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1話
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乾いた銃声がひとつ。
急所を確実に貫いた必要最低限の一発。
シキネはターゲットを完全に仕留めたことを確認し、依頼主にメールを送る。特殊なデバイスを用いたメールは暗号化され、複数の海外サーバーを経由するので、秘匿性は高い。暗殺完了のメールを送れば手配された掃除屋が片付ける手筈になっている。ここにこれ以上長居する理由は無い。シキネは足早にその場を離れた。
シキネが殺し屋を生業として始めたのは12歳の頃だ。
父親がシキネをとある組織に売って蒸発し、シキネ少年はそのまま組織の使いっ走りになった。あるときは運び屋、あるときは情婦代わり、あるときは殺し屋…………様々な用途で使い潰された。この大きな組織の末端で、このまま出世もなく死んでいくものだと思っていたシキネ少年だったが、何事にも栄枯盛衰というものがあるようで、敵対組織による上層部暗殺であっさりとその組織の寿命が尽きたのだった。
それ以降、シキネは表の世界の生き方に戻れないまま、裏社会の暗い澱みの中を生きることとなった。
「……ただいま」
深夜になる頃、高級マンションの一室に帰宅したシキネは、玄関の姿見で自分の姿を見る。よく見目麗しいと言われる端正な顔立ちはとうに表情筋が衰え、ろくに表情を作らない。髪は黒、瞳はブラウンの、日本人然とした容姿。肉体は鍛えてもなお太さは無い。筋肉がつきにくい体質らしい。
目立たない黒で統一した衣服には、見たところ返り血は無い。あったとしても夜闇ではほとんど認識されないだろう。靴を脱いで揃え、リビングルームに向かう。この時間でも明かりが点いているということは、恋人はまだ起きているはずだ。
「おかえり」
「ただいま」
「お腹空いたでしょ?食べる?」
「……食べる」
恋人のトウリはソファから起き上がってスリッパをペタペタと鳴らしながらキッチンへ行く。
トウリはシキネと正反対のブロンドに青の瞳のハーフだ。背が高く、筋肉もしっかりついている。とはいえ、ラガーマンのような威圧感というより、鍛え上げられたスマートなアスリートの佇まいだ。柔らかな物腰は老若男女問わず魅了する。
彼もまた裏社会の住人。そうとは思えないくらい楽天家で楽観的で根が善人なトウリは、いつも冷静沈着で言葉足らずなシキネの意思を汲み取ってくれる。相性が良いと、人付き合いが苦手なシキネでさえ思う。
「今日はシチューだよ。シキネ、好きでしょ?」
「ああ」
上着をハンガーに掛けながら応えると、トウリは嬉しそうに笑った。IHの音声が鳴った後は、しばしの静寂が居住に広がる。性格が明るいとはいえ同じ裏社会の住人であるトウリは、シキネの仕事については深く追及してこない。そういう、細やかな気遣いに助けられたことは何度もある。だから、この静寂さえ愛おしい。
「はい、こっちがシキネの分」
運ばれてきたシチューは、具材がゴロゴロ入っている。トウリらしい切り方だといつも思う。シキネの分はシチューとご飯が別だが、トウリの方はご飯にシチューがかかっている。こういう些細な違いがあるのには文句は無い。だが、どうしても「その食べ方は本当に美味しいのか?」と聞きたくなるときがある。今日はそれをぐっと呑み込んで「いただきます」とだけ口にした。
シチューの他にトマトとモッツァレラチーズのカプレーゼがあり、いつもならもう数皿用意するところから察するに今日はトウリも忙しかったのだろう。
「あ、明日は朝早くから出かけるから、戸締りよろしく」
「分かった」
とはいえ、明日は家から出るつもりはない。明日はゆっくり読書でもして過ごそう。そんなことを考えていると、視線を感じた。顔を上げるとトウリがじっとシキネを見つめていた。
「なんだ?」
「……いや、『明日は家から1歩も出ないから大丈夫だ』って感じの返事だったから」
「エスパーか、お前は」
「当たり?」
トウリは笑ってカプレーゼにフォークを伸ばした。本当にエスパーか何かかと疑うほどに、こういうことは多々ある。だからこそ口数の少ないシキネと恋人として成立しているのかもしれない。シキネはそれを有難く思いながら、カプレーゼを口に運んだ。美味い。シキネも料理はするが、トウリの方が美味いものを作るような気がする。
湯の雨を頭から浴びる。
適温で全身を流しながら思うことは無い。ただ無心で髪を、顔を、身体を洗い流す。目には見えない返り血や、ターゲットの死に際の感情、死という悪魔のにおいを流す為だ。別に、それらを恐れているわけではない。死ぬときは死ぬし、今まで殺してきた業はいつか自分を滅ぼすとも思っている。
では、何故、そういったものから身体を清めるか?
