99 / 236
色は匂へど……
我慢の日々 3
しおりを挟む
兄さんが月影寺に戻ってきてから、あっという間に一か月が過ぎた。
兄さんの身体の具合は一進一退だった。
擦り傷や骨折した箇所など、目に見える外傷は少しずつ良くなっても、心についた傷は厄介だ。
精神的なものから来ているという見解の視力障害は、まだ回復の兆しはない。
あれから兄さんの食事は、俺が全部担当した。
毎朝、具を変えてサンドイッチを作った。摘まみやすく片手で食べられるものを、皆の食事とは別に用意した。
昼食にはおにぎりやおいなりさんなど、同じように兄さんが一人で食べやすいものをメインにした。
ただそんな食事ばかりでは栄養が偏ってしまうので、夕食にはフォークで食べやすいように煮物を小さく切ったり、魚の骨を丁寧に取ってやった。骨が丈夫になるように、カルシウムの摂取にも気を配った。
「まぁ、流はあっという間に料理をマスターしちゃうのね。すっかり母さんより上手だわ。でも本当に助かるわ。翠もあなたの料理が美味しいみたいで、パクパクとよく食べてくれるから、最近少し太ったみたい。血色も良くなってきてホッとしたわ。ここに戻って来た時は折れそうに痩せ細って、肋骨まで見えて可哀想だったわ」
思い切って聞いてみよう。
理由を知りたいんだ。
「なぁ、兄さんはどうしてあんなに痩せてしまったんだ? 急にというより、結婚してからどんどん痩せてしまったようだが……母さん何か知ってるのか」
「うーん、そうねぇ……ここだけの話だけど、彩乃さんの食事はこってりしたスタミナ系のものが多かったみたいで、翠は食べるのに苦労していたみたいなのよ。あの子はあっさりした和食好きだったからね。でも、こればかりは……結婚生活のことなので、なんとも」
「なるほどな」
どうして自分の好みを強引に押しつけるんだよ! 兄さんの身体をあんなにして……
喉元まで出掛かった言葉は、ぐっと飲みこんだ。
その代わり今まで素直に向き合えなかった、己の過去を振り返った。
俺も昔は自分の考えばかり周囲に押しつけ、自分勝手に振る舞っていたので、彩乃さんだけを非難出来ないな。それに兄さんを長年疎外して無視したのも、この俺だ。だから痩せてしまったのは食事のせいだけでない。俺が追い詰めた部分も大いにあるんだ。視力だって……きっと俺のせいだ。
しかし過去は振り返っても、もう何も変えられない。とにかく今、これからが重要なんだ。俺たちには――
「それにしても、翠も困った子ね。まったく男同士なのに、どうして流とお風呂に入るの嫌がるのかしら? 恥ずかしがることなんて何もないのに。あーでも母さんもうそろそろ限界。翠の髪を洗うのはなかなか大変なのよ」
「そうか……ところで、兄さんはどうやって風呂に入っていたんだ?」
「それはねぇ、いろいろ工夫したのよ」
聞けば、ギプスを外すわけにいかないので、肘までの部分をタオルでぐるぐる巻いてスーパーのレジ袋で覆い入浴していたそうだ。つまり水が入らないように腕の部分を縛り、ひとりでシャワーを浴びていたようだが、髪の毛だけは片手で洗うのが大変なので、母さんが浴室に入って介助していたそうだ。
「よし! それは俺が何とかする」
俺の頭の中では、妙案がパッと閃いていた。
美容室のシャンプー台のような物を作ってやれば、洋服を着たまま洗えるよな。
それから数日間、寺の外れにある茶室に付随した小屋に籠った。
廃材などかき集め、大の男が寝てもぐらつかないシャンプー台に模したものを作っている。
俺は美大で工芸工学デザイン学科を卒後しているから、こんなの朝飯前だ。
どうして早く思いつかなかったのか。
今は兄さんに役立つものを作っているだけで、幸せが満ちてくる。
あなたのために出来る事がどんどん増えていく!
