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「我が愛し子、ファテナ。今日は、あの男の臭いがあまりしないね」
「ヤーファル様」
ひんやりとした手が頬に触れると、やはりその感触にうっとりとしてしまう。
「外側からそんな臭いで燻しても、遠ざけることなどできないのにね」
くすりと笑いながら、ヤーファルはファテナの手を握った。冷たい水が全身を洗い流すような感覚がしたものの、身体は濡れていない。だが、香の匂いは綺麗さっぱり消えてしまっていた。
「あの男はいないようだし、ちょうどいい。共に行こう、ファテナ」
「ま、待ってください」
手を引かれて、ファテナは慌ててその場で足を踏ん張った。思いがけない抵抗に、ヤーファルが驚いたように目を細める。
「……私、行けません」
「それは何故? 純潔を失ったことなら、気にしなくていいのだよ」
そっと掴まれているだけの手首が、どんどん冷えていく。澄んだ水色の瞳はじっとファテナを見つめていて、だんだんと頭がぼうっとしてくる。
直接頭の中に響くような声で、ヤーファルが行こうと囁く。
このままでは連れて行かれてしまうと、ファテナは必死で握られた手を振り払った。
「約束したんです。帰ってくるのをここで待つって。あの人に、嘘はつきたくない」
半ば叫ぶように言うと、精霊は微かに目を見開いた。思わず口から出た言葉にファテナ自身も驚いたが、紛れもない本心だ。
元ウトリドの民を守るためという気持ちは、もちろんある。だけどそれ以上に、ザフィルとの約束を違えたくないと思った。彼が戻るまでここにいると、ちゃんと出迎えるとファテナは彼に言ったのだ。
黙ってファテナを見つめたあと、ヤーファルはゆっくりと首をかしげた。白く長い髪がさらりと肩を流れ、まるでせせらぎのような涼やかな音がする。
「あの男のことを好いているのか」
静かな声で問われて、ファテナは言葉に詰まった。心も身体も許してしまったが、好きという感情を持っているのか分からない。きっとこれは、恋情というよりも依存心だ。彼に与えられる快楽とぬくもりを、ただ求めているだけ。
黙りこくるファテナを見て、ヤーファルは美しい笑みを浮かべた。
「あれは野蛮だ。獣どころか、人を殺している。おまえには相応しくないよ。おまえが欲しいのは、ぬくもりと快楽だね。それならわたしが与えてあげよう」
心の中を読んだような発言に、ファテナは思わず顔を上げる。透き通った泉の水面に似た瞳が愛おしげに細められ、その美しさに見惚れてしまう。
「おいで、ファテナ。人間の言う快楽はわたしにはよく分からないものだけど、おまえが望むならいくらでもあげるよ」
するりと頬を撫でた手に上を向くよう促され、そのまま顔を近づけられる。
「あの男とこうして唇を重ねていた時、おまえは恍惚とした表情を浮かべていたね。口づけというのは、快楽を得るものなのか」
ずっと見ていたのだよと、ヤーファルが笑う。
ひんやりとしたものが唇に触れようとした瞬間、ファテナの背筋にぞくりとしたものが駆け上がった。
「……嫌っ!」
反射的に顔を背け、精霊と距離を取る。粟立つ肌も身体の震えも、嫌悪感のあらわれだ。
ファテナの拒絶を受けても、ヤーファルは全く表情を変えないまま首をかしげた。
「どうして逃げる、ファテナ。こうするのが良いのだろう。それとも、もっと身体に触れる方が好きなのか。あの男と同じことをしてやろう、わたしには理解不能な行為だが、おまえが喜ぶなら構わない」
ファテナがうしろに下がった分だけ距離を詰めて、ヤーファルは微笑む。その表情は慈愛に満ちていて、ファテナをただ喜ばせたいという思いだけのようだ。欲を向けられても恐ろしいけれど、全くそれを感じさせないことも恐ろしい。
「や、……嫌」
腰が抜けてその場にへたり込んでしまったファテナを見て、ヤーファルもその場に膝をつく。乱れた服の裾からのぞく脚に、冷たい手が触れた。ゆっくりと肌を撫で上げる手は吐き気を催すほどに気持ちが悪いのに、動くことができない。
腿を撫でる手がじわじわと脚の付け根を目指している。このまま秘部に触れられたらと思うと、気持ち悪くて恐ろしくて、涙があふれる。
「ぃ……や、やめ……っ」
かたかたと震えながら、それでも懸命にヤーファルの手から逃れようと身体をよじるが、力が入らなくて動くことができない。
冷たい手が秘部を守る下着に触れたと思った瞬間、背後から荒々しい足音が響いた。
「ファテナに触れるなと……言ったはずだが」
低い声と共に強く抱き寄せられて、ファテナは思わず震える吐息を漏らした。包み込むようなぬくもりも、腕の強さも、恋しくてたまらなかったものだ。