答えは至極シンプル───トウリの恋人として生きていたいからだ。
トウリはシキネにとっての光だ。太陽のように明るいが近づく者を焦がすことはしない。月のように優しい明かりだが他者からの光に依存するわけではない。業を背負うシキネと同じく、罪を犯してきたトウリ。それは決して許される光ではなく、許す側の光でもない。だが、確実にシキネを救う光だ。灯りのない夜闇にゆらり、と揺らめくロウソクの火。そんな光に助けられてきた。
だから、その光とともにあるのなら、せめてその近くでは清らかでいたいと願うのだ。例えその光が血を浴びて輝く灯りであろうとも、彼に触れるその手は汚れていてはいけないと叫ぶのだ。
「───シキネ?」
呼び掛けにハッと我に返る。どれくらいぼぅっとしていただろうか。無心でいることを心がけているはずが、いつの間にか考え事をしていたらしい。何を考えていたかは忘れたが。
「どうした?」
「先寝てる。おやすみ、シキネ」
「ああ、おやすみ」
そういえば明日は早いと言っていたな、と思い出し、朝食は何にしようかと思案する。トウリと出会うまでは色々なことに無頓着で興味を持たなかったので、トウリのいない食事もまたその頃のように簡素なものとなってしまう。シリアルはあっただろうか。シャワーを止め、バスタオルで身体を拭く。古傷だらけの細くしなやかな身体。貧相とは言わないまでも、トウリと比べてしまうと心許ない身体に思える。
寝室では、キングサイズのベッドの左側でトウリが眠っていた。寝息は静かでまるで死んでいるかのようで、たまに心配になるくらいだ。半裸で眠る彼の隣に横になる。ブランケットを分けてもらい、深呼吸した。
今までの生き方では、こんな安息の時は無かった。眠るときも命の危機を感じ、起きているときでさえ警戒を止めたことはない。
トウリの隣はそれだけで呼吸も鼓動も落ち着く。睡眠も彼と同棲を始めてからは安定している。
「……おやすみ」
シキネは目を瞑った。
───────
自然と目を覚ましたのは時計が午前10時を示す頃だった。既に隣に温もりは無く、シキネはあくびひとつで起き上がった。
リビングのテーブルにはメモ書きがあり、『サラダとフレンチトースト作ったから、トーストは温めて食べて』と残されていた。シキネが適当に朝食を済ませようとしていることなどお見通しなのだろう。
フレンチトーストを温めているうちに、サラダを食べる。ただ野菜を散らしただけなのだが、トウリが用意したと思うと不思議と美味と感じる。サラダを半分ほど食べた頃にレンジが鳴る。それを放置してとりあえずサラダを完食することを目指す。思い出したようにテレビを点けてニュース番組にチャンネルを変える。
『西曜島区の工場火災は半日をかけて鎮火し───』
『連続殺人の容疑で───』
『新東京の今日の天気は───』
しばらく観ていたが、昨日の死体については触れられていなかった。別のチャンネルも確認したが、最初に観た番組と内容は大きく変わらない。掃除屋は上手くやってくれたらしい。
食べ終わったサラダの皿をシンクに置くついでにフレンチトーストを回収。甘い卵液が染みた食パンはふにゃりととろけるような食感。甘味が舌に広がり、なんとも言えない気分になる。
サラダの半分の時間で食べ終え、食器を洗う。
トウリの帰宅時間を聞けばよかったな、と思いながら冷蔵庫をチェックすると、昼食にも夕食にも、明日の食事さえ困らなそうな品揃え。買い物は必要ないと分かると、困るのは時間の潰し方だ。トウリと出会ってから、時間の流れ方が変わったように、時間の潰し方に困ることが増えた。トウリがいれば時間の流れは早いものだが、彼がいないと滞ったように遅くなる。
