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与えられたしるし
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翌日、ファテナが部屋で読書をしていると庭の方から名前を呼ぶ声がした。
顔を上げなくても分かる、この透き通った声は精霊のもの。
警戒しつつ庭の方に視線を向けると、やはりそこにはヤーファルが佇んでいた。ファテナと目が合うと、精霊はにっこりと美しい微笑みを浮かべる。
つい先ほどまでアディヤが一緒にいたのに、彼女が席を外した途端にあらわれるとは、ファテナが一人になるのを見計らっていたのだろうか。
「……っ何度、来られても私の気持ちは変わりません。一緒には行かない」
その場から動かないまま硬い口調でそう告げると、ヤーファルは特に表情を変えずにうなずいた。
「またあの男の臭いが身体に染みついている。困った子だね」
「今まで見守ってくださったことには感謝してます。だけど、私はもう精霊と共に生きる資格なんてないし、そのつもりもない」
「強情な子だ。まぁいい、今日は顔を見に来ただけだから。そうだ、あの男と同じように、わたしもおまえに何か贈ることにしようか」
微笑みを浮かべたヤーファルの視線は、ファテナの腕輪と足輪に向けられている。精霊から何かをもらうなんて、あとからどんな対価を求められるか分からない。ふるふると首を振りつつ拒否の意思を伝えてみるが、ヤーファルは気にするなというように手をあげてそのまま姿を消した。
「純潔を失った私に、何故ここまで固執するのかしら」
精霊の消えた花壇の方を見つめながら、ファテナはため息まじりにつぶやいた。
それから精霊は、ファテナが一人になると姿を見せるようになった。アディヤに頼んでなるべくそばにいてもらうようにしているが、それでも彼女がちょっとした用事で部屋を出て行った途端にヤーファルは庭にあらわれる。
ザフィルが庭にも香を焚くよう命じたが、今のところその効果はなさそうだ。
今日もまた、ヤーファルは庭に置かれた香炉のすぐそばに佇んでいる。
「おはよう、我が愛し子。森へ行く気になったかな」
「何度聞かれても答えは変わりません。私は行かない」
このやりとりも、すでに数回繰り返されているものだ。ファテナの意思を無視して連れて行くことはやめたのか、精霊はファテナが拒絶しても特に反応を示すことなく受け入れているように見える。
あまりにしつこくやってくるせいで、いつの間にか交わす言葉すら砕けてきてしまっているが、それすら距離が近づいたようだと精霊は喜ぶ始末だ。
「どうして……私を森に連れて行きたいの」
ふと漏らした言葉に、ヤーファルが首をかしげた。まっすぐに見つめる水色の瞳は、水面のように揺らめいている。
「森に連れて行って、私を食うの? 精霊は私の髪の色を食い、そして命も食っていたと聞いたわ。それが力を借りる対価であったことは理解しているけれど、今は精霊の力を借りてはいないはずよ」
「そうだね、食っていたというよりも……白く染めていたという方が正しいだろうか」
いつの間にかすぐそばにやってきたヤーファルが、ファテナの髪を一房掬い上げる。口づけるように唇を押し当てられると、触れた場所から髪が白く色を変えた。
「……っ」
思わず身を引くと、精霊の手から髪の毛が離れる。白く染まりかけていた髪は、ゆっくりとまた元の濃紺に戻っていった。
「我々は白く無垢で純粋なものを求める。だけど一番重要なのは生まれ持った魂の高潔さであって、肉体の持つ色や純潔であるかどうかはさほど問題ではない。おまえの魂は本当に美しく、精霊として迎え入れるのにふさわしい」
にっこりと笑った精霊が、ファテナの頬にそっと触れた。ひんやりとした白い指先がなぞるように滑る。先日は悪寒がするほどに不快だった指が、今日はうっとりするほど心地いい。
陶然とした気持ちで目を閉じかけた時、右手につけた腕輪から香る甘い匂いにファテナは意識を引き戻された。
精霊に飲み込まれかかっていたことに気づき、ファテナは慌てて数歩後ろに下がる。