しっかりとファテナを左手で抱きしめながら、ザフィルは右手に握った剣をまっすぐにヤーファルに突きつけている。白い頰のすぐ横、銀糸のような髪に剣の先が触れているが、精霊は避けようともしない。
「本当におまえは、いつも邪魔ばかりするね」
ため息をついて、ヤーファルが立ち上がる。剣が確かに身体を掠ったはずなのに、その身体には傷ひとつついていない。剣を向けても意味がないことを見せつけられて、ザフィルがファテナを抱く腕に力を込めた。
「こいつは俺のものだ。おまえには渡さないと言ったはずだろう、今すぐ消えろ」
「わたしも、愛し子を諦めるつもりはないのだよ。穢れた環境にいつまでも置いておきたくないのだ」
「それなら、おまえが近づきたくなくなるくらい、こいつを穢してやる」
吐き捨てるように言うと、ザフィルはファテナを抱き上げる。そのままずんずんと部屋の中に進むと、寝台の上にファテナを投げ落とした。乱暴に下ろされた衝撃で、ファテナは思わず小さくうめく。
それに構うことなく、ザフィルは未だ庭に佇む精霊をにらみつけた。
「俺がこいつを抱く様子を、そこで見てればいい」
「……っ、待って」
まるで行為を見せつけるような発言に、ファテナは身体を起こそうとする。だが、ザフィルに肩を掴まれて寝台に押しつけられる。
本当にこのまま抱かれるのかと目を見開いたファテナの耳に、ヤーファルのため息が聞こえた。
「人間の性行為に、わたしは何の興味もない。おまえの臭いで気分が悪くなるから、今日は森へ戻ることにするよ」
また来るとファテナに微笑みかけて、ヤーファルはくるりと踵を返し、そのまま風に溶けるように姿を消した。
精霊がいなくなったことでひんやりとした空気はかき消え、じんわりと暑さが戻ってくる。まるで水から上がったような心地になりながらザフィルを見上げると、彼は苛立った表情でファテナを見下ろしていた。
「目を離すと、あんたはすぐこれだ。俺のものだと言ったのは嘘だったのか」
「違……、私は」
首を振って否定するものの、ザフィルは忌々しげに舌打ちをすると、ファテナの服に手をかけた。
まるで引きちぎるような勢いで服を脱がされ、思わずあげかけた悲鳴は彼の唇によって塞がれた。
「自分が誰のものなのか、もう一度分からせてやらないといけないようだな」
低い声でそう言って、ザフィルは再びファテナの唇に噛みつくような口づけをした。
「ヤーファル様」
ひんやりとした手が頬に触れると、やはりその感触にうっとりとしてしまう。
「外側からそんな臭いで燻しても、遠ざけることなどできないのにね」
くすりと笑いながら、ヤーファルはファテナの手を握った。冷たい水が全身を洗い流すような感覚がしたものの、身体は濡れていない。だが、香の匂いは綺麗さっぱり消えてしまっていた。
「あの男はいないようだし、ちょうどいい。共に行こう、ファテナ」
「ま、待ってください」
手を引かれて、ファテナは慌ててその場で足を踏ん張った。思いがけない抵抗に、ヤーファルが驚いたように目を細める。
「……私、行けません」
「それは何故? 純潔を失ったことなら、気にしなくていいのだよ」
そっと掴まれているだけの手首が、どんどん冷えていく。澄んだ水色の瞳はじっとファテナを見つめていて、だんだんと頭がぼうっとしてくる。
直接頭の中に響くような声で、ヤーファルが行こうと囁く。
このままでは連れて行かれてしまうと、ファテナは必死で握られた手を振り払った。
「約束したんです。帰ってくるのをここで待つって。あの人に、嘘はつきたくない」
半ば叫ぶように言うと、精霊は微かに目を見開いた。思わず口から出た言葉にファテナ自身も驚いたが、紛れもない本心だ。
元ウトリドの民を守るためという気持ちは、もちろんある。だけどそれ以上に、ザフィルとの約束を違えたくないと思った。彼が戻るまでここにいると、ちゃんと出迎えるとファテナは彼に言ったのだ。
黙ってファテナを見つめたあと、ヤーファルはゆっくりと首をかしげた。白く長い髪がさらりと肩を流れ、まるでせせらぎのような涼やかな音がする。
「あの男のことを好いているのか」
静かな声で問われて、ファテナは言葉に詰まった。心も身体も許してしまったが、好きという感情を持っているのか分からない。きっとこれは、恋情というよりも依存心だ。彼に与えられる快楽とぬくもりを、ただ求めているだけ。
黙りこくるファテナを見て、ヤーファルは美しい笑みを浮かべた。
「あれは野蛮だ。獣どころか、人を殺している。おまえには相応しくないよ。おまえが欲しいのは、ぬくもりと快楽だね。それならわたしが与えてあげよう」
心の中を読んだような発言に、ファテナは思わず顔を上げる。透き通った泉の水面に似た瞳が愛おしげに細められ、その美しさに見惚れてしまう。