本棚から未読の本を引っ張り出してあらすじだけを読む。好きな作家の最新作というだけで買ったので、あらすじは確認していなかった。彼女が書くのはミステリーが多い。巧みなトリックや叙述の上手さにハマり、よく読むようになった。今回もそれだろうと買ったのだが───
「……ヒューマンドラマ?」
事故で妻を亡くした男とその娘の生活と関係の変化を描く、と記されている。今までにこういったものも書かれてきたが、今作がそれだったとは全く気づかなかった。
シキネは本を棚に戻して伸びをする。
───さて、本当に困った。
時間潰しの当てが無くなった。外に出る気もない。シキネはインドア派なのだ。
「……寝るか」
シキネはソファに横になると、ひとつ大きな欠伸をした。
───────
「先に提示していたように、100万でいいですよ」
トウリは微笑みを浮かべて相場より高い報酬を要求した。その微笑はシキネに向けるような柔らかなものではなく、瞳の奥に怜悧で冷徹な色を覗かせた冷ややかなものだった。営業スマイル、というには客を思う心が無い。
「……やはり、それは高すぎるんじゃないか?」
髭面の老年の男は顔をしかめた。スーツを着て良い身なりをしている彼は、この料亭個室の厳かで侘び寂びを感じる華やかさに慣れているような雰囲気だ。彼の背後には秘書とボディガードが立っており、物々しさを感じさせる。
そんなことを気に留めることなく、トウリは肩を竦めて困ったように笑う。しかし、その目はやはり笑ってはいない。
「今の新東京の裏情勢を考えれば、適切な報酬ですよ」
貴方だって分かっているでしょう?、と続けたトウリは茶を啜った。目の前の豪勢な食事にはお互い手をつけていない。
「陸悠会、エヴァンズファミリー、サーペント・ロッソ、灯虎……今は多くの組織がこの裏社会に根を深く張り、蔓延っています。彼らにとって情報ひとつひとつは命取りにもなり、命綱にもなります。つまり……分かるでしょう?この情報を売るのだって、彼らから命を狙われる一因になりかねない。ですから、提示した金額でも足りないくらいですよ……命と天秤をかければ、ね」
男は眉間にシワを寄せる。トウリの言うことは分かるがそれを受け入れるのは難い、といった様子だ。それを理解しているからこそ、トウリは強気な姿勢を止めない。彼がトウリの言葉を理解し、トウリの持つ取引材料を欲しているならば、必ずこの取引は成立するからだ。
「雑賀議員ともあろうお方が何を躊躇なさっているんです?」
そう、背中を押すように優しく、蠱惑的に囁く。雑賀宗十郎議員は更に苦渋の表情を貼り付ける。彼の、目的の為ならば手段を選ばないスタンスを崩さないのであれば、ここは受け入れて取引を続けるべきなのだ。それを躊躇わせているのは───
「……その情報で、確かに私は先へと進めるだろう。しかし、今回の取引で私が目をつけられたらどうする?私は手段を選ばないが、結果的に殺されるのならば意味が無い」
「現に今、この情報を持つ俺は殺されていません。つまりは、どう扱うかですよ」
「う、む、ぅ……」
雑賀は唇を噛む。死を恐れてもなお、出世欲が湧いて止まない。出世欲に溺れながらも、生が終わるのを躊躇う。そんな彼に、背後に控えていた秘書が耳打ちする。
「そろそろ次の予定が」
「分かっている……」
雑賀は再度唇を噛み、それから徐ろに唇を開いた。
「……分かった、払おう。取引成立だ」
「光栄です。では、こちらがUSBです」
ラフなワイシャツの胸ポケットから、そんなに重要そうではないようにUSBは渡される。情報の価値を鑑みても、そんなところに入れていてよいものか、と不安になる扱いだ。指摘することはせず、秘書がそれを受け取り、ノートパソコンに差し込む。しばらく待った後、内容に目を通し、雑賀へとアイコンタクトをとる。
