忍ぶれど… 兄は俺の光――息が届くほど近くにいるのに、けっして触れてはならぬ想い人

志生帆 海

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色は匂へど……

我慢の日々 3

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 兄さんが月影寺に戻ってきてから、あっという間に一か月が過ぎた。

 兄さんの身体の具合は一進一退だった。

 擦り傷や骨折した箇所など、目に見える外傷は少しずつ良くなっても、心についた傷は厄介だ。

 精神的なものから来ているという見解の視力障害は、まだ回復の兆しはない。

 あれから兄さんの食事は、俺が全部担当した。

 毎朝、具を変えてサンドイッチを作った。摘まみやすく片手で食べられるものを、皆の食事とは別に用意した。

 昼食にはおにぎりやおいなりさんなど、同じように兄さんが一人で食べやすいものをメインにした。

 ただそんな食事ばかりでは栄養が偏ってしまうので、夕食にはフォークで食べやすいように煮物を小さく切ったり、魚の骨を丁寧に取ってやった。骨が丈夫になるように、カルシウムの摂取にも気を配った。

「まぁ、流はあっという間に料理をマスターしちゃうのね。すっかり母さんより上手だわ。でも本当に助かるわ。翠もあなたの料理が美味しいみたいで、パクパクとよく食べてくれるから、最近少し太ったみたい。血色も良くなってきてホッとしたわ。ここに戻って来た時は折れそうに痩せ細って、肋骨まで見えて可哀想だったわ」

 思い切って聞いてみよう。

 理由を知りたいんだ。

「なぁ、兄さんはどうしてあんなに痩せてしまったんだ? 急にというより、結婚してからどんどん痩せてしまったようだが……母さん何か知ってるのか」
「うーん、そうねぇ……ここだけの話だけど、彩乃さんの食事はこってりしたスタミナ系のものが多かったみたいで、翠は食べるのに苦労していたみたいなのよ。あの子はあっさりした和食好きだったからね。でも、こればかりは……結婚生活のことなので、なんとも」
「なるほどな」

 どうして自分の好みを強引に押しつけるんだよ! 兄さんの身体をあんなにして……

 喉元まで出掛かった言葉は、ぐっと飲みこんだ。

 その代わり今まで素直に向き合えなかった、己の過去を振り返った。

 俺も昔は自分の考えばかり周囲に押しつけ、自分勝手に振る舞っていたので、彩乃さんだけを非難出来ないな。それに兄さんを長年疎外して無視したのも、この俺だ。だから痩せてしまったのは食事のせいだけでない。俺が追い詰めた部分も大いにあるんだ。視力だって……きっと俺のせいだ。

 しかし過去は振り返っても、もう何も変えられない。とにかく今、これからが重要なんだ。俺たちには――

「それにしても、翠も困った子ね。まったく男同士なのに、どうして流とお風呂に入るの嫌がるのかしら? 恥ずかしがることなんて何もないのに。あーでも母さんもうそろそろ限界。翠の髪を洗うのはなかなか大変なのよ」
「そうか……ところで、兄さんはどうやって風呂に入っていたんだ?」
「それはねぇ、いろいろ工夫したのよ」

 聞けば、ギプスを外すわけにいかないので、肘までの部分をタオルでぐるぐる巻いてスーパーのレジ袋で覆い入浴していたそうだ。つまり水が入らないように腕の部分を縛り、ひとりでシャワーを浴びていたようだが、髪の毛だけは片手で洗うのが大変なので、母さんが浴室に入って介助していたそうだ。

「よし! それは俺が何とかする」

 俺の頭の中では、妙案がパッと閃いていた。

 美容室のシャンプー台のような物を作ってやれば、洋服を着たまま洗えるよな。

 それから数日間、寺の外れにある茶室に付随した小屋に籠った。

 廃材などかき集め、大の男が寝てもぐらつかないシャンプー台に模したものを作っている。

 俺は美大で工芸工学デザイン学科を卒後しているから、こんなの朝飯前だ。

 どうして早く思いつかなかったのか。

 今は兄さんに役立つものを作っているだけで、幸せが満ちてくる。

 あなたのために出来る事がどんどん増えていく!

 それが嬉しいんだ。


****

 この寺に戻ってきて、もう一か月以上になるのか。
 
 まだ視力が回復しない。

 そのことに少なからず焦りを感じていた。

 先日、流の運転で都内の通っていた眼科に連れて行ってもらったが、何も変化は見られなかった。

 僕は……流の顔が早く見たい。

 そう告げたくなるが、負担になってしまうと思い、言えないでいた。

 もう何年も流の顔を、まともに見ていない。
 
 流も、もう27歳だ。

 きっとあの日よりもっと逞しくなったのだろうね。

 あの日……というのは、もう随分前になるな。

 夕暮れの大銀杏の前で、流が僕に巻いてくれたマフラーの温かみが忘れられない。

 あの夕日をまた見たい。

 流と一緒に肩を並べて──



 トン・トン──

 僕だけの暗黒の世界にノック音が響いたので驚いてしまった。

 しかもノックの仕方が流と違ったので、身構えてしまった。

「だ、誰?」
「……兄さん、私です。中に入ってもいいですか」

 その声は末の弟、丈だった。

 珍しい来訪者だ。

 僕のもう一人の大切な弟……丈……

 君にも心配をかけてしまった。 






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