銀狼様とのスローライフ

八百屋 成美

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22.

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 激しい雨音だけが、森の静寂を支配していた。
 リュカの背中にしがみつき、どれくらい走っただろうか。
 銀色の毛並みは雨に濡れて重く、彼の荒い呼吸が背中越しに伝わってくる。

『……ここなら、もう大丈夫だ』

 岩肌が剥き出しになった斜面の陰。雨風をしのげる小さな洞窟のような窪みに滑り込むと、リュカは足を止めた。
 僕が背中から降りるのと同時に、彼は人間の姿へと戻る。そして、そのまま膝から崩れ落ちた。

「リュカ!」

 僕は慌てて彼を支えた。
 触れた肌が熱い。異常なほどの高熱だ。
 そして、彼の背中を見て、僕は息を呑んだ。
 黒いタートルネックが焼け焦げたように裂け、そこから痛々しい赤色が滲んでいる。あの武装集団が放った、青白い光の弾を受けた傷だ。

「……すまん、ミナト。無様な姿を……」
「何言ってるの! すぐに手当てしないと!」

 僕は震える手でリュックを開け、救急セットと水筒、タオルを取り出した。
 ランタンの明かりを頼りに、傷口を確認する。
 深い。ただの裂傷じゃない。傷口の周囲が焼けたように変色し、いつもの彼の治癒力ならすぐに塞がるはずの傷が、血を流し続けている。

「奴らの武器は……魔力を阻害する呪いが込められているようだ。傷の治りが遅い」

 リュカが苦悶の表情で呟く。
 僕は唇を噛み締め、消毒液をガーゼに含ませた。

「痛いけど、我慢して」
「フン、これしきのこと……ッぐ!!」

 消毒液が触れた瞬間、彼の身体がビクリと跳ねた。
 強がりを言っていた口から、苦痛の声が漏れる。
 僕は泣きそうになるのを堪えて、必死に処置を続けた。包帯をきつく巻き、止血する。

「……ふぅ。とりあえず、血は止まったかな」

 処置を終え、リュカに水を飲ませると、彼は岩壁に背中を預けて、ふうっと長く息を吐いた。
 少し顔色が戻ってきたようだ。

「……ミナト」
「ん?」
「あの男のことだが……」

 リュカが静かに切り出した。
 あの男。僕の元上司、部長のことだ。

「あれは、現実ではない」
「え……?」

 僕は包帯を片付ける手を止めた。

「どういうこと? だって、あんなにはっきり喋っていたし、僕のことを……」
「この森は、迷い込んだ者の『心』を映し出すのだ。特に、不安や恐怖といった負の感情をな」

 リュカは黄金の瞳を細め、洞窟の外の暗闇を見つめた。

「あれは、この森が見せた幻影だ。貴様の心の中に巣食う、最も恐ろしい記憶が形を成して現れたに過ぎん」

 幻影。
 言われてみれば、おかしな点はあった。
 あんな山奥に、部長がスーツ姿で一人で現れるはずがない。それに、リュカが攻撃した瞬間、彼は煙のように霧散してしまった気がする。

「じゃあ……あいつは、いなかったの?」
「ああ。貴様のトラウマが作り出した亡霊だ」

 全身の力が抜けた。
 現実に追いつかれたわけじゃなかった。僕は、自分自身の恐怖と戦っていただけだったのだ。

「……なんだ。僕、幻覚にビビって動けなくなってたのか。情けないな」

 自嘲気味に笑うと、リュカの手が伸びてきて、僕の頬を掴んだ。
 強い力で、自分の方へと向かせる。

「情けなくなどない」

 真剣な眼差しだった。

「幻だろうと何だろうと、あれは貴様を傷つけた。貴様の心を凍りつかせた。……それが許せなかった」
「リュカ……」
「実体がなかろうが関係ない。貴様を脅かすものは、我がすべて焼き尽くす」

 彼の言葉に、胸が詰まった。
 彼はわかっていたのだ。あれが幻影だと気づいていながら、それでも僕を守るために、全力を振るってくれた。そのせいで、追手から逃げるための力を消耗してしまったというのに。

「……馬鹿だなぁ、君は」
「フン。貴様に言われたくはない」

 リュカは憎まれ口を叩きながら、僕の手を引き寄せた。
 そして、僕を抱き込むようにして、自分の懐に入れた。

「寒かろう。……こっちに来い」
「うん……」

 断る理由はなかった。
 狭い洞窟の中、僕たちは毛布を被り、互いの体温を分け合うように密着した。
 リュカの体温はいつもより高い。熱があるのかもしれない。
 けれど、その熱さが今は何よりの救いだった。

「……ねえ、リュカ」

 彼の胸に耳を押し当てながら、僕は呟いた。

「僕、怖かったんだ。あいつに連れ戻されるのが怖かったんじゃない。……君との生活が、全部夢で、あっちの世界が現実なんじゃないかって」
 森で見せた幻影は、僕の一番の恐怖を突いてきた。
 この幸せな日々が偽物で、あの辛い日々こそが現実なのだと。

「夢なものか」

 リュカが僕の背中に腕を回し、強く抱きしめた。
 背中の傷が痛むはずなのに、彼は構わず力を込める。

「貴様の体温も、匂いも、鼓動も、すべてここにある。これが現実だ。……誰にも否定などさせん」

 彼の心臓の音が、トク、トク、と力強く響いている。
 それは、どんな言葉よりも確かな「現実」の証だった。

「……うん。そうだね」

 僕は彼の胸に顔を埋めた。
 森の匂いと、微かな血の匂い。
 それが、ひどく愛おしい。
 ふと、リュカが僕の左手を取り、口元へ運んだ。
 逃げる途中、木の枝で擦りむいたのだろうか。指先に小さな切り傷がある。
 彼はその傷を、慈しむようにペロリと舐めた。

「……っ」
 ザラリとした舌の感触に、背筋が震える。
 痛くはない。むしろ、痺れるような甘い感覚が走る。

「……消毒だ」
「……犬じゃないんだから」
「狼だと言っているだろう」

 彼は悪戯っぽく目を細めると、今度は僕の指先を甘噛みした。
 食べちゃいたいほど好き、なんて言葉があるけれど。
 今の彼からは、本当に僕を骨の髄まで自分のものにしたいという、強烈な独占欲を感じた。
 でも、それが怖くない。
 むしろ、満たされる。
 幻影の元上司に向けられた恐怖が、彼の実体ある愛着によって上書きされていく。

「ミナト。……もう、何も恐れるな」

 唇が離れ、彼が囁く。

「幻影も、追手も、全て我が排除する。貴様はただ、我の腕の中にいればいい」
「……うん。頼りにしてるよ、神獣様」

 僕は彼の首に腕を回し、そっと頬を寄せた。
 外では雨が降り続いている。
 追手はまだ近くにいるかもしれない。
 家も、畑も失った。 
 けれど、ここには「僕たち」がいる。
 幻ではない、確かな温もりがここにある。

「少し、眠るぞ。……魔力を回復させねばな」
「うん。おやすみ、リュカ」

 リュカの呼吸が、次第に深く、規則正しくなっていく。
 僕は彼が眠りにつくまで、その背中を一定のリズムでトントンと叩き続けた。
 幼い頃、母がしてくれたように。
 暗い洞窟の中、二つの寝息が重なる。
 明日はどうなるかわからない。
 でも、この温かい「現実」がある限り、僕はもう、過去の亡霊に怯えたりはしない。
 そう心に誓って、僕もまた、深い眠りへと落ちていった。
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