「報酬を」
「はい」
秘書がアタッシェケースをトウリの傍らで開いて中身を確認させる。トウリは手に触れることもなく、一瞥しただけで、「ありがとうございます」とアタッシェケースを受け取った。
「どうぞお好きにご活用ください」
立ち上がって温度のない微笑みを浮かべるトウリに、雑賀は顔をしかめた。
「用意された食事に手をつけないとは、失礼ではないか?」
「いえ、私は食事をするとは一言も言っていません。言ったのは、ただ、取引をしたい、とだけ」
「それに」とトウリはようやくこの場で初めて人らしい柔らかな笑顔を見せた。幸せを噛み締めるように、少しの恥じらいを含んだ表情で笑う。
「恋人が、きっと手料理を作って待っているので」
答えると雑賀に興味をなくしたように部屋を出て行った。
その場に残された雑賀は、USBを秘書から受け取り、舌打ちをひとつした。
「“不吉なもの”め……」
呟くその声には、明らかな嫌悪感が含まれていた。
───────
「“フクロウ”……ねぇ……」
右目に眼帯を着けた黒髪の優男が煙管片手にふぅ、と息を吐く。紫煙は揺らいで霞んで灯りに消えていく。男は一瞬女性と見間違えるほどの中性的な美貌を持っており、その表情は楽しげに緩んでいた。青のチャイナ服を身に纏いあぐらをかく彼の足元には、だらしなく身体を投げ出した半裸の女性達が恍惚の色を見せていた。
「日本人?」
彼は黒のスーツ姿の青年に問いかける。青年は白い髪に灰の瞳というアジア人みの無い白肌だが、その顔は日本人や中国人を彷彿とさせる。
「はい。目撃者はいませんが、鮮やかな手口からフクロウだと推察出来ます」
「今回のうちの薬物商殺しも、この前の意大利のとこの奴を殺したのも、フクロウの仕業だって?」
「おそらくは。今、捜索しています。必要であれば、情報屋に金をばら撒きますか?」
「いや、必要ない」
足元で眼帯の彼に絡みついていた女のうちの1人が、するりと彼の頬を撫でた。眼帯の彼はその手に自らの手を重ねた。その様子に、ピクリと白髪の青年が瞼を震わせる。それを見た眼帯の彼は、女の手を払い除けて青年に「おいで」と笑う。その表情は柔和で美しく、青年は無表情に歩み寄り、彼の前に跪いた。猫を愛でるように青年の首元や顎を眼帯の彼が撫で上げる。すると青年は嬉しそうに目を細め、身を委ねる。
「お前は可愛いね。妬いた?」
「……いえ。憂炎様にそのような感情を向けては無礼です」
「向けてくれた方が大切にされてるって思うけどな。で?妬いた?」
「……はい」
責められたかのように目を伏せる青年。しかし憂炎と呼ばれた男……チャイニーズマフィア《灯虎》のボス朱 憂炎は、青年を愛で続ける。
「安心しろ。妬いたくらいで捨てはしないよ。僕の可愛い咲存」
白髪の青年林 咲存は「謝謝您、主君」と頬を染め、控えめに笑った。女性達は2人の間に漂う雰囲気を感じ取り静かに部屋を去るが、憂炎も咲存も視線は互いを捉えて離れなかった。
急所を確実に貫いた必要最低限の一発。
シキネはターゲットを完全に仕留めたことを確認し、依頼主にメールを送る。特殊なデバイスを用いたメールは暗号化され、複数の海外サーバーを経由するので、秘匿性は高い。暗殺完了のメールを送れば手配された掃除屋が片付ける手筈になっている。ここにこれ以上長居する理由は無い。シキネは足早にその場を離れた。
シキネが殺し屋を生業として始めたのは12歳の頃だ。
父親がシキネをとある組織に売って蒸発し、シキネ少年はそのまま組織の使いっ走りになった。あるときは運び屋、あるときは情婦代わり、あるときは殺し屋…………様々な用途で使い潰された。この大きな組織の末端で、このまま出世もなく死んでいくものだと思っていたシキネ少年だったが、何事にも栄枯盛衰というものがあるようで、敵対組織による上層部暗殺であっさりとその組織の寿命が尽きたのだった。
