銀狼様とのスローライフ

八百屋 成美

文字の大きさ
21 / 35

21.

しおりを挟む
 森の朝は、小鳥のさえずりではなく、ざわめくような不穏な空気と共に訪れた。

「……ッ」

 リュカが弾かれたように身を起こした。
 その動きで僕も目を覚ます。毛布から顔を出すと、早朝の森は深い霧に包まれていた。
 ひんやりとした冷気が肌を刺す。けれど、リュカの纏う空気はそれ以上に冷たく、鋭かった。

「リュカ……?」
「ミナト、起きろ。……囲まれた」

 その一言で、僕の眠気は一瞬で吹き飛んだ。
 急いで身支度を整え、リュックを背負う。リュカはすでに立ち上がり、周囲の霧を睨め付けるように警戒している。

「囲まれたって……昨日の人たち?」
「いや、数が多い。それに……妙な気配がする。ただの人間ではない」

 リュカが低い声で唸るのと同時に、霧の向こうから複数の影が浮かび上がってきた。
 ザッ、ザッ、と下草を踏みしめる音。
 現れたのは、昨日の黒いレインコートの男たちだけではなかった。全身を特殊な装備で固めた、武装集団だ。手には銃のようなものや、奇妙な形の網を持っている。

「見つけたぞ、銀狼」

 昨日のリーダー格の男が、歪んだ笑みを浮かべて前に出てきた。
 腕には包帯が巻かれている。リュカに吹き飛ばされた怪我だろう。

「よくもやってくれたな。おかげで、上からたっぷりと『狩猟許可』が下りたぜ」
「狩猟、だと……?」

 リュカの黄金の瞳が怒りに燃える。

「貴様ら、我をただの獣として狩るつもりか」
「化け物は化け物らしく、檻に入ってりゃいいんだよ。……生け捕りがベストだが、最悪、死体でもサンプルにはなる」

 男が手を挙げると、周囲の武装集団が一斉に武器を構えた。
 殺気。
 明確な悪意が、肌をチリチリと焼くように押し寄せてくる。
 僕は恐怖で足がすくみそうになった。
 会社員時代、パワハラ上司から向けられた理不尽な怒りや、クライアントからの無理難題。そんなものとは比較にならない、「命を奪う」という剥き出しの悪意。
 けれど、不思議と心は冷静だった。
 僕の目の前には、リュカという頼もしい背中があるからだ。

「ミナト、我が合図をしたら走れ。森の奥へ逃げるのだ」

 リュカが僕にだけ聞こえる声で囁く。

「君は?」
「ここを食い止める。雑魚どもを一掃してから、すぐに追いつく」
「だめだよ! 置いてなんて行けない!」
「聞き分けのないことを言うな! こいつらの武器……あれは、魔力を阻害する道具だ。貴様がいては、流れ弾に当たるかもしれん」

 リュカの視線が、男たちが持つ奇妙な銃に向けられている。
 魔力を阻害する? そんな科学的なものが、この世界にあるのか。いや、ここは異世界ではない。現代日本だ。神獣がいるなら、対抗する組織があってもおかしくないのかもしれない。

「……わかった。でも、絶対に来てよ?」
「約束する。我が貴様を置いて逝くはずがなかろう」

 リュカは僕の方を振り向かず、背中で語った。
 その背中は広くて、大きくて。
 僕はリュックのベルトを強く握りしめた。

「……撃てッ!!」

 リーダーの男の号令と共に、乾いた発砲音が響き渡った。
 銃弾ではない。放たれたのは、青白い光を帯びた網と、麻酔弾のようなものだ。

「フンッ!!」

 リュカが腕を振るう。
 生じた衝撃波が、飛んできた網を空中で弾き飛ばした。
 しかし、数は多い。四方八方から放たれる攻撃を、彼は人間姿のまま、目にも留まらぬ速さで捌いていく。

「走れ、ミナトッ!!」

 リュカの咆哮。
 僕は奥歯を噛み締め、背を向けて走り出した。
 振り返っちゃいけない。僕が人質に取られたら、それこそリュカの足手まといになる。
 僕にできることは、自分の身を守ることだけだ。
 森の中を無我夢中で走る。
 枝が頬を打ち、足元の根っこに躓きそうになる。
 背後では、怒号と爆発音が響いていた。リュカが戦っている。僕を守るために、たった一人で。

