銀狼様とのスローライフ

八百屋 成美

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 朝、目が覚めると、視界がいっぱいの「銀色」で埋め尽くされていた。

「……んぐ、苦しい……」

 胸元に重みを感じて呻く。
 目を開けると、そこには整いすぎた美貌があった。
 長い銀髪を散らしたリュカが、僕の上に覆いかぶさるようにして、すやすやと寝息を立てているのだ。子供の頃のサイズ感なら可愛らしいが、今の彼は身長一八五センチ超えの大男である。重いなんてもんじゃない。

「……リュカ、起きて。圧死する」
「ん……? ああ、おはようミナト」

 僕の声に、リュカがけだるげに瞼を持ち上げた。黄金の瞳が、至近距離で僕を捉える。
 彼は退くどころか、さらに体重をかけて僕の首筋に顔を埋めてきた。

「……いい匂いだ。やはり、貴様を抱いて寝るのは格別だな」
「それはどうも。でも重いんだよ。肋骨が折れる」
「フン、貴様がひ弱すぎるのだ。もっと鍛えろ」

 文句を言いながらも、リュカは不承不承といった様子で身体を離した。
 布団から出ると、彼の大きな背中が朝日に輝いている。
 破れてしまった服の代わりに、僕のジャージを無理やり着ている姿さえ、なんだか愛おしい。
          

 朝食を終えた後、僕たちは社務所の縁側に座って食器を洗う準備をしていた。
 この廃神社には水道がないので、裏の湧き水を汲んできて、たらいで洗うスタイルだ。

「よし、僕が洗うから、リュカはそっちで拭いて……」
「待て」

 僕がスポンジを持とうとすると、リュカがそれを制した。

「いつまで我を客扱いするつもりだ? 我はもう、子供ではないぞ」
「え? いや、客扱いなんてしてないけど……」
「ならば、家事を分担するべきだ。貴様ばかりに働かせていては、我が廃ってしまう」

 リュカは真剣な顔でそう言うと、僕の手からスポンジを奪い取った。
 やる気だ。
 神獣様が、皿洗いに挑戦しようとしている。

「……リュカ、気持ちは嬉しいけど、大丈夫? 力加減、難しいよ?」
「愚問だ。我は昨日、魔力の制御も完璧にこなしてみせた。皿の一枚や二枚、洗えなくてどうする」

 彼は自信満々に腕まくりをした。
 その太い腕と、ファンシーなスポンジの対比がすごい。
 僕は不安を覚えつつも、彼に場所を譲った。

「じゃあ、お願いしようかな。優しくね、優しく」
「わかっている。見ていろ」

 リュカはたらいの前にあぐらをかいて座り、一枚の皿を手に取った。
 その表情は、まるで強大な魔獣と対峙しているかのように険しい。
 ゴシッ、ゴシッ。
 洗剤をつけたスポンジで、皿を擦る。
 力が入りすぎているのか、スポンジが悲鳴を上げているように見える。

「……滑るな、こやつ」

 泡でツルツルする皿に、リュカが苦戦している。
 眉間に深い皺を刻み、指先に全神経を集中させているようだ。
 世界を揺るがすほどの力を持つ神獣が、たかだか直径二十センチの皿相手に本気になっている。

