銀狼様とのスローライフ

八百屋 成美

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 男たちが去った後の土間は、ひどく静まり返っていた。
 床には泥の足跡がこびりつき、争った形跡が痛々しく残っている。
 それは、僕たちの穏やかな日常が、土足で踏み荒らされた証拠そのものだった。

「……急ごう。奴らが増援を連れて戻ってくる前に」

 人間の姿に戻ったリュカが、険しい表情で言った。
 僕は黙って頷き、部屋へと走った。
 荷造りは、驚くほどすぐに終わった。
 元々、着の身着のまま逃げてきた身だ。この家で増えたものといえば、少しの着替えと、リュカとお揃いのマグカップ、それに撮りためた写真くらいのものだった。
 大きなリュック一つに、二人の生活の全てが収まってしまう。それが少し、切なかった。

「……ミナト。すまない」

 リビングで荷物をまとめる僕の背中に、リュカが声をかけてきた。
 振り返ると、彼は壁に手をつき、悔しげに顔を歪めていた。

「貴様が愛したこの家を、我のせいで捨てさせることになる。……あの野菜も、まだ収穫の途中だったろう」

 彼の視線が、窓の外の裏庭に向けられる。
 そこには、彼の魔法で育った巨大な野菜たちが、雨に濡れて佇んでいた。

「……ううん。いいんだよ」

 僕は努めて明るく振る舞った。
 ここで僕が悲しめば、リュカはもっと自分を責めるだろう。

「野菜はまた育てればいいし、家だって……雨風が凌げればどこでもいい。僕にとって一番大事なのは、この場所じゃなくて、君と一緒にいることだから」
「ミナト……」

 リュカが歩み寄り、僕を抱きしめた。
 強い力。けれど、どこか縋るような頼りなさを含んでいる。
 僕は彼の方に顔を埋め、その背中をさすった。

「行こう、リュカ。僕たちなら、どこでだって暮らせるよ」
「ああ。……誓う。次は、誰にも邪魔されない、もっと美しい場所へ連れて行く」

 僕たちは家を出た。
 玄関の鍵を閉める手が、少しだけ震えた。
 祖父母との思い出。そして、リュカと過ごした短いけれど濃密な日々。
 ありがとう、と心の中で呟いて、僕は鍵をポストに入れた。もう二度と、ここを開けることはないかもしれない。
 外は、まだ小雨が降っていた。
 冷たい夜気が肌を刺す。

「ミナト。これに乗れ」

 リュカが低い声で告げると、パンッ、と銀色の光が弾けた。
 次の瞬間、そこには巨大な銀狼が現れた。
 初めて出会った夜と同じ、神々しい姿。けれどあの時とは違い、傷一つない毛並みが月明かりを浴びて輝いている。

『徒歩では遅い。我の背に乗れ。風よりも速く、奴らの追跡を振り切ってやる』

 頭の中に響く声。
 リュカはその場に伏せ、僕が乗りやすいように背中を差し出した。

「……うん。頼むよ、相棒」

 僕はリュカの背中にまたがった。
 ふわり。
 極上の毛並みが、僕の体を包み込む。
 冷え切った夜気の中で、彼の体温だけが熱いほどに伝わってくる。その背中は広くて、頼もしくて、何よりとてつもなく安心できた。

『しっかり掴まっていろよ。……舌を噛むな』
「え、そんなに速いの?」
『本気を出せばな。……行くぞ!』

 リュカが後足で地面を蹴った。
 瞬間、景色が後方へとカッ飛んだ。

「うわああああっ!?」

 速いなんてもんじゃない。まるでジェットコースターだ。
 僕は悲鳴を上げそうになりながら、必死でリュカの首元の毛にしがみついた。
 風がごうごうと耳元で唸る。
 けれど、不思議と寒くはなかった。リュカが張ってくれた結界のおかげだろうか、雨粒も風圧も、僕の体には直接当たらないようになっている。
 山道を、銀色の疾風が駆け抜ける。
 木々が瞬く間に過ぎ去り、見慣れた景色があっという間に遠ざかっていく。

『……怖くはないか?』

 しばらく走ったところで、リュカの声が響いた。
 速度を落とさぬまま、気遣わしげに問いかけてくる。

「ううん、全然! ……むしろ、すごく気持ちいいよ」

 僕は顔を上げて叫んだ。
 嘘じゃなかった。
 全てのしがらみを振り切って、夜の闇を切り裂いて進む感覚。それは、会社から逃げ出したあの日の解放感に似ていた。
 でも、あの時とは決定的に違う。
 今は、独りじゃない。
 僕はリュカの首元に顔を埋めた。
 鼻いっぱいに吸い込む、清浄な森の匂いと、彼自身の匂い。
 モフモフの毛並みに頬ずりすると、ゴロゴロと喉を鳴らす震動が伝わってくる。

『……そうか。ならば、もっと遠くまで行こう』

 リュカの声が、嬉しそうに弾んだ。

『人間が立ち入らぬ深山、精霊たちが踊る湖、星が降る高原……。我の知る美しい場所を、すべてお前に見せてやる』
「うん、楽しみだなぁ……」

 僕は彼の背中の温もりに身を委ねた。
 行く先は決まっていない。
 追手が来るかもしれない。
 野宿になるかもしれない。
 
 けれど、不思議と不安はなかった。
 この暖かくて大きな背中がある限り、僕はどこまでだって行ける気がした。

「……ねえ、リュカ」
『なんだ』
「大好きだよ」

 風に紛れるような小さな声で呟いた。
 リュカは一瞬沈黙し、それから照れ隠しのように、ワオォォン! と高く遠吠えを上げた。

『……知っている! 我もだ!』

 夜空に響くその声は、力強く、誇り高く。
 僕たちの新たな旅立ちを祝福しているようだった。
 銀色の獣に乗って、僕たちは夜の闇へと溶けていった。
 二人の逃避行が、ここから始まる。
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