銀狼様とのスローライフ

八百屋 成美

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 バキィッ!!
 鈍い音がして、僕の手の中で木の枝が折れた。
 魔獣の分厚い皮毛には、傷ひとつ付けられなかった。ただ、魔獣の気を逸らすことには成功したようだ。

『グルァアッ!!』

 魔獣が鬱陶しそうに唸り、巨大な前足を振り上げる。
 その爪は鋭く、僕の体なんて容易く引き裂いてしまうだろう。

「くっ……!」

 逃げる暇はない。
 僕はとっさに、地面にうずくまっていたミニリュカの上に覆いかぶさり、背中を向けた。

『ミナトッ!? やめろ!!』

 ポケットの中からリュカの悲鳴が聞こえた直後。
 背中に熱い衝撃が走った。

「ぐぅっ……!!」

 爪が、パーカーの生地を切り裂き、その下の皮膚を浅く抉ったのだ。
 焼けるような痛み。衝撃で身体が吹き飛ばされそうになるのを、必死で踏ん張る。僕が飛べば、下のリュカが潰されてしまう。

『……貴様、貴様ァァァッ!!』

 僕のお腹の下から、聞いたこともないような凄まじい咆哮が上がった。
 それは子犬の鳴き声ではない。地響きのように空気を震わせる、神獣の激昂。
 その殺気に、振り上げられた魔獣の腕がピタリと止まった。
 魔獣の赤い瞳が、見えない何かに怯えるように揺らぐ。
 腐っても神獣。姿は小さくとも、その魂の格が、野生の獣を威圧したのだ。

「……今だ!」

 その一瞬の隙を、僕は逃さなかった。
 リュカをひっ掴んで懐に入れると、僕は痛む体を無理やり動かして、魔獣の股下をくぐり抜けた。
 目指すのは、すぐ近くに見えた岩場の裂け目だ。あそこなら、巨体の魔獣は入ってこられない。
 後ろで魔獣が我に返り、怒りの声を上げるのが聞こえる。
 けれど、もう遅い。
 僕は岩の隙間に滑り込み、奥へ奥へと身体を押し込んだ。
 ガガンッ!
 入り口で魔獣の爪が岩を削る音がした。
 あと数センチ遅ければ、足を掴まれていただろう。
 魔獣はしばらく入り口で唸り声を上げ、鼻息を荒くしていたが、やがて諦めたのか、ドサドサと足音を響かせて去っていった。
          

「はぁ、はぁ……っ、行った、かな……」

 薄暗い岩陰で、僕はへたり込んだ。
 緊張の糸が切れ、全身からどっと汗が噴き出す。
 それと同時に、背中と腕に鋭い痛みが走った。

『ミナト! おい、大丈夫か! 傷を見せろ!』

 懐から這い出したリュカが、必死の形相で僕の顔を覗き込んでくる。

「だ、大丈夫だよ。かすり傷だ」
『嘘をつけ! 血の匂いがするぞ!』

 リュカは僕の腕にまとわりついた。パーカーの袖が裂け、そこから赤い血が滴り落ちている。
 彼はそれを見ると、悔しげに喉を鳴らし、次の瞬間、僕の傷口に舌を這わせた。

「っ、リュカ!?」
『じっとしていろ! 我の唾液には治癒効果がある』

 彼は一心不乱に、僕の傷口を舐め始めた。
 ザラリとした舌の感触。温かく、湿ったものが傷口を覆っていく。
 衛生的にどうなのか、と一瞬頭をよぎったが、不思議なことに、彼が舐めるたびに痛みが引いていくのを感じた。

「……すごい。痛くない」
『当たり前だ。神獣を舐めるな』

 しばらくして顔を上げたリュカの口元は、僕の血で赤く染まっていた。
 その姿は、小さくても紛れもなく狼で、ドキリとするほど野性的だった。

『……なぜだ』

 傷の手当てを終えた彼は、ペタリと座り込み、厳しい目で僕を見上げた。

『なぜあんな無茶をした。貴様には何の力もないのだぞ。一撃で死んでいたかもしれん』
「でも、あのままだと君が潰されてた」
『我は神獣だ! あのような下等生物の一撃など、どうとでも……』
「今の君は、手のひらサイズの子犬だよ」

 僕が事実を告げると、リュカは言葉を詰まらせた。
 悔しそうに俯き、地面をカリカリと爪で引っ掻く。

『……情けない。我は貴様を守ると誓ったのに。逆に庇われるなど、神獣の風上にも置けん』

 その小さな背中が、震えているように見えた。
 自分の無力さが許せないのだろう。プライドの高い彼なら尚更だ。
 僕は痛む腕を伸ばし、彼をそっと抱き上げた。
 膝の上に乗せ、その背中を撫でる。
 ふわふわの毛並みの下で、小さな心臓がトクトクと脈打っている。

「リュカ。僕はね、君に守られるだけの存在じゃいたくないんだ」
『……なに?』
「君は『一生養う』って言ったけど、それは僕が何もできないペットになるってことじゃない。……家族になるってことでしょ?」

 僕は彼を抱き上げ、目線を合わせた。
 大きな黄金の瞳が、揺れている。

「家族なら、助け合うのは当たり前だ。君が弱っている時は僕が守る。僕がダメな時は君が守る。……それでいいじゃないか」
『ミナト……』
「それに、君を失うくらいなら、怪我くらいどうってことないよ」

 本心だった。
 あの瞬間、自分の身がどうなるかなんて考えもしなかった。ただ、この小さな家族を失いたくない一心だった。
 リュカはしばらく僕を見つめていたが、やがて観念したように、僕の胸に頭を押し付けた。

『……貴様は、本当に馬鹿だ。そして、強い』

 くぐもった声が、胸の奥に響く。

『わかった。……認めよう。貴様は我の庇護対象ではない。共に生き、共に戦う、対等の伴侶だ』

 伴侶。
 その言葉の重みに、顔が熱くなる。
 でも、今の僕には、その言葉を受け入れる覚悟があった。

「うん。よろしくね、相棒」

 僕は彼の頭にキスを落とした。
 毛並みから香る、鉄錆と森の匂い。それが今は、何よりも愛おしい。

『……傷は痛むか?』
「ううん、もう平気。リュカの“手当て”のおかげだよ」
『そうか。なら……もう少し、こうしていろ』

 リュカは僕の服を前足でぎゅっと掴み、離そうとしなかった。
 その重みと温もりが、恐怖で冷え切った僕の心を溶かしていく。
 外の気配は消えた。
 けれど、今日はもう動かないほうがいいだろう。
 僕たちは狭い岩陰で、お互いの体温だけを頼りに、長い夜を過ごすことにした。
 怪我をして、追われて、ボロボロだ。
 それでも、僕の心は不思議と満たされていた。
 僕は守られるだけの存在じゃない。彼を守ることができた。
 その事実が、僕に小さな自信と、彼と共に生きていく強さをくれた気がした。
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