「その腕輪と足輪は本当に邪魔だね。あの男はいつも、わたしを邪魔する」
すうっと細めた目が腕輪に向けられていることに気づいて、ファテナは守るように左手で握りしめた。決して奪わせないという意思を込めてにらみつけると、ヤーファルは小さくため息をついた。
「本当は生きたまま連れ帰って精霊の仲間として迎え入れるつもりだったが、あの男が離しそうにないね」
「精霊の仲間に……?」
「そう。美しい魂の持ち主は、我々の仲間として迎え入れられる。おまえの髪を白く染めていたのも、そのためだよ。少しずつ魂を、精霊にふさわしいよう書き換えていくのだ。そうすれば、お前の身体はだんだんと精霊に近づいていく」
「そんな、勝手な」
「人間と違って、精霊は生殖行為をしない代わりに、美しい魂の持ち主を見つけては精霊に変えるのだ。生きたまま森で精霊に変化させようと思っていたが、わたしは気が長いからね。おまえが死ぬまでは待つことにしよう」
素晴らしい提案のようにヤーファルが言うが、ファテナにとっては理解不能だ。餌としてではなく、精霊の仲間として引き入れるためにファテナにつきまとっていたというのか。
「もし、私が死んだら……どうなるの」
「その時は、わたしが迎えに来よう。おまえの魂を森に連れ帰れば、肉体の死と同時におまえは精霊として生まれ変わる」
「でも、私は精霊になるつもりなんてない。死んだあとでも、勝手に精霊にされるなんて……そんなの嫌」
「肉体を離れた魂は転生の輪に入り、次なる生に向けてしばし眠りにつく。別の人間に生まれ変わることと、精霊に生まれ変わること、その何が違う?」
「それは……」
亡くなった魂が生まれ変わることはファテナも理解しているが、それでも精霊に無理矢理変えられてしまうという抵抗感はある。
反論する言葉が出なくてうつむいたファテナの頭を、ヤーファルはそっと撫でた。
「精霊を崇めておきながら、仲間になるのは嫌だというのか。だが精霊となれば、人であった頃の記憶はなくなる。人間を慈しんで長い時を生きるのも、悪くはないものだよ」
ヤーファルは笑みを浮かべてファテナを見つめた。
「おまえの魂は美しいが、あの男の臭いがまとわりついていることだけがやっかいだね。浄化にはきっと長い時間を必要とするだろう」
どこか笑みを含んだ口調でそう言うと、ヤーファルはファテナの額に触れた。ひんやりとしたものが指先から伝わって全身に広がっていき、身動きができなくなる。
「や……っ」
「じっとしておいで、悪いものではない」
やはりこのまま連れて行かれるのかと身体をよじろうとしたファテナの耳に、精霊の声が響く。
その瞬間、こわばっていた身体が動くようになって、ファテナは思わずその場に崩れ落ちた。
「おまえは、わたしの愛し子だからね、ファテナ。しるしを与えておいた」
「え……?」
「ほら、ここに。おまえの魂が肉体を離れる時に、迎えに来よう」
ヤーファルに胸元を指差され、うつむいて確認すると、そこには微かに青みがかった丸い紋様が浮かび上がっていた。
「わたしに用があれば、それに触れて願うといい。いつでもおまえのもとに向かうと約束するよ。おまえの願いならば、いくらでも水を与えるし、それから傷を治すこともしてやれる。水には癒しの力があるからね」
にっこりと笑う精霊の提案は、確かにありがたいものではある、だけどそう簡単に願いをかなえてもらえるはずもない。
「すごい力だとは思うけど……、対価に何を求められるか分からないから、遠慮しておくわ」
「ふふ、そうだね。ならば、わたしを呼び出したその時は、対価におまえの魂をもらおう」
するりと頬を撫でて、ヤーファルは美しい笑みを浮かべる。その時、この精霊からは決して逃れられないのだとファテナは自覚した。
死ぬまでの間、少しの猶予をくれただけだ。精霊にとっては、それすら瞬きするほどの期間なのだろうが。
この命が尽きた時、ファテナは精霊の仲間として生まれ変わることになる。
「人間の時は短いからね、今のうちに好きなことをして過ごすといい。魂を迎えに行った時、おまえがどんな人生を送ったのか聞かせておくれ」
精霊の優しい言葉に、それでもうなずくことはできなくて、ファテナはただ唇を噛みしめた。