それが嬉しいんだ。
****
この寺に戻ってきて、もう一か月以上になるのか。
まだ視力が回復しない。
そのことに少なからず焦りを感じていた。
先日、流の運転で都内の通っていた眼科に連れて行ってもらったが、何も変化は見られなかった。
僕は……流の顔が早く見たい。
そう告げたくなるが、負担になってしまうと思い、言えないでいた。
もう何年も流の顔を、まともに見ていない。
流も、もう27歳だ。
きっとあの日よりもっと逞しくなったのだろうね。
あの日……というのは、もう随分前になるな。
夕暮れの大銀杏の前で、流が僕に巻いてくれたマフラーの温かみが忘れられない。
あの夕日をまた見たい。
流と一緒に肩を並べて──
トン・トン──
僕だけの暗黒の世界にノック音が響いたので驚いてしまった。
しかもノックの仕方が流と違ったので、身構えてしまった。
「だ、誰?」
「……兄さん、私です。中に入ってもいいですか」
その声は末の弟、丈だった。
珍しい来訪者だ。
僕のもう一人の大切な弟……丈……
君にも心配をかけてしまった。
兄さんの身体の具合は一進一退だった。
擦り傷や骨折した箇所など、目に見える外傷は少しずつ良くなっても、心についた傷は厄介だ。
精神的なものから来ているという見解の視力障害は、まだ回復の兆しはない。
あれから兄さんの食事は、俺が全部担当した。
毎朝、具を変えてサンドイッチを作った。摘まみやすく片手で食べられるものを、皆の食事とは別に用意した。
昼食にはおにぎりやおいなりさんなど、同じように兄さんが一人で食べやすいものをメインにした。
ただそんな食事ばかりでは栄養が偏ってしまうので、夕食にはフォークで食べやすいように煮物を小さく切ったり、魚の骨を丁寧に取ってやった。骨が丈夫になるように、カルシウムの摂取にも気を配った。
「まぁ、流はあっという間に料理をマスターしちゃうのね。すっかり母さんより上手だわ。でも本当に助かるわ。翠もあなたの料理が美味しいみたいで、パクパクとよく食べてくれるから、最近少し太ったみたい。血色も良くなってきてホッとしたわ。ここに戻って来た時は折れそうに痩せ細って、肋骨まで見えて可哀想だったわ」
思い切って聞いてみよう。
理由を知りたいんだ。
「なぁ、兄さんはどうしてあんなに痩せてしまったんだ? 急にというより、結婚してからどんどん痩せてしまったようだが……母さん何か知ってるのか」
「うーん、そうねぇ……ここだけの話だけど、彩乃さんの食事はこってりしたスタミナ系のものが多かったみたいで、翠は食べるのに苦労していたみたいなのよ。あの子はあっさりした和食好きだったからね。でも、こればかりは……結婚生活のことなので、なんとも」
「なるほどな」
どうして自分の好みを強引に押しつけるんだよ! 兄さんの身体をあんなにして……
喉元まで出掛かった言葉は、ぐっと飲みこんだ。
その代わり今まで素直に向き合えなかった、己の過去を振り返った。
俺も昔は自分の考えばかり周囲に押しつけ、自分勝手に振る舞っていたので、彩乃さんだけを非難出来ないな。それに兄さんを長年疎外して無視したのも、この俺だ。だから痩せてしまったのは食事のせいだけでない。俺が追い詰めた部分も大いにあるんだ。視力だって……きっと俺のせいだ。
しかし過去は振り返っても、もう何も変えられない。とにかく今、これからが重要なんだ。俺たちには――
「それにしても、翠も困った子ね。まったく男同士なのに、どうして流とお風呂に入るの嫌がるのかしら? 恥ずかしがることなんて何もないのに。あーでも母さんもうそろそろ限界。翠の髪を洗うのはなかなか大変なのよ」
「そうか……ところで、兄さんはどうやって風呂に入っていたんだ?」
「それはねぇ、いろいろ工夫したのよ」
聞けば、ギプスを外すわけにいかないので、肘までの部分をタオルでぐるぐる巻いてスーパーのレジ袋で覆い入浴していたそうだ。つまり水が入らないように腕の部分を縛り、ひとりでシャワーを浴びていたようだが、髪の毛だけは片手で洗うのが大変なので、母さんが浴室に入って介助していたそうだ。
「よし! それは俺が何とかする」
俺の頭の中では、妙案がパッと閃いていた。
美容室のシャンプー台のような物を作ってやれば、洋服を着たまま洗えるよな。
それから数日間、寺の外れにある茶室に付随した小屋に籠った。
廃材などかき集め、大の男が寝てもぐらつかないシャンプー台に模したものを作っている。
俺は美大で工芸工学デザイン学科を卒後しているから、こんなの朝飯前だ。
どうして早く思いつかなかったのか。
今は兄さんに役立つものを作っているだけで、幸せが満ちてくる。
あなたのために出来る事がどんどん増えていく!