「ハァ、ハァ……ッ」

 どれくらい走っただろうか。
 心臓が破裂しそうだ。喉が焼けるように痛い。
 ふと、背後の音が遠ざかっていることに気づき、僕は立ち止まって木に手をついた。

「……リュカ、大丈夫かな……」

 不安が胸を押しつぶしそうになる。
 彼は強い。神獣だ。人間ごときに負けるはずがない。
 そう信じているけれど、あの男たちの用意周到さと、リュカに向けられた底知れない悪意が、嫌な予感を掻き立てる。
 その時だった。
 ガサッ。
 近くの茂みが揺れた。
 僕はビクリとして身構える。リュカか? それとも追手か?

「……やっと見つけた」

 現れたのは、リュカではなかった。
 昨日の男たちの一人でもない。
 スーツ姿の、ひょろりとした男だった。

「え……?」

 僕は我が目を疑った。
 見覚えがある。いや、見覚えなんてもんじゃない。
 その男は、僕が逃げ出した会社の、直属の上司だったからだ。

「佐伯くんさぁ……急に辞めるとか、社会人としてどうなの? おかげでこっちは迷惑してるんだけど」
「な……なんで、部長がここに……」

 ありえない。
 ここは東京から遠く離れた山奥だ。どうして彼がここにいる?

「なんでって、君の実家に聞いたらここだって言うからさ。わざわざ迎えに来てやったんだよ。感謝してほしいもんだね」

 部長は嫌味ったらしく笑いながら、革靴で森の土を踏みしめて近づいてくる。
 手には何も持っていない。武器もない。
 けれど、僕は武装した特殊部隊を見た時よりも、もっと深く、冷たい恐怖を感じていた。
 トラウマだ。
 罵倒され、人格を否定され、心を壊されかけた日々の記憶が、津波のように押し寄せてくる。

「さあ、帰ろうか。未消化の案件が山積みだよ。君の代わりなんていないんだからさ」
「いや……いやだ……っ」

 僕は後ずさった。
 足が震えて力が入らない。
 逃げ出したはずなのに。ここは僕の安息の地だったはずなのに。
 どうして、現実はどこまでも僕を追いかけてくるんだ。

「何言ってるの? 大人なんだから責任取りなよ。ほら」

 部長の手が伸びてくる。
 その指先が僕の腕に触れようとした、その瞬間。
 ドォォォォン!!
 上空から、銀色の雷が落ちたような衝撃が走った。

「うわっ!?」

 部長が尻餅をつく。
 土煙が晴れたそこに立っていたのは、人間姿のリュカだった。
 ただし、その服はあちこちが破れ、頬には赤い切り傷ができている。
 肩で息をしながら、彼は鬼のような形相で部長を睨みつけた。

「……貴様。我が番に、その汚い手で触れるな」

 殺気。
 先ほどの戦闘の時よりもさらに濃密な、絶対的な殺意がそこにあった。

「リュカ……!」
「遅くなってすまない、ミナト。……こいつは、何だ。敵か?」

 リュカが僕を背中に庇う。
 その背中からは、微かに血の匂いがした。無傷では済まなかったのだ。
 それなのに、彼は僕を守るために、傷ついた体で駆けつけてくれた。

「ひぃ……っ! な、なんだお前は! 熊か!?」

 部長が腰を抜かしたまま悲鳴を上げる。
 リュカは冷たく見下ろした。

「熊ではない。……貴様の死神だ」

 リュカの手が持ち上がる。
 その掌に、青白い炎――鬼火がゆらりと灯った。
 本気だ。彼は本気で、部長を焼き尽くそうとしている。

「待って、リュカ! ダメだ!」

 僕は思わず叫んで、リュカの腕にしがみついた。
 この男は憎い。顔も見たくない。
 けれど、リュカの手を汚させたくない。彼を、人殺しにはしたくない。

「ミナト、離せ。こいつは貴様を傷つけた。貴様の心を壊そうとした元凶だろう? ならば、我が排除する」
「ダメだよ! そんなことしたら、君まで追われる身になっちゃう……!」
「構わん。貴様を守れるなら、世界中を敵に回してもいい」