それ以降、シキネは表の世界の生き方に戻れないまま、裏社会の暗い澱みの中を生きることとなった。
「……ただいま」
深夜になる頃、高級マンションの一室に帰宅したシキネは、玄関の姿見で自分の姿を見る。よく見目麗しいと言われる端正な顔立ちはとうに表情筋が衰え、ろくに表情を作らない。髪は黒、瞳はブラウンの、日本人然とした容姿。肉体は鍛えてもなお太さは無い。筋肉がつきにくい体質らしい。
目立たない黒で統一した衣服には、見たところ返り血は無い。あったとしても夜闇ではほとんど認識されないだろう。靴を脱いで揃え、リビングルームに向かう。この時間でも明かりが点いているということは、恋人はまだ起きているはずだ。
「おかえり」
「ただいま」
「お腹空いたでしょ?食べる?」
「……食べる」
恋人のトウリはソファから起き上がってスリッパをペタペタと鳴らしながらキッチンへ行く。
トウリはシキネと正反対のブロンドに青の瞳のハーフだ。背が高く、筋肉もしっかりついている。とはいえ、ラガーマンのような威圧感というより、鍛え上げられたスマートなアスリートの佇まいだ。柔らかな物腰は老若男女問わず魅了する。
彼もまた裏社会の住人。そうとは思えないくらい楽天家で楽観的で根が善人なトウリは、いつも冷静沈着で言葉足らずなシキネの意思を汲み取ってくれる。相性が良いと、人付き合いが苦手なシキネでさえ思う。
「今日はシチューだよ。シキネ、好きでしょ?」
「ああ」
上着をハンガーに掛けながら応えると、トウリは嬉しそうに笑った。IHの音声が鳴った後は、しばしの静寂が居住に広がる。性格が明るいとはいえ同じ裏社会の住人であるトウリは、シキネの仕事については深く追及してこない。そういう、細やかな気遣いに助けられたことは何度もある。だから、この静寂さえ愛おしい。
「はい、こっちがシキネの分」
運ばれてきたシチューは、具材がゴロゴロ入っている。トウリらしい切り方だといつも思う。シキネの分はシチューとご飯が別だが、トウリの方はご飯にシチューがかかっている。こういう些細な違いがあるのには文句は無い。だが、どうしても「その食べ方は本当に美味しいのか?」と聞きたくなるときがある。今日はそれをぐっと呑み込んで「いただきます」とだけ口にした。
シチューの他にトマトとモッツァレラチーズのカプレーゼがあり、いつもならもう数皿用意するところから察するに今日はトウリも忙しかったのだろう。
「あ、明日は朝早くから出かけるから、戸締りよろしく」
「分かった」
とはいえ、明日は家から出るつもりはない。明日はゆっくり読書でもして過ごそう。そんなことを考えていると、視線を感じた。顔を上げるとトウリがじっとシキネを見つめていた。
「なんだ?」
「……いや、『明日は家から1歩も出ないから大丈夫だ』って感じの返事だったから」
「エスパーか、お前は」
「当たり?」
トウリは笑ってカプレーゼにフォークを伸ばした。本当にエスパーか何かかと疑うほどに、こういうことは多々ある。だからこそ口数の少ないシキネと恋人として成立しているのかもしれない。シキネはそれを有難く思いながら、カプレーゼを口に運んだ。美味い。シキネも料理はするが、トウリの方が美味いものを作るような気がする。
湯の雨を頭から浴びる。
適温で全身を流しながら思うことは無い。ただ無心で髪を、顔を、身体を洗い流す。目には見えない返り血や、ターゲットの死に際の感情、死という悪魔のにおいを流す為だ。別に、それらを恐れているわけではない。死ぬときは死ぬし、今まで殺してきた業はいつか自分を滅ぼすとも思っている。
では、何故、そういったものから身体を清めるか?