庭に誰もいなくなっても、ファテナはその場から動くことができず、ずっと座り込んでいた。
顔を上げなくても分かる、この透き通った声は精霊のもの。
警戒しつつ庭の方に視線を向けると、やはりそこにはヤーファルが佇んでいた。ファテナと目が合うと、精霊はにっこりと美しい微笑みを浮かべる。
つい先ほどまでアディヤが一緒にいたのに、彼女が席を外した途端にあらわれるとは、ファテナが一人になるのを見計らっていたのだろうか。
「……っ何度、来られても私の気持ちは変わりません。一緒には行かない」
その場から動かないまま硬い口調でそう告げると、ヤーファルは特に表情を変えずにうなずいた。
「またあの男の臭いが身体に染みついている。困った子だね」
「今まで見守ってくださったことには感謝してます。だけど、私はもう精霊と共に生きる資格なんてないし、そのつもりもない」
「強情な子だ。まぁいい、今日は顔を見に来ただけだから。そうだ、あの男と同じように、わたしもおまえに何か贈ることにしようか」
微笑みを浮かべたヤーファルの視線は、ファテナの腕輪と足輪に向けられている。精霊から何かをもらうなんて、あとからどんな対価を求められるか分からない。ふるふると首を振りつつ拒否の意思を伝えてみるが、ヤーファルは気にするなというように手をあげてそのまま姿を消した。
「純潔を失った私に、何故ここまで固執するのかしら」
精霊の消えた花壇の方を見つめながら、ファテナはため息まじりにつぶやいた。
それから精霊は、ファテナが一人になると姿を見せるようになった。アディヤに頼んでなるべくそばにいてもらうようにしているが、それでも彼女がちょっとした用事で部屋を出て行った途端にヤーファルは庭にあらわれる。
ザフィルが庭にも香を焚くよう命じたが、今のところその効果はなさそうだ。
今日もまた、ヤーファルは庭に置かれた香炉のすぐそばに佇んでいる。
「おはよう、我が愛し子。森へ行く気になったかな」
「何度聞かれても答えは変わりません。私は行かない」
このやりとりも、すでに数回繰り返されているものだ。ファテナの意思を無視して連れて行くことはやめたのか、精霊はファテナが拒絶しても特に反応を示すことなく受け入れているように見える。
あまりにしつこくやってくるせいで、いつの間にか交わす言葉すら砕けてきてしまっているが、それすら距離が近づいたようだと精霊は喜ぶ始末だ。
「どうして……私を森に連れて行きたいの」
ふと漏らした言葉に、ヤーファルが首をかしげた。まっすぐに見つめる水色の瞳は、水面のように揺らめいている。
「森に連れて行って、私を食うの? 精霊は私の髪の色を食い、そして命も食っていたと聞いたわ。それが力を借りる対価であったことは理解しているけれど、今は精霊の力を借りてはいないはずよ」
「そうだね、食っていたというよりも……白く染めていたという方が正しいだろうか」
いつの間にかすぐそばにやってきたヤーファルが、ファテナの髪を一房掬い上げる。口づけるように唇を押し当てられると、触れた場所から髪が白く色を変えた。
「……っ」
思わず身を引くと、精霊の手から髪の毛が離れる。白く染まりかけていた髪は、ゆっくりとまた元の濃紺に戻っていった。
「我々は白く無垢で純粋なものを求める。だけど一番重要なのは生まれ持った魂の高潔さであって、肉体の持つ色や純潔であるかどうかはさほど問題ではない。おまえの魂は本当に美しく、精霊として迎え入れるのにふさわしい」
にっこりと笑った精霊が、ファテナの頬にそっと触れた。ひんやりとした白い指先がなぞるように滑る。先日は悪寒がするほどに不快だった指が、今日はうっとりするほど心地いい。
陶然とした気持ちで目を閉じかけた時、右手につけた腕輪から香る甘い匂いにファテナは意識を引き戻された。
精霊に飲み込まれかかっていたことに気づき、ファテナは慌てて数歩後ろに下がる。
「その腕輪と足輪は本当に邪魔だね。あの男はいつも、わたしを邪魔する」
すうっと細めた目が腕輪に向けられていることに気づいて、ファテナは守るように左手で握りしめた。決して奪わせないという意思を込めてにらみつけると、ヤーファルは小さくため息をついた。