 その言葉は、嬉しくて、そして悲しかった。
 そこまでの覚悟で、僕を愛してくれている。
 だからこそ、僕は彼を守らなきゃいけない。

「リュカ、お願い。行こう。あんな奴のために、君が傷つく必要なんてないんだ」

 僕が必死に訴えると、リュカは苦渋の表情で炎を握りつぶした。

「……チッ。命拾いしたな、下衆が」

 彼は部長を一瞥すると、僕を横抱きに抱え上げた。

「行くぞ、ミナト。……ここも、もう終わりだ」

 リュカが地面を蹴る。
 人間離れした跳躍力で、僕たちは森の奥深くへと消えた。
 後ろで部長が何か喚いていたけれど、もう聞こえない。
 僕の耳に届くのは、リュカの荒い呼吸と、早すぎる鼓動の音だけだった。
 平穏な隠遁生活は、こうして完全に幕を閉じた。
 ここからは、正真正銘の逃避行だ。
 傷ついた神獣と、行き場をなくした元会社員。
 僕たちの旅は、より過酷なステージへと進んでしまったようだった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

番に見つからない街で、子供を育てている

はちも
BL
目を覚ますと、腕の中には赤ん坊がいた。 異世界の青年ロアンとして目覚めた「俺」は、希少な男性オメガであり、子を産んだ母親だった。 現世の記憶は失われているが、 この子を守らなければならない、という想いだけははっきりと残っている。 街の人々に助けられ、魔石への魔力注入で生計を立てながら、 ロアンと息子カイルは、番のいない街で慎ましく暮らしていく。 だが、行方不明の番を探す噂が、静かに近づいていた。 再会は望まない。 今はただ、この子との生活を守りたい。 これは、番から逃げたオメガが、 選び直すまでの物語。 *本編完結しました

何故か男の僕が王子の閨係に選ばれました

まんまる
BL
貧乏男爵家の次男カナルは、ある日父親から呼ばれ、王太子の閨係に選ばれたと言われる。 どうして男の自分が?と戸惑いながらも、覚悟を決めて殿下の元へいく。 しかし、殿下は自分に触れることはなく、何か思いがあるようだった。 優しい二人の恋のお話です。 ※ショートショート集におまけ話を上げています。そちらも是非ご一読ください。 ※画像は男の子メーカーPicrewさんよりお借りしています。

もう一度、その腕に

結衣可
BL
もう一度、その腕に

神獣様の森にて。

しゅ
BL
どこ、ここ.......? 俺は橋本 俊。 残業終わり、会社のエレベーターに乗ったはずだった。 そう。そのはずである。 いつもの日常から、急に非日常になり、日常に変わる、そんなお話。 7話完結。完結後、別のペアの話を更新致します。

前世が俺の友人で、いまだに俺のことが好きだって本当ですか

Bee
BL
半年前に別れた元恋人だった男の結婚式で、ユウジはそこではじめて二股をかけられていたことを知る。8年も一緒にいた相手に裏切られていたことを知り、ショックを受けたユウジは式場を飛び出してしまう。 無我夢中で車を走らせて、気がつくとユウジは見知らぬ場所にいることに気がつく。そこはまるで天国のようで、そばには7年前に死んだ友人の黒木が。黒木はユウジのことが好きだったと言い出して―― 最初は主人公が別れた男の結婚式に参加しているところから始まります。 死んだ友人との再会と、その友人の生まれ変わりと思われる青年との出会いへと話が続きます。 生まれ変わり(?)21歳大学生×きれいめな48歳おっさんの話です。 ※軽い性的表現あり 短編から長編に変更しています

ただ愛されたいと願う

藤雪たすく
BL
自分の居場所を求めながら、劣等感に苛まれているオメガの清末 海里。 やっと側にいたいと思える人を見つけたけれど、その人は……

聖獣召喚に巻き込まれた俺、モフモフの通訳をしてたら冷徹騎士団長に外堀を埋められました

たら昆布
BL
完璧っぽいエリート騎士×無自覚な愛され系

処理中です...