答えは至極シンプル───トウリの恋人として生きていたいからだ。
トウリはシキネにとっての光だ。太陽のように明るいが近づく者を焦がすことはしない。月のように優しい明かりだが他者からの光に依存するわけではない。業を背負うシキネと同じく、罪を犯してきたトウリ。それは決して許される光ではなく、許す側の光でもない。だが、確実にシキネを救う光だ。灯りのない夜闇にゆらり、と揺らめくロウソクの火。そんな光に助けられてきた。
だから、その光とともにあるのなら、せめてその近くでは清らかでいたいと願うのだ。例えその光が血を浴びて輝く灯りであろうとも、彼に触れるその手は汚れていてはいけないと叫ぶのだ。
「───シキネ?」
呼び掛けにハッと我に返る。どれくらいぼぅっとしていただろうか。無心でいることを心がけているはずが、いつの間にか考え事をしていたらしい。何を考えていたかは忘れたが。
「どうした?」
「先寝てる。おやすみ、シキネ」
「ああ、おやすみ」
そういえば明日は早いと言っていたな、と思い出し、朝食は何にしようかと思案する。トウリと出会うまでは色々なことに無頓着で興味を持たなかったので、トウリのいない食事もまたその頃のように簡素なものとなってしまう。シリアルはあっただろうか。シャワーを止め、バスタオルで身体を拭く。古傷だらけの細くしなやかな身体。貧相とは言わないまでも、トウリと比べてしまうと心許ない身体に思える。
寝室では、キングサイズのベッドの左側でトウリが眠っていた。寝息は静かでまるで死んでいるかのようで、たまに心配になるくらいだ。半裸で眠る彼の隣に横になる。ブランケットを分けてもらい、深呼吸した。
今までの生き方では、こんな安息の時は無かった。眠るときも命の危機を感じ、起きているときでさえ警戒を止めたことはない。
トウリの隣はそれだけで呼吸も鼓動も落ち着く。睡眠も彼と同棲を始めてからは安定している。
「……おやすみ」
シキネは目を瞑った。
───────
自然と目を覚ましたのは時計が午前10時を示す頃だった。既に隣に温もりは無く、シキネはあくびひとつで起き上がった。
リビングのテーブルにはメモ書きがあり、『サラダとフレンチトースト作ったから、トーストは温めて食べて』と残されていた。シキネが適当に朝食を済ませようとしていることなどお見通しなのだろう。
フレンチトーストを温めているうちに、サラダを食べる。ただ野菜を散らしただけなのだが、トウリが用意したと思うと不思議と美味と感じる。サラダを半分ほど食べた頃にレンジが鳴る。それを放置してとりあえずサラダを完食することを目指す。思い出したようにテレビを点けてニュース番組にチャンネルを変える。
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『新東京の今日の天気は───』
しばらく観ていたが、昨日の死体については触れられていなかった。別のチャンネルも確認したが、最初に観た番組と内容は大きく変わらない。掃除屋は上手くやってくれたらしい。
食べ終わったサラダの皿をシンクに置くついでにフレンチトーストを回収。甘い卵液が染みた食パンはふにゃりととろけるような食感。甘味が舌に広がり、なんとも言えない気分になる。
サラダの半分の時間で食べ終え、食器を洗う。
トウリの帰宅時間を聞けばよかったな、と思いながら冷蔵庫をチェックすると、昼食にも夕食にも、明日の食事さえ困らなそうな品揃え。買い物は必要ないと分かると、困るのは時間の潰し方だ。トウリと出会ってから、時間の流れ方が変わったように、時間の潰し方に困ることが増えた。トウリがいれば時間の流れは早いものだが、彼がいないと滞ったように遅くなる。