「本当は生きたまま連れ帰って精霊の仲間として迎え入れるつもりだったが、あの男が離しそうにないね」
「精霊の仲間に……?」
「そう。美しい魂の持ち主は、我々の仲間として迎え入れられる。おまえの髪を白く染めていたのも、そのためだよ。少しずつ魂を、精霊にふさわしいよう書き換えていくのだ。そうすれば、お前の身体はだんだんと精霊に近づいていく」
「そんな、勝手な」
「人間と違って、精霊は生殖行為をしない代わりに、美しい魂の持ち主を見つけては精霊に変えるのだ。生きたまま森で精霊に変化させようと思っていたが、わたしは気が長いからね。おまえが死ぬまでは待つことにしよう」
素晴らしい提案のようにヤーファルが言うが、ファテナにとっては理解不能だ。餌としてではなく、精霊の仲間として引き入れるためにファテナにつきまとっていたというのか。
「もし、私が死んだら……どうなるの」
「その時は、わたしが迎えに来よう。おまえの魂を森に連れ帰れば、肉体の死と同時におまえは精霊として生まれ変わる」
「でも、私は精霊になるつもりなんてない。死んだあとでも、勝手に精霊にされるなんて……そんなの嫌」
「肉体を離れた魂は転生の輪に入り、次なる生に向けてしばし眠りにつく。別の人間に生まれ変わることと、精霊に生まれ変わること、その何が違う?」
「それは……」
亡くなった魂が生まれ変わることはファテナも理解しているが、それでも精霊に無理矢理変えられてしまうという抵抗感はある。
反論する言葉が出なくてうつむいたファテナの頭を、ヤーファルはそっと撫でた。
「精霊を崇めておきながら、仲間になるのは嫌だというのか。だが精霊となれば、人であった頃の記憶はなくなる。人間を慈しんで長い時を生きるのも、悪くはないものだよ」
ヤーファルは笑みを浮かべてファテナを見つめた。
「おまえの魂は美しいが、あの男の臭いがまとわりついていることだけがやっかいだね。浄化にはきっと長い時間を必要とするだろう」
どこか笑みを含んだ口調でそう言うと、ヤーファルはファテナの額に触れた。ひんやりとしたものが指先から伝わって全身に広がっていき、身動きができなくなる。
「や……っ」
「じっとしておいで、悪いものではない」
やはりこのまま連れて行かれるのかと身体をよじろうとしたファテナの耳に、精霊の声が響く。
その瞬間、こわばっていた身体が動くようになって、ファテナは思わずその場に崩れ落ちた。
「おまえは、わたしの愛し子だからね、ファテナ。しるしを与えておいた」
「え……?」
「ほら、ここに。おまえの魂が肉体を離れる時に、迎えに来よう」
ヤーファルに胸元を指差され、うつむいて確認すると、そこには微かに青みがかった丸い紋様が浮かび上がっていた。
「わたしに用があれば、それに触れて願うといい。いつでもおまえのもとに向かうと約束するよ。おまえの願いならば、いくらでも水を与えるし、それから傷を治すこともしてやれる。水には癒しの力があるからね」
にっこりと笑う精霊の提案は、確かにありがたいものではある、だけどそう簡単に願いをかなえてもらえるはずもない。
「すごい力だとは思うけど……、対価に何を求められるか分からないから、遠慮しておくわ」
「ふふ、そうだね。ならば、わたしを呼び出したその時は、対価におまえの魂をもらおう」
するりと頬を撫でて、ヤーファルは美しい笑みを浮かべる。その時、この精霊からは決して逃れられないのだとファテナは自覚した。
死ぬまでの間、少しの猶予をくれただけだ。精霊にとっては、それすら瞬きするほどの期間なのだろうが。
この命が尽きた時、ファテナは精霊の仲間として生まれ変わることになる。
「人間の時は短いからね、今のうちに好きなことをして過ごすといい。魂を迎えに行った時、おまえがどんな人生を送ったのか聞かせておくれ」
精霊の優しい言葉に、それでもうなずくことはできなくて、ファテナはただ唇を噛みしめた。
庭に誰もいなくなっても、ファテナはその場から動くことができず、ずっと座り込んでいた。
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