それが嬉しいんだ。
****
この寺に戻ってきて、もう一か月以上になるのか。
まだ視力が回復しない。
そのことに少なからず焦りを感じていた。
先日、流の運転で都内の通っていた眼科に連れて行ってもらったが、何も変化は見られなかった。
僕は……流の顔が早く見たい。
そう告げたくなるが、負担になってしまうと思い、言えないでいた。
もう何年も流の顔を、まともに見ていない。
流も、もう27歳だ。
きっとあの日よりもっと逞しくなったのだろうね。
あの日……というのは、もう随分前になるな。
夕暮れの大銀杏の前で、流が僕に巻いてくれたマフラーの温かみが忘れられない。
あの夕日をまた見たい。
流と一緒に肩を並べて──
トン・トン──
僕だけの暗黒の世界にノック音が響いたので驚いてしまった。
しかもノックの仕方が流と違ったので、身構えてしまった。
「だ、誰?」
「……兄さん、私です。中に入ってもいいですか」
その声は末の弟、丈だった。
珍しい来訪者だ。
僕のもう一人の大切な弟……丈……
君にも心配をかけてしまった。
10
あなたにおすすめの小説
俺がこんなにモテるのはおかしいだろ!? 〜魔法と弟を愛でたいだけなのに、なぜそんなに執着してくるんだ!!!〜
小屋瀬
BL
「兄さんは僕に守られてればいい。ずっと、僕の側にいたらいい。」
魔法高等学校入学式。自覚ありのブラコン、レイ−クレシスは、今日入学してくる大好きな弟との再会に心を踊らせていた。“これからは毎日弟を愛でながら、大好きな魔法制作に明け暮れる日々を過ごせる”そう思っていたレイに待ち受けていたのは、波乱万丈な毎日で―――
義弟からの激しい束縛、王子からの謎の執着、親友からの重い愛⋯俺はただ、普通に過ごしたいだけなのにーーー!!!
ウサギ獣人を毛嫌いしているオオカミ獣人後輩に、嘘をついたウサギ獣人オレ。大学時代後輩から逃げたのに、大人になって再会するなんて!?
灯璃
BL
ごく普通に大学に通う、宇佐木 寧(ねい)には、ひょんな事から懐いてくれる後輩がいた。
オオカミ獣人でアルファの、狼谷 凛旺(りおう)だ。
ーここは、普通に獣人が現代社会で暮らす世界ー
獣人の中でも、肉食と草食で格差があり、さらに男女以外の第二の性別、アルファ、ベータ、オメガがあった。オメガは男でもアルファの子が産めるのだが、そこそこ差別されていたのでベータだと言った方が楽だった。
そんな中で、肉食のオオカミ獣人の狼谷が、草食オメガのオレに懐いているのは、単にオレたちのオタク趣味が合ったからだった。
だが、こいつは、ウサギ獣人を毛嫌いしていて、よりにもよって、オレはウサギ獣人のオメガだった。
話が合うこいつと話をするのは楽しい。だから、学生生活の間だけ、なんとか隠しとおせば大丈夫だろう。
そんな風に簡単に思っていたからか、突然に発情期を迎えたオレは、自業自得の後悔をする羽目になるーー。
みたいな、大学篇と、その後の社会人編。
BL大賞ポイントいれて頂いた方々!ありがとうございました!!
※本編完結しました!お読みいただきありがとうございました!
※短編1本追加しました。これにて完結です!ありがとうございました!
旧題「ウサギ獣人が嫌いな、オオカミ獣人後輩を騙してしまった。ついでにオメガなのにベータと言ってしまったオレの、後悔」
男子高校に入学したらハーレムでした!
