銀狼様とのスローライフ

八百屋 成美

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 風を切る音が止み、周囲を包んでいた銀色の結界がふわりと解けた。
 着地した衝撃は驚くほど少ない。
 リュカが足を止めたのは、深い森の奥にある、ひっそりとした湖のほとりだった。

『……ここなら、奴らの手の者も来られまい』

 リュカが身を屈め、僕を背中から下ろしてくれる。
 地面に足をつけた瞬間、足元がおぼつかなくてよろけた。緊張と長時間の移動で、思った以上に体が強張っていたらしい。

「っと……」

 転びそうになった僕を、瞬時に人型に戻ったリュカが支えた。

「大丈夫か、ミナト。顔色が悪いぞ」

 月明かりの下、リュカの顔が心配げに覗き込んでくる。
 その銀髪は乱れ、息も少し上がっている。僕を乗せて、結界を張りながら走り続けるのは、神獣といえども負担が大きかったはずだ。

「僕は平気だよ。それよりリュカこそ、疲れたでしょう?」
「フン、この程度、準備運動にもならん。……だが」

 彼は周囲を見回し、軽く眉を寄せた。

「すまないな。今夜はここで野宿だ。あの家のような、ふかふかの布団はない」

 そこは、手付かずの自然そのものだった。
 あるのは草と土、そして目の前に広がる湖だけ。屋根も壁もない。
 けれど、見上げれば息を呑むような満天の星空が広がっていて、湖面にはそれが鏡のように映し出されていた。

「ううん、すごいよ。こんな綺麗な場所、初めて見た」

 僕が素直に感嘆すると、リュカは少しだけ安堵したように表情を緩めた。

「気に入ったか? ここは精霊たちが集まる場所だ。清浄な空気に満ちているゆえ、悪い虫や獣も寄ってこない」
「へえ、天然のキャンプ場ってわけだね。……よし、じゃあ寝床を準備しようか」

 僕はリュックから、持ち出した毛布とレジャーシートを取り出した。
 幸い、ここは大きな木の根元で、雨露はある程度しのげそうだ。
 地面の小石を取り除き、シートを敷いて、その上に毛布を重ねる。簡易的だが、大人の男二人が横になるスペースは確保できた。

「ミナトよ、火はどうする? また我の鬼火で……」
「いや、煙が出ると居場所がバレるかもしれないから、今日はやめておこう。灯りはこれで十分だ」

 僕はリュックのサイドポケットから、LEDランタンを取り出してスイッチを入れた。
 暖かなオレンジ色の光が、僕たちの周りをぽっと照らし出す。

「ほう……。人間の道具というのは、火もなく光るのか」
「便利でしょう? さて、腹ごしらえもしないとね」

 夕食――とは名ばかりの、非常食だ。
 コンビニで買っておいた栄養補助食品のブロックと、水筒に入れてきたお茶。
 昨日の豪華な生姜焼きや、収穫したばかりの野菜料理とは比べ物にならない。

「ごめんね、リュカ。今日のところはこれで我慢して」

 パッケージを開けて手渡すと、リュカはそれを物珍しそうに眺め、ひとかじりした。
 モサモサとした食感。味気ない甘さ。
 けれど、彼は文句ひとつ言わずにそれを飲み込み、ニカッと笑った。

「構わん。貴様と一緒に食えば、土くれでも馳走だ」
「……土くれは食べちゃダメだよ」

 冗談めかして返したけれど、胸がじんと熱くなった。
 彼は本当に、僕がいればそれでいいと言ってくれているのだ。
 住む家を失っても、温かい食事を失っても、彼がいれば心は満たされている。
 食事を終え、僕たちは身を寄せ合って毛布に包まった。
 背中には木の幹、足元には湖。そして隣には、体温の高いリュカ。
 静寂の中で、湖のさざ波と、虫の声だけが聞こえる。

「……寒くはないか?」

 リュカが僕の肩を抱き寄せ、自分の体温を分け与えるように密着してきた。
 彼の身体は相変わらずポカポカとしていて、天然の暖房器具だ。

「うん。リュカがいるから温かいよ」
「そうか。……なら、よい」

 彼は満足げに喉を鳴らし、僕の頭に顎を乗せた。
 その重みが心地いい。
 僕は彼の胸板に顔を埋め、服越しに伝わる鼓動を聞いた。トク、トク、と力強い音が、僕の不安をゆっくりと溶かしていく。

「ねえ、リュカ」
「なんだ」
「僕たち、これからどうなるのかな」

 ふと、弱音が口をついて出た。
 覚悟を決めて出てきたとはいえ、先行きの見えない不安はどうしても消えない。
 あてもなく、家もなく、追われる身。
 僕一人なら野垂れ死んでいたかもしれない。

「どうにもならんさ」

 リュカはあっけらかんと言った。

「明日は明日の風が吹く。腹が減れば狩りをし、眠くなれば寝る。……我ら獣にとっては、それが当たり前の日常だ」
「……そっか。そうだよね」
「それに」

 彼は僕の顔を覗き込み、黄金の瞳を細めた。

「我らは二人だ。貴様が知恵を出し、我が力を振るう。……無敵だろう?」

 悪戯っぽく笑うその顔があまりにも頼もしくて、美しくて。
 僕はつられて笑ってしまった。

「ははっ、確かに。神獣様がついているなら、怖いものなしか」
「そうだ。大船に乗ったつもりでいろ」

 リュカは僕の頬を親指で優しく撫でた。
 その指先は、あの家で僕の熱を測ってくれた時と同じように、優しくて温かい。

「ミナト。……家を失わせて、すまなかったな」

 ふいに、彼が真面目なトーンで言った。
 まだ気にしていたのか。
 僕は首を振って、彼の手を握りしめた。

「ううん。家はまた建てればいいよ。でも、リュカは代わりがいないから」
「……」
「君が捕まったり、傷つけられたりする方が、僕はずっと辛い。だから……これでよかったんだよ」

 リュカは一瞬、泣きそうな顔をして、それから強く僕を抱きしめた。
 骨が軋むほどの強さ。けれど、痛くはない。
 彼の愛情と、独占欲と、そして少しの不安が、その腕から伝わってくる。

「……愛しているぞ、ミナト」

 耳元で囁かれた言葉に、心臓が跳ねた。
 それは、「番」としての本能なのか、それとも人として(?)の感情なのか。
 今の僕には区別がつかないし、つける必要もないと思った。

「……うん。僕もだよ、リュカ」

 素直に答えると、彼は嬉しそうに僕の首筋にキスを落とした。
 甘噛みするような、所有の印をつけるような口づけ。
 くすぐったくて、でも愛おしくて、僕は彼の背中に腕を回した。
 文明の利器は何もない、森の中の夜。
 けれど、満天の星空の下、二人で分け合う体温だけは、どんな高級な暖房よりも温かかった。
 明日はどこへ行こうか。
 どんな景色が見られるだろうか。
 不安はあるけれど、この温もりがある限り、僕はどこまでだって歩いていける。
 リュカの寝息が規則正しくなり始めた頃、僕もまた、深い眠りへと落ちていった。
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