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精霊の誘い 1
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ザフィルが出発してから九日が経った。早ければ、明日には帰ってくるだろうか。
日中はともかく、一人で眠る日々にはやはり慣れなくて、少しだけ寝不足だ。
あのぬくもりに包まれて眠る日が待ち遠しいと思ってしまう自分の気持ちを、ファテナは少し持て余している。
大嫌いだったはずなのに、いつの間にかザフィルなしでは生きられなくなってしまった。
そのことを屈辱的とも思わない自分はきっともう、民の尊敬を集めた巫女姫なんかではなく、欲に溺れた哀れな女だ。
膝の上に広げていた本が滑り落ちたことに気づいて、ファテナは慌てて拾い上げる。読書をしていたはずが、ぼんやりとしていたようだ。ザフィルがいなくなってから、何をしていてもあまり集中できない。
結局続きを読む気にもなれなくて、ファテナはため息をつくと立ち上がって本を片付けた。
身動きするたびに目に入る右手の腕輪を撫でて、ザフィルはいつ戻るのだろうと思いを馳せる。
その時、庭の手入れをしていたアディヤが戻ってきた。ザフィルがいる時はあまり顔を出さないアディヤだが、彼が不在となってからは常にそばにいる。恐らく、ファテナを一人にしないようにと命じられているのだろう。
汗を拭きつつやってきた彼女の右腕から血が出ていることに気づいて、ファテナは眉を顰めた。
「アディヤ、怪我をしてるわ」
「あぁ、大したことはないですよ。少し棘が掠っただけです」
大丈夫だと笑うアディヤだが、傷は案外深いようで、血が腕を伝ってぽたりと床に小さな染みを作る。
「だめよ、ちゃんと手当てをして。小さな傷でも放っておくと、腕を切り落とすことになる場合だってあるのよ」
ウトリド族の若者が、傷の手当てを怠った結果片腕を失ったのを見たことがあると話すと、アディヤの表情が曇る。もうひと押しだと、ファテナは身を乗り出した。
「それに、ほら……あの、スリウムの丸薬がそろそろなくなりそうなの。だから、ついでにもらってきてくれると助かるんだけど」
スリウムは、避妊薬に使われる薬草だ。ザフィルに抱かれたあと、ファテナはいつもそれを飲んでいる。
もちろんファテナとザフィルがどのような関係であるかは知られているはずだが、自分からそれを口にするのは少し恥ずかしい。
熱くなった頬を自覚してうつむいたファテナを見て、アディヤは分かったとうなずいた。
「そうですね、では薬師のところに行ってきます。すぐに戻りますから」
「うん。お願いね」
アディヤを送り出したあと、ファテナは頬の熱を払うように首を振ると、床に垂れた血を拭き取って手洗い場へと向かった。
約束した通り庭にも出ることなく、ずっと部屋の中で過ごしているファテナの身体には、絶え間なく焚かれている香の甘い匂いが染みついている。
ふと周囲の気温が突然下がったような気がして、ファテナは腕をさすった。ひんやりとした空気に全身を包まれる感覚は、まるで泉で水浴びをした時のようだ。もしやと花壇の方に視線を向けたファテナは、そこにたたずむ白い人影を見て息をのんだ。
まわりの景色に溶けるほど儚く、だけど目を奪われるほどに美しい人。
目が合ったことに気づくと、精霊はにっこりと笑って滑るように近づいてきた。
日中はともかく、一人で眠る日々にはやはり慣れなくて、少しだけ寝不足だ。
あのぬくもりに包まれて眠る日が待ち遠しいと思ってしまう自分の気持ちを、ファテナは少し持て余している。
大嫌いだったはずなのに、いつの間にかザフィルなしでは生きられなくなってしまった。
そのことを屈辱的とも思わない自分はきっともう、民の尊敬を集めた巫女姫なんかではなく、欲に溺れた哀れな女だ。
膝の上に広げていた本が滑り落ちたことに気づいて、ファテナは慌てて拾い上げる。読書をしていたはずが、ぼんやりとしていたようだ。ザフィルがいなくなってから、何をしていてもあまり集中できない。
結局続きを読む気にもなれなくて、ファテナはため息をつくと立ち上がって本を片付けた。
身動きするたびに目に入る右手の腕輪を撫でて、ザフィルはいつ戻るのだろうと思いを馳せる。
その時、庭の手入れをしていたアディヤが戻ってきた。ザフィルがいる時はあまり顔を出さないアディヤだが、彼が不在となってからは常にそばにいる。恐らく、ファテナを一人にしないようにと命じられているのだろう。
汗を拭きつつやってきた彼女の右腕から血が出ていることに気づいて、ファテナは眉を顰めた。
「アディヤ、怪我をしてるわ」
「あぁ、大したことはないですよ。少し棘が掠っただけです」
大丈夫だと笑うアディヤだが、傷は案外深いようで、血が腕を伝ってぽたりと床に小さな染みを作る。
「だめよ、ちゃんと手当てをして。小さな傷でも放っておくと、腕を切り落とすことになる場合だってあるのよ」
ウトリド族の若者が、傷の手当てを怠った結果片腕を失ったのを見たことがあると話すと、アディヤの表情が曇る。もうひと押しだと、ファテナは身を乗り出した。
「それに、ほら……あの、スリウムの丸薬がそろそろなくなりそうなの。だから、ついでにもらってきてくれると助かるんだけど」
スリウムは、避妊薬に使われる薬草だ。ザフィルに抱かれたあと、ファテナはいつもそれを飲んでいる。
もちろんファテナとザフィルがどのような関係であるかは知られているはずだが、自分からそれを口にするのは少し恥ずかしい。
熱くなった頬を自覚してうつむいたファテナを見て、アディヤは分かったとうなずいた。
「そうですね、では薬師のところに行ってきます。すぐに戻りますから」
「うん。お願いね」
アディヤを送り出したあと、ファテナは頬の熱を払うように首を振ると、床に垂れた血を拭き取って手洗い場へと向かった。
約束した通り庭にも出ることなく、ずっと部屋の中で過ごしているファテナの身体には、絶え間なく焚かれている香の甘い匂いが染みついている。
ふと周囲の気温が突然下がったような気がして、ファテナは腕をさすった。ひんやりとした空気に全身を包まれる感覚は、まるで泉で水浴びをした時のようだ。もしやと花壇の方に視線を向けたファテナは、そこにたたずむ白い人影を見て息をのんだ。
まわりの景色に溶けるほど儚く、だけど目を奪われるほどに美しい人。
目が合ったことに気づくと、精霊はにっこりと笑って滑るように近づいてきた。
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