本棚から未読の本を引っ張り出してあらすじだけを読む。好きな作家の最新作というだけで買ったので、あらすじは確認していなかった。彼女が書くのはミステリーが多い。巧みなトリックや叙述の上手さにハマり、よく読むようになった。今回もそれだろうと買ったのだが───
「……ヒューマンドラマ?」
事故で妻を亡くした男とその娘の生活と関係の変化を描く、と記されている。今までにこういったものも書かれてきたが、今作がそれだったとは全く気づかなかった。
シキネは本を棚に戻して伸びをする。
───さて、本当に困った。
時間潰しの当てが無くなった。外に出る気もない。シキネはインドア派なのだ。
「……寝るか」
シキネはソファに横になると、ひとつ大きな欠伸をした。
───────
「先に提示していたように、100万でいいですよ」
トウリは微笑みを浮かべて相場より高い報酬を要求した。その微笑はシキネに向けるような柔らかなものではなく、瞳の奥に怜悧で冷徹な色を覗かせた冷ややかなものだった。営業スマイル、というには客を思う心が無い。
「……やはり、それは高すぎるんじゃないか?」
髭面の老年の男は顔をしかめた。スーツを着て良い身なりをしている彼は、この料亭個室の厳かで侘び寂びを感じる華やかさに慣れているような雰囲気だ。彼の背後には秘書とボディガードが立っており、物々しさを感じさせる。
そんなことを気に留めることなく、トウリは肩を竦めて困ったように笑う。しかし、その目はやはり笑ってはいない。
「今の新東京の裏情勢を考えれば、適切な報酬ですよ」
貴方だって分かっているでしょう?、と続けたトウリは茶を啜った。目の前の豪勢な食事にはお互い手をつけていない。
「陸悠会、エヴァンズファミリー、サーペント・ロッソ、灯虎……今は多くの組織がこの裏社会に根を深く張り、蔓延っています。彼らにとって情報ひとつひとつは命取りにもなり、命綱にもなります。つまり……分かるでしょう?この情報を売るのだって、彼らから命を狙われる一因になりかねない。ですから、提示した金額でも足りないくらいですよ……命と天秤をかければ、ね」
男は眉間にシワを寄せる。トウリの言うことは分かるがそれを受け入れるのは難い、といった様子だ。それを理解しているからこそ、トウリは強気な姿勢を止めない。彼がトウリの言葉を理解し、トウリの持つ取引材料を欲しているならば、必ずこの取引は成立するからだ。
「雑賀議員ともあろうお方が何を躊躇なさっているんです?」
そう、背中を押すように優しく、蠱惑的に囁く。雑賀宗十郎議員は更に苦渋の表情を貼り付ける。彼の、目的の為ならば手段を選ばないスタンスを崩さないのであれば、ここは受け入れて取引を続けるべきなのだ。それを躊躇わせているのは───
「……その情報で、確かに私は先へと進めるだろう。しかし、今回の取引で私が目をつけられたらどうする?私は手段を選ばないが、結果的に殺されるのならば意味が無い」
「現に今、この情報を持つ俺は殺されていません。つまりは、どう扱うかですよ」
「う、む、ぅ……」
雑賀は唇を噛む。死を恐れてもなお、出世欲が湧いて止まない。出世欲に溺れながらも、生が終わるのを躊躇う。そんな彼に、背後に控えていた秘書が耳打ちする。
「そろそろ次の予定が」
「分かっている……」
雑賀は再度唇を噛み、それから徐ろに唇を開いた。
「……分かった、払おう。取引成立だ」
「光栄です。では、こちらがUSBです」