「あ、リュカ、そこはもっと力を抜いて……」
「黙っていろ。今、我とこやつの間合いを測っているのだ」
「間合いって」

 見ているこっちがハラハラする。
 けれど、リュカは驚くべき集中力で、一枚の皿を洗い上げた。

「……ふぅ。どうだ」

 ピカピカになった皿を掲げ、リュカが得意げに振り返る。

「おおっ、すごい! やればできるじゃん!」
「フフン、当然だ。我にかかればこんなもの……」

 調子に乗ったのがいけなかったのか。
 彼が次の皿――少し重たい丼鉢を手に取った瞬間だった。
 ツルッ。

「あっ」

 パリーン!!
 乾いた音が、静かな神社の境内に響き渡った。
 リュカの手から滑り落ちた丼鉢が、地面の石に当たって無残に砕け散る。

「…………」
「…………」

 時が止まった。
 リュカは固まったまま、割れた破片を見つめている。
 その背中から、哀愁というか、絶望に近いオーラが漂っていた。

「……ミナトよ」
「うん」
「……すまない。我が、未熟だった」

 消え入りそうな声。
 振り向いた彼の顔は、この世の終わりを見たかのように沈痛だった。
 昨日の威厳ある姿はどこへやら。今はただの「失敗して落ち込む大型犬」だ。
 僕は思わず吹き出してしまった。

「あはは! いいよいいよ、形あるものはいつか壊れるんだから」
「だが……貴様が大切にしていた器だろう?」
「百均で買ったやつだから大丈夫。それに、怪我がなくてよかったよ」

 僕は彼の隣に座り、その大きな手を取った。
 水で冷えた指先。
 割れた破片を拾おうとして怪我をしていないか、確認する。

「うん、無傷だね。よかった」
「……貴様は、甘いな」

 リュカがじっと僕を見る。黄金の瞳が、少し潤んで見えた。

「我は神獣だぞ? 人間ごときに心配されるなど、本来なら屈辱だ。……なのに」

 彼は僕の手を引き寄せ、その甲に額を押し付けた。

「貴様に心配されると、なぜか胸の奥が温かくなる。……不思議なものだ」

 彼の銀髪が、僕の手をくすぐる。
 その従順な仕草に、愛しさが込み上げてきた。

「それは、僕たちが家族だからだよ」

 僕は空いた手で、彼の頭を撫でた。
 子供の姿の時によくやっていたように。
 大人の姿になった今でも、彼は嫌がるどころか、気持ちよさそうに目を細める。

「よしよし。皿洗いはまた今度練習しよう。今日は僕がやるから、リュカはそこで見てて」
「……むぅ。次は失敗せんぞ」

 リュカは不服そうにしながらも、僕の隣に座り直した。
 僕が残りの食器を洗う間、彼はじっとその手元を見つめていた。時折、僕の肩に頭を乗せたり、腰に腕を回したりして、邪魔……いや、応援をしてくる。

「ミナト、手が冷たくないか?」
「井戸水だからね。冬はちょっとキツイかな」
「貸せ」

 洗い終わった僕の手を、リュカが両手で包み込んだ。
 じわぁ、と熱が伝わってくる。
 彼の体温と、微かな魔力の熱。

「……温かい」
「だろう? 我は貴様専用の湯たんぽだからな」

 彼はニカリと笑うと、僕のかじかんだ指先を一本一本、丁寧にマッサージし始めた。
 その手つきは、皿を洗う時とは打って変わって繊細で、優しかった。

「ありがとう、リュカ」
「礼には及ばん。……さて、仕事も終わったことだし」

 リュカは僕の手を離すと、パンッ、と姿を変えた。
 巨大な銀色の狼の姿に。

『散歩に行くぞ、ミナト。この辺りの地理を把握しておかねばな』

 頭の中に響く声。
 彼は伏せの体勢を取り、背中に乗れと促してくる。

「うん、行こうか!」

 僕は慣れた動作で、彼の背中に飛び乗った。
 ふかふかの毛皮。頼もしい背中。 
 リュカが地面を蹴り、風のように駆け出す。
 木々の間を縫って、山を駆け上がる。
 頬を撫でる風は冷たいけれど、彼と一緒なら寒くはない。
 皿一枚まともに洗えない、ポンコツな神獣様。
 けれど、僕を背中に乗せて走る彼は、誰よりも強くて、格好いい。

『しっかり掴まっていろよ! 絶景を見せてやる!』
「落ちないように気をつけてね!」

 僕たちの笑い声が、秋晴れの空に吸い込まれていく。
 何もない山奥の生活。
 けれど、ここには僕たちの「全部」があった。
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