「おいで、ファテナ。人間の言う快楽はわたしにはよく分からないものだけど、おまえが望むならいくらでもあげるよ」
するりと頬を撫でた手に上を向くよう促され、そのまま顔を近づけられる。
「あの男とこうして唇を重ねていた時、おまえは恍惚とした表情を浮かべていたね。口づけというのは、快楽を得るものなのか」
ずっと見ていたのだよと、ヤーファルが笑う。
ひんやりとしたものが唇に触れようとした瞬間、ファテナの背筋にぞくりとしたものが駆け上がった。
「……嫌っ!」
反射的に顔を背け、精霊と距離を取る。粟立つ肌も身体の震えも、嫌悪感のあらわれだ。
ファテナの拒絶を受けても、ヤーファルは全く表情を変えないまま首をかしげた。
「どうして逃げる、ファテナ。こうするのが良いのだろう。それとも、もっと身体に触れる方が好きなのか。あの男と同じことをしてやろう、わたしには理解不能な行為だが、おまえが喜ぶなら構わない」
ファテナがうしろに下がった分だけ距離を詰めて、ヤーファルは微笑む。その表情は慈愛に満ちていて、ファテナをただ喜ばせたいという思いだけのようだ。欲を向けられても恐ろしいけれど、全くそれを感じさせないことも恐ろしい。
「や、……嫌」
腰が抜けてその場にへたり込んでしまったファテナを見て、ヤーファルもその場に膝をつく。乱れた服の裾からのぞく脚に、冷たい手が触れた。ゆっくりと肌を撫で上げる手は吐き気を催すほどに気持ちが悪いのに、動くことができない。
腿を撫でる手がじわじわと脚の付け根を目指している。このまま秘部に触れられたらと思うと、気持ち悪くて恐ろしくて、涙があふれる。
「ぃ……や、やめ……っ」
かたかたと震えながら、それでも懸命にヤーファルの手から逃れようと身体をよじるが、力が入らなくて動くことができない。
冷たい手が秘部を守る下着に触れたと思った瞬間、背後から荒々しい足音が響いた。
「ファテナに触れるなと……言ったはずだが」
低い声と共に強く抱き寄せられて、ファテナは思わず震える吐息を漏らした。包み込むようなぬくもりも、腕の強さも、恋しくてたまらなかったものだ。
しっかりとファテナを左手で抱きしめながら、ザフィルは右手に握った剣をまっすぐにヤーファルに突きつけている。白い頰のすぐ横、銀糸のような髪に剣の先が触れているが、精霊は避けようともしない。
「本当におまえは、いつも邪魔ばかりするね」
ため息をついて、ヤーファルが立ち上がる。剣が確かに身体を掠ったはずなのに、その身体には傷ひとつついていない。剣を向けても意味がないことを見せつけられて、ザフィルがファテナを抱く腕に力を込めた。
「こいつは俺のものだ。おまえには渡さないと言ったはずだろう、今すぐ消えろ」
「わたしも、愛し子を諦めるつもりはないのだよ。穢れた環境にいつまでも置いておきたくないのだ」
「それなら、おまえが近づきたくなくなるくらい、こいつを穢してやる」
吐き捨てるように言うと、ザフィルはファテナを抱き上げる。そのままずんずんと部屋の中に進むと、寝台の上にファテナを投げ落とした。乱暴に下ろされた衝撃で、ファテナは思わず小さくうめく。
それに構うことなく、ザフィルは未だ庭に佇む精霊をにらみつけた。
「俺がこいつを抱く様子を、そこで見てればいい」
「……っ、待って」
まるで行為を見せつけるような発言に、ファテナは身体を起こそうとする。だが、ザフィルに肩を掴まれて寝台に押しつけられる。
本当にこのまま抱かれるのかと目を見開いたファテナの耳に、ヤーファルのため息が聞こえた。
「人間の性行為に、わたしは何の興味もない。おまえの臭いで気分が悪くなるから、今日は森へ戻ることにするよ」
また来るとファテナに微笑みかけて、ヤーファルはくるりと踵を返し、そのまま風に溶けるように姿を消した。
精霊がいなくなったことでひんやりとした空気はかき消え、じんわりと暑さが戻ってくる。まるで水から上がったような心地になりながらザフィルを見上げると、彼は苛立った表情でファテナを見下ろしていた。
「目を離すと、あんたはすぐこれだ。俺のものだと言ったのは嘘だったのか」
「違……、私は」
首を振って否定するものの、ザフィルは忌々しげに舌打ちをすると、ファテナの服に手をかけた。
まるで引きちぎるような勢いで服を脱がされ、思わずあげかけた悲鳴は彼の唇によって塞がれた。
「自分が誰のものなのか、もう一度分からせてやらないといけないようだな」
低い声でそう言って、ザフィルは再びファテナの唇に噛みつくような口づけをした。
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