ラフなワイシャツの胸ポケットから、そんなに重要そうではないようにUSBは渡される。情報の価値を鑑みても、そんなところに入れていてよいものか、と不安になる扱いだ。指摘することはせず、秘書がそれを受け取り、ノートパソコンに差し込む。しばらく待った後、内容に目を通し、雑賀へとアイコンタクトをとる。
「報酬を」
「はい」
秘書がアタッシェケースをトウリの傍らで開いて中身を確認させる。トウリは手に触れることもなく、一瞥しただけで、「ありがとうございます」とアタッシェケースを受け取った。
「どうぞお好きにご活用ください」
立ち上がって温度のない微笑みを浮かべるトウリに、雑賀は顔をしかめた。
「用意された食事に手をつけないとは、失礼ではないか?」
「いえ、私は食事をするとは一言も言っていません。言ったのは、ただ、取引をしたい、とだけ」
「それに」とトウリはようやくこの場で初めて人らしい柔らかな笑顔を見せた。幸せを噛み締めるように、少しの恥じらいを含んだ表情で笑う。
「恋人が、きっと手料理を作って待っているので」
答えると雑賀に興味をなくしたように部屋を出て行った。
その場に残された雑賀は、USBを秘書から受け取り、舌打ちをひとつした。
「“不吉なもの”め……」
呟くその声には、明らかな嫌悪感が含まれていた。
───────
「“フクロウ”……ねぇ……」
右目に眼帯を着けた黒髪の優男が煙管片手にふぅ、と息を吐く。紫煙は揺らいで霞んで灯りに消えていく。男は一瞬女性と見間違えるほどの中性的な美貌を持っており、その表情は楽しげに緩んでいた。青のチャイナ服を身に纏いあぐらをかく彼の足元には、だらしなく身体を投げ出した半裸の女性達が恍惚の色を見せていた。
「日本人?」
彼は黒のスーツ姿の青年に問いかける。青年は白い髪に灰の瞳というアジア人みの無い白肌だが、その顔は日本人や中国人を彷彿とさせる。
「はい。目撃者はいませんが、鮮やかな手口からフクロウだと推察出来ます」
「今回のうちの薬物商殺しも、この前の意大利のとこの奴を殺したのも、フクロウの仕業だって?」
「おそらくは。今、捜索しています。必要であれば、情報屋に金をばら撒きますか?」
「いや、必要ない」
足元で眼帯の彼に絡みついていた女のうちの1人が、するりと彼の頬を撫でた。眼帯の彼はその手に自らの手を重ねた。その様子に、ピクリと白髪の青年が瞼を震わせる。それを見た眼帯の彼は、女の手を払い除けて青年に「おいで」と笑う。その表情は柔和で美しく、青年は無表情に歩み寄り、彼の前に跪いた。猫を愛でるように青年の首元や顎を眼帯の彼が撫で上げる。すると青年は嬉しそうに目を細め、身を委ねる。
「お前は可愛いね。妬いた?」
「……いえ。憂炎様にそのような感情を向けては無礼です」
「向けてくれた方が大切にされてるって思うけどな。で?妬いた?」
「……はい」
責められたかのように目を伏せる青年。しかし憂炎と呼ばれた男……チャイニーズマフィア《灯虎》のボス朱 憂炎は、青年を愛で続ける。
「安心しろ。妬いたくらいで捨てはしないよ。僕の可愛い咲存」
白髪の青年林 咲存は「謝謝您、主君」と頬を染め、控えめに笑った。女性達は2人の間に漂う雰囲気を感じ取り静かに部屋を去るが、憂炎も咲存も視線は互いを捉えて離れなかった。
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どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
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