押し当て、子守唄でも聴くように目を閉じている。
「……ずっと、こうしていたい」
消え入りそうな声で、彼が呟いた。
その声には、神獣としての威厳はなく、ただ温もりを求める寂しがり屋の響きがあった。
「外は雨だ。世界が冷えている。……だが、ここには春がある」
「……大げさだってば」
僕は苦笑して、彼の頭に手を置いた。
銀色の髪を梳くように撫でると、彼は気持ちよさそうに目を細める。
僕もまた、この時間が愛おしかった。
雨音に閉ざされた家の中で、二人きり。
世界中でたった一人、僕だけが、この誇り高き神獣の無防備な姿を知っている。
その優越感と、彼を守ってあげたいという庇護欲が、胸を満たしていく。
「……じゃあ、雨が止むまで、こうしてようか」
「うむ。……あとで、反対の耳も頼む」
「はいはい」
僕たちはそのまま、長い時間を過ごした。
リュカの寝息が聞こえ始め、僕もつられて微睡み始めた頃。
ピクリ。
リュカの身体が、不意に強張った。
さっきまでの弛緩した空気が、一瞬にして凍りつく。
「……リュカ?」
彼がガバッとはね起きた。
黄金の瞳は、猛禽類のように鋭く細められ、窓の外――雨に煙る森の方角を睨みつけている。
「……来たか」
低い、地を這うような唸り声。
そこにはもう、甘えていた時の面影はない。獲物を狩る捕食者の顔だ。
「何が? 誰か来たの?」
僕が尋ねると、リュカは振り返り、深刻な表情で僕を見た。
「嫌な気配だ。……かつて、我を傷つけた者たちの匂いがする」
ドクン、と心臓が跳ねた。
第一話で、彼が瀕死の重傷を負っていた理由。
その原因となった「何か」が、この平穏な隠れ家まで追ってきたのだ。
「ミナト。我から離れるな」
リュカが僕の腕を掴む。
その手は痛いほど強く、そして微かに震えているように感じられた。
雨音が、急に不吉なものに聞こえ始めた。
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