はやしかわともえ
BL
閲覧ありがとうございます。
ゆっくり書いていきます。
毎日19時更新です。
よろしくお願い致します。
2022.04.28
お気に入り、栞ありがとうございます。
とても励みになります。
引き続き宜しくお願いします。
2022.05.01
近々番外編SSをあげます。
よければ覗いてみてください。
2022.05.10
お気に入りしてくれてる方、閲覧くださってる方、ありがとうございます。
精一杯書いていきます。
2022.05.15
閲覧、お気に入り、ありがとうございます。
読んでいただけてとても嬉しいです。
近々番外編をあげます。
良ければ覗いてみてください。
2022.05.28
今日で完結です。閲覧、お気に入り本当にありがとうございました。
次作も頑張って書きます。
よろしくおねがいします。
平凡ワンコ系が憧れの幼なじみにめちゃくちゃにされちゃう話(小説版)
優狗レエス
BL
Ultra∞maniacの続きです。短編連作になっています。
本編とちがってキャラクターそれぞれ一人称の小説です。
相性最高な最悪の男 ~ラブホで会った大嫌いな同僚に執着されて逃げられない~
柊 千鶴
BL
【執着攻め×強気受け】
人付き合いを好まず、常に周囲と一定の距離を置いてきた篠崎には、唯一激しく口論を交わす男がいた。
その仲の悪さから「天敵」と称される同期の男だ。
完璧人間と名高い男とは性格も意見も合わず、顔を合わせればいがみ合う日々を送っていた。
ところがある日。
篠崎が人肌恋しさを慰めるため、出会い系サイトで男を見繕いホテルに向かうと、部屋の中では件の「天敵」月島亮介が待っていた。
「ど、どうしてお前がここにいる⁉」「それはこちらの台詞だ…!」
一夜の過ちとして終わるかと思われた関係は、徐々にふたりの間に変化をもたらし、月島の秘められた執着心が明らかになっていく。
いつも嫌味を言い合っているライバルとマッチングしてしまい、一晩だけの関係で終わるには惜しいほど身体の相性は良く、抜け出せないまま囲われ執着され溺愛されていく話。小説家になろうに投稿した小説の改訂版です。
合わせて漫画もよろしくお願いします。(https://www.alphapolis.co.jp/manga/763604729/304424900)
イケメン後輩のスマホを拾ったらロック画が俺でした
天埜鳩愛
BL
☆本編番外編 完結済✨ 感想嬉しいです!
元バスケ部の俺が拾ったスマホのロック画は、ユニフォーム姿の“俺”。
持ち主は、顔面国宝の一年生。
なんで俺の写真? なんでロック画?
問い詰める間もなく「この人が最優先なんで」って宣言されて、女子の悲鳴の中、肩を掴まれて連行された。……俺、ただスマホ届けに来ただけなんだけど。
頼られたら嫌とは言えない南澤燈真は高校二年生。クールなイケメン後輩、北門唯が置き忘れたスマホを手に取ってみると、ロック画が何故か中学時代の燈真だった! 北門はモテ男ゆえに女子からしつこくされ、燈真が助けることに。その日から学年を越え急激に仲良くなる二人。燈真は誰にも言えなかった悩みを北門にだけ打ち明けて……。一途なメロ後輩 × 絆され男前先輩の、救いすくわれ・持ちつ持たれつラブ!
☆ノベマ!の青春BLコンテスト最終選考作品に加筆&新エピソードを加えたアルファポリス版です。
平凡ハイスペックのマイペース少年!〜王道学園風〜
ミクリ21
BL
竜城 梓という平凡な見た目のハイスペック高校生の話です。
王道学園物が元ネタで、とにかくコメディに走る物語を心掛けています!
※作者の遊び心を詰め込んだ作品になります。
※現在連載中止中で、途中までしかないです。
今日もBL営業カフェで働いています!?
卵丸
BL
ブラック企業の会社に嫌気がさして、退職した沢良宜 篤は給料が高い、男だけのカフェに面接を受けるが「腐男子ですか?」と聞かれて「腐男子ではない」と答えてしまい。改めて、説明文の「BLカフェ」と見てなかったので不採用と思っていたが次の日に採用通知が届き疑心暗鬼で初日バイトに向かうと、店長とBL営業をして腐女子のお客様を喜ばせて!?ノンケBL初心者のバイトと同性愛者の店長のノンケから始まるBLコメディ
※ 不定期更新です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる